レッスン#4! 〜友達、だよね?〜
……イントロ、スタート。
曲が始まるとともに、いきなり襲いかかる奇妙な違和感。重低音もビートも不在の沈黙の中、私の足だけが一人きりでステップを踏む。
ステップ。ステップ。ステップ。ステップ……
全く同じステップが次々とやってくる。私の目の前にどこまでも続いていく。……早く行かないと。そうしないとみんなから取り残されてしまう。置いていかれてしまう。
――ん? 置いていかれてしまう? どうして?
Aメロ。
複雑に絡みつく螺旋のような階段の伸びていく方向に合わせて、両脚を前へ後ろへ出したり引っ込めたりする。誰の動きに合わせるでもなく、私は一人でそれをずっと駆け上がらなければならない。ふと後ろを振り返ると、段違いのリノリウムの白には、脱出マジックに失敗して胴を輪切りにされてしまった奇術師のような私の影が差していた。
Bメロ。
これまでとは打って変わって、一人一人の別々の足音が背後から響いてくる。その間隔が1テンポずつ狭まって行き、最後にはぴったりと重なって捕らえられてしまいそうな不安に駆られる。誰かに置いていかれるのは焦るけど、追いかけられるのはなお恐ろしい。結局、私はずっと迷子のままなんだ。
間奏。
アンビバレントな心性が高度に亢進していく中、最期の瞬間に向けて次第に恐怖を煽っていくかのように、ぼんやりとした走馬灯が次第にその回転速度を速めていくみたいに、ヒリヒリした焦燥感が私の胸を満たしていく。その動揺が最高潮に達するまさにその瞬間、闇の淵の底に隠れていたその姿をぱっと現すような俊敏さで、
「いくよっ!」
……だ、誰? 今叫んだの……? その鋭い叫びを合図とするように、
「ワン!」「ツー!」「スリー!」
私ではない誰か3人が掛け声をあげて、それぞれの掌を差し出して組み合わせる。その手を地面近くまでぐーっと引き付けてから、私の身体を持ち上げ……
……あれ?
ぱっと宙に放り上げて、私は一気にジャンプ! ……いや、違う。そんなのおかしい。私はジャンプなんか跳びたくないんだ。誰だ、勝手に私を仕向けてくる奴は? ……あれ? でも思い切って跳んでみよう、チャレンジしてみようとする私もここにいる……いや、違う、そんなことやりたくなんかないんだ、……でもちょっとやってみたい、いややりたくない、やってみたい、やりたくない、やってみたい、やりたくない……。
…………………………………………ん?
気がついたら、辺りは再び耳を刺すような静寂に包まれていた。ただ私の足音だけが無限の反響でその場を満たしていた。一体、さっきのは何だったんだろう? 私の気の迷いが見せたただの幻想だったのだろうか? それとも、もっと何か、得体のしれない不吉なことが起こる前触れだったのだろうか……?
わからない。何も釈然としない。だけど……一つだけはっきりしていたこと。私の直感が確かに告げていたこと。
私は、そこに辿り着かなければならない――。
✳
屋上へと続く校舎の中央階段は、奇妙なことに、他の生徒の姿もなく、ひっそりと静まり返っていた。放課後の淀んだ蒸し暑さの中、私はその階段を、どういうわけか必死に駆け上がっていた。なぜ? 何かを目指して? それとも何かから逃れて? どうしてかはわからないけれど、足を止めるわけにはいかない、と私の直感がそう言っていた。その階段はとても長く、上っても上っても、一向に最上部にたどり着けないのだ。もう何分くらい、こうして駆け上がっているのだろう……? わからないが、不思議と私の息は切れていなかった。おかしい。こんなに走り続けているのに、ちっとも息が上がらないなんて……。その不思議の中に迷い込んでいくように、またその不思議から力を得て、私はとにかく、走る。階段の滑り止めを、ざらっとした上履きのゴム底で蹴って、足を上へ上へと繰り出す。
コツコツ、と階段のはるか下の方から、小気味のいい足音が響いてくる。そのテンポは、私の足のピッチよりもずいぶんとゆったりしているのに、なぜかみるみる大きく響いてくる。近づいてくる。誰だろう? その音は、一人ぼっちで森の中に迷い込んだ時に聞いた茂みの音のように、期待と不安とを同時に投げつけてくる。その足音の正体は果たして、敵なのか、味方なのか?
