レッスン#Final! 〜いよいよライブ前日〜
……イントロ、スタート。
曲が始まるとともに、いきなり降り注ぐシンセサイザーのシャワー。その煌びやかな熱気の中、私だけが一人きりで取り残されているみたいに思えた。その場を満たす美しく透き通った旋律が、却って私を孤立したまま包み込み、ガラス瓶の中に封じ込めるみたいに、その心の暗がりを世界に透かして見せているみたいだった。みんなと一緒にステップを踏んでいても、私だけはみんなの中に混ざれていないような気がした。
キック、ステップ、スライド、ターン。
全く異なる振り付けが次々とやってくる。私はそれらを坦々とこなしていく。だけど、どんなに身を舞わせても、どんなに足を踏み込んでも、決してみんなに追いつけないような、そんな気がしていた。
Aメロ。
複雑に絡みつくドリルのようなベースラインに合わせて、両腕、両脚を右へ左へ出したり引っ込めたりする。みんなで動きをぴったりと合わせなければならないパート。ずっと練習してきただけあってタイミングはバッチリ合った。だけどそんなことに何の意味があるんだろう? どんな時間よりも長く、どんな距離よりも遠い何かが私たちの間をすっぱりと隔てているような気がしていたのに。
Bメロ。
これまでとは打って変わって、一人一人が別々の動きをする。動作を1テンポずつずらしていき、最後には一周まわって再びみんなの動きが重なる。でもそれはきっと、それだけなんだ。私たちが重ね合わせることができるのは、そんな目に見える表層的なジャスチャーだけに過ぎないんだ。
間奏。
アンビエントなシンセのコード進行の中、最後のCメロに向けて気分を次第に盛り上げるように、コマ送りの映写機が次第にその回転速度を速めていくみたいに、キラキラした16ビートがフェードインして響いてくる。その音の洪水が最高潮に達するまさにその瞬間、光の乱舞の中に隠されていた宝珠をぱっと掴み取るような明敏さで、
「いくよっ!」
椎香が、クラッシュシンバルを打ち鳴らすように鋭い叫びを投げつける。それを合図に、
「ワン!」「ツー!」「……スリー」
妙有も私も、手を差し出して椎香と手を組み合わせる。その上に絵奈が立ち上がると、私たちは彼女の体をぱっと宙に放り上げ、絵奈は一気にジャンプ。軽やかに空を舞う絵奈の姿を、椎香も、妙有も、きらきらした視線で追いかけていたが、私だけはその影に身を潜めて、じっと下を向いていた。燦々と照る初夏の苛烈な太陽は隠されていたとしても、きっとそれよりも強く明瞭な残像を私のまぶたの裏に残すであろう絵奈の姿を、怖くて直視することができなかったからだ。
✳
さあ、いよいよ明日はライブ本番!
今日は直前の最終レッスン、振り付け一つ一つの確認にも自然と熱が入る。
「ほら、ここの動き、後退しながら腕をぐるっと回転するところ、タイミング遅れないように注意してね!」
「は、はい! 不退転の覚悟で頑張りますよ!」
「えー、その言葉のチョイスさー、なんか、だめそうな気がするけどー?」
「そ、そんなこと、ないですっ!」
「「「あははっ!」」」
3人ともすごく真剣に、それでいてめちゃめちゃ楽しそうに、全力で練習に打ち込んでいた。その光景を、私は、幕で隔てられた舞台袖からそっと覗き見るように、少し心の距離を置いて眺めていた。
憂鬱。
私は、どうも、憂鬱だった。
「――ほらほらっ! 見てください、私、ちゃんとできてますよねっ?」
……やっぱり、私は憂鬱だった。
なぜかはわからないが、私はここしばらくの間、ずっとこんな風に浮かない気分を一人きりで抱えていた。飯田さんとみんなの息がぴったり合ってきて、彼女のジャンプがその完成度をどんどん増していくほどに、みんなは自信と喜びに満ち満ちた笑顔を絶やさないようになっていったのだが、それと逆行するように、私の心はなぜかどんよりと沈み込んでいくのだった。
飯田さんがいけないんだ。
