レッスン#3! 〜ジャンプを跳んでみない!?〜
またまた、イントロ、スタート!
曲が始まるとともに、いきなり降り注ぐシンセサイザーのシャワー。重低音が刻むビートに合わせてステップを踏む私の足。もうここはお手の物だ。楠田さんの踏むステップが私に1テンポ遅れてついてくる。
キック、ステップ、スライド、ターン。
全く異なる振り付けが次々とやってくる。私は休む間もなくそれらをこなしていく。私だってやればできるんだ、みんなに追いつくことができるんだ。……というより、私はもう楠田さんを追い抜いてしまたのかもしれない。今日の彼女には、普段のような動きのキレが全くなかったのだ。
Aメロ。
複雑に絡みつくベースラインに合わせて、両腕、両脚を右へ左へ出したり引っ込めたりする。2人で動きをぴったりと合わせなければならないパート。私の動きはバッチリだった。屋上のコンクリートの地面には、私の影と、ちょっと遅れて私の後を追う楠田さんの影が差していた。
Bメロ。
これまでとは打って変わって、一人一人が別々の動きをする。動作を1テンポずつずらしていき、最後には一周まわって再び二人の動きが重なる。ここもばっちりだった。私はもう迷子じゃなかった。どっちかっていうと、楠田さんの方が何かに迷っているような、煮え切らない気持ちを一人抱えているみたいだった。
間奏。
アンビエントなシンセのコード進行の中、最後のCメロに向けて気分を次第に盛り上げるように、コマ送りの映写機が次第にその回転速度を速めていくみたいに、キラキラした16ビートがフェードインして響いてくる。その音の洪水が最高潮に達する瞬間をだいぶ逃したタイミングで、
「……あっ、い、いくよっ」
楠田さんの声は、こんにゃくの角におでこをぶつけた時のように気が抜けていた。
「ワン!」「ツー……」
私たちは掛け声をあげて、Vサインを作ったそれぞれの指先を差し出して突き合わせる。5人いれば星の形になったところだが、ダイヤみたいな形になってしまった。その指を、地面近くまでぐーっと引き寄せてから、ぱっと宙に放り上げて、一気にジャンプ! しようとしたところで…。
「……そうだ、やっぱ、あれしかない!」
ラスト、Cメロ。
天の川のようにきらびやかなシンセ音の中、何かを思いついてキラキラ目を輝かせる楠田さんがそこにいた。……何だろう、いやな予感がする。両腕を体の右へ、左へ。間違えた。全然できていない。側転する手を滑らせてしまい、バック転しようとしてブリッジを作ってしまった。全然集中できない。ひきかえ、楠田さんはさっきまでの上の空は何処へやら、何か吹っ切れたような様子で、妖精が花びらの上で飛び跳ねるように軽やかにステップを踏んでいた。……いやな予感しかしない。
✳
「ねえ、相沢さん、ジャンプを跳んでみない?」
うららかな放課後のひととき。吹奏楽部は下手っくそな金管楽器の音を校舎中にぶちまけており、サッカー部の連中はまるで学校内で自分たちが一番偉い! とでもいうような我が物顔で、グラウンドで馬鹿みたいに奇声をあげていた。私は……。
「……はい?」
わ、私はと言うと、いつぞやのように、予想もしていない、突拍子もないことを急に言われたので、またしてもあっけに取られてしまった。
「……ジャンプを、跳びません」
「あはは、ごめんごめん。急にこんなこと言われても、意味わかんないよね」
……嫌な予感しかしない。また私の意向を無視して、勝手に話を進めようとしているな。
「私ね、昨日考えたの。私たちが真剣にダンスに打ち込んでいるってことを、みんなにわかってもらいたい。私たちの本気を、みんなに知らしめたい。それには……」
そこで右足を開いてバン! と地面に打ち付け、らんらんに光る瞳で私をじっと見つめながら、
「相沢さんがジャンプするしかないの!」
……な、なんでそうなるの……?
