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永井主水の死、そして

 元桑名藩主松平定敬はリアリストだった。

 彼は己の才覚を過大評価していない。

 政治も軍事も家臣任せでやって来れたのだ。

 それ故に蝦夷共和国では一度家名を捨てて、一個人として戦った。

 求められて松平に戻してハワイに来た後、軍人としてはまともにやりたいと、フランス人軍事顧問に学び、時に歩兵に混ざって訓練もした。

 能力は伸びたものの、それ故に彼は自分より遥かに上の軍事的天才が分かってしまった。


 自分の家臣で、元小姓組だった立見鑑三郎改め立見尚文、彼は軍事の天才だった。

 戊辰戦争でも、不利な状況で彼は負けずにいた。

 地形を活かしたゲリラ戦、大軍でも迅速に行動させて敵の意表をつく神出鬼没さ、防衛時の粘り強さ、そして肝の太さと将として主君より遥かに上である。


 主君より、どころではない。

 日本でもハワイでもフランス人軍事顧問は

「もしナポレオン時代に生まれていたなら、30歳を迎える前に将になっていただろう」

 と言わしめる程である。

 日本から何度も「会津の山川大蔵と桑名の立見鑑三郎は帰国させて欲しい、陸軍に必要だ」と要求が来ている。

 本人たちが意地っ張りで

「戊辰で俺に勝てなかった奴の下には着きたくねえな」

 と拒否しているが。


 会津の山川大蔵こと山川浩も松平定敬配下の大隊長となっている。

 彼も戦闘の達人だが、立見は更にその上だ。

 2人の優秀な部下に恵まれた定敬は、近年オアフ島に居る時間が増え、第三旅団は事務を山川に、軍務を立見に任せている。


(余はどうやら神輿であるのが良いとこだな)

 年を重ねてそう思えるようになった定敬だが、

(これは流石に有り得ない)

 と思う通達をどうにかすべく、農園に永井主水を訪ねていた。




 永井主水正尚志は幕末期のエリートだった。

 彼は元々大名の子である。

 側室の子で、しかも彼が産まれた時に既に家督は兄に譲られていた為、旗本の養子とされた。

 長崎製鉄所の創設、外国奉行として通商条約調印、軍艦奉行兼任と幕府の実務を担当した。

 一時、一橋派を支持した事で大老井伊直弼に睨まれ、罷免される。

 しかし時代は有能な彼を放っておかず、京都町奉行で復帰してから大目付に昇進。

 大目付時代には薩摩藩下屋敷火災が、参勤交代を避ける為の自作自演であった事を掴む。

 この件は直後に起こった生麦事件で有耶無耶になったが。

 その後朝廷や外国との交渉役を務め、若年寄格に昇進する。

 江戸幕府滅亡後は榎本武揚と共に蝦夷地に渡り、箱館町奉行となる。

 こういう行政の達人ではあったが、ハワイではその才を専ら、着いて来た幕臣たちの為に使った。

 ハワイに来た幕臣は、全員が蝦夷地まで戦い、新政府に従うを潔しとしない者では無かった。

 徳川家が400万石から70万石に削減されるにつき、禄にありつけない者も出る。

 優秀な者は、そのまま新政府が中級・下級官吏として登用した。

 駿河に移った徳川家に従った幕臣たちに、牧之原台地を開墾させて茶栽培をさせたのは勝海舟・山岡鉄舟らだが、それ以外も多い。

 「武士の誇り」として幕府残党に合流するも、身を助ける方針の無い者も居た。

 そんな旗本・御家人の内、暴れる元気がある者は愚連隊となってホノルルの治安を悪化させた為、新撰組によって殺害、もとい捕縛され、最終的には日本に戻った。

 年老いて「今更徳川家以外の下では生きられぬ」とか「無役、小普請役でしかなく、刀を取って薩長と戦う意気も無かったが、それでも新政府の下には居られない」という者が着いて来た。

 あまり優秀ではない、体も衰えている、文書の仕事しかしていない者を、旗本高位の永井たちが引き取った。

 やった事は勝や山岡と同じ、「刀を鍬に代えて」なのだが、老武士には果樹栽培や園芸を、明治政府には登用されなかったが文官だった者には商取引や公文書作成といった「行政書士」的な仕事を、適材適所で割り振る。

 得た金を細分化すると零細化しやすい為、纏めて運用し、農具や新しい農作物の買い付け等に使い、武家である旗本たちは江戸時代のままで居られた。

 買い物とか「行く」ものではなく「お勝手に商人が来て、注文を受ける」のが武家だった。

 江戸時代と違うのは、その購入を経費として記録させ、纏めて支払い、節税にも使った事だ。

 こういう仕事ばかりだった為、永井はつい最近まで前線で戦う幕府陸海軍と没交渉であったのだ。


 最近は事情が変わった。

 この農園で働く武家も、世代交代の時期を迎える。

 温暖な気候で生活も安定し、子も増えた。

 その子の中の次男、三男には「兄の下で働くより、武士だったら陸軍に入って戦いたい」と言い出す者も出て来る。

 榎本が悲しむ事に、海軍志願者は非常に少なかった。

 農園経営も安定し、販売先がアメリカに限らない為に「大儲けも無いが、アメリカの都合に振り回されもしない」破産しない形になった為、永井らの世代は後進に経営権を徐々に譲っている。

