世界は動く
話は第7代国王カラカウアの存命中に遡る。
ハワイと並んで列強の植民地化を免れていた国にサモアがあった。
分裂状態にあったサモアで、1881年にドイツが後押しするラウペパが大酋長となった。
そのラウペパは、ドイツにサモア物産の独占取引を認める一方、アメリカの保護国になるという約束をしたり、列強の間を渡り歩く交渉をしていた。
そして列強は激怒し、ラウペパを大酋長の座から引き摺り下ろした。
その次の大酋長の座をかけて、アメリカが後見するイオセフォ陣営とドイツが後見するティティマエア陣営とで争いとなった。
これが1886年に始まった第一次サモア内乱である。
このサモア内乱において、大ポリネシア同盟を夢見るカラカウアが、退位確定のラウペパを支援する砲艦「カイミロア」を送り出した事で、カラカウアは米英独から野心を疑われ、国内にあってはサーストンらのクーデターを招いてしまった。
後押ししていたアメリカ・イギリス連合とドイツとの直接対決に発展しかけていた内乱は、あっけなく終結する。
1889年、3月15から16日に熱帯低気圧がサモアのアピア港を襲った。
派遣されていたアメリカとドイツの軍艦6隻は大破し、戦争どころではなくなったのだ。
イギリス巡洋艦「カリオペ」は、港を脱出し熱帯低気圧をやり過ごした。
「カリオペ」はこの事が理由で「ハリケーン・ジャンパー」のニックネームを得ている。
そしてこの無傷の英艦艦長が仲裁役となり、ドイツ、アメリカともにサモアに深入りしないよう調整し、三者協議が行われた。
これにて第一次サモア内乱は収束に向かう。
結局アメリカ、ドイツともに一歩ずつ退く形で、妥協案としてラウペパ再登板となった。
どちらかが推す酋長になるよりも、一度伸びた鼻をへし折った酋長を再任した方が良かったようだ。
余談であるが、前年に小説「ジキル博士とハイド氏」を出版したロバート・ルイス・スティーヴンソンがサモアを訪れ、大破したアメリカ艦隊とドイツ艦隊を目撃している。
1898年8月22日、そのラウペパ酋長が死亡した。
アメリカとハワイが開戦した後である。
ラウペパの死により、外国で亡命生活を送っていたイオセフォがサモアに復帰し、大酋長となる。
今度のイオセフォはアメリカでなく、ドイツを後見としていた。
これに対しアメリカは、ラウペパの子のマリエトを支持した。
このサモアを巡る対立は、1898年中は膠着状態を保った。
1899年1月、米西戦争でアメリカがスペインから奪ったフィリピンで独立派のアギナルドがフィリピン共和国を建国、初代大統領となった。
アメリカはハワイと停戦協定を結び、巡洋艦隊をサンフランシスコまで引き上げた。
そこで船団を組んでフィリピンに兵員と物資を輸送する。
真珠湾が使用出来ない厄介さをアメリカは味わっていた。
そうして主力がフィリピンに向いた時、ドイツが急に動き出した。
イオセフォがドイツの支援を得て、マリエト陣営の村に攻め込んで来た。
さらにドイツ兵数百人と防護巡洋艦「カイザーリン・アウグスタ」及び小型巡洋艦「コルモラン」、装甲艦「カイザー」が青島からサモアに移動した。
アメリカは対抗すべきであったが、即応出来る艦隊が無かった。
戦艦「オレゴン」は修理中、装甲巡洋艦「ブルックリン」はヒロを防衛中、防護巡洋艦「オリンピア」と「フィラデルフィア」も修理中、そして「ボストン」と「ボルチモア」、修理のなった「ローリー」はフィリピンに在った。
アメリカ海軍の空白を良い事に、イオセフォ・ドイツ連合はマリエト・アメリカ陣営の領域を次々と占領していく。
さらにアメリカが驚愕する事態が起きた。
第一次サモア内乱で共同戦線を張ったイギリスが動かないどころか、以前アメリカが領有を宣言した北ライン諸島のジャービス島を占領し、領有宣言を出したのだ。
この北ライン諸島最北にあるのがアメリカ領キングマン・リーフで、先年損傷したデューイ提督の巡洋艦隊は一時この環礁に避難していた。
アメリカはハワイ、フィリピン、サモア、ライン諸島で様々な勢力と対立してしまった。
アメリカは自分たちの思考でその次を考える。
怖いのはフレンチ・フリゲート環礁にいるフランス艦隊が北上してミッドウェー島を占領し、スペインからサイパン島を購入したドイツがグアム島をも狙う事であった。
そうなるとアメリカは太平洋の島々から追い払われてしまう。
ミッドウェー島は座礁しやすく、港湾として使いづらいが、無いよりは良い。
この時期、唯一手に入れたのはウェーク島だが、ここはまだ港湾として使用出来ない。
港湾機能の整っていない環礁3ヶ所とグアム島では、アメリカの太平洋戦略は破綻する。
つくづくハワイ攻撃は下手を打ったものだ。
ここで膠着状態に陥った事が、各国にアメリカ支配の太平洋島嶼を狙わせる事になったのだ。
アメリカは、この一連の動きの裏で、一人の日本人が暗躍している事を、まだ掴んでいない。
……国際感覚の欠ける日本人にそこまで出来るとは想像せず、探りすら入れていなかった。
これらの戦場の中で、一番有利なのがフィリピンである。
1899年2月、アーサー・マッカーサーJr.はアギナルド軍の攻勢を退け、北部に追いやった。
マッカーサーは補給物資到着を待たず、自分たちに割り当てられる予算も減らされる中、士気の落ちた兵を率いて勝ってみせた。
