ixte -8月26日
8月26日
すがすがしい朝である! 私はとても心地いい弾力に包まれながら目が覚めた。
なぜか、いきなり目の前においてあったその謎の肌色の壁は、私の全く見覚えのないものだった。そっかー、私を包んでいた謎の弾力の正体は、この謎の肌色の壁だったのかー。だけど、どう言うわけかその谷間の右側には、私の見覚えのあるホクロが3つ並んで付いていた。うん? なんだこの既視感は? このホクロの正体は、一体……? ……そうだ、思い出した。確か妹の胸元にこんなホクロがあったはずだ。まだ一緒にお風呂入っていた頃、この3つ並んだホクロのことよくからかってやってたっけ。なるほど、これで謎は全部溶けた。誰だって、目が覚めたら妹の胸に顔を埋めていたって経験くらい、一度や二度は……
「……って、なんでやねーーーん!!」
私は、そこでやっと目が覚めてルパンダイブの逆再生……以下省略。
「……ほえぇ? 何ー? 朝っぱらから……。おねえちゃんまじうるさい……キモい……」
妹だ! その謎の壁の正体は、妹の胸の谷間だった! な、な、何よあんた!? なんで勝手にあたしのベッドで寝てんのよ!? し、し、しかもおっぱい丸出しで! ブラはどこにやったのよ! なんで外して寝てんのよ!? わ、私でさえつけたまま寝るのに!!
そんな私の狼狽をよそに、妹は眠たげな目をこすりながらおもむろに上体を起こすと、まるで見せびらかすみたいにその豊満な胸を逸らしてんーーっと伸びをしてみせた。ど、どーでもいいけどこいつの胸、最近さらに成長してねーか? ちょっとは脳にも養分回せばいいのに……。
「もーうるっさいなー、裸になって寝ていたくらいで、なに騒いじゃってんのおねえちゃん? ちょっと前まで、あんなに一緒にお風呂入った仲じゃんか。……ほら、これ! 覚えてる? おねえちゃんがいつもからかってたホクロだよ! まだ残ってる〜〜♪ 見て見て見て〜〜!」
や、やめて! そんなとんでもないおっぱいを指差しながら、いたいけな微笑みを私に向けてこないで! 劇物を甘いオブラートで包んだような、そんなフェイタルなあどけなさで、私をほださないで! どんどん大人になっていく身体を持て余してるようなその無邪気さが、心だけ大人になってしまった今の私には眩しすぎるから! シャンプーハット外して頭流してやったら、水が怖いー! とか言いながら洟たらしてびーびー泣いてた頃のあんたと、今の、小憎たらしくてけしからん、おっぱいはもっとけしからんあんたとが、その共通のホクロを通しても、私の中でうまく線を結ばないから! 結ばれないからこそ募る想いもあるから! 要するに、おっぱいが大好きです! 地球に生まれて良かった〜〜!
「うわー、おねえちゃんってば、また意味のわかんないこと口走ってるー。ひょっとしてまだ寝ぼけてんのー? そうか、私のおっぱい、そんなに寝心地良かったかねー。えへへ〜」
――ん? 何言ってんの、あんた?
「いやね、今朝、私がいつものごとくスーパー早起きしてマッハでおねえちゃんの部屋に赴いたらさ、案の定、おねえちゃんまだ布団の中にいて、むにゃむにゃ……、おっぱ〜い、おっぱ〜い、てい……も……さんのおっぱ〜い、やわらかひ〜、ふにゃ〜〜……とかそんなこと言いながら、それはそれは気持ち良さそうな、コーコツとした表情で眠りについてたもんだからさ、なんかちょっと悔しくなっちゃって、私のおっぱいだって負けてないもん! って思って、顔に押し付けて添い寝してあげたんだよ。どうだった? いい夢見れたかねー? うひひーw」
な、なんだこいつ、やっぱバカだったんだな……。どうして、おっぱいのことでそんなに悔しがれるんだ? どうしてそんなことで闘争心が芽生えるんだ……? そりゃ、あんたは確かに大きくてやわらかい、素晴らしきおっぱいをお持ちのようだけど、いくらなんでもそのことを鼻にかけ過ぎなのではなくて? そうやって他人と自分のおっぱいを比べて、勝った、負けたとかそんなこと常に気にして、四六時中おっぱいのことばっか考えてるからそんなおかしな思考回路に陥っちゃうんだよ。そんで挙句は寝る時にさえもおっぱいの夢を見て卑猥なうわ言をむにゃむにゃつぶやいて……って、それ私じゃん! うわー、私、超、バカじゃん!