しかも、なんで私だけ? ……みんなで一緒の振り付けをやればそれでいいんじゃないの?
「これを見てよ」
と言って楠田さんがスマホを取り出し、私に動画を見せてくる。そこには高校のチアリーディング部の演技の模様が映っていた。落ち着いてよくよく考えてみたらやたら扇情的ともいえるそのユニフォームに身を包んで、ゴー! ファイ! ウィン!(ブルマが! 見えても! 気にするな! ※超意訳)との掛け声とともに跳んだり跳ねたりしている。何やら50万回以上再生されているらしい、その数字を見て私は思わず顔をしかめてしまった。一体、この内の何人の人が、純粋に競技としてのチアリーディングを鑑賞するために動画を見たのだろう? まあ、それはどうでもいいんだけど、私の目をとらえたのは、彼女たちの繰り広げる、めくるめくアクロバティックな動きだった。ゴー! フォー! イット!(パンツじゃ! ないから! 平気だもん! ※だから意訳)と可愛らしい掛け声を上げると同時に、選手の肩の上に別の選手が立ち上がり、人の塔が何本も出来上がる。次の瞬間には、また別の選手が、その塔と塔の頂上に橋をかけるように自らの体を横たえる。さらに、塔の2階部分の選手が片足を自分の肩の上に持ち上げて、一本足で見事にバランスをとってみせる。
ああ、この子たち、人間じゃないんだ。納得。私は、テレビなんかで中国雑技団や凄技のマジシャンやジャグラーや、とんでもない妙技を披露する人たちを見るたびにそう思うことにしている。これは別に降参でも敗北宣言でもない。ただ自分が絶対に到達できないものすごい高みにいる人たちが存在するという世の残酷な真実から、自らの尊厳を守るための、精神的な防御機構、いや、防御という名の先制攻撃なのだ! え、同じことだって? うるさいな。
「ここからだよ!」
楠田さんがそう叫ぶと、画面の中では、複数の選手が円陣を組んで手を組み合わせ、その上にもう一人の選手が飛び乗ったかと思うと、次の瞬間、そのままその選手を上空にぽーんと放り投げた。――かのように見えた。現実的に考えると、人間の体がそんなに軽いわけはないのだけれど、それでもその選手の体はまるでゴムボールのように軽々と宙に高く高く跳び上がり、上空でくるりと一回転してから、地上にいる選手たちに抱きかかえられるようにふわりと着地した。持ち上げる選手たちの腕力、跳び上がる選手の脚力、その両者が揃って初めて実現できる、まるでイリュージョンのような見事な光景だった。
……はて、これを見てどうしろと?
「ねっ、相沢さん。跳んでみない?」
……正気ですか?
「絶対、相沢さんならできるよ! やってみようよ!」
「わ、私に、人間であることさえも、やめろというの……?」
「えー? 何言ってんのよ? 意味わかんない」
「意味わかんないのはこっちだよ! なんでいきなり、こんなとんでもないことをやろうだなんて言い出すのよ!?」
「私たちが本気だってことを、みんなに知らしめるために!」
「なんでチアなの?」
「かわいいから」
「なんで私なの?」
「相沢さんなら、絶対にできるって、そう思うから!」
………………。
沈黙。楠田さんの本気の情熱が、私を見つめるその大きな瞳の中に静かに燃えているような気がして、思わず押し黙ってしまった。ずるいよ、その目は。それでも……こんなジャンプをやろうなんて、無謀だよ。私なんかにそんなこと、できるわけない。
「……なんで私なのよ。飯田さんの方が小柄で体重も軽いし、向いているじゃない」
「うーん、相沢さんは、ほら、ガングリ……なんとかで手首使えないし、支えるよりも跳ぶ方がいいと思うんだよね」
あー、なんだ、それが理由かー。くそっ、あのバカ妹のせいで話がとんでもないことになってんぞ……。
「それに、飯田さんはメンタル強くないから……あんまり大変な思いさせると、また……」
……あれ?