だがアントニオ・ルナ将軍率いるフィリピン軍は反撃する。
「フィリピン人を奴隷化しようとするいんちきなアメリカ人に無慈悲な戦争を!」
「独立か死か!」
「アメリカ軍は飲んだくれであり泥棒である」
そう叫び、士気を鼓舞し、2月23日の第二次カローカン戦で逆襲に転じた。
アメリカ軍は「マニラの状況は危機的」という電報を打っている。
しかしフィリピン軍各部隊は、地元出身の隊長には忠誠を誓うが、中央の命令には従順でなく、統制の取れた攻撃を出来なかった。
更にアメリカ占領受け入れ派もそれなりにいた。
ルナ将軍の兄のホアキン大佐からして、アメリカの占領を受け入れた上で自治を求めようと主張していた。
結局この「自治派」によってルナ将軍は殺される事になる。
フィリピンが多少順調で、グアムは無風状態である為、アメリカはハワイを早くどうにかしたいと考えた。
真珠湾の港湾機能を使えないと、フィリピンへの大量輸送が出来ない。
だからと言って拙速に停戦協定を破り、再侵攻をすると、前年のように手酷いしっぺ返しを食らう事になりかねない。
大西洋から回航中の装甲巡洋艦「ニューヨーク」を一刻も早くサンフランシスコに到着させたい。
アメリカは、一度ヒロのデューイ提督とウッド准将を召還した。
現地を知る者の意見を聞き、作戦を練り直す為である。
日本人の奇妙な律義さを買ってではあったが、一時的に指揮官不在の状況が発生してしまった。
更に召還されたデューイ提督とウッド准将もひと悶着を起こす。
デューイ提督が海軍省の情報不足、特に海防戦艦2隻について全く調べていなかった不手際を批判したのはまだ良かった。
だがデューイ提督はその上に、アメリカのフィリピン政策を批判し始めた。
「アギナルドと会談し、戦後の独立を約束したのは私だ。
政府はその約束を破り、私の名誉に泥を塗った。
折角スペインから解放したのだから、アギナルドの共和国は認めるべきだ。
認めた上で交渉をすれば良いのだ」
ウッド准将は、多くのニューヨーカーから「テディを見殺しにした男」「アイビーリーグのエリートを死地に送った男」と非難された。
これに対し
「私は技術上のサポート役に過ぎない。
そして私は超人ではない。
着いて行っていない戦場でサポート等出来ない。
ラフ・ライダーズに入隊したのは君らの兄弟、子供、夫の責任だ。
楽観的に敵地を攻め、私に後方を守れと命じたのは、そのお調子者たちの多数決だ。
私は上官ではあったが、次期副大統領候補に手綱をつけられる程の大物ではない」
方針の不一致と遺族との対立、アメリカ陸海軍はこの2人をハワイ方面軍から外さざるを得なくなった。
この人事が新聞に載ると、マッキンリー政権の支持率は戦時中のそれとは思われない程に低下した。
ハワイのホノルル幕府も、休戦を活かして仕事をしている。
まずは戦死した兵士の弟や子を召し出し、恩賞と家督相続を認める。
ハワイ王国政府の方針で「出来るだけ健康な子を多数作って」と言われた為、第二世代の幕臣たちは部屋住みの者も相当多い。
兄の戦死によって家督が回って来た者もいた。
また、娘しか居ない家には、部屋住みの中から婿が斡旋される。
ハワイには、ここまで強制的な「家存続システム」は無かった為、ポリネシアンの自由恋愛もすっ飛ばす婚姻にかなり戸惑ったようだが、多く生まれた子がファミリーネームを変えても一家を構えられる為「これはこれで有りか」ともなった。
そして徳川慶喜が皮肉を言ったように、戦死者の供養や寺社への寄進。
こういうのを繰り返し、肌の浅黒い男たちは「幕臣」となっていく。
土木工事的には、幕府はホノルル港の修繕を担当した。
市内は民間人個々や、ラハイナの連中が斡旋した企業が担当する。
戦艦に砲撃を食らったホノルル港だったが、標的が海軍基地に限定されていたのは不幸中の幸いと言えた。
貿易港、中継港としてのホノルルの機能は落ちていない。
軍港では、クレーンや水密扉があちこち壊れていたが、第四次カイウイ海峡海戦で損傷した艦艇の修理が急ピッチで行われている。
防護巡洋艦「マウナロア」と「マウナケア」の被害は甚大だったが、重要区画の損傷は軽微だった為、6月には戦線復帰するだろう。
海防戦艦「カヘキリ2世」と「ボキ」は、損傷個所が上部構造物に限定されていた為、修理は済んでいた。
だが根本的な欠陥、前に重心が偏り過ぎている上に、タンブルフォームによるピーキーな航行をどうにかする為、引き続き改修工事が行われている。
艦載水雷艇を廃止し、せり出している部分に新しい砲郭を設置し、速射砲を載せる。
水雷砲艦の内、行動可能な「デュラハン」は、大破して1年は動けそうにない「トレント」から外した武装を取り付けて砲力強化を図っていた。
代わりに肉薄しないと使えない魚雷発射管を2門程外す。
これでより外洋で活躍する通報艦的な性格が強くなった。
砲艦「カウアナカ」は半固定28cm砲を外し、12cm速射砲(旋回式)に換装した。
28cm砲はホノルル港の防衛用に転用される。
こういう海軍の復活を、港湾労働者に交じってアメリカの諜報員は観察していた。
デューイ提督に批判されたように、情報不足だった事を今更ながら反省し、国籍を偽って入国させた諜報員をあちこちに派遣していた。
そして彼等の1人が気づいた。
「水雷母艦が1隻あった筈だが、あいつはどこに行った??」