……ん? って言うか、私、おっぱいの夢を見てた? そんなこと、寝言で口走ってた? ……ほんとに?
「ほんとだよー! おねえちゃんってば、宙空を揉みしだくような手つきしながらさ、う〜〜、う〜〜、おっぱいが〜! 私の至高のロケットが〜〜! その機体の発射角のアティテュードと打ち上がるラティテュードとの相姦……相関関係が〜〜! 乳腺組織の密度と、指に伝わる反発の、弾力性の関係が〜〜! 可塑性のなさ、痕跡の残らなさ、その到達の、征服の不可能性に根ざした禁忌の甘美さが〜〜! ……とか呻いててさ、なんかおっぱいのことについてやたら詳しそうだったんだけど。一体どこでそんな知識仕入れたのー? ……ひょっとして実地学習!? きゃー!! やだー! テカテカ」
な、何言ってんのよ! 私がそんなこと知ってるわけないじゃない! だいたい、発育した女の子の身体をまじまじと見たことなんてないし! ……って言うか、まさに今、あんたのおっぱいを見たのが生まれて初めてで、それまではそんな機会全然なかったし! ……え? 修学旅行の時見たことあるだろって? ブッブー、ですわ! だって、私お腹痛いふりして部屋で休んでてみんなと時間ずらして一人でお風呂に行ったからみんなの身体見てないもん! 残念でした! 私がな!
……あれ? だけど、確かにそんな記憶のかけらが紛れ込んでいるような違和感がある……。なんだかふわふわして、明瞭な像を結ばない、あやふやな記憶だけど、私、だれかの立派なおっぱいをまじまじと見たことがある……って言うか、もっと卑猥なことしてしまったような記憶さえも……! こ、これは一体……!
――ばちーん!
きゃー! な、な、な、なにー!? 私は突然平手打ちをされたような衝撃を頰に受けて、ものすごい弾力に突き飛ばされて床をゴロゴロと転がり、壁にどかーんと頭を打ちつけてしまって小鳥さんがピヨピヨ……。な、なに? 何が起きたの?
「もー、おねえちゃんってば! まーたなんだか虚ろな目をしてぼーっと、何考えてんのかわかんないような、心ここに在らず、って感じで空中を眺めてたよ? なんだよー! こんなに可愛らしい妹の見事なおっぱいが目の前にあるってのに、どこ見てんのー!? もっと私のことを見ててよー!」
おっぱいだ! 妹がその巨大なおっぱいで私の顔に思いっきり体当たりしてきたのだ。う、うわー、すげー衝撃! その密度の高い弾力性が衝撃を吸収、どころか何倍にも増幅して、私は張っ倒されてしまったのだった。な、なんだこんちくしょー! おっぱいビンタとか、そんな誰しもが憧れそうなシチュエーションなのに、いざ喰らってみると痛てーだけで意外と旨味がないのな。シリコン樹脂でエアバッグ作ってみた! ……みたいな動画を撮影中に大怪我して、全然収入になんないニュースサイトでバズってしまったユーチューバーの気分だよ! どんな気分だよ。
「知らないよ。おねえちゃんがぼけーっとしてるから悪いんだよ。おねえちゃんが、私みたいな大切な人の存在に気が付けていなかったから、こうやって不意に驚かされるんだよ。全部おねえちゃんのせいだ!」
な、なんだと……! このバカ、明らかな加害者のくせに私に責任の所在すべて押し付けて来やがって……! 全部私のせい、だとー!? そんなわけ、そんなわけ……
……あれ? ひょっとすると、そうだったかも知れない。なんか、遠い記憶の中に、そんな風に私のせいで取りこぼしてしまった、大切な何かがあったような気がする。私がいつも気づけていなかった、そのために私がいつも驚かされていた誰かがいたような気がする。ふとした瞬間にいきなり現れては、わっ、いたの!? って、いつもびっくりさせられていた、そんな誰かが……!