彼女の頑張る姿が、彼女の笑顔が、あまりに眩しすぎるから、太陽のそばを通る人工衛星のように、私の気持ちも、その眩い光の束に飲み込まれて、小さくしぼんでしまうんだ。
そんな私の気持ちなんか知らずに、勝手に梅雨明けしてしまった夏空が、不健康に色白な私の肌をその強烈な紫外線でじりじりと焦がし始めていた。暑い。鬱陶しい。いらいらする。私は薄暗い梅雨の曇り空を恋しくさえ思った。あの空全体を薄く覆っていた雨雲たちは、一体どこへ行ってしまったのだろう? 勝手にやってきて、我が物顔でのさばっているこの夏空は、私を優しく包み込んでくれていたあの雲たちを、一体どこへ運び去ってしまったのだろう? 私は、眩しい陽の光に目を眇めながら、その、穢れも知らずに私を苦しめる空を睨みつけた。鮮やかな青で塗りつぶしたような夏空のそこここに、シカゴのマリーナシティ・タワービルのような積乱雲がもくもくとそびえ立っているのが見える。そうか、こんなところに押し込んでいたんだな。地面にその根を下ろして、飛び立てずにそこに佇んでいるようなタワー状の雲は、きっと夏空に居場所を奪われ、追い立てられた梅雨の雨雲の成れの果てなんだ。夏の空がその本来の眩しい青さを取り戻すために、ただ一人犠牲となり、全ての雨粒を、すべての憂鬱を一身に背負い込まされ、地面に繋ぎとめられて動けなくなっているんだ。大きな体を重たそうに携えて、周囲の青空に溶け込むこともできずに、何も言わずにじっと耐えているようなその姿は、なんだかやけに辛そうで、やけに寂しそうに見えた。
なんか、今の私みたいだった。
「ちょっと、依緒、大丈夫?」
飯田さん以上に、普段からキラキラ輝いている太陽のような少女、楠田さんが心配そうに話しかけてきた。
「さっきから、ずっとぼーっとしてるよ? 最近なんか元気ないみたいだけど、何かあったの?」
何でもないよ。っていうか、正確には、何があったのか、そもそも何かがあったのかどうか、私自身にもよくわからないんだよ。
「あ、わかった! さては期末テストの結果が悪かったんでしょ? 依緒、もしかして赤点なんて取っちゃったんじゃないの?」
――失礼な。私の、引きこもりの持つ能力を見くびらないでもらいたい。普段、クラス内でも目立たず引き立たず、悲喜こもごもなみんなの様子に惹き込まれもせずに、ずっとヒキガエルのように引っ込んでいる引きこもりが、その引き出しにしまい込んでいる潜在能力の引き金を引いて見せたら、その凄さに、きっと引くぞ。
「とーぜん、大丈夫だったよ。物理の55点がちょっとやばかったけどね。椎香こそ、どうだったのよ?」
楠田さんは、ふふん、と鼻を鳴らしてかわいらしくドヤ顔って見せた。
「全教科90点以上だったよ! イェイ!」
す、すご……。
「ほらー、あたしの言った通りでしょー? 椎香、すごい成績いいんだって」
わっ、て、庭下さん、いたの?
「あたしもさー、赤点は免れたよー? 数学はちょっとやばかったけどね。なんか2年になって、急に難しくなったよねー?」
「た、妙有って、同じ2年だったんだ……。そういえば今まで、よく知らなかったよ」
「えー、何それ!? ちょっと依緒、ひどくなーい!?」
庭下さんはプンプン怒っている。ごめん、庭下さん。
「でも、依緒ちゃんもすごいですよねー。英語なんてクラスで一番だって、先生に褒められてたじゃないですかー」
「えっ?」
私は、飯田さんに突然「依緒ちゃん」と、下の名前で呼ばれて、面食らってしまった。一体いつからこんな風に私を呼ぶようになったんだろう、この子は?
「ちょ、ちょっと、絵奈、勝手に人のこと、下の名前で呼ばないでよ。馴れ馴れしいよ?」
「ごっ、ごめんなさいっ! 私、つい、依緒ちゃんのこと、下の名前で呼んじゃって……。本当にごめんなさい、依緒ちゃん」
「謝罪の言葉とその後の対応がちぐはぐだよ? 絵奈?」
「まあまあ」
楠田さんが、なだめるように私の肩に手を置く。
「いいじゃない。どんな呼び方したって。それにだいたい、依緒だって、絵奈のこと下の名前で呼んでるよ?」
――えっ?
