停戦会議 ~カイウラニ王女の置き土産~
戦争のルールを決めよう。
そう提唱し、各国に呼びかけたのはロシア皇帝ニコライ2世である。
大津事件で日本の警察官に斬り付けられたニコライ皇太子の事で、彼は1896年5月26日に即位した。
このハーグ会議で、ダムダム弾や毒の禁止が話し合われるのだが、それに先立ち実務者協議が行われる。
それは予定通りの事であったが、ここに悲劇が一つ加わる。
イギリス留学中のカイウラニ王女が病を発し、1899年5月6日に死亡したのだ。
カイウラニを我が娘のように可愛がっていた、同じファーストネームのビクトリア女王は、度々見舞いに来ていたが、カイウラニの病気が重くなるに連れ、感染を防ぐ為に見舞いを止められるようになる。
カイウラニは女王に今迄の感謝を手紙に認め、イギリスで学んだ宝飾を活かしたジュエリーと共に送った。
彼女は女王に対し、同情を引くような事は一切書かず、ただ感謝や思い出を書いただけであった。
一方でカイウラニは、アメリカの新聞社や、旧知のグローバー・クリーブランド前合衆国大統領に、ハワイとの講和を訴え、ハワイ側の同意も無い領有宣言の無効を、理路整然と書いた手紙を送る。
戦時法を決めたいというニコライ2世には、その志をただ称賛し、健康を取り戻したら是非自分も立ち合いたい、と手紙を送っていた。
このような「エレガント」で「気品のある」王室外交は、アメリカをも含む各国から評価されていた。
そしてビクトリア女王が
「可愛い娘の為に私も動きます」
と宣言する。
ビクトリア女王は、ニコライ2世の他、ドイツのヴィルヘルム2世、イタリアのウンベルト1世、スペインのアルフォンソ13世、オランダのウィルヘルミア女王らに呼び掛け、アメリカとハワイとの戦争終結に向けた会議をも用意する事となった。
ハワイ王室の代理人はビクトリア女王が勤めると言う。
この時点でアメリカは停戦について無視出来なくなる。
アメリカも、開戦から10ヶ月目に突入し、太平洋の物流に支障が出ている状態に辟易していた。
イエロージャーナリストが、悲劇の王女の死を利用したお涙頂戴に持って行き、クオリティペーパーがカイウラニ王女の手紙を掲載し、一方的な併合宣言の愚を全てマッキンリー大統領に押し付けた時点で、おおよその勝敗は着いていたと言える。
アメリカの落とし所は、真珠湾を再度使用可能にする事と、幕府とか言う小癪な連中をどうにかする事だった。
幕府外交の実務担当者は榎本武揚である。
彼は久々に、若き日留学したオランダの土を踏んだ。
江戸幕府が彼を抜擢してオランダに留学させ、当時の東洋最大の軍艦「開陽丸」の完成を待って日本に帰国、それからずっと戦いの日々と言えた。
だが、懐かしむ為に彼はハーグまで来たのではない。
ホノルル幕府の外相として、戦争を終わらせなければならない。
謀略家としての外交活動はこれまで成功して来た。
イギリスやドイツを動かし、太平洋におけるアメリカの立場を揺さぶった。
ただフランスやスペインが部隊を動かすという噂だけでアメリカを疑心暗鬼にさせた。
陽のカイウラニ、陰の榎本と役割分担をした成果が、今回の停戦の会議に繋がったとも言える。
積極的にハーグで外交をしている榎本だったが、流れ的に危険なものを感じ始めた。
確かにハワイを救う方向に各国動いている。
ハワイ「王国」は多分救われるだろう。
最後まで宣戦布告が無かった事や、王室は中立を守った事が、王室を廃止する大義名分を失わせた。
アシュフォード将軍と議会軍の参戦にも女王その人は関与していなく、これから話し合う戦時法に抵触しそうな事をしまくったアメリカの分が悪い。
その分の鬱憤が、実際に戦った幕府に向かう気配がある。
こういう時、王室外交、セレブリティ同士の交友が物を言う。
榎本は各国外交官や外相とは会えるが、国王級には中々会えない。
庶民から選ばれるフランス大統領に対しても、である。
ハワイ王国を連邦国家と見るなら、幕府は連邦内の一所属国である。
連邦内国家の大臣という立場だと、実務交渉はともかく食事会等の親睦を深める場に同席出来ない。
榎本は中央政府たる王国政府の外務省にも籍はあり、女王の信頼は厚いが、正規の外相は別な政治家だし、今回は女王の信任状を持っていない。