「ちょっと! おねえちゃん、聴いてるの!? 聴いてるのー……るのー……のー……」
……そうだ、私には、大切な人がいたんだ。すぐ人の髪型とか服装とか、果ては包帯とかまで真似してきて、まるで同化するように私たちの中に紛れ込んではあっけらかんとしていた、その子。私の独り善がりな、誰にも理解されない特性に対しても、勝手に模倣してしまうというある意味最大級の賛辞を投げかけて、私の存在を、ひそやかに、それでいて確かに認めていてくれていた、その子。私たちのしょーもないやり取りを、なるべく干渉しないよう遠くからしおらしく眺めているかと思ったら、突如、斜め上のマジカルストレンジパワーを発揮して鮮やかに、ドラスティックに干渉してくる、彼女。ふと時折見せる寂しげな横顔のかなたに、何か、背負いきれないほどの巨大な闇の存在を覗かせることがあるのに、自分からは決してそれを表に出さないよう、まるで堪えているかのようなぎこちない寡黙さで、いじらしく微笑んでいた、彼女。その人の影が、記憶が、今朝からずっと私の脳裏にちらちらと浮かんでいる……。寝ている時にも、夢の中で、その無意識下の目で、私は彼女のことを見ている……。覚醒していても、現実を現実味で凌駕するごとき強烈な臨場感で、目の前の世界を遮断してしまう、そんな幻想の放恣な稠密さの中に彼女の姿を見ている……。まるで巧妙なだまし絵のように、視界のそこかしこに潜んだ彼女の姿を感じ取っている。いや、違う。むしろその彼女こそが私の知覚すべき世界の意味、そのものなんだ。光の明暗、色彩の濃淡、そういった視覚的な諸要素、まるでデジカメの画像データのように再現可能な、情報としての世界の像にはさしたる意味もなくて、私たちが何かを見る、その行為の本質は見つめる対象にではなく見るという能動的な経験そのものにあるのだ。見るという行為の本当の意味は、見ている「何か」ではなく、一緒に見ている「誰か」なんだ。だから、私がその頃は気付けなかった、見ることができなかった誰かのことを、私は、その本当の意味で、見ていたんだ。薄いカラーフィルター越しに眺める景色がどんな色合いでも帯びることができるように、彼女の姿を通して見ていた景色たち、彼女の存在を媒介としてなされた行為たちは、その発生の段階から既に豊穣な意味合いに満ちていたんだ。きっと私の眺める日常の様々な事物にも、彼女の影がはっきりと差していて、どこにでもある木立の緑の中にも彼女の移ろいやすい心のさざめきを感じ取っていたし、なんでもない空の青さの中にも彼女の瞳の透き通るような麗しさを見て取っていた。そう考えると、この部屋の淀んだ空気の中にも彼女の抱えていた憂鬱さが散在しているような気もするし、エアコンの風にたなびくカーテンの隙間から、床に溢れ落ちた光にも、彼女が逡巡しながらも開きかけた心の内面がきらめいているような気がする。ベッドの上、無造作に翻るシーツの皺にも、彼女の身体のたおやかな曲線美を感じることができるし、今、まさに私に迫り来る巨大な肌色の壁にも彼女のその豊満なおっぱ……ん? 迫り来る肌色の壁? こ、これは一体な……ばちーん! きゃー! ゴロゴロゴロ、どかーん! ピヨピヨピヨ……。ちょっと! おねえちゃん! 聞いてるのー!? るのー……るのー……のー……
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8月26日
私は結局、私でしかなかった。みんなと一緒にいるときだって、私は、自分の見ようとしたものしか見ていなかった。誰かの存在を、その人の本当の意味を、自分の瞳の中に映し出そうとしたこともなかったし、誰かがその視界の中に見出したものを共有しよう、私なりの解釈で温め直そう、としたことさえもなかった。私の視線は私自身、私の内面にのみ注がれていて、見るという行為は私一人の閉じた志向性の中に根を下ろしていた。まるで超新星爆発する間近の恒星のように自分一人で力を溜めこみ、その力のために縛りあげられ小さく縮こまって、身動きも取れずにやがて来る崩壊の予兆に慄いている、そんなひたすらに無益で儚い、力学的な自律という観念こそが私の姿だった。だから私が本当に掴み取ろうとしたもの、本当に見て取ろうとしていた何かが「×××」によって遮られ、何も見えなくなってしまった今でも、状況は何も変わってはいないんだ。空虚で、何もない、それでいてその無目的な、純粋に繁殖のためだけの繁殖能力でウイルスのように世界を埋め尽くしてしまう、そんな「×××」こそが私の本当の姿だからだ。私は結局、「×××」でしかなかったんだ。
