平穏な日々
廃仏毀釈という仏教弾圧があった。
江戸幕府の国教的なものは「神君家康公、即ち東照大権現」を神と見立てたものだが、家康自体が浄土宗や天台宗を保護し、徳川家光が臨済宗の僧侶沢庵宗彭に師事したりと、仏教もまた信仰と統治の元となっていた。
神仏は混淆し、東照宮と仏寺が併設されたりと、両者は区別無く崇められていた。
明治時代になる前の幕末、その更に前に水戸は既に廃仏を始めていた。
名目は寺の鐘を没収し、国防用の大砲に鋳造し直す為である。
だが思想的に、神仏を分離し、仏教を軽視するものがあった。
この水戸から出た水戸学が幕末志士の精神となり、水戸は攘夷志士の総本山化する。
水戸の志士たちは早期に壊滅し、組織として行動する時期には力を失っていたが、代わりに薩摩と長州が力を持った。
この両地方では幕末の頃から既に廃仏が始まっていた。
そして明治時代となり、神仏分離令が出されたが、これが拡大解釈されて寺が廃され、僧侶は強制還俗させられ、経典や仏像が焼かれた。
この弾圧後に、生き残った仏教は宗教として近代化する。
もう庇護してくれた江戸幕府は無い。
そうして近代化をした仏寺に、一人の男が訪ねて来た。
前征夷大将軍徳川慶喜である。
彼は各宗派の総本山に親書を送り、関東の代表的な寺院を自ら訪ねて、ハワイに別院建立を頼み込んだ。
時間があまり無いらしい。
寺院としても、宗教として新たに活動する場を広げる為、ハワイに支寺を置く事を承認した。
手続きや様々なものを済ませ、ホノルル幕府のお膝元に寺を建立する。
時間があまり無い、の意味が次第に知れて来た。
旗本や各藩士たちは、現地妻との間の子に家督を譲って隠居したり、世代交代をしていた。
しかし1893年の内戦では、死ぬならば自分の方から、父親の死に様を見せてやろうと、老武士たちが予備役や退役ながら参戦し、戦ってまた生き残った。
戦いの心構えを子に伝え、親父の強さを改めて見せられた彼等は、徳川定敬が大御所となり幕府が代替わりしながら根付いて来たのを見て満足した。
もう戊辰の負け犬はいない。
気の緩みから、床に伏して、一気に老化する者が相次いだ。
もう五稜郭から26年経っている。
人生五十年とは言わない時代だが、激動の生涯を送って来た彼等に終焉の時が迫って来た。
「まさか、鳥羽伏見にて我等を見捨てた上様が、今度は我等の死後の地を用意してくれるとはなあ」
ハワイに妻を連れてやって来た僧侶に
「女犯とは何事か!」
と、明治五年の僧侶の妻帯許可を知らず、怒鳴りつけた旗本たちも、死の床では神妙となった。
寺院が出来る前に死んだ同僚は、ハワイで荼毘に付された後に遺髪と遺骨を日本の菩提寺に運んで貰ったり、意に沿わないがキリスト教に改宗して墓地に葬られた。
死に場所をハワイに見つけたが、死後の居場所がハワイには無かったのだ。
それを徳川慶喜は見越し、寺院を作らせたのだが、彼の思惑はこれだけではない。
それはさて置き、ハワイ別院の各宗派寺院は、いきなり大忙しとなる。
死後の居場所を得た旗本、御家人、更には足軽小物たちも安心して死に、その葬儀、埋葬、回向と 寺院にはどんどん仕事が舞い込んだ。
旗本たちは、ハワイ人との子に何度も法事をさせたりする気は無い。
改宗を薦めたキリスト教宣教師たちに
「子や孫が切支丹になるのは勝手だ。
だが自分は先祖代々の宗派で死にたい」
と言って断る一方、子孫の勧誘は自由だとしていた。
そして寺院には、自分の永代供養の大金を渡した。
一方で官制移民たちも寺院が出来た事を喜んだ。
ここも過酷な労働や子供が病気だったりで死ぬ。
死んだ後はやはり「お寺さんに」となった。
そして墓参りの時に第二世代の幕臣と、新世代の移民は顔を合わせるようになる。
何度も何度も顔を合わせる内に、親しみが出来る。
幕府系日系人の考え方の古臭い部分も、喋ってるのが侍そのものではなく、ハワイ人とのハーフだと何となく許せた。
ある意味、面白外国人として。
そりが合わなかった幕臣たちと新世代日本人たちは、次第に関係を改善させていった。
徳川家にも東照宮が出来た事は大きい。
内戦前のドタバタの中、気づけば生まれていたホノルル幕府だっただけに、きちんとした儀式をしたかった。