そういえば、その飯田さんはどこだろう?
「うーん、掃除当番が終わってから練習に行く、って言ってたけど、遅いね」
もしかして……。私は嫌な予感がして、昨日まで私たちが練習場所にしていた中庭へと向かった。
案の定、飯田さんはそこにいた。きゅっと握った手をふるふると震わせながら口元に当て、小さな体をさらに小さく折りたたむようにかがめながら、迷子のチワワのようにあたりをキョロキョロと不安げに見回している。
「飯田さん!」
楠田さんが持ち前の大きな声でそう呼びかけると、飯田さんは、まるで頭から冷水をぶっかけられたように、ビクッと大げさに驚き、
「あ、ああ、うう、うわーーん!」
と言葉にならない声をあげ、楠田さんの胸元に飛び込んだ。楠田さんは、その飯田さんを抱きかかえ、彼女のさらさらとしたショートボブの髪の毛を、よしよし、となだめるように手櫛で優しく梳かしてあげていた。飯田さんは楠田さんの胸に顔を埋めて、彼女の体をぎゅっとつかんで離そうとしない。端から見ると、女生徒と女生徒の熱い抱擁。おいおい、これじゃ昨日と一緒だよー。っていうか、どうしても私だけこういう展開にならないのね。べ、別にうらやましくないけどっ!
「もう大丈夫だよ、飯田さん。落ち着いて」
取り乱してへばりつく飯田さんをなんとかおだてて引き剝がし、まるで母親のように柔和な微笑みを浮かべる。
「もう、こんなところで迷子になってるなんて。また騒ぎにならないように、今日からは中庭じゃなくて屋上で練習しよう、って、昨日決めたじゃない」
「そ、そうでしたっけ……?」
ああ、やっぱり。この子、昨日泣いちゃったから、中庭で練習してて怒られたこと、すっかり忘れちゃってたんだ。
……て言うか、この子、あの青いノートに何やらいろんなことメモしているみたいだったけど、こういう大切なことメモするの忘れてちゃダメじゃん。備忘録の意味が、まるでないよ。
「さ、早く屋上に戻って、飯田さんも一緒に、練習再開するよ!」
楠田さんはそう言うと、飯田さんの手を引いて歩き出した。私も二人の後を追いかけて急いで駆け出そうとし、その時、ごつん! と、おでこが空中で何かにぶつかった。あいたたたた……。な、なんなの?
額を押さえる私の目の前に、ある少女の顔があり、その子も私と同じように、いててて、とおでこを押さえて俯いていた。透き通るように白い肌に幼げな瞳。黒髪ストレートのショートボブ。なんだか飯田さんによく似たいで立ちの女の子だった。ただちょっと違うところといえば、その細い体からこぼれ落ちそうなほどの豊満なバストを持っていることで……
……あれ?
「て、庭下さん?」
その顔をよく見てみると、間違いようもなく彼女だった。その首元にも耳元にも、アクセ類を何もつけていない、メイクもネイルもしていない、すっぴんの姿だった。な、なんか、急に印象変わったよね? イメチェン?