「相沢さん!」
よく見知った長身の美少女が、私の名前をカナリヤのように可憐な声で呼ぶのが聞こえた。楠田さんだった。その顔に、すっかり見慣れた満面の笑みを貼り付けて。その体に、全く見慣れない派手派手な衣装をまとって。――チアリーダーの衣装だった。そのタイトなシルエットは彼女のすらりとしたボディラインを一層際立たせ、その冗談みたいに短いプリーツスカートは、彼女が階段のステップを蹴るたびにヒラヒラとクラゲが泳ぐみたいに揺れる。きっと、下から覗いてみたら、スカートの中からかわいいブルマがチラチラと見えてしまっていることだろう。見たい! ……そうじゃない。逃げなきゃ。でも、何で? 私は何で逃げているんだろう?
「相沢さん、ジャンプを跳んでくれるんだよね? 早く、着替えてよ!」
……冗談じゃない。そんな恥ずかしい格好するなんて、聞いてないよ?
「それから、演出を盛り上げようと思って……、ほら! 爆竹と日本刀も持ってきたから!」
……じょ、じょ、じょ、冗談じゃない! 私に何をさせようっての? なんか、演技へのハードルだけじゃなくて、殉職率までもが急上昇してるんDEATHけど!?
……あれ? だけどその時、私の中で何かがカチッと音を立てるのが聞こえた。そうだ、やってみよう。失敗するかもしれない。致命傷を負うかもしれない。帰らぬ人になるかもしれない。でも、やってみよう。精一杯チャレンジしてみよ……って、フンゴー!! な、なにを考えているの、相沢依緒よ!?
「ほーらー、相沢さん、いつまでも逃げてないで、早くしてよー!」
私は今、自分が逃げなくてはならない理由を今完全に把握した。彼女の手にかかると、私が私でなくなる。本気でやりたくないことでも、彼女が、やろうよ! と言うと、いつの間にか私が進んでやりたいことになっているのだ。自分が自分であるために、私は逃げなくてはいけない。いつまでも続くこの馬鹿げた階段は、ずっと逃げ続けるのに好都合だった。それは、私が訳もわからずに突然投げ込まれた境遇というより、むしろ私の持つ内的な歪んだ性向が間接的な象徴性を剥ぎ取られ、私の周囲に直接、物理空間として固着した、そんな私自身の暗喩のようなものに思えた。
事実、階段は人生の暗喩とされることがままある。「大人の階段」とやらを上るあなたがシンデレラなのかどうかは知らないが、その例えはあながち的外れでもないだろう。しかしそれは、一般に思われているように、階段の持つ、まっすぐ上へと伸びていく特性、また、上った分だけ高みに到達できるといった特性によるものではない。人生における目標とはそんな階段の伸びる方向のように単一なものではないし、仮にそうだとしても、努力すればするほどそこに到達できるといった保証なんてどこにもないのだ。階段が人生の暗喩たり得るのは、むしろその反復性、そしてその有限性によるものだ。同じ段数のステップと同じ広さの踊り場。それらが全く同じ順序に次々と現れる、その多重の形式の反復性。それは人生における一日一日の繰り返し、一週間ごと、一年ごとの繰り返しの、その多重な反復性の暗喩である。そしてその有限性。延々と上って上って、ずっと上り続けていけると思っても、最上階に到達した瞬間、その連続性は上る者の意志とは無関係に、突然途絶える。私は幼稚園に通っていた頃、ずっとお庭で一人で泥だんご作って遊んでいたいなー、とか思っていた子供だった(その時から引きこもりの兆候が……)ので、卒園式の時憂鬱だったなー。その後ランドセル背負って幼稚園に侵入しようとしたら、園児に指さされて笑われたし。もう一生あの幼稚園のフェンスの中に入れないのかー、って思ったら、言いようもなく悲しかったのを覚えている……。まぁ要するに、ずっと今の幸福な状態が続けばいいなー、と思っていても、卒業や進学、就職などの人生の転機によって、または失恋や別離などの別れによって、そして最後は死別や自分自身の死によって、突然奪われてしまう、それが人生の常なのだ。
「相沢さーん、待ってよー!」
ところが、おかしなことにこの階段からは、その有限性が失われていた。ずっとずっと、果てしなく上へ上へと続いている。それによって私は楠田さんから逃げ続けることができるのだ。
……そうだ。私は逃げ続けてやる。
この奇妙な階段は、きっと私自身が作り出したものだ。自分の幸せな日々が奪われることを恐れて、いつも引きこもっている私が、無意識のうちに生み出した理想郷なんだ。冷たい漆喰の壁と無機質なリノリウムの床に囲まれた狭い空間、その代わり映えのしない繰り返しこそが、私の求めていたものなんだ。永遠にこの世界の中で生き続けてやる。逃げ続けてやる。
――ばっ!
