ixte -8月25日
8月25日
8月25日
すがすがしい朝である!
うわ〜またおんなじこと書いてるよー、これで何度目だろ?
私は、とても心地よい日の光に包まれながら目を覚ました。
とか、なんか早起きしてワタクシ、健康的な毎日を送ってます! みたいな感じに書いてますけど実際おね……彼女が目を覚ましたのはお昼前ですw
得体の知れない、このノートとともに。
わー、おね……この人、もう忘れちゃったのかよー。アナタが誕生日プレゼントに貰ったノートだっての! もう! おね……この人の頭の悪さに、私も目を目ツワ口土る思いです!
8月25日
8月25日
な、なんか、午前中のページに意味のわかんない言葉が書かれてて
ビビったんだけど……!
うわw バレたwww いや〜、いくら愚かなおね……この人でも、さすがに気がつくかー。
この『目ツワ口土る』って、『瞠る』って書こうとしたのか……!
もはや「へん」と「つくり」の位置関係さえちゃんと分かってない
レベルだぞ、これ書いたやつ……!
はー!? なに意味のわかんないこと言ってるし。おね……この人ほんと、あったま悪いな〜〜!
犯人は大体分かってる。
こんな汚ったねー文字で、こんなくっだらねーようなこと書くようなバカは、
あいつしかいない。
くだらないとはなにごとか! 私はおね……アナタのためを思って落書きしてあげたんだぞ! おね……アナタ、ほっとくと、ちょーつまんなくて、意味のわからないことばっかりくどくどとノートに書いちゃうから、だからこうやって私が見てあげてるんだぞ!
次、こんな落書きしやがったら、まじタダじゃおかねえ。
覚えてろ、あのバカ!
8月25日
8月25日
8月25日
わ! やっぱり出てきやがった!
ぷぷぷw やっぱり出てきたー!
私は、相沢依緒。今このノートを書いている、まさにその人である。
さ〜〜て〜〜! お昼ご飯の時間だ。お母さんも呼んでるし、
いっちょ食べにいくとするか〜〜!
う〜わ〜! こんな日ツワ吊の瑣末な一コマのことまで、
大仰にノートに書き連ねて、なにやってんだろこの人?
なんだったらトイレに行くこととか、鼻くそほじることとかも
ちゃんとノートに書きなさいよねwまじ頭回らなすぎて、ひくわ〜〜!
頭が回らないのはお前だ! バーーーカ!! 釣り針だよ、釣り針! まんまとひっかかりやがってバカめ! ……つかレディは鼻くそなんてほじんないわよ? いやあねえ、オホホホホ! おチビちゃんは普段そんなことしているっていうの? はしたないわ〜〜w
……てか、何なんだよこのわっかりやすい釣り針はよーw
今どきそんな餌で私がクマー! とか引っかかってくれるとでも
思っていたのかよw 釣るんなら、さすがにもうちょっと工夫というものが
欲しいところだね。例えば、ツッコミ所を2つ用意しておいて、
ツッコミづらい方を前に置くとかだね。
後ろの方にだけツッコませておいて、おま、前の方はツッコまないのかよ、
認めんのかよ!? みたいな流れにする感じだね。
ときに、(計画通りに行けば)おね……アナタは鼻くそはほじらないかも
知れないけれど、その実、トイレにはヒンパンにおもむくわけですかなw
私? 私はトイレになんか
行かないよー。だって女の子ですもん♪ いやー、アナタ様は毎日快食快便、
完全無欠のウンコ野郎だというわけですな〜。
ウンコウ〜ンコ、ウンコ野郎〜!
はしたないわ〜〜w
こ……の……バカ……! まじで殺意しかないわ……! 次会ったら……もう……! ……まあいい、落ち着け落ち着け。犯人はもうわかってる。あいつしかいない。まじ覚えてろ!
8月25日
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8月25日
犯人はもうわかってる。あいつしかいない、まじおぼえてろ!
ぷーw なんか威勢良く吠えてる人がいますw 誰のことでしょ〜? 犯人ってw 覚えてろ、だって! 知らないよーだ! ばーかばーか!
勝手にやって来て、薄ら笑いを浮かべながら私のことを攻撃していったやつ。
それは、あいつしかいない……!
絶対あいつがやったに決まってるんだ!
今度こそ尻尾を掴んでやる!
さあ……出て来い!!
さあ、出て来い! まだか、まだか……?
うひーw 待ちきれないぜー!
犯人はもうわかってる。あいつしかいない、まじ覚えてろ!
ぷーw なんか威勢良く吠えてる人がいますw
誰のことでしょ〜? 犯人ってw
ツワ見えてろ、だって! 知らないよーだ! ばーかばーか!
(バカはお前だ! 死ねっ!)
痛っ! な、何!? 今の!?
だ、誰!? 私のことぶったの!?
ねえ、誰ー? 出て来い! 逃げるな! 待〜て〜!
ぎゃーははははは! ざまあwww
何この慌てよう! うろたえたところぜんぶノートに取ってやんの!
まじウケるwww いやー、やっぱあいつだったんだな落書きしてたの。
自業自得だぜ! お姉ちゃんをコケにするからこういう目に会うんだぞ!
ほら! やっぱ、おねえちゃんじゃん!
勝手にやって来て、薄ら笑いを浮かべながら私のことを攻撃していったやつ!
私の頭ぶったの、おねえちゃんじゃん!
うはwww さすがにバレていたか。だけど、あいつもたまにはこんくらいの目に会ってもいいんだ。いっつもニヤニヤ、蔑むような目つきで、私のことを見ていた罰だ!