だから、あの日。相沢さんが練習で難しいジャンプを決めて、びっくりしたように、だけどちょっと誇らしげに微笑んだ×××な笑顔の中にも、私がどんどん突飛なアイデアを思いついて、それを相沢さんに話したときの彼女の困惑した表情に×××を見つけたときだって、私は何も見ていなかったんだ。その×××の中に確かにあると思っていた輝きは、私が×××××を手に入れようとした瞬間に、焦る私の指の間をすり抜けて、するりと逃げていってしまった。そうして私の手にすることのできる×××××××は、当初の意味を全く変えてしまった、私が最初に見ようとした××××××××××の姿とはかけ離れたものだった。そこにあるのは、理解できない、私の関与しない未知なる何かの現れで、世界を××あ××あた×××な風に眺めようとした私の視線が取りこぼしてしまった何かなのかもしれない。私は、結局はそんな××あた××し××はこ××な何かの存在を無視して、ないものとして忘れ去ってしまったのかもしれない。だけどきっと、私はそんな××あた×し××はこ×こに××いるちゃ××んと×××見××て××××に支えられていたんじゃないだろうか? 何も見えない、何も存在しないと思っていたその××もっ××とち×ゃ×××ん××とあた××し××のこ××の中にも、私がちゃんと見ていれば、私にとって大切な誰かの存在が、夜空に瞬く星屑のように、まるで××あたし××のことを××見××のように紛れ込んでいたのではないだろうか? 私の××あたしのことを××見××ろー!××見ていた××あたしは××ここに××景色××いる!××はそんな××お前××なん××誰かの存××か怖くな××在を前提××い!怖いのは××に成り立××怖いのは、怖いって思うことだ!××ってい××お前なんか! 怖くないから××たのではな××怖くない!××いだろうか?××もっと、ちゃんとあたしのことを、あたしのことを、見――
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8月26日
見ろーーー!
あたしは、叫んだ。失われた何かのため、あたし自身のために。
私の中に巣食う空っぽな部分が、その失われてしまった意味を
再び取り戻せるように。
それが何なのか分かんなくても、何もできなくても、
分かんない! 何もできない! って叫ぶことぐらいはできるはずだから。
こんなあたしでも、助けを求めて泣き喚くこと、
誰かにすがり付くことぐらいはできるはずだから。
空白を埋めたいなんて思わない。
あたしの空白は、既にあたし自身のもんだから。
あたしの孤独は、きっともっと意味のあるもんだから。
だからあたしは叫ぶんだ。
一人きりでも、何もなくても、声さえ出なくても。
この空っぽな心を透かして、あたしは世界を覗き込むんだ。
そこに何かを見出すために。
8月26日
ひょっとしたら、私も、何かを見出せていたのかもしれない。この「×××」の中に。
「×××」は私が見ようとして、見落としてしまったもの。自分自身にのみ向けていた私の視線が、何にも触れず、どこにも行き着かずに惑わされてしまった、痕跡だから。
だから、私は「×××」の中に、きっと誰かの存在を見ようとしていたんだ。
だけど――
あたし一人では、何も見えなかった。何も手に入れられなかった。
でもそれは悲しいことじゃない。憂うべきことじゃない。
そんなあたしの弱さが、誰かのことを必要とする無力さが、
みんなとの間の架け橋になるかもしんないからだ。
――だけど、私は見ることができなかった。
自分の弱さを、絆創膏でふさぐみたいに、覆い尽くしてしまった。この「×××」で。
私の弱さは、誰の目にも止まることはなかった。そして私も、自分の弱さを通じて誰かの存在を覗き見ることができなかった。この「×××」に、視界を遮られて。
だからあたしは、もっと泣き叫ぶべきだった。
あたしのこの弱さでさえ、もっとずる賢く利用すべきだった。
みんなと繋がるために。そして、都合よく誰かの助けを求めて、
思いっきり喚き散らすべきだったんだ。
この「×××」を通して、誰かに助けを求めたとしても、そんなの、届くわけなかった。
だから私は一人でなんとかしようとした。いや、その逆に、なんとかしようとした結果がこの「×××」なのかもしれない。
結局私は一人だった。結局私は「×××」だった。だから、誰かに助けを求めることなんて、できなかった。
あたしは、助けて欲しかった。
誰もいなくても、誰の耳にも届かなくても。
あたしは、大声で叫びたかった。
そんなこと、とてもできなかった。
誰かに助けを求めるなんて、恥ずかしくて、みっともなくて、
私には、そんなことできるわけ
8月26日
たーーすーーけーーてーー!!