突如、私の制服のシャツが後ろに引っ張られるように手繰り寄せられ、その襟元が私の喉をきゅっと締め付ける。く、苦しい。何?
チラッと後ろを振り向くと、ほっそりとした長い腕の、その肌の透き通るような白さが私の目を痛いほどに刺した。その腕は、鮮やかなチアの衣装のノースリーブの袖ぐりからまっすぐ伸びて、私のシャツの背中を掴んでいた。
「捕まえたよっ!」
楠田さんだった。い、いつの間に……? ついさっきまで、ずっと離れていたはずなのに?
「相沢さんのことなんか、一瞬で捕まえられるんだから。さ、行こ?」
いやあああぁぁぁ! 私は思わず悲鳴をあげ、楠田さんの手を思いっきり振り払ってしまった。怖くて、逃げたくて、その何階なのかもわからない廊下へと駆け込む。泣くのをこらえながら、必死で走る。私がでっち上げた、あのでたらめな階段。現実から隔離され、永遠に引きこもり、ずっと逃げ続けるための場所。そこに楠田さんは簡単に入り込んできて、私を引きずり出してしまった。どんなに世界を捻じ曲げてみても、彼女から逃れることはできないのか?
「ちょっとー、相沢さん、待ってよー」
私の後を、すかさず楠田さんが追いかけてくる。グラドルがビーチで「待ってよー♡」とかやってるイメージビデオの、あんな感じの笑顔で、あんな感じの無邪気さで、それでいて世界記録保持者のスプリンターのような凄まじい速さで。なぜかそよ風ひとつ立てずに、私にみるみる迫ってくる。
私はたまらず、咄嗟にそばにあった扉を開けて中に入る。手汗にまみれた指で内側からロックのレバーをかちゃんと下ろして中を見回してみると、そこは普通の教室だった。机や椅子が、謎の集団死を遂げた教団の信徒たちのために急ごしらえで建てられた墓標の群れのように、気味が悪いほどに整然と並んでいる。私が普段、誰ともしゃべらずに一日を送っている、ごく普通の教室だった。
「相沢さーん、開けてよー!」
楠田さんが、ものすごい力で扉をドンドンと叩いている。私は無我夢中で、扉の前に机をいくつも積み上げて、バリケードを作り始めた。机は高く高く、どこまでも積み上がり、たちまち巨大な建造物のようになった。それは文字どおり、どこまでも積み上げられるのだ。その山の頂上は、どういうわけか、教室の天井よりもはるかに高くなり、私が机を放り投げると、その上に逆再生の映像のように行儀良く積み上がっていく。投げても投げても教室の机は減っていかないのだった。下から見上げると、その山は、夕暮れの教室内の淀んだ薄闇の中に、冷たい金属の照り返しを透かして、山間の霧の中に立つすくむ巨大な高圧送電線の鉄塔みたいに見えた。
これで楠田さんも教室に入ってくることはできまい。私はすっかり安堵して胸をなでおろす。不気味な、鉄の足と木材の板で組み上げられた怪物は、今は私を守ってくれる頼もしいヒーローの大きな背中のように思えた。ほっとした途端に、今まで感じていなかった疲れが、どっと体中を襲ってきて、思わず私は床にへたり込む。火照った太腿に、ひんやりとした床の冷たさが伝わってきて、まるで私はその場に同化してしまったように動けなくなる。嘘みたいな静けさ。耳が痛くなるほどの沈黙。もう何分間そうしていただろう? 世界が呼吸をするのを忘れてしまったように停滞し、その真ん中に私が一人きりで取り残されていた。
――と、次の瞬間、その巨大なバリケードが突如崩壊を始めた。そこには、夕立ちが降り出す前の最初に落ちてくる雨粒の一滴のようなものなどなく、巨大なバリケードの全体が、その一つ一つのパーツの全てが、一斉に崩落を始めたのだ。突然の轟音。巨大な塔を構成していた鉄の足の一本一本が、ぶつかり合い、ひしゃげ、くだけ散る、そのけたたましい金属音。高くそびえ立つ大聖堂のパイプオルガンが、突如大音響で不協和音を奏で始め、壁一面にはめ込まれたステンドグラスを共鳴させて全て割ってしまい、その破片が一斉に床に降り注いでくるかのようだった。その轟音はいつまでもいつまでも鳴り止まない。床に降り注ぎ続ける机の足。その鉄のシャワーの中から、見とれるほどに美しい細い腕が、するんと触手のように伸びて私の首を絞めた。鼓膜を浸すような音の洪水の中、それでも私の耳元で、そのささやくような声ははっきりと聞こえた。楠田さんだった。
