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ホノルル開府

 幕府とはそもそもは将軍の司令部を表す漢語である。

 日本においては左右の近衛大将と征夷大将軍の司令部に相当する。

 平安時代初期、桓武天皇が国軍を解散した時、唯一当時は外国扱いの東北奥地で戦っていた征夷大将軍の軍だけが例外として残された。

 その為、一時的に「征夷大将軍とは日本全軍の司令官である」状態が生じた。

 時が下り、治承寿永の争乱期、一般的には源平合戦と呼ばれる内戦ではあるが、源氏対源氏である源頼朝対木曽義仲の対立局面も存在した。

 公家の多くを味方にした頼朝に対し、木曽義仲に味方した松殿基房が任命されなくなって久しい「征夷大将軍」を復活させたともされる。

 やがて敵対勢力全てを倒した頼朝は、右近衛大将に任じられた。

 公家武官としては最高位である為、貴族の日記では頼朝は以降鎌倉右大将と記述されたりするが、彼は在京義務のあるこの職をすぐに辞任し、鎌倉に帰った。

 そして近衛大将に比べ、四位相当官と格が下がる征夷大将軍に任じられる。

 これは「日本全軍の司令官」であり、かつ遠征軍司令官な為在京義務が無い。

 この職の受任をもって鎌倉幕府の成立とされて来たが、頼朝の政庁を「幕府」と呼ぶのは2年前の右大将受任時から出来た。

 しかし征夷大将軍、頼朝はこれもすぐに辞任したにも関わらず、この将軍職が幕府の条件といつの間にかなった。

 実際の鎌倉という政庁は、頼朝が全国に地頭を置く権限を得た時点で本格化し、三位以上になって自身の家政組織を全国政治可能な「政所」に格上げし、将軍職を得た時には既に組織として出来上がっていた。