身分的に対等交渉相手でない榎本だと、社交界に出入りして知己を得る活動が出来ないのだ。
(分不相応でも、学校の同窓生とか、芸術や学問の大家とか、他のセレブリティからの紹介とか、勝手口はいくらでもあるが、榎本はそのどれも持っていない)
榎本は電信を借りて、イオラニ宮殿と連絡を取る。
幕府もアメリカから停戦の申し込みを受けていた為、外交で戦争が終わる気配を感じてはいた。
しかし、自分たちが犠牲山羊になるのは気分良く無い。
幕府はいずれ消える、それが望みだが、それは平和なハワイで用済みとなり、日系人がハワイ人として現地社会に溶け込んでという形である。
諸外国の都合で、欠席裁判のような形で消されるのは誇りが許さない。
だからと言って、国際会議のような形での戦争終結というものは、想像すら及ばない。
武家における終戦は、朝廷か八咫烏の誓紙を介し、当事者同士が約束を交わし、血判を捺し盃を交わして行うものであった。
国際会議とか、一体何が何やらよく分からないが、代表は出しておく必要があるだろう。
大御所徳川定敬がハーグに赴く事で、大体方針が決まった。
指名された定敬は
「余が行った所で、何か出来る訳では無いから過度に期待はするな」
と気弱な様子であった。
そこから更に事情が変わる。
ハーグの榎本武揚の元に電報が届いた。
『ワレノ代理人、既ニソチラニ向カイシ』
つまり徳川定敬では無く、それに匹敵する代理人が来ると言うのだ。
榎本は特に驚かなかった。
どちらかと言うと
(電報が来るのが遅い)
と嘆いていた。
目の前でその代理人が、持参したカメラを弄っている。
自由な振る舞いの代理人の前で、榎本は動けない。
「和泉守、そう硬くなるな。
余は当にただの隠居ぞ」
「今でも将軍家を頂いて幕府を続けている者が、硬くならずにおられましょうや、上様」
江戸幕府第十五代将軍にして、ホノルル幕府初代将軍徳川定敬の養父、徳川慶喜が目の前に居る。
隠居とか言っているが、表の身分は大日本帝国貴族院議員で、徳川宗家とは別に認められた徳川慶喜家当主であり、ヨーロッパの基準では立派な貴族だ。
傍では松平容保が呆然としながら控えている。
(余はなんでここに居るのだろう)
という虚ろな表情をしている。
(嗚呼、あの方はまたしても上様に振り回されたのか……)
ハワイに居た頃よりも、白髪が増え、眉間の皺が深くなった容保を見て、榎本は同情した。
「ちょっと街を撮影して来るから、再会した2人で話でもしながら待っておれ」
そう言うと、慶喜はフラッと出て行ってしまった。
「会津様、何故ここに?」
「鳥羽伏見の時と同じじゃ……」
「は?」
「あれはこの月の初めじゃった。
いつもの如く、上様がふらりと東照宮に現れた……」
この時、既に徳川慶喜はハーグ会議開催の情報を手に入れていたようだ。
しかし、日光東照宮宮司松平容保には寝耳に水の話。
「『昨年ハワイに居る子や弟を助けたいと言っておったな、今がその時である』
と言って余を日光から連れ出し、この船に乗るのじゃと言いながら余の手を掴んで、乗ったのがロンドン行の船じゃった。
何をするのか聞かれても、まあまあ、おいおい話します、とはぐらかされ続けた」
松平容保は、鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜に「会津殿、着いて来られたし」と言い、手を取って「開陽丸」に乗せられ、そのまま家臣置き去りに江戸まで連れ去られた過去があった。
その時同じく江戸に連れ去られた中には現在の大御所で当時は桑名藩主の松平定敬がいて、逆に置き去りにされたのが「開陽丸」艦長の榎本和泉守武揚であった。
「禰宜の西郷頼母殿は止められなかったのですか?」
「留守の時を見計らって来られたのじゃ」
「あの……パスポートは?」
「榎本、余はそちも知っているように、世事には疎い。
余はもう二度と海外に出る気は無かった故、旅券を作る気は無かった。
あの方が何か色々質問して来るなと思っておったら、勝手に旅券を作られていた……。
『余の預かりじゃから、これから会津殿をどこに連れ出すも余の自儘である』と言われた……」
「それでハーグまで連れ出されたと?