「今 度 こ そ 捕 ま え た」
――彼女は笑っていた。鳴り止まない金属音の中、プラチナのように冷たく光る歯を見せて、子供のように、無邪気に。無邪気だからこそなお、残酷に。暗い愉悦に口元をおぞましく歪めて、ぞっとするほどに、笑っていた。
「いやああああぁぁぁぁーーっ!」
……ぽちっ。
――私は目覚まし時計のボタンを押していた。けたたましい、金属のぶつかり合う音がピタッと鳴り止んだ。私のTシャツは寝汗でぐっしょり濡れていた。……何? 朝?
「ねぼすけおねえちゃーん。まーた遅刻だよー?」
妹が食パン片手に、ドアの隙間から呆れたような目で私を見ていた。
………という夢を見たんだ。
「「夢かーい!?」ですかー!?」
2人とも、大げさに脱力してずっこけた。だから最初から、今朝見た夢の話なんだけどさ、って言ったじゃん。あまりにも変な夢を見てしまったので、庭下さんと飯田さんに相談していたのだ。まさか楠田さん本人に話すわけにもいかないしね。
「ちょ、ちょっと。私、結構真剣に悩んでるんだから。なんであんな夢見ちゃったのか、自分でもよくわかんないんだよ」
うーん、と、飯田さんが口元に指を当てて何やら考えている。と、目線のはるか下から、小柄な背丈をうんと伸ばして私を見上げ、柔和な微笑を見せた。ずっと年下の妹の成長を見守るお姉さんみたいな、そんな優しい笑みだった。
「それは、相沢さんがだんだん変わってきている、っていうことなんじゃないでしょうか?」
えー? 私が?
「はい。変わりたいと思っている自分と、ちょっと怖いと思っている自分。そのどっちもが相沢さんの中にいるってことじゃないんでしょうか? 絶対変わりたくない、なんて思っているんなら、そんな夢見ませんよ」
そんなもんかなあ?
「相沢さんも、やったことのないジャンプなんて跳ぶのはちょっと怖いかもしれませんが、頑張ってください。自分の殻を破る、いいチャンスですよ」
と、何やら本当に保護者みたいなことを言ってくるのだった。そんな下から見上げられるように言われても、説得力ないよ?
って言うか、そもそも私がジャンプを跳ぶことになってしまったのは、飯田さんの責任でもあるのだ。昨日あれから全員集まって、さーて、誰が跳ぶ? って話になった時、飯田さんがわっかりやすく涙目になって、「むっ、無理です! わ、私なんか! だ、だめっ、絶対無理、無理無理無理ーー!」と言ってぷるぷる震えだしたので、あっ、これはまずい、このままだとまた泣いちゃうなー、って思って、気付いたら私が「あっ、跳ぶ跳ぶ! 私跳ぶ! 跳びたい、むしろ跳びたい! ジャ〜ンプ〜を自由に〜、跳〜びた〜いな〜♪ うおー超跳びたい!」と言ってしまっていたのだ。
「それに、バリケードが崩れると同時に目が覚めた、って言ってましたよねー? それって、やっぱり、相沢さんが心の壁を破って、現実の世界に向き合おうとしていることを暗示しています」
いやー、そんなことはないと思うけどなー。夢の中でバリケードが崩れたのだって、きっと目覚まし時計が鳴っていたからだよ。その音に反応して、私が無意識の内に夢の内容を作り変えたんだよ。
――うん? でも、おかしいな。
私は夢の中で、随分と時間をかけてバリケードを築いていた。目覚まし時計の音がそれを崩落させるずっと前からだ。だから、その音に反応して夢のストーリーを作り始めたんじゃ間に合わない。まるでその結末を予知していたかのように、私は事前に夢の内容を操っていたというのだろうか?