「そ、そんな……。私が、絵奈のこと下の名前で……?」
「ほら、呼んでる呼んでるー」
くすくすと笑いを漏らす椎香。
「い、いつの間に、私、みんなのこと下の名前で呼ぶようになっちゃってたの……?」
「わ、私は、全然下の名前で呼んでもらっていいですからね? 依緒ちゃん?」
「だからー。絵奈の方こそ私のこと下の名前で呼んでるじゃない!」
「あはは。なんかさー、みんな面白いねー」
わっ、た、妙有、いたの?
「つうかさー、下の名前で呼ばれたくらいで、顔真っ赤にして恥ずかしがってる依緒も、まじぐうきゃわだよー?」
「もう、妙有も椎香も、いい加減にしてよ!」
「あー、照れてる照れてるー!」
「て、照れてなんかないもんっ! ただ、みんなに急に下の名前で呼ばれて、気恥ずかしくって、でもちょっと嬉しくって、そんなふうにドギマギしてる自分の気持ちを感付かれないように、必死に体裁を取り繕っているだけなんだからねっ!」
「えー、そういうのを、照れてる、っていうんじゃないの?」
「わー。照れる、の、世界一わかりやすい定義ですねー」
「へへへー、墓穴掘ってやんのー! 依緒ってさー、そういうとこまじカワイイよねー!」
「もー! なによ、人のことからかって! こうしてやるー!」
私は、妙有の黒髪ストレートの髪の毛を、両手でわしゃわしゃしてやった。
「きゃー、こ・ろ・さ・れ・るー!」
「あっはは、今度は怒り出したよ? ほんと忙しい子だなー、依緒はー!」
「いいなー、私の髪も、くしゃくしゃにしてほしいですー……。きゃっ、なんか背徳感!」
「「「あはははっ!」」」
みんなの笑顔が、夏空の下に弾けた。その中でも一番可愛いとびっきりの笑顔が、私の手の中で弄ばれているつややかな黒い髪の毛の下に咲いていた。その愛くるしい笑みに、透き通るような瞳に射抜かれて、私は思わず息を飲む。妙有って、こんなに可愛らしく笑う子だったっけ? ……っていうか、妙有ってそもそもどんな子だったっけ……? よく思い出せなかったが、その笑顔はまるで、椎香のまっすぐ未来を見据える自信に溢れた笑顔と、絵奈の幼げで守ってあげたくなるような笑顔を掛け合わせたみたいだった。そのあまりのかわいらしさに、愛おしさに、私は妙有の笑顔から目が離せなくなってしまった。しだいに、私の指と指の間を縫うように絡みついている彼女の髪の毛のように、私の目の前の世界もぐにゃぐにゃに曲がって見えてきた。いつまでももくもくと私の心を覆っていた灰色の雲は、彼女の瞳の青さに追い立てられるようにちぎれていき、その空は、私の心の中は、彼女の瞳の色と同じ青色に染まって、どんどん彼女と一体化していくような気がした。
「ねーねー、依緒と妙有、さっきからじっと見つめ合ったまま動かないんだけど……ひょっとして、ひょっとして……きゃー! そういうことー!?」
「いやー! ダメです依緒ちゃん、それはいけませーん!」
「えー? いーじゃんかいーじゃんかー。えへへー。依緒ー、このままずっと見つめ合ったまま、あたしと一緒にどこまでも堕ちていっちゃおうよー!」
「やだー、なんかエローい!」
「えへへ、妙有ちゃんも依緒ちゃんも、へんたーい!」
みんな好き勝手なことを言って私をからかってくる。3人で私を取り囲み、おしくらまんじゅうのように体をぎゅうぎゅう寄せ合って、きゃっきゃとはしゃいでいる。私は、みんなの笑顔にぐるりと取り囲まれて、その微笑みが伝播するように、自分の口元が勝手にヒクヒクしてくるのを感じていた。
「も、もう、みんな、いい加減にしてよ!」
私は、恥ずかしさのあまり頬を真っ赤に火照らせて、大声で叫んでしまった。
「みんなのことなんか大っ嫌い! みんな、みんな、意地悪で、からかい屋で、人のこと見てへらへら笑ってさ、私もみんなのこと見て笑いたくなっちゃって、笑った顔が可愛くって、まぶしくって、愛おしくって……一緒にいたくて、一緒にいたら楽しくって、一緒にいないと寂しくって……みんなのことなんか、みんなのことなんか……ううう、大好きだーー!」
私は泣き笑いのような叫び声をあげて、みんなにぎゅっと抱きついた。私の突然の行動にびっくりしたみんなは、それでも次の瞬間には、もっと強い力で私のことを抱き返してきた。燦々と照る日差しをその頭で受けとめて、4人で身動きも取れないほどに強く抱きしめ合っていると、自分が大木の幹の一部になったような気がしてくる。夏の暑さは私たち一人一人の輪郭線までをもドロドロに溶かしてしまい、肌を伝う汗がそれをすっかり洗い流してしまったみたいだった。みんなの心は夏空と同じ青色に染まって、同じ色のクレヨンで塗りつぶしたぬり絵のように、それぞれのシルエットは見えなくなってしまい、みんなで一つになっていくみたいだった。
みんなのことが、大好きだっ!
