カラカウアの出国と「クムリポ」
1890年、正月を過ごした後、カラカウア王は血を吐いた。
妹のリリウオカラニが遣わした医師、日本人が遣わした高松凌雲ともに所見は
「アルコール中毒、胃と肝臓が随分と固くなっている、禁酒が必要」
であった。
だがカラカウアは言う
「飲まずにやってられないって事を分かるか?」
カピオラニ王妃がマウイ島ラハイナに着いて共に暮らし、酒も食事も節制していた筈だった。
だがカラカウアは深夜フラリと寝台を抜け出すと、仮王宮も抜け出し、裏通りの安酒場で蒸留酒を飲んでいたりする。
カピオラニが咎めても「覚えていない」と言う。
覚えている時は、妻の制止を聞かずに王宮内で飲む。
陰に籠る飲み方ではなく、歌い踊り、下品なジョークを飛ばし、カードに大金を賭けて遊び、途中具合が悪くなって吐き戻すと「これで大丈夫だ」と歌い踊る。
どうしてそういう事をするのか、と聞かれると、素面の時は決まって
「そうしないと心が潰れそうだ」
と言うのだ。
別にヤクザもギャングもマフィアも、カラカウアに強烈に酒を強いてる訳ではない。
むしろ上級の酒を出し、飲み過ぎてると見ると「程々に」と注意をする。
自分たちがいがみ合わない為の神輿、揉めた場合に顔さえ出せば相手もひとまず納得する、そういう象徴としてのトップだが、倒れられても困るから彼等なりに大事に扱っているのだ。
似たような話をする。
鎌倉時代の鎌倉殿と執権だが、寺社での祭祀、式典出席や冠婚葬祭等の主賓として扱われている筈なのに、在任中はよく病気になり、時には若くして亡くなる。
ところが嫡子等に職を譲り、出家して隠居となると、途端に健康を回復する。
同じように酒を飲み、遊んでいるように見えるが、現職の時と大殿になってからでは違いがあるようだ。
カラカウアは今迄、楽しい酒しか飲んで来なかった。
酒を飲むのが仕事になる、そんな酒は思いの外彼に合わないようだった。
3年の予定でラハイナに居る予定が、前倒しして離れる事になる。
アメリカに転地療養に行く事が本決まりとなった。
スティーブンス大使は殊の外親切に王に接し、転地療養の手配をする。
……下心は見せることはない。
ホノルルのイオラニ宮殿に戻ったカラカウアは、ここなら快復するのでは?と期待した。
だが内臓を痛めている為か、酒を断とうがストレスから解放されようが、一向に良くなる気配が無い。
カラカウアはやがて死を覚悟した。
死を覚悟した以上、どうしてもやらねばならぬ事があった。
彼はバーニス・ビショップ元臨時首相を招待した。
バーニス・ビショップは、妻のパウアヒ王女(カメハメハ大王直系最後の1人)を失った後は、ホノルル商工会議所の頭取をする一方、ハワイ文化を残すべく博物館を建設していた。
1887年の内戦後の後始末で、一時的に政界に返り咲いたが、ひと段落したら辞任して元の商工会議所に戻った。
今回カラカウアが招いたのは、政治関係でも商工会議所関係でも無い。
ビショップのポリネシア文化を愛する事を見込んでのものだった。
「ビショップ君、これを見てくれないか?」
渡されたのは60ページ程の小冊子であった。
読み進めていき、ビショップは驚いた。
「これは、創世神話!
初めて見るものですが、一体これは何ですか?」
「王家にのみ伝わるハワイの秘伝、クムリポと言う。
私は仕事の合間に、これを書き留めていたのだ」
「書き留める?」
「君は知っているだろ?
我々ポリネシアの民には文字が無い。
歴史は全て歌唱や舞踊で伝えられて来た。
このクムリポも、私の曾祖母の時に纏められたものと聞く。
口伝であった為、王家以外の誰も知らない。
私はこれを公表したいと思う、ハワイ人の為に」
「ハワイ人の為に……」
「我々ハワイ人はカメハメハ2世の時にキリスト教に改宗した。
その事自体は後悔していない。
しかし、宣教師たちはフラを禁じた。
フラの中には民族の歴史を伝えるものもあったのだ。
知っていたか知らなかったのか、今では定かではないが、宣教師たちは『猥褻な踊りである』としてフラを禁じる事で、我々を歴史を知らぬ民とする事に成功したのだ」
「成る程、それでハワイ人に歴史を戻そうというのですか。
神に取り上げられた火を再び人類に取り戻したプロメテウスのように」
「えーーーー、それ何?」
「あ、知りませんでしたか、これは失礼しました」
ビショップの頭には、神の怒りに触れて大鷲に肝臓を食われる苦しみを与えられたプロメテウスと、酒によるものだが肝臓を傷めたカラカウアが何となく重なっていた。
クムリポはこのような内容である。
【暗闇と光が出会い、海と陸地が分かれ、海と陸に様々な植物や動物そして神が生まれた】
【父なる天は「ワケア」、母なる地は「ハウメア」と呼ばれた】
【ワケアとハウメアが契りを交わし、ハワイ島、続いてマウイ島とカホオラヴェ島が生まれた】
【ワケアとハウメアの間にホオ・ホクラカニという娘が出来たが、ワケアは娘に恋をした】
【ホオ・ホクラカニと父との最初の子は死産であり、その死体を土に埋めたらタロイモが生まれた】
【ホオ・ホクラカニと父との第二の子は、無事誕生して成長しハワイ人の祖先となった】
【ハウメアはタヒチ島で体を休めていた】