「そういうことってさー、あるよね」
わっ、て、庭下さん、いたの?
この一見ランダムな模様の中に、動物の仲間が隠れています。探してみてください! ……の脳トレクイズのように、今まで見ていたはずの背景の中から庭下さんがぬわぁぁっと現れ、私たちの脳が彼女の存在をやっと認識した。庭下さんは、私の奇妙な夢の話に共感して、うんうん、としきりに頷いている。
「あたしもそういう夢、よく見るよ。なぜか滝に打たれる修行してて、落水の勢いが激しいなー水音がうるさいなーって思ってたら、その隣で坊主が銅鑼を思いっきりシャーン! って鳴らしてさ。びっくりして飛び起きたら、窓の外ザーザー降りで。雷がすごい音で鳴ってたんだよ」
なるほど。外の出来事に反応して夢のストーリーを作り上げることって、誰にでもあることなのかもしれない。その出来事が起こる前から夢を操っているような気がするのは、多分脳のちょっとした勘違いかなんかなんだろう。
「あと、遠足行く日の朝さー、クラスのあんまり好きじゃない子たち5〜6人が集合時間に遅刻して、置いていかれちゃう夢見たのね。その後起きて学校に行ってみたら、そいつら全員本当に遅刻してさ。危うく置いてかれそーになって先生に怒られてやんの。ウケない?」
――え?
それってまた随分と違う話のような……?
「あと、あたしが算数のテストで簡単な掛け算の問題がわかんなくてさー。九九全部覚えたはずなのにおかしいなー思い出せないなー、こんな簡単な問題答えらんないのあたしだけなんだろうなー悔しいなー、って思ってて。そしたら、答案が返ってきたらさー、その問題だけクラスの全員が間違ってんの! ちょーウケない!?」
――操ってるよ! それ、夢じゃなくて、現実を操ってるよ、庭下さん!
っていうか、最後のなんて、もう夢関係なくなってるし……。
「ほらっ! もう休憩時間終わりだよ! ジャンプの練習、再開するよっ!」
びくっ! 楠田さんの超指向性スピーカーのような声が鋭く私に突き刺さり、耳の鼓膜よりも先に心臓の弁を震わせた。お、驚くことなんてないじゃない。大丈夫、大丈夫。怖くない、怖くないよ?
それより、私には怖がらなくてはならないものがあるではないか。怖がる、というより、正しい意味で恐れる、というか、警戒するというか。私はこれからジャンプの練習をするのだ。危険がないよう、怪我などしないよう、細心の注意を払う必要がある。「恐怖」も一種の感情であり、それを抱くことによる心理的コストが発生するとすれば、その対象は正しく選定する必要があるのだ。
……でも、待てよ? 本当に恐ろしいのは庭下さんの方ではないのか?
今の話が本当だとすれば、彼女は、夢で見たことや、無意識に考えたことで現実を操ってしまう、不思議な力があるのかもしれない。彼女が九九の答えを忘れただけで、クラス全員が同じように忘れてしまったのだ。だから、彼女がもしも何かを忘れてしまっていたとするなら、ひょっとして今ごろ私たちも同じように……!
