箱館戦争に変事あり
明治二年(1869年)5月11日箱館。
早暁から聞こえていた戦争の音が突如止んだ。
この日の早暁、蝦夷共和国軍の守る四陵郭が新政府軍の奇襲によって落ちた。
そのまま午前11時頃には箱館市街が制圧され、弁天台場(砲台)は孤立した。
ここを守る新撰組を救うべく、蝦夷共和国奉行並土方歳三が出撃した。
彼が一本木関門に差し掛かった時、銃声が突如
・
・
・
止んだ。
(こいつは一体どうしたことだ?)
土方は戦場の凪ぎに違和感を覚えた。
一本木関門でしばし待っていると、白旗を持った新政府軍兵士が現れた。
軍使であることは分かった。
だが、最早勝敗も決し、蝦夷共和国も崩壊近しと言うのに、何の使者か?
「止まれ!」
土方は軍使を止め、用を聞いた。
「総大将の榎本殿に勅が下された。和議の勅である」
(和議だと?)
土方にはおかしな事だった。
かつて新政府を主催する長州人を切って切って切りまくり、血に染まった新撰組の彼が新政府などに従う等有り得ない。
彼はこの戦いで死ぬ気であった。
だが、この使者は「勅」という帝の命令を口にし、榎本武揚総裁にそれを届けるという。
彼の一存で切り捨てる事も出来なかった。
「で、どうだったい? 榎本さん」
新政府軍が箱館市街や四陵郭からも撤退し、箱館湾内の艦隊も引き揚げたのを見届けて、土方歳三と大鳥圭介が五稜郭に帰還した。
そして軍使の事を総裁に尋ねた。
「『停戦したら命を助ける。武士としての礼を以て遇する。勅ゆえ、直ちに従うこと』だそうだよ」
蝦夷共和国総裁榎本武揚は、幹部たちを前に、軍使の伝えた事を披露した。
「へえー……、要は降伏しろ、武士としての礼で、切腹で許してやるよって事だろうな」
「そんなとこだろうな」
「うむ」
周囲もそのように見ていた。
「で、榎本さんはどう答えたんだい?」
一同の注目が集まる中、榎本武揚は答えた。
「帝の好意には感謝するが、この上は戦い抜いて死ぬ覚悟である。そう言って僕の持ってる『万国公法』の本を渡したよ。僕の死後、役立ててくれってね」
「流石は榎本さん、そうでなくては!」
一部残念そうな表情もあったが、大方は榎本の返事を是とした。
彼等はこの五稜郭で死ぬ気なのであった。
この日、軍使は夜までに3度訪れた。
何度も「和議に応じて欲しい」というもので、次第に低姿勢になっていくのが分かった。
だが榎本は会おうともせず、代理で蝦夷共和国副総裁の松平太郎が、拒絶の旨を伝えた。
(なんか腑に落ちねえ)
土方は、新政府軍が全面撤退した後を追い、奪われた地点を再奪取しながらそう感じていた。
このまま戦っていたら新政府軍は確実に勝った。
蝦夷共和国は頼みの軍艦「開陽」を失い、代わりに新政府軍は装甲艦「甲鉄」を得た。
彼我の海軍力は逆転し、制海権を失った。
一発逆転の「甲鉄」鹵獲を試みた宮古湾海戦も失敗し、蝦夷共和国海軍はさらに弱体化した。
新政府軍の上陸を防ぐ術を失った以上、五稜郭に逃げのびた旧幕府軍では陸戦に勝てず、事実追い込まれて敗北寸前だった。
それなのに、奴らは退いていった。
「なにかこう……、手水で尻を洗わんまま、褌を締めたような、おかしな気にならんか?」
訳分からん例えで、大鳥圭介が土方に問う。
「そんな臭え感覚はねえが、おかしいって感じはするぜ、大鳥さん」
西洋兵術を学び、旧幕府軍では伝習隊を率いた陸軍奉行大鳥圭介と、歴戦の土方歳三は違和感を感じまくっていた。
そんな彼等の違和感を払拭する4度目の使者が、5月22日に箱館湾に現れた。
「よお、久しぶりじゃねえか。あーあ、おいらの海軍をこんなボロボロにしちまいやがって……」
べらんめえ調で、旧幕府陸軍取扱を勤め、江戸城無血開城交渉をした勝安房守が五稜郭に現れた。
「逆臣、勝め、切るべし!!」
そんな声の中、平然と勝は榎本の元へ行った。
「勝先生ですかい。お久しぶりです。で、なんですかい? 今度はあんたが使者ってわけですかい?」
土方が絡む。
「そんなとこだよ」
「で、和議がなったら俺たちをどっかに追い払おうってんですかね。
あんたが甲府に俺たち新撰組を追い払った時のように」
「土方君、あんた勘がいいな。でも甲府じゃねえよ」
「どこです? 島流しにしようってことですかい?」
「島は島でも、ハワイって島だよ。土方君、あんた知ってるかい?」
周囲はポカンとなった。
ハワイ?
どこだそこは?