【ワケアは浮気し、カウラという女性にラナイ島を、ヒナという女性にモロカイ島を生ませた】
【ハウメアはそれを知り、自分も浮気をしてオアフ島を生んだ】
【その後ワケアとハウメアは仲直りし、カウアイ島、ニイハウ島、カウラ島とニホア島を生んだ】
ビショップは読みながら
(どの神話も始めは闇から光が生まれるのか)
と共通点を見つけた。
聖書の創世記でも
【神は「光あれ」と言われた。すると光があった】
とするまで、世界は闇で混沌としていた。
ビショップは王の手を取り、この「クムリポ」の公開に協力する事を誓った。
カラカウアは言う。
「今まで口伝だったのは、文字を持たないせいでもあったが、同時に音だけで伝えて勝手な解釈を許さぬ為でもあった。
こうして出版し、略文を公開する事は、一部の神職を怒らせる事になるかもしれない。
危険が伴うが、やってくれるか?」
「もちろんです、陛下。
私は白人でキリスト教徒ですが、ポリネシアの文化をこよなく愛しているのです。
こうしてハワイの伝承を広く知らしめる事に協力出来るとは、亡き妻もきっと喜ぶでしょう」
そして創世神話「クムリポ」は公開され、ハワイ人は宇宙創世から人類誕生、3王国誕生による長い戦国時代、カメハメハ大王の統一に至る歴史を知る。
白人が「西洋かぶれの王」から託された秘伝を広めた事に、ハワイの神官たちによる反発があるかと思われたが、それは無かった。
代わりにビショップはキリスト教宣教師たちから非難の嵐に晒される。
全くもって認められない異教の神話、神を冒涜する「神々による淫らな行為」、人の兄はタロイモだとか、世界で最初に生まれたのはサンゴだとか、キリスト教からしたら聞くに堪えない。
ビショップは
「では複数の女神どころか、少年にまで手を出したローマ神話の大神を抹殺して来てから貴方たちの意見に耳を貸しましょう。
ローマ神話は不問で、ハワイ神話は淫らだとか、恣意的な批判にしか思えませんな」
とかわす。
面白い事に、今まで余り馴染みの無かった日本人たちが、話を聞きにやって来るようになった。
「ワケアとハウメアとは、まるで伊邪那岐と伊邪那美のようですな!」
「いや、私はイザナギとか何とかは知らないのだが……」
「日本の『古事記』や『日本書紀』にも同様の国造りの物語があるのです。
ハワイも似た話があり、一層この国に親しみが持てましたわい」
「ほほお、ところでお国の神話では、始まりの話はどうなっていますかな?」
武士の多少学がある者は、国学は学んでいる。
天地開闢の一節を一介の侍はビショップに語った。
【古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりし時……】
天地が別れて神が生まれ、やがて最後に生まれた2柱の神により海に島が造られる。
ビショップは見た目は貧しい、階級も高くない一介の武士が、滔々と己の国の神話を話すのを聞いて驚き、
(教育とはこうあるべきなのだ。
自分たちの歴史も文化も知らない事程可哀そうな事はない。
私はキリスト教に押しつぶされそうなポリネシアの文化を守り続けていこう)
と決意を新たにした。
「全く、国王は最後にとんでもない事をしてくれた」
スティーブンス大使に対し、ハワイアン・リーグに加盟していて今は解放された宣教師たちが愚痴を零していた。
国民が自分たちのルーツに誇りを持ち、自分たちの神を持ち出してしまっては困るのだ。
現地の神というのは悪魔の使いであり、自分たちの境遇を厭い、唯一神の教えを有り難く受け入れて貰わねばならぬ。
「そうは言っても、ハワイ人たちもキリスト教から改宗したいとは言っていないのでしょう?」
「そうですが……」
「ならば気にしない方がよろしいのでは?
多少現地の宗教も残っているようですが、ハワイ人の多くはキリスト教徒、我々の兄弟です。
カラカウア王も、王家の神話を公開したとは言え、相変わらずキリスト教徒ではありませんか。
間もなくアメリカに出発される王の健康をお祈りしましょうよ」
「ふん、大使閣下は呑気でいらっしゃる。
我々の使命はこの国の教化なのです。
貴方は政治の事だけしていれば良いから、我々の焦燥は分からないのです」
(まったくもって愚かな連中だ)
スティーブンスは毒づく。
(この「国」の教化?
ここはしばらくしたら「国」では無くなるのだ。
今何をしようが、それは抗えぬ流れなのだ)
それを知らずに愚痴を零しに来る宣教師たちを、時に同情し、時に諫めながら、この腹に一物有る大使は時をひたすら待っているのだ。
真珠湾にアメリカの防護巡洋艦「チャールストン」が入港する。
新海軍構想に基づく新型艦を
(我々はこの軍事力をこそ待っていたのだ!)
と喜びの目でスティーブンスは見つめていた。
だが今はその軍事力を行使する段ではない。
「チャールストン」はカラカウア王を乗せて、サンフランシスコに向けて出港した。
これがカラカウアとハワイ王国との別れとなる事を、ごく僅かな者だけが気づいていた。
この章と次の章で、色々と世代交代及び組織の変革をしていきます。
1890年でまず一区切りにしました。
1891年は結構色々起こる年ですので、1章丸々使うでしょう。
黒駒勝蔵他マウイ島暗黒街の話は、次章の後書きでしたいと思います。




