オアフ島の戦い(前編) ~アメリカ軍の実力~
戦艦「オレゴン」と装甲巡洋艦「ブルックリン」は真珠湾内に進入した。
実に4ヶ月ぶりの事である。
内海艦隊の水雷艇部隊が殺到するが、6インチ砲や5インチ砲の乱射で阻止された。
さらに速射砲や機関砲での攻撃で水雷艇は炎上していく。
脅威を完全に排除したところに、巡洋艦「ボストン」と「ボルチモア」が輸送船団をエスコートして入港する。
6千人の援軍と食糧、弾薬を得て、8月以来真珠湾を守っていたアメリカ軍は歓喜の声を挙げた。
デューイ提督は名誉を回復した。
カイウイ海峡でホノルル幕府の防護巡洋艦2隻を中破、水雷砲艦1隻大破、海防戦艦2隻中破、レンデル砲艦2隻を撃沈または大破で行動不能、水雷艇多数破壊、自軍は2隻中1隻小破、死傷者11人のみいう戦果を挙げ、輸送船を無事届けて味方の救援に成功したのだから。
真珠湾の浅瀬に乗り上げた巡洋艦「フィラデルフィア」も、穴を塞ぐ応急修理は終わっていた。
ただ、自力航行は不可能となっていた為、「オレゴン」がヒロまで牽引し、それを「ブルックリン」が護衛し、真珠湾には「ボストン」と「ボルチモア」が残る。
デューイは自軍の巡洋艦の救助にも成功した。
歓喜の声の中、苦情の声も来る。
「早くこちらにも補給を寄越せ。
一体いつまで待たせる気だ!?」
それはフィリピンに駐留するアーサー・マッカーサー将軍からであった。
アーサー・マッカーサーJr.陸軍少将は、現在事実上のフィリピン駐留アメリカ軍の司令官である。
彼からしたら、必要も無いのに上手くいっていたハワイに喧嘩を吹っ掛け、反乱を起こさせて真珠湾の港湾機能を4ヶ月も麻痺させたのは許し難い失策である。
(何もしなければ上手くいっていたじゃないか。
仮にハワイを併合するなら、キューバとフィリピンの件が落ち着いてからにしろ)
と、スペインとの和平条約すらまだの時点で、その時のノリで戦争を起こした政府を非難している。
条約や外交的な観点から見れば、実はまだ戦争は起きていない。
未だにアメリカとハワイ王国、或いはホノルル幕府は宣戦布告を互いにしていなかった。
アメリカからすれば内乱鎮圧のつもりだったかもしれない。
援軍6千と、戦闘に参加出来る8月以来の真珠湾の守備部隊や海兵1,500程は、真珠湾の基地からついに討って出た。
1898年12月16日の事である。
真珠湾を包むように、梅沢道治が陣城と防衛線を敷いている。
構想は良いのだが、兵力が二個大隊では不足だった。
アメリカ兵は勇敢で、砲弾銃弾飛び交う中を匍匐前進し、要所に爆弾を仕掛けて崩す。
梅沢はそれを一個一個塞ぐ作業を行い、突出した敵は砲撃や機関銃で潰す。
この陣地戦、数年後に発生する別の戦場のものと比較すると「鉄条網」という障害物が無い。
これは次の戦争から使用される。
それがあったら、アメリカ軍はもう少し苦戦をしたであろう。
この地道な陣地戦が3日続き、アメリカ軍は最初の突破口を作る。
その突破口に梅沢は兵力を集中し、機関銃で多数の犠牲を出すが、この戦闘の間に別な突破口を2ヶ所開けられ、梅沢はこの方面の封じ込めが破れたものと判断し、撤退した。
アメリカ軍は4日間の戦いで消耗した為、参加した兵力を交代させると共に、予備兵力で残った包囲施設を破壊し、行軍の邪魔になる物を撤去した。
海で敗れた出羽重遠と陸で陣地を放棄した梅沢道治は、征夷大将軍ジョナ・クヒオに謝罪した。
クヒオは義父の方を見る。
大御所徳川定敬は
「勝敗は兵家の常、この4ヶ月よく戦った。
今回負けたとは言え、この時期までそれが伸びるとは大したものだ。
そして戦いはこれからではないか。
やっと幕府の本領の戦となる」
「幕府の本領ですか」
「左様。
征夷大将軍とは何か?