なんだよ〜〜! 私も、ちょっとからかったのは悪かったけど、
なにもぶつことないじゃんかー! 私だって、なにもおねえちゃんのこと
貶めようとしていたわけじゃないんだからね! ただ、おねえちゃんのこと
見ていてあげようとしただけなんだからね!
……え? 何言ってるんだこいつ? 「見ていてあげようとした」……だと? なんだ? 一体誰がそんなこと頼んだっていうんだ……?
だっておねえちゃん、ほっといたらなんかやたら理屈っぽいこととか
繰り返して、毎日毎日おんなじことばっかノートに書き続けて、
全然話先に進まないじゃん! もう半月もの間
『すがすがしい朝である!』……とか書き続けてるんだよ?
読み返してみなよ!
はぁー!? なに訳の分かんないこと言ってんのよこのくそバカ! 私だって、こんなノートなんか今日初めて見たっつーの! それなのに、今まで私がおんなじことを繰り返し書いてきただなんて、そんなことあるわけな……ってホンマや!! えー!? どういうこと〜醤油〜こと〜?
だから、私が見ていてあげようとしたんだよ!
だっておねえちゃん、見ててあげないと一人きりで部屋に引きこもっててさ、
今年もまたこの季節がきた!夏だ!夏といえば海! 水着! 競泳アニメ!
と! 言うわけで、うひひw 今季私的に最高に胸アツなカプはこれだー!
無愛想・無口で普段はむっつりしている……と見せかけて、
じ〜つ〜は〜! ムッツリスケベなだけwという、ハ○ちゃん! それと、
いっつもほわほわ、天真爛漫……そうに見えるけど、
だ〜け〜ど〜本当はゆるゆる、全身緩慢なだけのナ○ちゃん!
のハ○×ナ○コンビ!
うひ〜w 私まじ天才じゃね特に受けにナ○ちゃん持ってくるとかさ、
だってナ○ちゃんって姫受け、健気受け、小悪魔受け、と、
受けのデパートって様相で果ては誘い受け、襲い受け……いやこれは
リバースしての攻めまである! ぬぬぬ、侮れないでござるな御仁、
おっとりしてる、と見せかけてからの押っ取り刀で囮攻め! おっと、
倫理大崩壊でござるwww こ、これは、もうコミケに行くしかない……
じゅるり。薄い本に描かれた逆三角形の胸が、あの逆三角形のゲートへと
拙者を誘うのでござる!
あー、でも外出たくねーなぁ……金もあんまねぇし。
しょうがない、諦めるとしよう。バイトしたら負けだと思ってる!
……とかなんとか、そんなこと一人でずーっとつぶやいててさ、
私のことなんか全然かまってくんないじゃん!
そーやっておねえちゃんが私のこと見ていてくれなかったから、
だから私がおねえちゃんのこと見ていてあげるしかなかったんだよ!
な、なんだってー!? ΣΩΩΩ こ、こいつ単なるくそムカつく馬鹿ガキかと思いきや、実はこんなツンデレ属性を隠し持っていたというのか……! ……うーん、でもなんかまず突っ込むべきはそこじゃない気がする……。なんか私の方が隠し持っていた、っていうかありもしない属性を勝手に付け加えられているし……! コミュ障だとか厨二病だとかは、まあ不本意ながら認めざるを得ないかもしんないけど、それでも私、腐女子でもオタクでもニートでもないかんね!? ニートじゃない……まあ、将来のことはなってみないと分かんないけど、私なんて引きこもりなんだから未来のニート予備軍かも知んないけど、とりあえず、今はニートじゃない。うん、引きこもりだけど、ニートじゃない。ニートじゃないから恥ずかしくないもん!
こーやってさ、私がおねえちゃんのこと見ていてあげているからさ、
だからおねえちゃんのこんなしょうもない、停滞したくだらない毎日にも、
なんていうんだろ……、物語性……? みたいなものが生まれるんだよ?
まあ、それこそどうしょうもない、バカみたいな啀み合いなのかも
しんないけどさ、それでもおねえちゃんの、ずっと一人きりで同じことを
繰り返す毎日よりは、ずっと楽しいでしょ!? 楽しければ、
もうそれが正解なんだよ! おねえちゃんの本当は、
そんな楽しいに支えられていて、そしてその楽しいは、
見つめていてくれる誰かの存在に支えられていたんだよ!
だから、感謝するんだよ、おねえちゃん!
えー? ちょっと、なに言ってんのこの子? 意味がわかんないし、なんか日本語が変だし、それに変に恩着せがましいし……。なんだよ、「感謝するんだよ!」って。こうやって啀み合っているのが楽しいでしょ、だとー? なによ、あんたに私の何が分かる! 私はいつだって一人で生きていくんだ! あんたなんかいなくても私は一人で十分楽しいもん! ざまあwww
8月25日
あのバカ、今度はどんな卑劣な手段で攻撃してくるんだろ?
返り討ちにしてくれるわ!
さあ、どっからでもかかって来い! ちぇ〜すと〜〜!
8月25日
う、うわ、なんか私一人で恥ずかしいじゃないか……。
なによ、急にいなくなって、あいつ。どこに消えたって言うのよ……?
8月25日
なんだ、あいつ夏期講習なんかに行ってるのか。バカのくせに。
まあいいや。一人になれてせいせいする!
これで積みゲー消化もはかどるってもんだ! あ〜楽し〜〜!