 その為、永井は陸軍に顔を出し、志願者を斡旋したりする。

 陸軍に顔を出す以上、逆にこの経験豊富な元エリート官僚には相談も持ち掛けられる。

 特に最近、榎本武揚に代わって幕臣たちの長に祭り上げられた松平定敬は、よく永井に相談をしていた。

 血筋や家柄、官位で祭り上げられた為、榎本や大鳥よりも元若年寄の永井の方が聞きたい事に答えてくれる為である。

 最近永井は体が弱り、歩行も困難になって来た為、定敬が通うようになった。




「なるほど、なるほど、上様にも困ったものですな」

 永井が薄く笑う。

 上様とはここにはいない、第十五代征夷大将軍徳川慶喜の事である。

 松平定敬に届けられた郵便物は、一つは徳川家の系図を書いた巻物で、その最後の方に

「慶喜----養子----定敬」

 と書かれていた。

 次の一つは

「勝手ナレド貴君ヲ余ノ継嗣ト為ス故、徳川姓ヲ名乗ル由」

 という花押入りの手紙だった。

 そして最後の一つは、金扇の馬印。


「あのお方は何を考えておられるのか、京都で共に仕事しましたが、よく分からぬ」

「それは(それがし)とて同じでございます。

 上様は先々の事が良く見えているようでした。

 しかし、我等には言っても判らぬと、教えて下さる方ではありませんでした」

「永井、そちの考えで良いから聞かせて欲しい。

 上様は余に徳川を名乗らせ、何をしようとしておるのか?」

「上様の事は分かりませぬが、徳川姓は拝領なされ」

「余は久松松平家の出ゆえ、ご本家の姓等恐れ多い」

「いや尊公の祖父、楽翁様(松平定信)は田安徳川家の出ゆえ、徳川を名乗るは御祖父君の悲願を果たす事になりませぬか?」

「余は養子で、楽翁様の血は入っておらぬ」

「血で言われるなら、御父君高須少将(松平義建)は水戸のお血筋。

 歴とした権現様(徳川家康)のお血筋でしょう」

「だが、徳川宗家は駿河の家達(いえさと)様じゃ。

 ……官位が無いから諱で呼んだが、言い慣れぬの……。

 駿河の御宗家を差し置いて、余が徳川等とは……」

「それ故、上様の養子とされたのでしょうな。

 系図のここを見ると、宗家は確かに家達とありますぞ」

「では何の為に徳川を名乗らせようとするのか?」

「征夷大将軍とさせる為でしょう」

「将軍職じゃと?」

「左様」

「色々と奇っ怪じゃ。

 まず将軍職は廃止されたと聞いた。

 それでもあえての将軍職なれば、それは駿河の御宗家のものであろう。

 次に余はハワイにおり、征夷大将軍に等なれぬ。

 余の主君はハワイ王であり、従三位もそうじゃが、日本の帝より官位を賜る謂れは無い」

「そう正直に捉えては上様が笑いましょう。

 あの方の気質からして、何かの謎かけをしているのです」

「謎かけじゃと?」

「左様。

 征夷大将軍でなくても、防衛総司令官とでも申しましょうか、そういうので良いのです。

 最早将軍職が無くなった日本ではなく、別の場所で新たな徳川家を旗揚げせよ、とでも申しましょうか。

 新政府の下で、最早大名でも無い御宗家には叶わぬ事。

 御宗家は徳川の主筋だが、将軍は別に居るぞという事でしょうな。

 上様は、帝はともかく、今でも薩長には喧嘩を売っておられますなあ。

 それとかつて将軍職をどうこう言った我等幕臣にも……」

「……確かにそういう所はお有りだった。

 訳の分からぬ行動に、何等かの意味が隠されていたりした。

 それで、家督は御宗家の物だが、将軍職は上様から養子に勝手にされた余に継ぐというのか。

 源氏長者も権現様以来の金扇もそれで合点がいった。

 だが……」

「まだ何かございますか?」

「何故余なのか?

 兄上の方が良いと思うが」

「会津様は既にご帰国なさいました」

「それはそうじゃが」

「上様にしたらどっちでも良かったと思いますぞ。

 会津公がハワイに居たなら会津公だったと思います。

 どちらが適任かではなく、どちらの人柄が良いかでもなく、今そこに居る人に任せただけでしょう。

 上様にとって将軍職とはその程度の重みしかありませぬ」

「……理解出来た。

 お人柄も長幼の序も兄上の方が良いと思うたが、そのような下らぬ事の為にまた重荷を背負わす訳にはいかぬ。

 上様に振り回されるのは気に食わぬが、徳川姓と金扇の馬印、賜る事にしよう」

「そうなさいませ。

 そして良き折りにそれを活かして下され」

「良き折り?」

「榎本殿が長たるを辞した事、大鳥殿が新型銃を買おうと必死な事、女王陛下が勘定方としてラハイナの者どもを取り入れようとしている事、全て不穏の兆しを感じての事でしょう。

 それが何かは、何となくは見当がつきましょう」

「では、上様は日本におられながら、それに気づいたと?」

「上様の事は分かりませぬ。

 あの方は我々と頭の出来が違い過ぎましたゆえ。

 賜った後は上様の事等お忘れあれ。

 一朝、事が起こらば貴方様は持っている全てを使って、我々幕臣やその子弟を指揮なさいませ。

 これはこの永井の遺言と思ってお聞き下され」

「遺言はまた大袈裟な」

「大袈裟では御座いません。

 (それがし)の身の事は自分が良く分かります。

 (それがし)は今年の内に死ぬでしょう。

 全てが片付くのを見届けたかったのですが、叶わぬようです。

 貴方様にお任せいたします」

「永井……、遺言云々は聞かなかった事にする。

 また相談しに来る故、余を指南してくれ」

「勿体なくお言葉……」


 だが結局遺言と言った事は、本当に遺言となった。

 松平定敬の元に永井主水正尚志の訃報が届いたのは、それから僅か3日後の事だった。

 元江戸幕府若年寄格永井主水正尚志、1891年7月1日死亡、享年76歳の大往生であった。

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