……それはまるで拉致ではありませぬか?」
「それどころか、用事が済んだら帰国となるが、その帰国の便をどれにするか、サイコロで決めるとか、恐ろしい事を言っておられた。
何でも開通間近のシベリア鉄道に乗りたいとか、荒海で有名な喜望峰回りをしたいとか……」
「それだけはこの榎本、絶対に止めてみせます!」
「頼むぞ。
余は文久の頃からあの方に勝てぬのでな……」
容保は榎本の手を取って、これ以上引っ張り回されないよう頼み込んだ。
「何を話しておった?
ハワイ時代の積もる話か?」
慶喜が戻って来た。
「上様に申し上げます!
帰国便でサイコロの旅とか、正気の沙汰ではありませんから、絶対におやめ下さい!」
「狂気の沙汰こそ面白い……」
「上様!!!!」
「何を嫌がっておるのじゃ。
何処に行くか運任せ、時には反対の国を回るとか、楽しそうではないか」
「これ以上会津様を振り回さないで下さい!
もう楽隠居させてあげて下さい」
「隠居だから、気儘に楽しめるのであろう?
この立場を楽しまずしてどうする?」
「楽しむとか、人に依ります。
それより上様は一体何をしに来られたのですか?
何故この会議の事を知ったのですか?
何を企んでおられるのですか?」
「榎本、質問は一つずつにいたせ。
何をしに来たか?
それは勿論、征夷大将軍とは頼朝公以来六百余年、ただの一度も外を攻めず、国を護り続けた役職である事を説明する為ぞ」
「それは勿論」以降の説明はフランス語であった。
唖然とする2人に対し
「どうしてこの会議を知ったか?か。
余は欧州の動向も知っておるぞ。
薩長如きが威張っておるが、二百余年文官として下支えして来た元旗本や御家人無しで国の政治が出来るものか。
余は敢えて旧幕臣と疎遠に見せておるが、そんな余に世界で起きておる事を伝えてくれる者もおるのよ。
仮にも十五代征夷大将軍にあった威光よな。
そして斯様な会合が有るなら、ついでに其方らの戦についても話し合われるだろうと、予想出来た」
今度は「そして斯様な」以降ラテン語である。
「何を企んでおるか?
それ程深い考えは無い。
まあ、外交であたふたしておる大日本帝国外務省とやらへの当て付けかの」
2人にも分かるよう日本語でそう言って笑う慶喜を、容保と榎本は怪物でも見るかのような目で見てしまっていた。
「元征夷大将軍で貴族員議員が一人で街をふらつくか?」
ご安心を。
場違いだから出しませんが、隠密御庭番がどこかで警護していますので。
偶然にも公開した水曜日とサイコロが重なりました。