8月25日
……なんだろう、今日は何やっても楽しくないや……。
ゲームも飽きちゃったし、ラノベも異世界転生ものばっかでつまんない……。
あいつのせいだ。あいつが私に変なこと言うから。そしてそのことが、私の心の中にずっと引っかかっているから。
だって、あいつの言ってることは全くもっておかしい。あんな、ただ啀み合うだけ、ぶつかり合うだけの無為な時間を、理由もなく「楽しい」と言いやがった。そしてそれが無条件に「正解」なんだと。そんなの、私には全然受け入れられない。私にとっての楽しいこととは、もっと洗練されていて確かなもの、そしてその発現の段階からもっと自発的な意味を帯びるものだ。例えばゲームで神業のようなスーパーコンボを決めた時とか、テストで英語の長文をスラっと訳せた時とか。それはもう一つの極致とでも呼ぶべきもの、知性と技巧に富み、驚異と矜恃に満ちた、それ自体の得難い条件のために逆説的に他の何の条件をも必要とせず、それを為す人に与えられた生得的な不平等から生まれるむしろ平等な、普遍的な「達成」に対する自己愛に満ちた充足感なんだ。だから、私にとって「楽しい」こととは、もっと自律した概念だった。それは、誰かの存在なんか前提とせずに、私一人だけで叶えられることなんだ。よって、妹が言うように、それが「見つめていてくれる誰か」によって達成されるなんてことはおかしい。ましてやそれが私の「本当」を支えているなんてことも。だってそんな「誰か」の存在に依存した心理状態が私の「本当」だなんて、そんなのひどい論理矛盾だ。だから……、だからあんなやつなんかいなくても別にどーってことないし! 私は私一人で、楽しい思いを遂げられるし!
……だけど、今日はどういうわけか、何をやっても楽しくない……。
あいつのせいだ! あいつが変なこと言うから! あいつのせいで私は楽しくないんだ!
8月25日
……もう、遅いなー。何やってんだよあいつ。
バカだから、講習終わっても居残りさせられてるんじゃないの?
ほんと、しょーもないバカだな、あいつ……。
8月25日
なんだろう、不本意ながら、あいつの言ってたことがちょっとわかるような気がする……。それが明白な嘘だと、どうしようもない与太話だと、確信を持ってなじれないような気がする。私が、私特有の価値基準に、いつの間にか私の核心に癒着して剥がせなくなってしまっていたかさぶたのような自動思考に照らし合わせて、むしろ何も考えることすらなく突っぱねてしまったその可能性が、今さらになって触れることのできない輝きを遠くから放ち、その焦がすような熱で私のことを苛むんだ。それはもしかしたら、私が不要だと捨て去ったものではなく、私の弱さが受け入れることのできなかった輝かしい「何か」であるのかもしれない。そう思うことが、私のそれに対するいとおしさのような感情をいたずらに掻き立てるんだ。いとおしさ。他の誰かの存在を求めて沸き立つ痛みのようなその感覚。それが私にとっての、「ちょっとわかる」ということだった。だから、その「ちょっとわかる」ということ自体が、「他の誰かに支えられて」いたんだ。私が「他の誰かに支えられている」かもしれないという命題が、「他の誰かに支えられる」ことにより「ちょっとわかる」ことになるんだ。そしてそれはまた、「他の誰かに支えられている」という命題自体の具体例となって自身を自己言及的に証明付けて、さらにその命題が「ちょっとわかる」ことになって、そして、そして……!
……なんか、ややこしくて、よくわかんないや。
そうか、それは、よくわからないんだ。ある命題を真と仮定してなされる言説と、その命題自体の実践との間には、互いに参照し合い根拠を与え合うことのもつれによって不透明になっていて、そこには目で見て取れるだけのギャップなんてないんだ。同じように、人がある特性を帯びる可能性と、その特性そのものであることとは、その発現のレベルでは不可分に混濁していて、ともすれば同一なものですらあるんだ。ちょうど子宮の中の胎児が、やがて人間らしい身体の各部へと分化していくそれぞれの予感を、それでもやはり胎児特有のその不明瞭な勾玉のような形状の内に秘めて、そこに矛盾も破綻も見出さずにすやすやと眠る安らかさのように、それらはきっと安寧とも呼べる同一性の中に満ち足りているんだ。そして、それを見極めよう、両者を分け隔てようとする人間の認識は、いつも惑わされて、よくわかんなくなってしまうんだ。
でも……それはきっと忌むべきものでも、悲しむべきものでもないんだ。それはむしろ私たちに与えられたギフトのようなものであるのだ。中身を見極めることのできない、まだ包みを解かれていないプレゼントの箱のように、その純粋な「可能性」のままで私たちの世界に投げ込まれた贈り物。そして、そのものと可能性との不可分な性質を思えば、それを届けてくれたサンタクロースはきっと「見つめていてくれる誰か」に違いないんだ。
だから、きっと「楽しい」思いは、わからない。虹の足の中にいる人が、そのことを自分では決して気づけないように、それは主体的に認識する必要のない事実だから。過去の思い出がいつだって眩しいのはそのためだ。その時分には、楽しくて、楽しくて、楽しすぎてわからなかった何かが、一歩引いた未来から、ちょっと暗がりから眺めてみると初めてその輝かしさをあらわにし、その光の乱舞で私たちの目を眩ませるんだ。
だから、あの時の私はきっと気づけなかった。嫌で嫌でしょうがなかった、あの毎日。楠田さんはいきなりとんでもないこと言い出して私を困らせるし、庭下さんはいきなりとんでもないおっぱいで私を……いやはー! 自粛しますねー! と、とにかく、運動も苦手だし、人前に立つのもノーチャンでなしだし、百合属性もなくむしろノンケ(ほんとだよ?)の私にとって、こんな日々は全然いいもんなんかじゃない、早く終わって欲しい、って、そう思ってた。でも……だけど……
緊張で動かない足元。ミスしてばっかの振り付け。大勢の観客を前にひるむ心。悔しくて、恥ずかしくて、情けなくて、泣き出してしまいたかった私。それでも……
突然響いたその声。曇り空の分け目から射し入る一筋の光芒のように、騒めく群衆を割って、私の耳にまっすぐ届いたその息遣い。神託のように厳とした啓示に満ちてるのに、幼児のように拙くあどけないその言葉。何の意外性も神秘もなく、よく聞き慣れた他愛なさで、ただ「おねえちゃん!」と叫ぶ、その声。
……あいつが、私のことを見ていてくれた。
やっと思い出した。何もできなくて、誰にも頼れなくて、最悪な状況で、それでも私が、ジャンプを跳ぼうと思えたのは、きっとあいつのおかげだったんだ。それを無謀だと考えてしまう気概のなさを、物語の停滞を招く尻込みを、可能性への恐れなき跳躍へと、その無謀を肯定してしまえる向こう見ずさへと変化させてくれたのは、向こうから見ていてくれる誰かの存在だったんだ。あの時、ステージに立つ私は、客席にいたあいつから見つめられていた。いや、それだけじゃない。あいつ以外の、大勢いるお客さんたちも、きっと私のことを見つめていてくれたはずなんだ。恐怖に目をくらまされて何も見えてなかっただけで、あの時の私にそれをちゃんと受け入れるだけの勇気があれば、きっとそこにも温かな手引きがあったはずなんだ。だから――
……………………………………?