 将軍に任じられてから幕府が出来たのではなく、将軍に任じられた後の「鎌倉」を後世「幕府」と呼ぶようになったのだ。


 旧幕臣たちを束ねる松平定敬の組織も同様に、既存の組織と、任じられた権威の重ね合わせで「幕府」になろうとしている。

 日本の官位、私的な資格、ハワイの称号と合成獣(キメラ)的なものではあるが。

 公卿として全国政治が可能となる三位に上り、いつしか追加条件に加わった源氏長者を与えられ、ハワイ王国からは総軍司令官の職が与えられようとしていた。

 松平定敬の桑名藩以来の家政組織があり、かつ軍隊は陸軍と海軍が揃っている。

 きっかけが与えられたらすぐに開府するのだ。


 もっとも、彼が軍事政権を立てたところで、普通は日系人軍閥とか松平政権と呼ばれただろう。

 ここに最後の将軍が送って来た「徳川」姓が効いて来る。

 Tokugawaは日本の大君(タイクン)として外国にも知られていた。

 三位になって以降、避諱読みで松平定敬(まつだいらさだたか)徳川定敬(とくがわていけい)公と呼ばれ始めた。

 それが一部の外国人にもウケ、次第に彼はテイケーと呼ばれやすくなった。

 テイケーが作る軍閥政権は「第二次(セカンド)徳川幕府(トクガワショーグネイト)」或いは「ホノルル幕府」と呼ばれる事になる。


 時間を開府直前に戻す。

 年が明け、1892年3月、いよいよ併合派白人が動き出した。

 サンフランシスコを巡洋艦「ボストン」が出港し、ホノルルに向かったという報告が入ったからである。

 海軍省(国防総省はまだ存在しない)にブレイン国務長官から執拗な派遣要請があったから仕方なく、であったが、ハワイのアメリカ人農園主には福音のように聞こえた。

 併合派の議員たちは辞表を提出し、モロカイ島に移住を始める。

 動きが有り過ぎて、何かが起こるだろうと予測をさせるに十分である。

 市民、移民、原住民ともに不安がる中、不思議と王国政府は静まっている。

 クヒオ王子がテイケー公の養子となったという、不思議な発表が為された程度である。


 そして併合派の予定通り、1892年4月1日ハワイ共和国が独立宣言をし、ハワイ王国からの離脱を発表した。

 これに対しハワイ王国は独立を否定、軍事力による領土奪還を




 しなかった。




 逆に「モロカイ島の統治権譲渡」の委任状を持った祝賀の使者が送られて来た。

 議員も白人農園主も思わぬ展開に戸惑う。

 今後の方針を問うべく、予定通りアメリカ大使館に「共和国大統領」としてサンフォード・ドール招聘の使者を送った。

 ドールなりスティーブンス大使なりから指示を受ける為、ドールや大使館職員に来て貰いたかったのだ。

 ドールは現れず、代わりに来た大使館職員がもたらした情報は、さらにハワイ共和国を困惑させた。


 1892年4月2日、ハワイ王国政府はテイケー公に対し、カウアイ王、オアフ総督、ハワイ総軍司令官の称号を授け、オアフ島・マウイ島東部・ハワイ島・カウアイ島の統治権を委任したという。

 テイケー公は姓を「徳川」に改めた。

 イオラニ宮殿の敷地東側に簡易な建物を作り、そこに居住すると言う。

 一方イオラニ宮殿敷地西側にも簡易な建物が出来て、そこには後継者として「西ノ丸殿」クヒオ王子が入った。

 こうして「ホノルル徳川幕府(トクガワショーグネイト)」が開府し、「ハワイ共和国」と同格の存在「王国内国家」として出来たという。

 あっという間の出来事だったという。

 既に組織が出来上がっていたものに名分を与えるだけだった為、準備を察知される事も、設立に時間が掛かる事も無かったのだ。


 共和国関係者は大使館職員に問う。

「とりあえず予定通り、合衆国に同盟を要請しろ。

 そして15か16日頃と思われる『USSボストン』入港を待て。

 海軍と海兵が居れば、状況を逆転させる事も出来る。

 『幕府ショーグネイト』は全ての人種、国民に対し警察行為以外で一切危害を加えないと宣言した。

 だからこちらから先に手を出せば、『居留民の安全を脅かした』のは共和国側になる。

 海軍や海兵が到着すれば、それも強引に捻じ曲げられるが、今の戦力でやったら潰される上に汚名を被せられる。

 いいか、オアフ島には手を出すな。

 条件が整うまで大人しくしていろ。

 ホノルルに残った者と合衆国軍が手を組んで、状況を逆転させてから我々は合同する。

 ドール氏には、ホノルル挙兵の方に回って貰うから、こちらには送れない。

 以上(イッツ・オーバー)


 ハワイ共和国の関係者には、結局不安しか与えられなかった。




将軍(タイクーン)幕府(ショーグネイト)か、懐かしいな」

 ジュール・ブリュネが久々にハワイを訪れ、旧知の顔と歓談する。

 彼はベルタンの発注した艦船部品や、大鳥圭介がやっと更新を依頼した新型銃と弾薬を運んで来た船に同乗して来たのだ。

「しかし、榎本の思考からいったら、共和国(ルパブリクー)を立てると思ったが」

「色々あったのさ」

 榎本がかつての幕府軍事顧問団長に答える。

「それで君の役職は何なんだい?」

「俺は外国方老中という役だ」

「何? 海軍大臣ではないのか?」

「海軍は代えがいる。

 荒井郁之助は覚えているだろ?

 彼が少将、海軍奉行となった」

「大鳥も陸軍から外れたのか?」

「いや、僕は陸軍奉行になったよ。

 もっとも実戦部隊ではなく、軍政・軍務担当になった」


 ホノルル幕府の人事は

・政務方老中 林忠崇

・軍事方老中 酒井玄番

・公事方老中 松平容大

・外国方老中 榎本武揚

・勝手方老中 バーニス・ビショップ

 となった。

 これに大君徳川定敬と次期大君クヒオ王子とで評定をして政治を行う。


 歴代で最も人員も兵力も少ない幕府である為、「月番」等という交代制は出来なかった。

 代わりに職責を細分化し、担当者には大幅な権限が与えられた。

 江戸幕府が批判された「責任者が誰か分からない」のも解消された。


 市政そのものは、ホノルル市政府と協調体制となる。

 議会や市政府との協議に、上院議員の席はそのままで林忠崇が当たる。

 クヒオ王子は王国政府との連絡役も兼ねる。

 彼を養子とし、次期大君とした事で、原住ハワイ人の支持が集まった。

 経済においてはホノルル商工会議所頭取在任のまま、ビショップが担当者となった為、経済統制や財政政策の失敗の不安から解放され、共和国派以外の白人は、積極的賛成はないが反対も無くなった。