……なんてね。そんな馬鹿なことありえないよね。変なこと考えてないで、ジャンプに集中しなきゃ。
土台となる3人が手を差し出して組み合わせ、私はその上に立つ。大きな窓ガラスに反射した自分の姿を見ながら、その体が垂直になるようにバランスをとる。この窓ガラスが鏡の代わりになるということで、私たちはずっとこの新校舎の前の中庭で練習しているのだ。今日は、私たちが何やら新しいことを始めたというので、ギャラリーの数も普段より多いみたいだ。
「さっ、いくよ!」
楠田さんの合図と同時に、私たち全員の背筋にすっと緊張が走る。せーの、でタイミングをとる、その「せ」のあたりで、大勢のギャラリーをかき分けて生徒指導の先生が突然現れた。
「――お前ら、何やってんだ!」
うわっ、最悪。何で先生がここに?
「中庭で活動することは禁止したはずだぞ! 前に一度注意しただろ!?」
……ん? そんなこと言われたっけ? 注意された? 私たちが?
「跳ぶよ」
え?
「あの先生は、きっと私たちの活動を、ただのお遊びだと思ってるんだよ。だからやめさせようと思って、注意しに来たんだ。今、私たちが、すごいジャンプを披露して、本気でダンスに取り組んでいるんだってことを、見せつけてやるんだよ!」
私の足の下で、円陣を組むように手を重ね合っていた3人は、互いの目と目を見つめ合い、決意を確認し合うようにこくりと頷いている。ちょ、ちょっと待って、跳ぶのは私なんだけど?
「「「せーのっ!」」」
あわわ。私は心の準備ができないままに、下からぽーんと押し出された。とっさに両足で踏み切るが、蓄える力が不十分だったため、膝から下の部分だけでしか踏ん張れなかった。私は大きくバランスを崩して上空に舞い上がり、落下してくる私を抱きかかえるためにスタンバイしている3人とはあさっての方向に飛んでいく。ま、まずい!
「「相沢さん!」」「いやーーっ!」
眼下から、いや、空中で逆さまの体勢になっている私のむしろ頭上から、3人の悲鳴が聞こえてきた。その逼迫した悲痛な声音が、シャレにならない今の状況を物語っていた。硬いアスファルトの地面がみるみる迫ってくる。……や、やば、このまま頭から地面に激突したら、最悪死ぬんじゃね……? ああ、儚い我が人生よ。今までの麗しい思い出の数々が、走馬灯のように脳裏に浮かんでくる……。あれは3年前、まだ小6だった妹が、中学生の私より先にブラを着けているのを目撃してしまった時。ショックで唇をわなわなと震わせる私を見ながら、えー、でも毎日ブラ着けるのめんどくさいよ? 着けないでいられるなんて、いいなー、とほざいた妹のけろりとした顔。あれは忘れられない。あと、次の年の体育祭、同じ中学の一年に進学した妹が徒競走でぶっちぎりの一位になって、ビリから2番目だった私にわざわざ自慢しにきた時。体操服の胸に貼ってもらった金色のシールが剥がれそうになってて、指摘してあげたら、あ、じゃああげるよ、おねえちゃんなら剥がれないでしょ? とか言って私のぺったんこな胸に貼り付けてきやがった時のこと。あれも忘れられない。さらに翌年、高校のクラスでヒエラルキー上の方にいた陸上部の男子2人(当然私は話したことがない)が私の席の左右に座っていて、お前あの子知ってる? ◯◯市(私の地元)の地区大会に出てた、巨乳なのにめっちゃ足の速い中学生! あー、あの子ね、去年の中一でしょ? すごいよな、あの子! などと私を挟んで会話を始めてしまった時のこと。あれも忘れられないなー。そんな忘れがたい思い出たちが、走馬灯のようにぐるぐると……って、なんでこんなろくでもない思い出ばっかなのよ! しかも、全部あのバカ妹が絡んできてるし……。人間、悔しい思いほどよく覚えているって言うし、私の思い出って案外こんなんばっかなのかもしれない……。えーい、もうこんな走馬灯なんかかき消えてしまえ! そんなことより、もしもこのアスファルトの地面が総マットだったら、私は落ちても死なずに済むのに……。って、なんじゃそりゃーい! 今度はダジャレかーい! 私の人生の最後、ダジャレかーい! い、いやだ。このまま死ぬなんて。寒いダジャレを思いついちゃったけど話す相手が誰もいなくて、一人で笑いをこらえてニヤニヤしてるキモい奴のままで終わりたくない。私はなんとか空中で身をよじり、頭を上に持っていった。よかった、これでなんとか足元から着地できそうだ。
ドシン!