――私は、この夏、最高の宝物を見つけた。
7月の午後の強烈な日差しは、少し遠くに臨む海と、内陸との間に大きな気温差を生み、この校内にまで海風をそよそよと吹き込ませていた。抜けるような青空のもと、汗に濡れたTシャツの中を泳ぐ、ほのかに潮の香りのするそよ風に体をくすぐられていると、まるで大海原を航海する船の甲板の上にいるような気分になってくる。そうだ。私たちは宝物を探して世界中の海を旅する海賊なんだ。しかし、その宝のありかは、どの海図にもどの古文書にも載っていない。それは探さなくたって、目の前にあったんだ。そう、みんなのこの笑顔が、私たちの友情こそが、最高の宝物だったんだ。
ははははははは…………!
…………………………………………………………。
……って、なんじゃそりゃーーーーい!?
……な、なんだ、この、頭の悪い昔のリア充どもが、ガラケーで読んでいそうな糞小説みたいなうすら寒ーい展開は?
……なんだ、この最大公約数的な、どころか、素因数分解した数字の冗長な羅列を、ミルクとガムシロップでドロドロに薄めたような、当たり障りのない、ぬるーい心情描写は?
この、大人もハマる! みたいな安易なキャッチコピーでマーケティングされちゃう凡百な少年マンガの主人公の、歯の浮くような臭ーいセリフと、小学生たちが嫌々読まされて、紋切り型の定型文のコングロマリット(別名、ドクショカンソウブン)を嫌々書かされる夏休み推薦図書の、思わず背筋を正して音読したくなっちゃうようなペダゴギックな文章と、夢だの愛だの友情だのしか歌われない、なぜかメロだけラップ調のJ-POPの、大人になれなかった大人たち(大人になれなさすぎて、たまに反社会的な行動してワイドショーを騒がせてしまったりする)みたいな知性のかけらもない歌詞とを足して3で割ったような、身体中がむず痒くなるような、痛々しくて恥ずかしい文章はなんなんだ!? 相沢依緒よ!? お前は一体どうしてしまったんだ!?
私はハッと我に返った。笑ゥせぇるすまんの黒い人(モグ……なんとかさん? 名前忘れた)にドーン! ってされたみたいにガーン! ってなって、ウワーッ! ってなっちゃって、自分がどれだけリア充みたいな、馬鹿みたいな考えに頭を支配されていたのか、ってことに気づいて愕然とした。えっ? 今の表現も充分馬鹿みたいだって? うるさいな。とにかく、こんなこと考えちゃうなんて、明らかに私らしくないのだ。ユウジョウ、大事。キズナ、大事。以上、終了! みたいな、みんなとつるむために自ら思考することを放棄してしまったアホなリア充どもの口にしそうなことは、私の最も軽蔑するところなのだ。
私は、スキップしながら家路を急いでいたら、その足で毛虫を踏んづけてしまった時のように、一気にぞわああぁって身の毛がよだって、急いでみんなから自分の体を引き剥がした。
「あっれー? 急に冷めちゃって、どーしたのさー、依緒ー? もっともっと、あたしとハグしよーよ♪」
秘密裏に結んでいた軍事同盟から勝手に離脱してしまった小国を責め立てるみたいに、不服そうに口を尖がらせた妙有が、メデューサのような強烈な眼差しをゆんゆんと私に向けてくる。
「べ、別になんでもないよっ」
私はそんな妙有の瞳に目を合わせないようにして答えた。なぜか、彼女の目を見てしまうと、彼女に好きなように操られてしまうような気がしたのだ。さっきだって、きっと、彼女のお花畑的なリア充思考が私の頭の中に侵入して、私にクソ寒い自分語りをさせたに違いない。
「そっ、それよりも練習! 練習しよっ! ほら、みんなっ!」
私は再び我を忘れてしまわないように、必死に話題をそらそうとした。
「うーん、でも今日はそろそろ終わりにしようと思うけど」
不本意にもやる気モードになってしまっていた私を尻目に、椎香は唐突に練習の終了を提案してきた。
「明日は本番だからね。あんまり体力を消耗しないように、もう今日は切り上げよっか」
そうか、ダンスだって体力がパフォーマンスに影響を及ぼすものだし、スポーツと同じように、体調管理も必要なんだな。
それにしても、人の意見も聞かずに、無理やり私をメンバーに引き込んだり、突然ジャンプを振り付けに取り入れたりしてくる椎香が、そんなふうに冷静に状況を判断できるなんてちょっと意外だった。何か、今日は早く帰らないといけない特別な事情でもあるんだろうか?