 フランスは在ホノルル大使とブリュネの口から歓迎の意を伝える。

 イギリスは、日本の幕末において「トクガワ」を見限り「サッチョー」を支持した経緯もあり、これまでのところ公式の歓迎はしていない。

 しかしイギリスはハワイ王族と関係が深く、在ホノルル大使が徳川定敬を訪ね、ハワイ王国を乗っ取る意思無き事と、王族の庇護こそが真の目的である事を確認し、それに沿った行動である限り支持すると協力を申し出た。

 スティーブンス在ホノルル米大使のみが

「反動的な封建君主の軍政と、それを容認する王国政府の不明を批判する」

 と声明を出していたが、新聞から

「では王国を離脱したモロカイ島のハワイ共和国を真っ先に承認したのは何故か?

 順番から言えば、共和国が出来たから対抗勢力としてのトクガワが国内国として出来たのではないか?」

 と質問されて、

「民主主義の共和国と軍閥とは同列には扱えない」

 と答えるに留まった。

 諸外国は、戦争が無く平和裏に成立し、王国が統治権を委任した両方を認めているのに、アメリカだけが一方を称賛し一方を全否定する偏りを見せている。

 共和国の後ろにアメリカが居て、最終的には何をしたいのか薄々分かっている諸外国は、そんなアメリカを冷ややかな目で見ていて、太平洋の要衝をアメリカに奪われない為の捨て石としてホノルル幕府に期待をかけた。


 日本は? というと、

「ハワイ王国が分裂するかの如き事態を憂慮する」

 という外交声明を出すに留まっていた。


 だが、及び腰の政府と対照的に帝は海軍大臣仁礼景範を呼び出し、

「ハワイの邦人居留民保護の為、何らかの方策を取るように」

 と命じた。

 首相である伊藤博文を通すと、理由をつけて潰されてしまう為、直接海軍大臣に命令をしたのだった。

 仁礼外相は「海軍のマネージャー」である山本権兵衛に帝の命を伝え、軍艦派遣を諮る。


 このように各勢力が思惑満載で動いている中で、ハワイ共和国が暴走した。


 モロカイ島の隣のラナイ島は、辞職したウォルター・ギブソン首相の一族が巨大な土地を所有していた。

 そのラナイ島が、ハワイ共和国の分離独立志向を批判し、王国に留まるよう声明を出した。

 これに激怒したハワイ共和国では

「そういえばラナイ島を制圧し、ラハイナ水道(ローズ)で海賊行為をするのは予定に入っていた事だ。

 予定通りの行動を取る限り問題は無い。

 ラナイ島を攻めて、以前の蜂起で取れなかったギブソンの命を取ろう!」


 かつてホノルルとハワイ島で行われた断罪者(ウリエル)土方の残党狩り。

 これで優秀な人物が多数殺されたのが致命的だった。

 別に土方歳三は優秀な人物を狙って殺してはいない。

 手当たり次第に抹殺しただけだ。

 知恵が回って自首して難を逃れようとした者は、そのまま密かに首を刎ねた。

 武闘派はそのまま犠牲を顧みずに突入して殺した。

 用心深い者は、居るのを確認したら人違いである可能性も顧みず、踏み込んで暗殺した。

 これに生き残った者で、多少知恵が回る者は居たが、陰謀のグランドデザインを描ける者は居ない。

 賢い者は、陰謀でのハワイ転覆は危険と判断し、盟を脱した。

 よってハワイ共和国の首脳は、理想や原理原則を追い、情熱が有ったものの、深謀遠慮が出来ず辛抱の足りない者が多かった。

 一部の慎重派を押し切り、ハワイ共和国はラナイ島侵攻を決める。


 そしてハワイ王国から離脱も統治委任もされていない普通の領地のラナイ島で、居留するアメリカ人が危害を加えられる事態が発生した。

 ラナイ島からホノルル幕府に対し、援軍要請の使者が飛んだ。

 ホノルル幕府に大義名分が出来た。


「大義名分は良いが、ラナイ島が奪われたら色々問題がある。

 ラナイ島には大した兵力もおるまい。

 持ちこたえられるか?」

 評議での徳川定敬の問いに榎本武揚は自信満々に答えた。

「ご安心を。

 既に手は打ってあります」


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