……っていうか、今まで庭下さんがいなかったこと、気づかなかったよ。
「おっ、相沢さんじゃーん。へへへー。どうかなー? 昨日飯田さんのこと見ててさー、いいなー、かわいいなー、って思って、あたしも真似してみたんだ。どう? かわいい?」
そう言ってはにかみながら、まるで恥じらうようにしてその場でくるりと一回転してみせた。……うん、かわいい。ストレートにしてすっきりとした髪型は、彼女の小顔をより引き立てて、メイクをしていない肌は、幼くて清純な印象を彼女に与えていた。昨日のギャルっぽい格好も刺激的でかわいかったけれど、今日みたいなロリっぽい格好も、とてもかわいい。彼女はどんな格好をしてもある程度似合ってしまうようだ。超うらやましい。
……でも、どんな格好をしても似合うのに、というか、似合ってしまうからこそ、彼女が本当はどんな子なのか、どんな姿が本当の彼女なのか、ますますわからなくなってしまうのだ。
「ほら、相沢さんの包帯も取り入れてみたんだ。超カッコよくない?」
見ると、彼女の手首には、昨日付けていたきらびやかなブレスレットの代わりに、包帯がぐるぐる巻きつけてあった。おお、よき心がけだ。とてもカッコいいぞ。私が保証しよう。
「……っていうか、みんな、今までどこ行ってたのさー? あたしずっとここで待ってたんだかんねー!?」
と、今度は気がついたようにぷんすか怒りだした。……ん? 何言ってんだろうこの子は? 飯田さんと同じように、彼女も練習場所を変更したことを忘れているのだろうか……? いやー、そんなわけないか。この子の場合はちょっとぼんやりしてるだけなんだろう。きっと、席替えのあった次の日の朝に、元の席にうっかり座っちゃうようなそそっかしい子なんだろな。
「ちょっと、忘れたの? 昨日、屋上で練習することに決めたでしょ? また先生に見つかって怒られちゃう前に、ほら、行くよ?」
私がそう言うと、庭下さんは、不思議そうにきょとんと小首を傾げてみせた。
「? 先生に怒られる? なんで?」
「なんで、って、つい昨日も怒られたじゃない」
「?? そうだっけ?」
「……まあ、いいや。とにかく、行くよ」
私は彼女の手を取り、楠田さんたちの後を追いかける。その手は、不思議と私と全く同じ体温で、触っているうちに、まるで私の手と、それが握っている彼女の手と、どちらがどちらなんだかわからなくなってしまうような、そんな奇妙な錯覚に陥った。
「――いたっ」
そう言って、急に引っ込んだのは彼女の手の方だった。
振り返って見ると、手首を押さえて、苦痛に顔をしかめるようにして佇んでいる庭下さんの姿があった。
「痛い……手首が」
えー? またまたー。ただ包帯巻いただけなんだから、痛いわけないじゃん。厨二は格好だけにしときなよ。演技まで入っちゃったらさすがにウザがられるよ?
しかし、彼女はその場に立ち止まったまま動こうとしない。怪訝に思った私は、彼女の手首を覗き込んでみた。すると……なんとそこには、私の手首と同じように、本物のガングリオンそっくりの瘤がぷくっと膨らんでいた。
「す、すごいね、庭下さん。こんなところまで真似するなんて。すごい再現率……」
と、私がその瘤を指先でツン、と突っついてみると、
「い、痛い! 痛いよ!」
庭下さんが鋭く悲鳴をあげるのと、私の指先に、間違いようもない、人間の皮膚の柔らかい感触が伝わるのが同時だった。
え? ええっ? これって……?
――本物だった。
本当のガングリオンが、庭下さんの手首にできていたのだった。
私と同じ、右手の手首に。
私のと全く同じ位置に。
私のと全く同じ大きさの。
ガングリオンができていたのだった。
……その後の練習には、全く身が入らなかった。
奇妙な感覚。
庭下さんと私が、どんどん同化していくような、なんだか馬鹿馬鹿しいような、それでいて笑い事では済まないような、そんな、変な気持ち。
……庭下さんは、一体どんな子なんだろう?
突然ぱっと現れて私たちを驚かせては、いつの間にかすっといなくなっている。いることにもいないことにも、気付けない。つかみどころのない、不思議な女の子。彼女の中身も外見も、よく分からない。昨日初めて会ったとき、彼女は私たちの喋り方を真似していた。彼女は普段、どんな喋り方をするのだろう? ……分からない。そして今日は、彼女は飯田さんの格好を真似していた。その前は、派手なギャルっぽい格好をしていたのだが、それもただ周りの子達の真似をしていただけではないのだろうか? 本当の彼女は一体、どんな姿をしているのだろう? ……分からない。さらに、体温やガングリオンなど、私の体の生理状態までも……。うーん、やっぱり馬鹿馬鹿しい。そんなもの、真似できるわけないじゃん。
でも彼女は、練習場所を屋上に移動したことを忘れていた。昨日先生に怒られたことも、覚えていないようだった。飯田さんがそれを忘れてしまったのと同じように……。もしも、もしも誰かの記憶や、思考までをも真似できてしまうとしたら……!