リリウオカラニ女王に話を通した上で、出来たオアフ東照宮とオアフ島中央部の「聖なる岩」まで将軍就任の行列を組んだ。
クヒオ王子を入れて、古式な装束に旗指物、金扇の馬印を立てて練り歩く。
昔と違うのは、槍や火縄銃は無く、ルベル小銃に銃剣をつけ、四斤半砲を曳いての行列な事だった。
先導に王室の騎馬警察が参加し、沿道では行列を乱さない条件で屋台が出せた。
行列移動後は、徳川家光上洛行列に並び、沿道の家に人種に構わず金貨が配られた。
そして、米英仏独露蘭西伊等各国外交官が見回る中、日本とハワイの神に代替わりを報告した。
なお、大日本帝国は参加拒否、アメリカ合衆国は一等書記官出席と、最近対立が有った国とそうでない国とで温度差はある。
更に意外なものが官製移民の日系人や諸外国人と幕府を親和させた。
レイサン島の温泉である。
火山島レイサン島中央部の湖から湧き出す温泉は、中々使用困難な代物だった。
幕府温泉奉行は日本人温泉宿職員等を呼ぼうとしたが、最近の関係悪化で難航していた。
そこにシシリー系イタリア人から
「浴場専門の技師だっていう奴が、是非仕事をさせて欲しいって来てます」
と聞き、任せてみたら。中々風光明媚な入浴施設が出来上がった。
予想以上の出来の良さにフランスも喜び、資本を投下してバカンス用にする。
そうして出来た保養施設だが、その技師はもう一ヶ所、水兵や労働者用の安い浴場も用意していた為、こちらは幕府が人を雇い設備を作る。
この大衆浴場は、入浴の風習の無いフランス海軍軍人やハワイ人も使用した。
当然、休みを貰った日本人労働者も。
何も無かったレイサン島にこれだけの価値が生まれたのは嬉しい誤算と言える。
「温泉は想像以上の贈り物でした」
とフランス大使は喜び、さっさと実効支配して設備作れば良かったとアメリカ公使は悔しがった。
レイサン島への航海が増えると、客船とニホア島灯台の価値が上がる。
リリウオカラニはラハイナ人脈を使い、クルーズ客船会社を積極的に誘致する。
レイサン島はフランスが租借している為、そこでの稼ぎはフランスに落ちる。
大型客船の場合、ホノルル発だろうがラハイナ発だろうが、港湾使用料やそこでの観光や滞在費がハワイの収入となる。
リリウオカラニは、反対派が幕府によって一掃され、軍事や治安対策も幕府に丸投げして以降は、人の斡旋や企業誘致、共同事業の立ち上げ等、人と会う事によって出来る経済活動に専念し、生き生きとしていた。
「ニホア島の気象観測所を我々にも使わせて欲しい」
と、作ったイギリスが言って来た。
北西ハワイ諸島航路が活性化した事と、上手くいけばアメリカにハワイを取られずに済む為、北太平洋の気象観測拠点を積極的に活用したい、それが海洋国家イギリスの考え方だった。
幕府はニホア島の使用について無償で許可をした。
幕府もまた日本人から成る為、学問を銭金稼ぎに使うのを浅ましいと思う癖があった。
海洋気象観測という学術行為で、金なんか取る訳無いでしょう、可能なら教えて下さいよ、という態度である。
リリウオカラニ辺りは「気前のよろしい事で」と、はっきり厭味を言っていた。
しかし、学術使用で金を取らない姿勢はヨーロッパ諸国から感心され、気象学、海洋学、魚類学の他に鳥類学者も来島し、野鳥保護が始まった。
そして日本政府及び日系人にも
「一緒に学問しないか?」 と呼び掛ける。
対立していても学術問題では話は別になる日本人の特徴で、研究者がニホア島にやって来る。
交代要員がホノルルに住む。
学問を志す者が大学に学ぶ。
大学は国際色豊かになり、教官として学者も多くやって来た。
荒井郁之助が驚く程、孤島ニホア島は寂しく無い島に変わる。
生産能力は相変わらず皆無な島ではあるが。
こうしてオアフ島とマウイ島ラハイナ周辺は活性化していく。
一方でハワイ島、カウアイ島は昔ながらのポリネシア文化を残す。
特にカウアイ島は統治者の酒井玄蕃が武人過ぎて、商人や港湾地区を除けば「昔ながらの方が良い」と言っている。
ハワイ島はヒロやコナ等を除けば酋長たちの社会であり、手付かずのままとなった。
このまま安定化していけば良かったが、残念な事にそれは1898年に終わりを迎える事になる。
再び幕府は、幕府たるを求められる事になる。