攻め寄せる外敵を討ち払う為の将軍職である。
今までの敵は内なる敵であった。
此度初めて、外からの敵を迎え撃つ事になる。
元寇の折の北条時宗殿も斯様な心境であっただろうか」
12月23日、真珠湾に更に増援が来る。
新たに6千の増援が来て、アメリカ軍は数で幕府軍を上回った。
さらに戦艦「オレゴン」装甲巡洋艦「ブルックリン」がホノルル港に突入し、幕府海軍の施設を攻撃し始めた。
だがホノルル港は幕府海軍の拠点、簡単には潰されない。
修理完了して共にやって来た防護巡洋艦「チャールストン」が機雷に触れて大破した。
「チャールストン」を救助しようとした「オレゴン」も触雷する。
艦首部を吹き飛ばされた「オレゴン」は、沈没こそしなかったが、後進しながら這う這うの体でホノルル港を脱出して行った。
「チャールストン」は水雷艇が殺到して来るのを見て、自沈した。
乗員は幕府基地に泳ぎついて捕虜となる。
最近ではアメリカ軍にも「侍相手に戦い続けるよりも、潔く降伏した方が扱いが良い」と知られている。
幕府の捕虜収容所は、正直伝馬町牢屋敷と変わらず、ここの奉行は代々石出帯刀を名乗る世襲職という旧態依然としたものなのだが、この時期は他国の捕虜の扱いがさらに酷い為、牢屋敷は中々快適なのだ。
何よりアメリカには「牢名主」とか言って、敷き詰められた畳を積み上げて独占するような者は居なかった為、捕虜は「草のマット」こと畳の上で安眠している。
また、佐官以上は揚座敷であり、布団が支給され、食事も豪華(日本人比)なものが振る舞われた。
食事は味噌汁が不評であった為、味方のアメリカ人に頼んでアメリカ料理を作る。
それでも「味が薄くて、生煮えなんだよ、この北部野郎!」「やかましい、贅沢言ってないで食え、この南部のイモが!」と出身地域で喧嘩となっていたが。
余談から本題に戻る。
12月24日、出撃したアメリカ軍13,000人と幕府軍7,900人が衝突する。
「血のクリスマスにしてやるぜ!」
とアメリカ軍の士気は高かったが、幕府軍には特にそういうものは無い。
幕府軍は従来の歩兵第一旅団を中心に、予備役から成る後備歩兵第一旅団と、カウアイ島で訓練を受けたハワイ人歩兵第一旅団という3個旅団から成る。
しかし幕府の旅団は、「旅団を指揮するものは最下位の将官」という暗黙のルールを使う為、実際は連隊程度の規模しか無い。
正確には現役2個連隊と予備役1個連隊である。
アメリカ軍は旅団や師団という規模の軍司令部を持って来ていなく、4個連隊と1個海兵団から成る混成部隊で、差し当たりウッド准将が指揮を執る。
幕府軍から「ホノルル市内に戦火を及ぼしたくない」と申し合わせが来るが、南北戦争で散々南部の町を焼いた彼等には笑い飛ばされた。
そしてホノルル郊外から始まった会戦は、数時間でアメリカ軍が押し始める。
幕府軍の中で、一番弱いのがハワイ人第一旅団であった。
カウアイ島で酒井玄蕃に訓練され、上陸した敵軍を降伏に追い込んだように、勝っている戦いでは強い。
玄蕃は訓練終了後、出身島毎に彼等を帰した。
ハワイ島出身の兵士は、やや血の気が多いが、かなり強い。
山岳戦を得意とする。
この兵力がおよそ4千人で、立見尚文とロバート・ウィルコックスが預かる。
カウアイ島出身の兵士は、山林でじっと身を潜め、音も無く動く神出鬼没な部隊だ。
これはこのまま酒井玄蕃が預かるが、兵士数は2千人に届かない。
残る4千人超がオアフ島(約2,700)とマウイ島(約1,400)の出身で、文明化した島で暮らしていたせいか、粘りとスタミナに欠ける。
同様の事は、第一旅団にも言える。
彼等は代替わりした日本とハワイ人との間の子であり、武芸を日々父親から叩き込まれ、武士としての素養を学んではいるが、忠誠心という意味では中途半端だった。
ハワイ人としてはハワイ王国のリリウオカラニ女王を君主として仰ぎ、日本人としては幕府大君徳川定敬に仕えるのだが、これがどっちつかずなのだ。
ひとたび「自分は何の為に戦っているのだろう?」と疑問を持つと、急速に弱くなる。
故に、一番怖いのが、予備役兵部隊である。
彼等の戦う理由は一つ「死ぬ為」である。
「良く死ぬ」とは「良く生きた」結果と彼等は考える。
本国では廃刀令が出されて「武士の魂」を腰に差す事許されず、断髪令が出されて武士身分たる示す髷を落とされ、秩禄処分で収入を奪われ、徴兵令で戦士の誇りすら奪われた。
それに比べ、己たちは幸福である。
武士のまま死ぬ事が出来る。
多くの老兵は、先のモロカイ夏の陣で使命を果たして死んでいった。
五稜郭で戦った時にはまだ少年兵で、30年近く経つがまだ50代に届いていない武士たちは?
彼等は今まさに「死ぬべき時」が来たと喜んでいた。
幸せに生きた武士ゆえ、出来れば畳の上で死にたくない。
「俺を殺せ」という叫びには、「自分を見ろ、自分を知れ、そして戦おうぞ」という裏がある。
平安時代末期の武士のように名乗りを挙げるのは、ちょっと恥ずかしいのだ。
だから短く名を叫び「さあ、俺を殺せ」と言うのだ。
この「死兵」はアメリカ人も苦しむ。
生きる為に捕虜になるという選択肢が最初から無い。
逆に勇敢に戦って銃弾を浴びせると「さんきゆー」と下手な英語で感謝をしながら死ぬのだ。
この死に狂いの部隊以外は、アメリカがキューバやフィリピンの戦場でよく見たものに近かった。
植民地の総督に命じられて戦う現地人の部隊。
生まれ故郷を守る戦いをしているのだが、戦う意味を今一つ見出していない。
そして時間が経てば崩れ始める。
ホノルル幕府軍も、後備第一旅団を残し、徐々に後退していった。
算を乱して崩れるような失態こそ演じていないが、どんどん押されて、ついに山やワイキキ方面に撤退してしまった。
残された後備第一旅団は、モアナルアに集結し、最後の一戦を挑もうとする。
アメリカ軍は、こんな変態に付き合うつもりは無い。
一部は追撃に移ったが、他の多数はホノルル市内に繰り出して、略奪と焼き討ちを始めた。
南北戦争時、南部で何度も見られた光景である。
そして興奮した彼等は、東洋式建築物に大砲を撃ち込み、火を放つ。
立ててある石を蹴倒し、ペンキをぶちまける。
それは寺院であり、神社であった。
こうして彼等は、約6,600km離れた場所にいる徳川慶喜が、数年前から仕込んでいた地雷をまんまと踏んでしまった……。