「おねえちゃんってば!」
うわああああぁぁ! と、本気でびっくりして、思わず後ろにズザーっと引き下がってしまった。なんだ、妹か。
「もう、さっきから何ぼーっとしてんの? またゲームオーバーになっちゃったよ!」
と、妹が、見よ! って感じにびしっと指差した画面には、すっかり見慣れたゲームオーバーの文字がチカチカと浮かんでいた。その文字も、ゲームオーバーになったという事実も、どこか別の世界の出来事のような、現実の私自身とはあまり関係のないことのような(実際あんまり関係ないんだけど)、ふわふわとした感じがした。もう、別にどうでもいいや。どうやら今日は、ダンスの練習にも、ゲームにも集中できないようだ。私は捨て鉢な気分に身を任せ、ただ機械的にリセットボタンを押した。
そんな私の気の抜けた姿を見て、妹は、今日のおねえちゃんはからかい甲斐がなくてつまんない! とでも言いたげにぷくーっと膨れてみせたが、私はそれを全力で無視した。
実際その時の私は、自分のモヤモヤした気持ちを落ち着かせようと、普段と同じ環境に身を置くためだけにゲーム機を起動していたのであって、本当はのん気にゲームなんかプレイできる心境じゃなかったのだ。私の頭の中は、焦燥にも似た漠然とした不安感に支配されていた。その原因は庭下さんの件だけではない。――楠田さんが突然提案してきた、あのとんでもない計画。チアリーディングの花形の大技、バスケットトス(あのジャンプするやつ)を振り付けに取り入れようというのだ。……そんなこと、私にできるわけないじゃない。自分があんなに高く跳び上がるところを想像しただけで、怖くて体が震えてくるのだ。実際にやってみる前からこんなにも恐怖で身がすくんでしまうなんて。それは、クリアできないとわかっているゲームと同じように、無謀で無意味な挑戦だった。
しかし、私は何をそんなにも恐れているのだろうか? 高いところが怖いのか? そこから落ちてしまうことが怖いの? 失敗して、みんなに白い目で見られることが怖い? それとも、あんなに希望にキラキラと輝く瞳で、やろうよ! って言ってきた楠田さんを落胆させてしまうこと……?
「ふん、もう知らないよ」
ゲーム画面の中で、『破壊する者』がまた炎を吐き出すのをぼーっと眺めながら、私はただそんなことを考えていた。そうだ。ジャンプなんて跳ぶ必要はない。私は、なにも本気でみんなを魅了したいと思ってダンスの練習をしているわけではないのだ。それは、あの楠田椎香という、突進してくるブルドーザーのような凄まじい破壊力を持つ少女から、私の平凡な日常を守るため。彼女が通り過ぎていったあとの地面はめちゃくちゃに掘り返され、その荒れ果てた土地には彼女色の草木が新たに根を張って生い茂り、花を咲かせ、気がつくと辺りはすっかり彼女の色一色に染まってしまうのだ。私のすべきことといえば、姑息な手段を使ってでも彼女の進行方向を逸して、自分がせっせと苗を植えた、狭い、ささやかな花壇をけち臭く守るだけなのだ。今はなし崩し的にダンスに参加させられてるけど、時期を見計らってすっぱりやめて、また元の模範的ひきこもり状態に戻るんだ。そうすればすべて元どおり。また平穏な、楽園のような毎日が帰ってくるのだ。自分の狭い世界に閉じこもり、護られ、停滞した毎日。クリアできないゲームのように、代わり映えのしない、ただひたすらに繰り返されるだけの日々。延々とループし続ける、空虚でくそったれな毎日……。私は、本当にそんなものを願って……、
「――もう、意地張ってないで、ジャンプしなよ、おねえちゃん!」