……あれ? なんだろう? もう一人、私のことを見ていてくれた人がいたような気がする。客席の一番端から……? 誰にも気づかれない陰に隠れて……? いや、もしかして、私がジャンプを跳ぶために足を踏み込んでいた、そのすぐ下に……? 一体、どこにいたんだろう? もしかして、ずっと私のそばに……? いや、そんなはずは……!
……わからない。その有るか無しかの遠い記憶は、はっきりとした心象を私の意識の中心に結ぶことなく、ただ、それが存在したかもしれない過去を、心残りのような違和感を、私に仄めかすだけだった。その不快なノイズのような違和感は、気怠い静寂に護られて惰眠を貪っていた私の日常を諌めるように、無自覚に過ぎていくその毎日を罰するように、そこに立ちはだかってきた。それを眼前に突きつけられた私は、それでもその正体に思い当たるはずもなく、自分が犯したかも知れない罪に思い至ることもなく、ただその感覚を、立ち尽くしたまま受け入れることしかできなかった。
いや、きっとその感覚は、押し付けられたものではなく、与えられたものなんだ。それこそ、「見ていてくれる誰か」が私に届けてくれた、贈り物であるのだ。この違和感は、この静寂を乱す不快なノイズは、この騒々しさは……きっと……
――あ。
あいつ、帰ってきやがった。……うわー、なんだろうね、たった一人、あいつが帰ってくるだけで生まれるこの違和感は、この騒々しさは。家のドアを開ける前から気がつくこのオーラは、喧騒を巻き起こす嵐の前のような予感は……! わぁーった、わぁーったよ一回言えばわかんだよただいまー! なんて。ほんとうるっせーなあいつ……。
まあだけど、なんかあいつのおかげで大切な何かに気づかされたような気がする……。不本意だけど……なんかそれは認めざるを得ない。それに、こんなしょうもない落書きでノートを埋め尽くして、私のことディスってるだけのように見えるけど、だけどこれも一種の照れ隠し、っつーか、あいつなりに私のこと見ていてくれたんだよな……。
そーいや、昔はあいつも可愛かったんだよなぁ。私がどこ行くのにも、のこのこ後ろついてきて、なんでも素直に言うこと聞いて、八重歯見せてよく笑ってさ。私も友達(いた頃)によく自慢してたっけ。相沢さんの妹、ちょー可愛いね! って言われて、私も嬉しくて……。そんなあいつのことが、私も……好、好、……うわー無理だ恥ずかしすぐる、何言っちゃってんだよ私……。
……だけど、今日ぐらいは、あいつに感謝してやってもいいかな。普段は恥ずかしくて言い出せない、私の気持ちを伝えてあげてもいいかな。……直接は絶対無理だけど、こうやってノートに書くんだったらできる気がする。……妹よ、その……あり、あ、ありが……、お、おお、お姉ちゃんはだな、あんたのことが、その……その……好、好、好……
8月25日
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やっぱ、おねえちゃんのことなんて、大っ嫌い!
私だって嫌いだよあんたのことなんか! バーカバーカ!
ほら、そうやって人のことすぐバカって言ってさ!
ほんと嫌い、おねえちゃんなんか!
バーカ、よく見てみろよw 先にバカって言ったの、あんただから!
先にバカって言ったの、おねえちゃんじゃん!
先に言ったほうがバカなんだよーだ!
なんだと! バカとはなんだバカのくせに。
バーカバーカ! バカすぎてキモいんだよ! お前!
キ、キモいとはなんだ! おねえちゃんのバーカ!
ありが……うえぇ。なんか、冷静に考えるとキモい……。
な、なにー、急にw わ、私の方こそ……
ありがとっ! おねえちゃん!
妹よ、その……。
お、おねえちゃんは、い、いつも、あんたに
感謝してるんだぞ。
だから……その……。……ありがとう、妹よ。
もー、そんな風に改まって言われると、
照れ臭いってばーw
おねえちゃんも素直なとこあるじゃん!
……は? なに照れてんの? やめてくんない?
て、照れてなんかないよ! 死ね!
なんだと! 死ねとはなんだ! お前こそ死ね!
先に死ねって言ったの、おねえちゃんじゃん!
先に言ったほうが死ぬんだよーだ!
バーカ、よく見てみろよw 先に死ねって言ったの、あんただから!
死ね死ね死ね〜〜!