「よお、一別以来だな榎本」
「勝先生、使者ご苦労様です。今、お茶を淹れます」
「おう、忝え」
旧幕府の海軍将校同士、挨拶をかわす。
「折角のお出向きですが、我々の意思は変わりませんよ」
「変えて貰わねえと、幕臣一同困るから俺らが使者として来たんだよ」
「一応伺いましょう」
榎本は紅茶を飲みながら、勝の口上を聞いた。
「和議に応じたら、上様の謹慎が解かれるだけでなく、会津中将やその他、罪を着せられた者を赦免するって言って来ている」
上様とは、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜のことであった。
幕臣としては断り切れない話である。
榎本は紅茶が喉を通らなくなったのを感じたが、それでも答えた。
「勝さん、思い違いをして貰っちゃ困りますねえ。
ここは江戸のお城じゃないです。ご公儀は政権を返上なされた。
その上で、ここは蝦夷共和国であり、俺は選挙で当選した総裁なんですぜ」
「凄えよな。俺らがアメリカで見て来たものを、この日本で実現させやがった」
勝の方は普通に紅茶を飲んでいる。
「確かに将軍家の話をしたのは俺らたち幕臣の都合だ。
じゃあ今度はお前ら蝦夷共和国の話をしようか。
和議に応じ、蝦夷地を明け渡す事と引き換えに、一切の処罰無し、生き残った軍艦も勝手たるべし、武器を持って退去されよ、との事だ」
「そして、あんたがさっき土方君に言っていた、ハワイに行けって事ですかい?」
「そうだ」
………
榎本はしばらく考え込んでから、
「勝さん。俺だけじゃ判断出来ねえ。
他の連中も呼んでいいか?」
そう聞くと、勝は応、連れて来な、と返した。
幹部や兵士たちも条件を聞き、そして「ハワイ」に「????」という表情になった。
「勝先生よ、一番腑に落ちないのは、なんで俺たちを生かしたまま、名指しでハワイなんて島に送ろうとする事だ。
薩長の芋どもからしたら、そんな島に送るより、あの世に送ってやりたいって思ってんじゃねえのか?」
新政府から最も恨みを買っているであろう土方歳三が尋ねる。
「ああ、俺らの探ったとこじゃ、特に長州者は納得がいってねえようだったぜ」
「その方が理解出来る」
「この使者は『勅』だぜ。要は天子サマが和議と島流しをご所望ってわけだ」
「天子さまだって??」
「ああ、詳しくは聞いていないが、新たな天子サマが戦を停止せよ、幕臣たちを生かして新たな攘夷をして貰え、と言っているようなんだ」
「分からねえな」
「天子サマの周りでな、三条や岩倉といった者の他、多くの公家が急な病に倒れたそうだ。
それだけじゃなく、薩摩の島津公、長州の毛利公、土佐の山内公、松代の真田公も相次いで病の床に伏した。
どうも祟りであるって事らしい」
「馬鹿馬鹿しい」
これは土方の言。
「論理的ではありませんな」
これは医学も修めた大鳥圭介の言だった。
「天子サマがこればかりはお譲りにならねえ。
新政府の中でも、大村益次郎、ああ大鳥さんの知り合いだったよな、あいつは納得がいかんとカッカと怒っていたぜ。
だが、西郷吉之助が『島流し同然なら良かごわはんか? 俺いも島には二度流されたが、きつかごわした』と言い、西郷がそう言うならって事で、薩摩兵は戦を中止したようだ」
「薩摩が戦わんと新政府軍は兵力不足だ。だから、戦が止んでいるんだな」
一同は状況に納得した。
納得したが、ハワイ島という訳の分からない場所に送り込まれるのは納得できない。
やはりここで討ち死にしよう、そう思っていた。
「それでな、これは俺らからの、この勝安房からの提案だけど、聞いちゃくれねえか?」
一同は聞き入った。
「戦って死ぬにせよ、天子サマのお望みに従うにせよ、蝦夷共和国ってのは多数決で決めるって事なんだろ?
だから、ふた月の停戦に応じるって事にしてくれねえか?
その間に多数決で方針を決めるって事にする。
そんで、誰でもいいんだが納得出来る奴を選んで、一度天子サマから話を聞いちゃくれねえか?
俺らが頼まれたのは、和議をまとめる事だけど、まとまらない時は帝が直接話したいから、誰かを連れて来てくれってことだった」
周囲がざわつく。
「そう言って人質にするって魂胆だろ」
誰かがそう言うと勝はすぐに答えた。
「そうだな。だから新政府の方も人質を置くって言ってた。
そいつが到着したら、さっきの事に応じちゃくれねえか」
「誰が人質として来るって言うんだ?」
「西郷吉之助、だそうだ」
あまりの事に蝦夷共和国は揺れた。
そして回答を一日待って貰い、緊急の入れ札で方針を決めた。
「勝さん、本当に西郷が来たなら、この榎本と永井玄蕃殿が赴こう。
それで良いか?」
「十分だよ、ありがとな」
こうして明治新政府と蝦夷共和国の間に停戦が成立した。
誤字報告にありましたので、追記。
五稜郭の他に四稜郭ってのもありますので。
五稜郭に比べれば小さい上に、未完成で使用されましたが、外部堡塁としてありますので。