そんな抜け殻のような私を見て、あんまり退屈していたのか、妹は突然百数十デシベルほどの大声でそう叫ぶと、私の持つコントローラーにその手を伸ばして、ぽん、とボタンを押した。
狭い画面の中の「私」は、軽やかに、羽ばたくようにその身を舞わせた。その動作は、ポリゴンの描画する、いかにも作り物らしい姿だったが、同時に、その「私」を取り巻くドット絵の背景の、定められた運命と思われていた境遇の虚構性をも暴き出し、不思議と責めを免れているような痛快さがあった。妹の指先一つで、私ではない誰かの思いつき一つで、私はこんなにも自由になれるのだ。私の意識も無意識も、それが生来的に与えられていたものであるなら全ては私の自発的な意図の介在しない虚構であり、その虚構同士の相対的な無の混沌から新たに萌芽してくるなにか、それこそが私の自由なのかもしれない。
実際、その時の画面の中の「私」は、心など持っているはずもないのに、本当に自分の意志でジャンプをしているように私の目に映った。まるで、憎むべき運命から逃れようと必死にもがいているかのように……。
私の中で、何かがカチッと音を立てるのが聞こえた。目に入ってくるテレビ画面の映像も、部屋の壁紙も、失っていたその色彩を取り戻していく。
「あーあ、またやられちゃったじゃん! おねえちゃんののろま! ゲームの中でさえそんなにやる気ないんだったら、もう生きてる価値ないよ! おねえちゃんなんかもう、アイキャンフラーイ、しちゃえばいいんだよ!」
「うん、そうするよ」
「? え? な、なに?」
明らかに、その時の私はどうかしていた。
「ジャンプ、跳んでみるよ。私」
「え? な、なに、なに言ってるの!? おねえちゃん!?」
感覚のなかったその指先が、再び力を取り戻すように熱を帯びていくのが感じられた。
失敗するかもしれない。
笑われるかもしれない。
がっかりされるかもしれない。
でも、やってみよう。
精一杯、チャレンジしてみよう。
――本当に、この日の私はどうかしていた。
「私、跳ぶよ。思い切って、跳んでみる。」
妹の両目をじっと覗き込んで、私はそう宣言した。すると妹はなぜか、あわわわ、と青ざめた表情になり、
「ご、ごめん! おねえちゃん。私、からかいすぎた。待って、考え直して、早まらないでー!」
……ん? 何を言ってるんだ、こいつ?
「お、おかあさーん! おねえちゃんを、おねえちゃんを止めてーー!」
……な、なんかこのバカ、「跳ぶ」って言葉に反応してとんでもない勘違いしてるぞ? ……え? 私って、そんな心病んでるように見えるのかな……? う、うわー、なんかすげーショック。妹は、珍しく心配してくれる時でも、こうやって私を思いっきり傷つけていくのだった。
「お、落ち着けっ!」
血相を変えて部屋から飛び出そうとする妹を取り押える。妹は、まだ、おかあさーん! と、大声で叫んでいる。
「落ち着きなさい! あんたにからかわれたぐらいで、自ら命を絶つようなか弱い私ではないわ。お姉ちゃんはもっとしたたかだから安心しなさい! もしあんたのせいで死ななきゃならないような状況に陥ったら、そん時はあんたを殺して私も死――」
そこでドアがガン! と開いてお母さんが息を切らせて現れた。その目の前には、妹を羽交い締めにし、あんたを殺す! とか怒鳴っている私と、おかあさーん! と泣き叫んで暴れる妹の姿。最悪のタイミングだった。
耳をつんざくようなお母さんの怒声。……なんでこうなるの? 今日は本当に散々な一日だった……。