うう、そうやって言われるとちょっと傷つくなぁ……。
さすがに、どんなあいだがらでも「死ね」はよくないよね……。
わぁ、先に言っちゃったの、私だぁ……。
……ごめんなさい、おねえちゃん。
な、何よ、そうやって謝られちゃうと……その……。
……ご、ごめん。私も「死ね」は言い過ぎた……。
ちょっとからかうつもりなだけだったんだよ。
傷つけるつもりなんてなかった。
ほ、ほんとは私だってこんなこと言いたくなかったんだからね?
わ、私だって言いたくなんかなかったもん! おねえちゃんに……あんなこと。
そ、それに! 私も、おねえちゃんに言って欲しくなかったんだからね!
ちょー嫌だった! おねえちゃんにあんなこと言われて、まじでムカムカする!
な、なんだと! 私だって言いたくなんかなかったんだよあんなこと!
死ね!
あ! また言った! ひどい!
あんなに、言って欲しくないって私言ったのに!
もう!(消しゴム消しゴム……)
バーカ、よく見てみろよw 先に言ったの……
……うっわ! 私だ!
先に「 」って言ったの、私だ! やだ超恥ずかしい死にたい
先に言ったの、おねえちゃんじゃん!
先に言った方が……うえぇ、気持ち悪い……。
とても私の口からは言えない……。
なによ、あんたさっき言ったじゃない!
はー!? 言ってないし!
うっわ、何それ? まじ恥ずかしいんだけど……。
そーいうこと言わないでくれる? ちょっとキモい……。
や、やだ〜〜w 急にそんなこと言わないでよー!
恥ずかしすぎるってばー!
わ、私も、おねえちゃんのこと……その……
大好きだよっ! おねえちゃんのこと、大好きっ!
妹よ……、おねえちゃんは、その……
その……大好きだぞ! 妹よ! 大好きだー!
✳
8月25日
気づかないうちに、日が落ちるのがすっかり早くなっていた。夜も深まる頃には、はるか上空でひゅんと高鳴る風の音が、思いがけずに涼しい空気を、わずかな心細さとともに運んでくる。
もうすぐ、夏が終わる。
どんなに輝きに満ちた日々も、どんなに愛おしく思っていた熱っぽさにも、必ず終わりが来る。すべては移ろい、過ぎ去って行く。そんな当たり前のことが、今の私には、辛かった。綺麗な花を見つけて、無邪気に手を伸ばしたその指先にとげを引っかけるみたいに、その日々は、私の信じていたその輝かしさの永続性は、隠し持っていた意外さで私の無垢を裏切り、鮮やかな痛みの感覚だけを残して、手の届かない所へと消え去ってしまうんだ。
……いや、違うな。私は、きっと気づけたはずなんだ。その痛みの予感に、その終わりの足音に。私は、裏切られたわけじゃない。その予兆を前にめしいていたわけではない。私はただ、見ようとしなかっただけなんだ。あらゆる終焉は、建造物が倒壊する前に発する甲高い、不快な軋み音のように、人が自発的に意識を逸らしてしまう醜悪さを纏って現れるものなのに、私はまんまと目を背けてしまった。耳を塞いでしまった。美しいもの、輝きを放つもの、私がその手で触れたいと願ったものだけを追いかけて、その罪深い純真さで、本当に大切な何かを捨て置いて、すべてを失ってから初めて気がつくんだ。
相沢さんが何を思っていたのか、庭下さんがどんな気持ちでいたのか、もっとちゃんと考えてあげればよかった。みんなの言葉、振る舞い、表情の間に隠顕されたであろう破滅への予感を、きちんと拾い上げていればよかった。私は結局、何も見えていなかったんだ。自分自身のことも、みんなのことも、見えてなんかいなかった。夜空に瞬く星に手を伸ばすみたいに、絶対に届くことのない虚しい努力で、ありもしない何かを遠くに見ようと息巻いているばかりで、すぐそこに、今にも失われようとしている輝きがあることなんて、気づきもしなかった。ものの見かたはいろいろある。私たちは、憧憬も、敬愛も、等しくその眼差しの中に宿すことができる。なのに私は、その見かたを間違えてしまっていたんだ。憧れなんてものは結局、自分らしくなくなろうとする悲劇的な焦燥に過ぎないのに。栄光なんてものは結局、やがて日常の塵埃をかぶるであろう通俗的な慰めに過ぎないのに。……最初から全部持っていたくせに、その持っているものの幻影を、できの悪い模造品を手に入れようと躍起になって、すぐそこにあった本物を壊してしまったんだ。
だから私は、もう一度、今度こそちゃんと見てあげなければいけない。相沢さんのことを、庭下さんのことを。そして――私自身のことを。