「あ、その前に、ちょっといいですかー?」
ちっちゃい方のショートボブ、お姉さんと並んで立っている時の広瀬すずをそのまんまふたまわりくらい小さくしたような絵奈が、ふと思いたったように手を挙げた。
「明日私たちが立つことになるステージを、一目見ておきたいなって、思うんです」
体育館の中は思ったよりもひんやりと涼しくて、埃っぽい空気にバッシュのゴム底が擦れて溶けこんだような、特有のカビ臭い匂いに満たされていた。
「あれ?」
その体育館のステージを見て、私はびっくりした。工事現場で見るような、鉄のパイプで組み上げられた足場が、ステージの上にいくつも林立していて、生徒たちが上がれないように、階段がテーブで封鎖されていたのだ。
「こ、これって、一体どういうこと……?」
「あ、そっちじゃないよ、こっち!」
椎香がステージの脇の壁を指差した。いかにも急ごしらえの、ベニヤ板の床と角材の足がむき出しになっている舞台がそこに建っていた。
「本当のステージは、夏休みの間に照明器具の交換工事が行われるんだって。だから今からもう使用禁止になってて、代わりにあの仮設ステージを使うんだよ」
そうだったのかー。私はケンミンショーのナレーターのようなやる気のなさで合点した。ソウダッタノカー。よく見てみると、その仮設ステージは当然のように本当のステージよりもずっと狭く、その高さも半分ほどしかなかった。この高さじゃあ、もしたくさんのお客さんが詰め掛けたら、後ろの方の人はほとんど見えなくなってしまうんじゃないだろうか?
「私も、最初はちょっと残念だな、って思ったんだけど、その分お客さんとの距離も縮まるわけだし、いいかなって。前向きに考えることにしたよ」
椎香はそう言って、工事中となっている本来のステージの方を振り返りもしない。その横顔は、大切なのは与えられた場所ではない、そこでどんな花を咲かせるかなのだ、と言外に示しているようだった。
「うん、すごい! すごいです!」
小柄な体を、うんしょ、と鉄棒の上に乗るように持ち上げて、その仮設ステージの上に登った絵奈が、興奮して大声をあげていた。
「ここから見ると、椎香ちゃんたちの姿が本当に間近に見えますよ! これならきっと、お客さんと一体になった、感動的なライブができますよ!」
そう言って、絵奈はベニヤ板のワックスも塗られていないザラザラした木肌を運動靴のソールで踏んで、そのわずかにしなる床の感触を確かめるように軽やかにステップを踏んではしゃいでいた。
こんなふうに気持ちを切り替えることが、私にはどうもできない。
子供の頃からそうだった。ある時、私がまだ幼かった頃、街頭で風船を配ってる人がいて、私はそれをもらおうと思ってその人のところへ駆け寄っていったのだが、何かにつまずいてすてーん、と転んでしまった。擦りむいた膝の痛みに泣くのをこらえている私を見て、その人はおまけして風船を2つくれたのだ。私はぱぁっと元気を取り戻して、その2つの風船を両手に持って、るんるん鼻歌を歌いながら家路についていた。でも、家に向かう最後の曲がり角のお宅を通りがかる時、そこで飼っていた大型犬が私を見て思いっきりわんわん吠え出した。ビックリして飛び上がった私は片方の手を離してしまい、その手に掴んでいた方の風船は私を置いて大空へと飛んで行ってしまった。私はそれをじっと見ていた。ずっとずっと、その風船の姿が小さな点になって、きらんと空に輝く星になるまで、ずっと、目に涙をいっぱいためて、見ていた。家に帰った私は、うえーん、と大泣きしていたそうだ。片方の手で風船を持ちながら、風船が飛んでいっちゃったのー! って言ってわんわん泣いていたその時の私のことは、今でも家族の間で、はじめてのおつかい的なほっこりエピソードとして語り草になっている。
しかし、大人になるにつれ、私にはこの話が、幼少期の私の無邪気さを示すものではなく、むしろ私の人間性の根幹に巣食う、構造的な欠陥を如実に象徴するもののように思えてきた。
私の中には、得たものよりも、失ったものの方が、より「存在して」いるのだ。