「――うぐっ!」
私は見事に両足で着地した……はずだったのだが、着地と同時に右足の足首を激しい痛みが襲い、我慢できずに、その場に倒れこんでしまった。衝撃で足をひねってしまったのだろうか? 右の足首がやけどしたみたいに熱く、私は地面に横たわったまま身悶えした。
「相沢さん!」
楠田さんが息を切らせて駆け寄ってきて、私の上半身を抱きかかえてくれた。彼女は不安げに表情を硬くこわばらせ、対象的にふるふるとわななかせたその唇の柔らそうな感じが私の目を惹きつけた。や、やだ、なにこの艶めかしく潤んだ唇は……? て、ていうか、楠田さん顔近くない……? や、やばい、なんか見てるだけでこの薄桃色に透き通った甘い誘惑に吸い寄せられてしまいそうになる……。わ、私はもちろん百合なんかじゃないけど、も、も、もしもこのまま、キキキ、キスなんかしてくれちゃったら案外、足の痛みなんか一瞬で消え……
「――痛い! やっぱり痛いよ!」
ほんの少し足が動いただけで、思わず叫んでしまうくらいの激痛に襲われた。楠田さんはびっくりした様子で、私の右足首を覗き込む。
「うわ! ……すごい、腫れてる……!」
私の足首が、熟したトマトみたいに真っ赤にぷくっとふくれていた。
「相沢さーん!」
飯田さんがその華奢な腕をぶんぶん振り回しながら駆け寄ってきた。私の足首を見るなり、「ひぃっ」っと甲高い悲鳴をあげ、その顔をみるみる紅潮させていく。
「ご、ごめんなさい……! 私が、私が悪いんです……!」
と言うと、地面にぺたんとへたり込んで、わんわん泣き出してしまった。な、泣かないでよ。ね、いい子だから。飯田さんは何も悪くないじゃない?
「ひっく、わ、私が、ひっく、昨日、跳ぶのを怖がってなかったら……。私が跳ぶって言ってれば、相沢さんは、今頃こんなことには……うえーん!」
そ、そんなこと今さら言ってもしょうがないよ。飯田さんは悪くないから。ね、泣かないで。ゴキブリの入ってないキャンディあげるから。泣かないでよ。飯田さんが泣くと、また後々大変なことに……。
――ぽたっ。
その時、私の頬に温かいしずくが落ちてきた。それは、優しさを孕んだこそばゆさをその道すじに残しながら、私の肌を伝い、唇の端へ流れてきた。
「ごめんね……」
楠田さんの涙だった。彼女はその赤く腫らした目元から幾粒もの涙をしたたり落とし、次々に私の頬やおでこや唇を濡らした。かさついた肌にその水分が優しく染み込んできて、私は、まるで生き返るように潤されていくのを感じた。その涙は、ひび割れた私の心の中にまでも染み入り、勝手に胸をきゅんとさせていくのだった。
初めて見た、楠田さんの涙だった。
彼女はぎゅっと私の体を抱きしめる。歔欷するように細かく震わせた吐息が、私の耳朶を甘く、切なく刺激する。胸と胸が重なり合い、感じられる彼女の体温が、鼓動が、心地よかった。
「……ごめんね、相沢さん。私が、ジャンプなんかさせなければ、よかったのに……」
ううん。それは違うよ。私は、楠田さんを優しく諌めるように小さく首を振った。
嬉しかった。
自分が、楠田さんのために、何かすることができて。
自分が、楠田さんと一緒に、何かに一生懸命になれて。
嬉しかった。
それが、こんな結果になってしまっても、こんな痛い思いをすることになっても。
ジャンプを跳んでみて、よかった。
本当に、心から、そう思えたんだ。
私は、自分の腕を楠田さんの背中の後ろに回して、彼女の体をぎゅっと抱き返す。彼女が泣いている時には、その涙を受け止めてあげたい。彼女が笑っている時には、その喜びを一緒に分かち合いたい。
「ねえ、楠田さん」
こんな気持ちになるのは、久しぶりだった。
私が自分のことを、引きこもり、とか呼び出すようになってからは、こんな気持ちを抱いたことは、ずっと、なかった。
「私たち、友達、だよね?」