私がその意図を持てば、きっとそれらは叶えられるはず。それも、同時に叶えられるはずだ。それらはとどのつまり、同じことを指しているから。私にとっての本物は、みんなの中にあったわけだし、だからこそ私がみんなを見つめるということは、私自身を見つめるということに他ならないんだ。見つめることは、おんなじになることなんだ。そしてそれは、優劣も、美醜も、善悪の区別も無しにしてしまうような、私たちが生きて犯してきた過ちをすべて赦してしまう母性の慈悲に抱かれているような、そんな同一性の視座なんだ。たとえその見つめる先にあるものが、どうしようもない欠点や瑕疵であったとしても、それを生きるための意味や喜びへと作り変えてしまえる、捻じ曲げてしまえるだけの強さが、純潔さが、その汚れなき瞳の中に息づいているはずだから。一方的に与えられただけの目標の、本来的に私たちの関与しないそうあるべき姿の持つ、端正で息苦しい、織物のような秩序を満たすためだけに、みんなの持つほつれのような個別性を繕おうとなんかせず、私自身もそのほつれになって、意味もわからずにこんがらがって絡み合って、決してほどけないくらいに強く結びつきあって、はたから見れば無価値で美しくもない、毛玉のような独善性の塊になれればどんなによかっただろう。見つめて、見つめられて、みんなで一つになってしまって、外から眺めても無秩序に混沌としていて意味がわからないけれど、それでもその内部では私たち自身が絶えず見つめ合っていることで、確かな意味合いを付与し合えているような、そんな関係性になれればどんなによかっただろう。
……私が、そんなみんなの中のどうしようもなさを、私自身のどうしようもなさをちゃんと見つめていられれば、みんなで同じになってしまっていれば、それはきっと叶えられたはずなんだ。
✳
8月25日
退屈だし、することもないんで、隣駅の街にまで出かけてみることにした。
駅まで行く途中、子ども達が道端でしていたキャッチボールの、取り損ねた流れ玉を拾ってあげようとしたら、あたしの目の前で違う方向にバウンドして、他の人が拾い上げてその子たちに投げ返してた。あたしは恥ずかしかったから、最初からなんも見てないふりして通り過ぎた。電車に乗ってきたおばあちゃんに、席を譲ろうと立ち上がりかけたら、その前に他の人がすっと立ち上がっておばあちゃんの手を引いていた。あたしはちょっと浮かせかけたその腰をまた座席に下ろして、じっと下向いてくちびる噛んでた。早く次の駅に着かないかなー、って思ったけど、どーせなんの目的もないんだから別に急ぐ必要なんかないんだ、ってことに気づいた。
駅に降り立った。自分が蟻んこになったような気がした。街の喧騒と、人混みの熱気と、足元で何かが蠢いているような変な気配とが、渾然となって、巨大な塊となってあたしに襲いかかり、それでいて何もせずに、スローモーションであたしの側を舐めるように通り過ぎて行った。街行く人たちの目線の高さはあたしとそう変わりないのに、どうしてこんなおかしな感覚が芽生えるんだろう、と思って、気がついた。どこかへ向かって忙しげに歩いてる人たち、共通の話題を探して気ぜわしそうにしてる友人たち、まるで幸せを誇示するかのように腕を組んで歩いてる恋人たち。みんなみんな、巨大な「何か」の一部だった。あたしだけが一人ぼっちで、ちっぽけな体を携えて、その「何か」のひしめき合う間隙に身を滑り込ませるように、潜むようにして静かに息をしていた。あたしなんか、簡単に押し潰されてしまうんだろうな、って思った。みんながあたしの存在を赦していてくれなければ、看過していてくれなければ。……いや、違う、そんなんじゃない。無視していてくれなければ、忘れ去っていてくれなければ。なんも見ようとしないでいてくれなければ。
……あたしなんか、消えてしまえばいいんだ。いつの間にかすっかり高くなっていた青空に、引っ掻き傷みたいな、今にも消えてしまいそうな筋雲が何本も光っているのを見て、ふとそんなことを思った。相沢さんに、もう解散だ、って言われたあの日、あたしがもう誰からも必要とされなくなってしまった、元のあたしに戻ってしまったあの瞬間にも、おんなじ青空が覗いていたんだ、と思ったら、ぞっとした。あたしがそん時、どんな気持ちでいたのか、どんなに傷ついていたのかなんてことの記憶は、この永遠に繰り返されるような、深い深い、どんなに手を伸ばしても決して触れられないような青空の、ほんの表層の部分に醜い、かすり傷のようなものしか残せなかった。次の日になれば、世界はまたおんなじ一日を始めようとする。あたしの悲しみなんて、なんでもなかったかのようなふりをして。そう考えたら、この澄み切った青空の下に、あたしの居場所なんてどこにもないような気がした。そうだ、あの日、あたしはひっそりといなくなってしまえばよかったんだ。見えなくなること、みんなから忘れ去られて跡形もなくなること。それだけがあたしの望んだものだったんだ。この巨大な街の中で、あたしが自分の居場所を見出せずにいるように、あたし自身の過ごしてきた時間の中にも、その記憶の中にさえも、自分の姿を見失ってしまうこと。相沢さんの笑顔も、楠田さんの言葉も、みんなと過ごしてきた日々の出来事も、忘れ去って、思い出せなくなって、なんでもなかったことにして。ぜんぶ元どおりにして、今までどおりのあたしに戻ること。客席を埋め尽くす大勢のお客さんからも、一緒にステージに立っている相沢さんや楠田さんからも見つめられることなく、あたしも2人の姿を見つめることなく、互いに忘れて忘れあって、最初から何にもなかったことにして……!