人生は出会いと別れの大河だ。毎日膨大な量のものと出会い、膨大な量のものと別れる、その繰り返しである。1日中ずっと、たくさんのものを目にし、絶えず外界を知覚して過ごしていながら、夜寝る前に思い出せることといえば片手で数えられるくらいだろう。私たちは日々大量のものを得て、そのほとんどをすぐさま捨て去って生きているのだ。もしその捨てるという行為が難なく行えなければ、私たちの頭の中は、ゴミ屋敷のように不必要な記憶で溢れかえって暴発し、収拾がつかなくなってしまうだろう。すべてを手に入れようと思うべきではないし、また手に入れるべきでもないのだ。川の急流の中に掲げられた篩が、流れくる大量の水を素通りさせながらごくわずかな砂金をすくい取るみたいに、生活の中で、自分にとって本当に大切なものだけを手元に残して、それを愛でればいい。そして、過ぎ去ってしまったもののことなんか、すべて忘れ去ってしまえばいいんだ。
ところが私には、失ったもののことを忘れて、今あるものを大切にするということが、できないのだ。飛んで行った風船のことが忘れられず、今持っている風船を大切にするということができない。落としてしまったソフトクリームのことを忘れられず、友達と遊園地にいる今を楽しむということができない。本当なら大きくて立派なステージの上でダンスを披露できたはずなのに、という思いが頭にこびりついて、小さな仮設ステージでも精一杯頑張ろうと思うことが、できないのだ。
みんなは、私一人を残して仮設ステージの上に登り、わいわい騒いでいた。小さなステージを、まるで新たに発見した自分たちだけの秘密基地であるかのように、その居心地の良さを確かめるようにしながら。もうその場所はすっかり彼女たちのお気に入りになってしまったようだ。失ってしまったもの、本来のステージのことを考えている子なんか、いなかった。
でも、みんなは本当にそれでいいと思っているのだろうか?
私たちが一番力を入れて練習してきたのは、絵奈の跳ぶジャンプだ。この大技を成功させて、観る人たちをあっと言わせよう、そう思ってこれまでみんなで頑張ってきたんだ。こんな低い位置からジャンプするとしたら、当然跳び上がる高さも低くなって、その迫力も失われてしまうんじゃないだろうか?
私は一人、立ち入り禁止の張り紙がされているステージの方を見やった。大きくて立派なステージ。ほんの数ヶ月前に練習を始めたばかりの私たちにとっては、悔しいけれども分不相応と思えるほどのステージ。だけどこの上で絵奈がジャンプするとしたら、どんなに素晴らしいことだろう。私は、その本来実現するはずだった光景について、思いを巡らせてみた。絵奈は高いステージの上から、さらに高く高く空中へと舞い上がり、それを見上げるような形となったお客さんたちは、その姿にハッと息を飲むだろう。スカートの下にハーパンを履いているとも知らない男子たちは、その姿に一瞬ドキッとすることだろう。みんなみんな、その光景に圧倒されるにちがいない。
気がつくと私は、みんなが窓から差し込む陽の光を受けて嬉しそうにはしゃいでいる仮設ステージにすっかり背を向けて、無機質に光る工事用の機材が乱雑に積み込まれた本来のステージの、その照明も付けられていない虚ろな暗闇をぽかんと見つめていた。ああ、まただ。また私は「今」をおろそかにしているぞ。なくしたもの、失ってしまったものが、私の心の中でその存在感の翼を大きく広げて、私を捉えて動けなくしてしまうんだ。本来実現するはずだったジャンプ。その光景の断片が、まるで未来の記憶を思い起こすように、次々に私の頭の中に浮かんでくる。……大きなステージの上、お客さんたちに見上げられる私たち。歓声とざわめき。柔らかな絵奈の足の裏の感触。音楽に合わせてタイミングを取るみんなの息。手の平に伝わる、シンクロしていくみんなの鼓動、みんなの呼吸、そして――衝撃。高く高く舞い上がる、絵奈の姿。驚いたお客さんの顔。絵奈の体ごしに、チカチカと木漏れ日のように差す黄色い照明の光。絵奈を抱きかかえた腕に伝わるその重み。絵奈の笑顔。万雷の喝采に震える空気。震える私たちのステージ。震える目の前の世界。……震える私の脚。足の裏に伝わるみんなの手の甲の感触。見下ろした視界に入ってくるみんなの頭の上のつむじの形。踏み切った瞬間にドクンを鼓動を打つ私の心臓。
……あれ?