おっぱいが〜〜!! おっぱいが私に迫ってくる〜〜!
ぎゃあああああああーーーっ! 殺されるー!
やだやだ怖い怖い死にたくない、
うわーん! いやだ怖い、やめてやめて誰か助けて、
誰か助けてーー!!
……そんなみっともないこと、私に言えるわけなかった。
……あ、あたしも、そんな風に、大声で叫びたかった。
思いっきり、恥ずかしくても、みっともなくても、
なりふり構わず、誰かにあたし自身の叫びを、想いを、届けたかった。
ぎゃー! たすけて〜!
おっぱいが〜〜! おっぱいが、怒ってる〜〜!
ごめんなさい、触ってごめんなさいもうしません許してください、
わーん、助けて〜、怖い怖い許して許して、た〜す〜け〜て〜〜!!
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8月26日
うーー! 助けてーー! おっぱいが〜〜! おっぱいが私に迫ってくる〜〜!
……あれ? 朝?
……なんだ、夢か。
……うーん、どうしたんだ、私? 昨日から、おっぱいおっぱい言いすぎだぞ……? 挙句には、おっぱいの夢にうなされて起きてしまうなんて。こりゃー、私、完全に黒じゃん……。なんだろ、新しい世界への扉って、こんなに突然開くものなのかな? ふーむ、いっそこのままその道に突き進んでしまえば、相沢さんのことなんかそのおっぱいの小ささに比例して相対的に重要度が下がっていって、だんだん忘れていってしまえるのかも……。そうすればもう私も彼女のことを思い浮かべていたずらに悩んだり苦しんだりしなくて済むのかも……。
……って、そんなのダメだー! ……い、いろんな意味で……。だって私、もう絶対忘れないようにしようって、そう決めたんだもん。だから、例え相沢さんが私の方を振り向いてくれなくったって、私は相沢さんのことをずっと見ていなくちゃいけないんだ。彼女の他の、どんなに大切なものを忘れてしまったとしても、私は、相沢さんのことだけは、忘れないようにしよう、って決めたんだ。だから……
……あれ? 「相沢さんの他に大切なもの」って、なんだろ……? 私、そんなに大切な何かを忘れてしまったというのか……? 相沢さんのこと以外にも、私が大切に思っていたものが、そこにあったのかな……? ……もしそうだとしたら、そんなものが本当にあったとしたら、そしたら――!
……そしたら私は、今度こそ、ぜんぶ、ぜんぶ見ていたい。もう2度と見逃したくない。私の失くしてしまったもの、手放してしまった何かを、私は、もう一度手に入れたいとは思わない。それを失ってしまったのは、きっと私のせいなんだから。ただ、そんな何かのことを、もう一度、遠くからでも、眺めていたい。ずっと後悔していたい。その見られる対象にとっては、何も気づけないようなひそやかさで、私は、その対象に確かな意味を与えていたい。私の独り善がりでも、自己満足でも、私はその対象を祝福してあげたい。……それを忘れてしまった私に今さらできることは、そんなことくらいしかないから。それが私の、その対象との最後の繋がりみたいに思えるから。……どんなにデタラメで、どんなに意味がなさそうに見えても、私が見つめてあげることで、そこに確かな意味合いを付与していてあげたい。それをずっと見ていたい。それが何なのか、わからなくても。もしかしたら、私自身にさえ気づけなくても……!