――あああああああああーーーっ! 突然、意図せぬ痙攣の発作に見舞われるように、あたしの喉元がひとりでに叫び始めた。自分でも驚いた。なんでそんなことしてんのか、あたしにもぜんぜんわかんなかった。その激しい慟哭に、息もできず、堪えきれなくて、線路沿いのフェンスに指を絡めて地面に屈み込んだ。何本もの電車が風を巻き上げて、あたしの目の前を通過していった。叫びは止まらなかった。周りの人たちが、初めてあたしのことを認識したみたいに、怪訝そうな目であたしのこと見てるのがわかった。けどどうしようもなかった。定刻通りの特急列車が駅を飛ばして、速度を緩めずにあたしの前をすごい音を立てて通り過ぎて行った。掻き乱された小石混じりの風を額に受け、ふと、「正しい」ことの残酷さを思った。正しい世界があたしの存在を認識した、きっと「何か」があたしのことを捕食しにやって来るだろう、あたしはきっと、こんな風に泣き叫ぶことしかできないだろう。弱い存在、間違った存在であることは、恐ろしいことだと思った。それでいて、自分がその「何か」に呑み込まれ、「正しさ」の一部になってしまうのは、もっと怖いことだとも思った。あたしが恐怖に駆られて叫べば叫ぶほど、周りの人たちの注視を集めて、正しい、残酷な世界に取り込まれていくのがわかった。でもあたしにはなんもできなかった。ずっと一人でいることを望んだのに、誰からも見つめられることなく生きていくことを願ったのに、他でもないあたし自身がそれを許してくんなかった。喉が引きちぎれてしまいそうなくらいに叫び続けた。引きちぎれしまえばいい、とさえ思ってしまった。あたし自身が、その残酷さの一部に成り変わってしまっていたんだ。
――大丈夫ですか? 誰かがあたしにそう声をかけ、そっと肩を叩いた。飛び上がるくらいびっくりした。世界に牙を剥かれたような気がした。咄嗟に逃げようと思って立ち上がろうとした。でも足が動かなかった。怖かった。どうしていいかわかんなくて、あたし一人じゃどうしようもなくて、誰かに助けて欲しいと思った。でも、誰に? こうやってあたしのことを助けようとしてくれる誰かから逃げようとすんのを、あたしは一体誰に助けてもらえばいいんだ? 誰にも見て欲しくなんかないって思ってる、そんなあたしの気持ちを一体誰に認識して、誰に見ていてもらえばいいんだ……?
……ふと脳裏に浮かんできたのは、あの瞳だった。いつも不機嫌そうに、憮然と細めていたあの瞳。何も見ていたくなんかなさそうで、そのくせにちゃんと見ていてくれる、捻じ曲がった優しさに満ちたあの瞳。その矛盾だらけの慈悲深さで、あらゆる矛盾を肯定してくれるような眼差し。世の残酷なまでの正しさも、軟弱にすぎる間違いも、すべて等しく赦してくれるような、包み込むような、あの視線。
――相沢さんだ。いつも、みんなのことをじとっとした目で、それでもちゃんと見ていてくれたその人は、相沢さんだったんだ。……つっても、あたしのことはあんま見てくれてなかった気もするけど……。いや、そうじゃない、だからこそあたしは相沢さんに、もっともっと見て欲しかったんだ。いきなり相沢さんの目の前に現れて、うわっ、いたの!? って言って驚いて欲しかった。あたしのキモい顔だって、下手くそなダンスだって、ぜんぶちゃんと見ていて欲しかった。あたしのおっぱいだってちゃんと視姦してほし……自粛しますね。とにかく、そん時のあたしの中には、相沢さんに対する想いが、彼女に見ていて欲しいっていう願いが、溢れてきて、堪えきれなくて、もうどうしようもなかった。
――見ていて欲しい? これもまた矛盾だ。あたしの中身なんかどーせ空っぽなのに、誇れるもんなんかなんもない、空虚な存在なのに。そんなあたし自身のことを看破されるのが怖くて、世界に認識されたくなくて、誰にも見て欲しくないと願っていたはずなのに。そんなあたしの歪んだ保身欲求が脅かされたときだけ、なんであたしは誰かの視線を必要としているんだろう?
……あたしはその知らない人の手を振り払って、思いきり駆け出していた。驚いたのか、呆れてんのか、その人もあたしのことをもう追いかけて来ようとはしなかった。それでもあたしは走った。走って、走って、走って、立ち止まったら「何か」に捕らえられてしまいそうな気がして、得体の知れない恐怖に、意味のわかんないことを大声で叫びながら、全力で走った。線路を跨ぐ陸橋の上まで走って来て、初めて自分が何叫んでんのかわかった。「依緒ーっ!」「椎香ーっ!」2人の名前を、一度だって呼んだことのないはずの下の名前をなぜか、交互に繰り返し繰り返し叫んでいた。なんでそんなこと叫んでんのか分かんなかったけど、叫べば叫ぶほど、あたしの胸ん中がどんどん温かないとおしさで満ちていくのが感じられた。息が上がっていた。動悸も激しくなっていた。この胸の律動は、激しく、力強く脈打つようなこのリズムは、線路の軋み音なんかじゃない。あたしのもんだ。眼下には電車がひっきりなしに走っていたけれど、さっき目の前で見た時よりもずっと小さく見えた。あたしの側を素知らぬ顔で通り抜けて行ってた電車たちは、今度は真っ正面から、あたしの足元に向かって突き進んでくる。その電車の一つに向かって、あたしは、思いきり叫んでいた。
「あたしは! お前のことなんか! 怖くないぞ!」
なんも考えずに口をついて出て来たのは、またしても意味のわかんない言葉だった。
「本当に怖いのは、怖いって思うことだ! お前なんか、怖くないから、怖くない!」
だけど言葉は止まらなかった。お腹の底から、口をついて飛び出して来て、電車の騒音に遮られて、何にもならずにかき消えていく、儚い言葉たち。それでもあたしは、それが口から溢れ出てくるのを止めようとはしなかった。その言葉こそは、あたし自身のメタファー、あたしの姿そのもののように思えたからだ。側から見れば、空っぽで、何もない。世界を少しも変えることなく、爪痕すら残さずに、ただ生まれては消え去っていく、あぶくのような存在。だけど、その発端には、ちゃんと意味があったんだ。独り善がりでも、そいつ自身にしか分からなくても、それでも、確かに、意味はあった。ただ世界に受け入れられなかったというだけで、あたしという存在は、ずっと変わらずここにいたんだ。
「あたしは、ここにいる! ちゃんと、見てみろ!」
あたしは、叫んだ。失われた何かのために。あたし自身のため、みんなのために。ひょっとしたら、あたしが取りこぼしてしまったであろう、誰かに向けて。
「もっとちゃんと、あたしのことを、見ろーーー!!」
✳
8月25日
私は、ただ見ていただけだったんだ。相沢さんのことを、そして、あの背の高い、すごく可愛い女の子……そうだ、楠田さんのことを。あとは……えっと、ええっと……もう一人……いた……ような?