空中で曖昧になる私の平衡感覚。逆転する天地。ふわりと浮かぶように落ちていく私の身体。背中に感じる、みんなの腕の力の心強さ。みんなに抱きかかえられる、私の身体。お客さんの歓声。腕の中に横たわる私の顔を覗き込むみんなの、満面の笑顔。椎香と妙有と、そして絵奈の、笑顔。
――絵奈ではなく、自分がジャンプを跳んでいる光景。それを私は思い出していた。
なぜだろう? なぜ私はこんなことを考えているのだろう? 本来あったはずのものについての、私の記憶。失ってしまったものの記憶。その中に、なぜこんなでたらめな光景が紛れ込んでいるのだろう……?
――ドクン!
その時、突然私の胸が痙攣したように痺れて、痛みの「もと」のようなものを外科手術で直接埋め込まれたように、激しく疼きだした。咄嗟のことで驚いた私は目を大きく見開いて、しばらくの間、息もできずにただ口をぱくぱくと動かしていた。
……な、何……? この痛みは、一体……?
その、前後の文脈を無視して突然現れたような不自然な痛みは、不自然な私の記憶と呼応しているようだった。失ったものについての奇妙な記憶が、私が「現在」を受け入れることを阻害しているのと同じように、その痛みは私が外界の空気を吸い込むことを妨げているのだ。
「――だ、大丈夫ですか、依緒ちゃん? どうしたんですか……?」
そう心配そうに私の名を呼ぶ絵奈の声を聞いて、私はハッと我に返った。仮設ステージの方を振り返ると、まぎれもない「現在」の、みんなの姿がそこにあった。
「ほら、依緒もそんなところにいないでこっちにおいでよ! 見晴らしいーよ、私たちのステージ!」
椎香にそう呼びかけられると、私は、もやもやした頭の中がすっと晴れていくのを感じた。みんなに手を引かれつつステージの上に登り、視界をみんなと共有する頃には、おかしな胸の痛みは嘘みたいに消えていた。こんな位置から覗かれることを想定していなかった体育館の床や壁は、その構図の左右対称性を失い、理解しがたい抽象画のように目に映った。それでも私には、みんなと同じ景色を見ている、その事実が嬉しかった。
「……依緒ちゃん、本当に大丈夫ですか? なんか、心ここに在らずって感じで、全然別のこと考えてるみたいでしたけど……?」
うん? そうだっけ? 私は何を考えていたのだ? ……思い出せない。まあ、いいや。どうせ大したことじゃないよ。
「――いよいよだね」
椎香が私の隣でぽつりとそう呟いた。彼女にしては珍しく、いつもの炸裂弾のような元気さは鳴りを潜め、感慨にふけるような、静かで落ち着いた声音だった。
「あ、もちろん、絶対ライブ成功させるんだからね! 依緒、気ぃ抜いたりしたら、許さないよ!」
いつもと違う彼女の様子を不思議そうに眺めていた私を、ごまかすかのように、椎香がいつも通りの溌剌とした大きな声で言う。
「依緒の姿を観るために、わざわざ来てくれる人、いるでしょ? その人にカッコ悪いところ見せられないもんね! だから、その人たちのためにも、精一杯、頑張んだよ!」
うーん、残念ながら、引きこもっている私にはそんな友達なんていないのだよ? それに、例え私に友達がいたとしても、ダンスしているところを見られちゃうなんて、そんな恥ずかしい! 絶対呼ばないもんね。嘘つきは泥棒の始まり、って言うけど、自分の姿を恥ずかしいと思っちゃう自信のなさは、引きこもりの始まりなのだ。つまり、私が友達を誘わないのは、引きこもりの結果であり、また原因でもあるのだ。卵と鶏が同時に誕生したのだ。ダーウィンもメンデルもドーキンスも、びっくりなのだ。
あ、でも、待てよ? 確か、あのバカ妹が観にくるとか言ってたな。あのバカ、この前珍しくデレてきたと思ったら、次の日からまたくっそむかつく態度に戻りやがった。「おねえちゃん、どうせ観に来てくれる友達なんかいないんでしょ? しょうがないなー、惨めで哀れなおねえちゃんのために、私が観に行ってあげるよー。本当は私だって忙しいんだけどねーw」とか言ってきやがった。本当に腹がたつ。だいたい、友達が一人も観に来ないのに家族が来るとか、どんな嫌がらせなのよ? ケータイの着歴がお母さんの番号で埋まってるのを見た時の絶望感に似たものがあるぞ。むしろ、来てくれない方が良かった。