……思い出せない。ひょっとして、相沢さんたちのグループって2人組だったっけ? あのチアリーダーみたいなすごいジャンプ、2人だけでどうやって決めたんだ……? まあ、いっか。とにかく、ステージの上に立つみんなは、すごいキラキラ輝いてた。特に、あの子。なんか派手目な茶髪でギャルっぽい見た目して、おっぱいもすごく大きくてステップ踏むたびにユッサユサ揺らしちゃって、やたら刺激的ですごい可愛かったな〜! 私はずっと見てたんだ。物陰から隠れて窺うようにしながら。あの煌びやかに身を飾り立てるアクセも、蝶の鱗粉みたいなアイシャドウも、すごく可愛かった。いやー、それにしてもあのおっぱいよかったなー、だって、内気で引っ込み思案な私でも思わずステージ上に乱入して後ろから羽交い締めにして思いっきり揉みしだきたくなっちゃゲフンゲフンゲフン! な、何を言っているんだ私!?
……あれ? 本当に何言ってんだ私? そんなギャルっぽい子、うちのクラスにも、相沢さんたちのグループにも、いなかったじゃないか。一体誰のこと思い浮かべてたんだろ? また私がこの夏に培ってしまった妄想癖による、ありもしない幻影なんだろうか……?
まあ、いいや。とにかく、相沢さんだ。私が、こんなに愛おしく想っているのは、相沢さんのことなんだ。こんなにも求めて、欲して、うらやんで。損ねて、悔やんで、苦しんで。溺れて、もがいて、救われて。癒されて、慰められて、また求めて。……そんなことをぐるぐると繰り返してしまう心の揺れ動きが、いつでも中心に見据えているのは、彼女の存在なんだ。あの真っ白に日焼けした浅黒の肌。じとっと睨みつけるように細められた、ぱっちり二重の大きな瞳。毛先までするんとまっすぐ伸びた、縦巻きカールのセミロング。何より、ちょっと小ぶり……と言うよりぺったんこな、残念感ただよう見事な見事なロケットおっぱい! 私がこんなにも焦がれて、そそられて、掻き立てられて。うずもれて、押し付けられて、撫で回されたいと思ってるその対象は、それは……!
わー! わー! ななな、何考えてんの私!? こここ、こんな背徳的な妄想を抱いて、あ、あ、あ、相沢さんにも失礼じゃん! だってあの相沢さんが、あの相沢さんが……おおお押し付けたり、撫で回したりできるほどの立派なモノを持っているわけがないじゃん! ……あ、こっちの方が失礼か。てへっ!(・ω<)
……って! そんなこと言ってる場合じゃないよ! わ、私、さっきから何を考えてるんだ? なんで、こんなありもしない百合属性発揮しちゃってんの? SNS上でLGBTになりすましてマイノリティ気取るのなんて本当に悩んでる人に失礼なんだぞ! 軽々しくおっぱいがおっぱいがーー! とか言うの冗談でも良くないんだぞ! うわw ここに来てのこの作品全否定www メタわろすwww って、笑ってる場合じゃないよ!
――違う、違う。これは私のせいじゃない。さっきから私の気持ちをそそのかしてる誰かがいる。私の意識を惑わせて、ありもしない記憶を植え付けてまで取り入ってこようとしている奴がいる。きっとその記憶の形成された頃は、周囲の人から取り逃がされてしまった、そして今になってそのことを悔やんでいる誰か。誰からも顧みられず、気にも止められず、だけど、一人きりで、確かに何かを想っていた、何かを大声で叫びたかった誰か。誰かに見ていてもらいたいと心から願っていた、その人……。
……私だ。
その人は、私だ。私は、見ていてもらいたかったんだ。相沢さんに……ううん、相沢さんだけじゃない。楠田さんって子にも。クラスのみんなにも。まだ知らない誰かにも……。私は、みんなに見ていてもらいたかった。仲間になりたかった。みんなと一緒に、みんなとおんなじになりたかった。私の見ていたい対象に、ほんとは私自身も見てもらいたかった、っていう、そんな逆説めいた身勝手な願望。矛盾だらけでも、間違いだらけでも、ただお互いに見つめあっているだけで意味が生まれる。そんな関係性に、私は、なりたかった。そうだ、そうすれば私は、一人きりで過ごしていたあの教室の中にも、もっと肯定的な輝きを見出すことが出来たはずなんだ。私の恐れていた、休み時間を告げるあのチャイムの音。みんながこぞってスマホを取り出す時の、ジャックにつけたメタルチャームが触れ合う音。胸元を飾るアクセサリーが、軽やかにふむステップとともに揺れ動いてぶつかり合う、あの音、その胸、そのロケットおっぱい……。私がノートに書き写す前に消されてしまった板書の、黒板に均等に滲んでいく白いチョークの粉。私が記憶に留める前にいなくなってしまった笑顔の、浅黒い肌に均等に滲んでいた白いファンデーションの粉……。床に落としてしまって、ぽんぽん弾みながらどっかに飛んでいっちゃったお気に入りの消しゴム。私が見落としてしまった、にこにこ弾むような笑顔を浮かべながらどっかに消えていってしまったあの子……。そうだ、私が見ていたかったもの、見ていて欲しいと思っていた対象。それは、その子は……!
……あれ? 誰のことだろ……?