「い、いいでしょ、私のことはどうだって。椎香こそ、誰か来てくれる人はいるの?」
「え、私?」
私が必死で話題を振ると、椎香はきょとんとした表情を浮かべている。その顔には、聞かれたくないことを尋ねられてしまった時のような焦りの色は微塵もない。どうせ友達だって沢山いて、彼女のことを見るために大勢で雪崩を打ってやってくるのだろう。あーあ、これだからリア充って嫌いだよ。どうせ心の中では、家族しか来てくれないとか、ないわーw とか思ってるんだろう。兄弟とか親とかしか来ないなんて、ないわーw って。
「お父さん」
「えっ?」
「お父さん。お父さんが観に来てくれるの!」
彼女が迷いもせずに真っ先に上げてきたその人は、私にとってはかなり意外な答えだった。しかも彼女は、まるで付き合い始めたばかりの恋人の、あるいは久々に再会する親友の名前を言うように、ニコニコと嬉しそうに微笑みながら言うのだった。お父さん? それが椎香が一番観に来て欲しい人なの? 意外な答えに虚を突かれてぽけっとしている私を尻目に、椎香は、話はそれで終わりとでも言わんばかりに、何も言わずに笑顔を浮かべてただ佇んでいる。まるで、お父さんただ一人に観てもらうためだけに、今まで一生懸命ダンスに取り組んできたと言っているみたいだった。
――そういえば、椎香がずっと学校を休んでいた理由。それは、病気だったお父さんの身の回りの世話をするためだった。そして、こうして学校に通い、毎日遅くまでダンスの練習に打ち込めているということは、そのお父さんの容体がどんどん良くなってきているということなのだろう。
やっと元気になってくれたお父さんに、自分の頑張っている姿、一番輝いている姿を見てもらいたい!
なるほど、そう思うのは父を想う娘として当然の感情だ。そこには何の不思議も意外性もないじゃないか。彼女にとっては、お父さんこそが一番大切な存在なんだ。そして彼女は、そのことを隠そうとも、恥ずかしいことだとも思っていない。私は愚かにも、一番に観に来て欲しい人に家族の名前を挙げるなんて負け組の行いだ! などと誤った命題をでっち上げ、リア充・非リア充の無意味な二元論の争いの中に彼女や私自身を勝手に巻き込もう企てるから、大切なことを見誤るのだ。彼女は、私の目の前で微笑むその少女は、相対的に決定されるリア充度のスペクトルの中に埋め込まれた点のような、空虚で実態のない存在では決してない。一人の、父親想いの娘として、確固としてこの世界に実在しているのだ。そうだ。家族を大切に思うこと。それは何も恥ずべきことではない。むしろ、人間として、清々しいまでに正しいことではないか。
「――あ、あのね、じ、実は私も、その……、い、妹が! 妹が見にきてくれ……」
「わー、椎香ちゃんのお父さん、もう元気になったんですかー?」
「うん! 明日のライブを観に来るの、楽しみにしてくれているの!」
「へー、よかったじゃんか椎香ー。なんか、そういうのって、家族愛だよねー。いいなー、感動的だなー」
「えへへ、ありがとう、妙有!」
「……あ、あのね、わ、私も! 私も、その、か、家族愛! かぞ……」
「えへん。実はですねー、私のお母さんも見に来てくれるんですよー。妙有ちゃんは?」
「あー、そーいえば、大学生のいとこが、合コン人集まんなかったら観に行ってやる、って言ってたけど、アイツどーせ久しぶりにJK間近で見たいだけだろうからなー」
「えー、それって照れ隠しなんじゃないですかー? 素敵ないとこさんじゃないですかー」
「……あ、あのね、わ、私の妹も、そ、そう、照れ隠し! いつも私のことディスってくるけど、それって全部てれか……」
「それじゃー、明日! みんな精一杯頑張ろう!」
「「おー!」」
「……お、おう……」