レッスン#2! 〜誰かが、いる……!〜
再び、イントロ、スタート!
曲が始まるとともに、いきなり降り注ぐシンセサイザーのシャワー。重低音が刻むビートに合わせて、みんなの足と一緒にステップを踏む。よしっ! いいスタートを切れた。
キック、ステップ、スライド、ターン。
全く異なる振り付けが次々とやってくる。私は休む間もなくそれらをこなしていく。私だってやればできるんだ、みんなに追いつくことだってできるんだ。
Aメロ。
複雑に絡みつくドリルのようなベースラインに合わせて、両腕、両脚を右へ左へ出したり引っ込めたりする。みんなで動きをぴったりと合わせなければならないパート。ここもバッチリだ! 中庭の芝生の緑には、一糸乱れぬみんなの影が差していた。
Bメロ。
これまでとは打って変わって、一人一人が別々の動きをする。動作を1テンポずつずらしていき、最後には一周まわって再びみんなの動きが重なる。ここもタイミングがぴったりと合った。私はもう迷子じゃなかった。
間奏。
アンビエントなシンセのコード進行の中、最後のCメロに向けて気分を次第に盛り上げるように、コマ送りの映写機が次第にその回転速度を速めていくみたいに、キラキラした16ビートがフェードインして響いてくる。その音の洪水が最高潮に達するまさにその瞬間、光の乱舞の中に隠されていた宝珠をぱっと掴み取るような明敏さで、
「いくよっ!」
楠田さんが、クラッシュシンバルを打ち鳴らすように鋭い叫びを投げつける。それを合図に、
「ワン!」「ツー!」「スリー!」「フォー!」
私たちは掛け声をあげて、Vサインを作ったそれぞれの指先を差し出して突き合わせる。5人いれば星の形になったところだが、手裏剣みたいな形になってしまった。その指を、地面近くまでぐーっと引き寄せてから、ぱっと宙に放り上げて、一気にジャンプ! 宙に舞う身体を、爆風のように吹き付けるドラム音が激しく撃ち抜く、その衝撃は私をそっと鼓舞してくれているみたいだった。
ラスト、Cメロ。
天の川のようにきらびやかなシンセ音の中、私たちのダンスの振り付けも最高の見せ場を迎える……っていうか、最高の難易度をマークする。両腕を体の右へ、左へ、複雑に絡みつかせるようにぐるぐると動かす。あわわ、間違えた。まだまだ完璧と呼ぶには程遠い。だけど、始めた頃よりはずっと上達している自分がいた。中庭の芝生の上を所狭しと駆け回る。その運動量も半端ではない。引きこもりで体力のない私はもうヘトヘトだった。それでもみんなに引けを取らないくらいには動けるようになっていた。ふと見てみたら、みんなだってぜいぜい息を切らせているじゃないか。苦しいのは私一人じゃない。ここで側転2回からのバック転。側転は斜めってるし、バク転も頭を芝生についてしまっていた。それでもその失敗の中に、私は一縷の光明を見出すことができた。曲が終わる頃には、私もみんなも体中に汗をいっぱいかいて息を弾ませていた。
✳
「ぷはぁーーっ、うまい! ポカリがうまいよ!」
ドラマの中から飛び出してきたような、すんごい美人が、私のすぐ横でペットボトルをぐいぐいラッパ飲みしていた。彼女は、そんな麗しい美貌を持っているのに、自分のしぐさがはしたなくなってしまうことなんか、ちっとも恐れていないのだ。見事にきゅっとくびれたウエストに、男子みたいにグッと手を添えて、その和弓のようにしなやかに伸びた身体の、つるをきりきりと引き絞るようにぐいっと後ろにそらし、ペットボトルを逆さまにするほどの勢いで口に流し込んでいたので、唇の端からポカリスウェットがぽたぽたとこぼれ落ちてしまっている。しかし、そのだらしなくこぼした雫でさえも、色とりどりの草花の輝きをその中に溶かし込んで、黎明の日の光をまばゆく乱反射させている朝露の一粒一粒のように見え、彼女の美しさをさらに修飾しているみたいに思えた。
……要するに、楠田さんは、かわいくて、超かわいくて、とにかくかわいくって、女の私でも思わず勘違いしちゃうくらゲフンゲフンゲフン! ……飲み物を喉に詰まらせてしまうくらいだった。そんな一人で謎にむせ返っているキモい私を尻目に、歴代のポカリのCMガールの誰よりも、大胆にも美しい所作で、ポカリを美味しそうに飲み干すのだった。
「くぅーっ、うまい! やっぱ、汗をかいた後に飲むポカリは最高だよね! 青春の味って感じがするよねー!」
「ああ、それわかるなー」
「ですねー。喉乾いてると、特においしいですよねー」
私はどっちかって言うと、ポカリよりもソルティライチ派なのだが、あえて反論することでもあるまい。何も言わずに頷くことにした。
「でも、さっきの難しいパート、うまく決まりましたねー。今までどうしてもタイミング合いませんでしたのにー」
「うん、バッチリだったね」
「私もう、鳥肌立っちゃったよ! やばかったよねー! 初めてみんなで一体になれたみたいだった! なんか、めちゃくちゃ感動しちゃったよ!」
確かに今までで一番全員の動きが合っていた、とは思う。でも、まだまだ完璧と呼ぶには程遠い。慢心するのはまだ早い。ゲーマーは変なところがストイックでKYなのだ。それでも、曖昧に首肯しておくことにしよう。
「だけど、相沢さん、体力付いたよね! 動きもキレッキレで、すごい可愛かった!」
「うん、あたしもそう思う」
「ですよねー。私なんか、あっという間に追い抜かれちゃいましたー。えへへー」
さすがにこんな私でも、たまたまちょっとうまくいっただけで自画自賛するほど馬鹿でも意識高い系(笑)でもない。そんなことないよー、と謙遜したように首を振っておく。
「相沢さんも、ダンスするのが楽しくなってきたんじゃないですかー? 一人でゲームをやるよりも、こうやってみんなで汗を流す方が、ずっと楽しいですよねー?」
「うん、あたしもそう思う」
「ね? 私の言った通りでしょ? ゲームなんかより、ダンスの方が全然楽しいって!」
「いや、それはないね。ゲームがどれだけ楽しくて素晴らしいことか。その行為の尊さと目的の崇高さについて、あなたたち一般人にとくと教えてあげたい……」
…………………………?
「え?」
「な?」
「ん?」
「へ?」
もう一人いる!
「「「お前誰だー!?」」ですかー!?」
蝶の鱗粉のように派手なアイシャドウ、豊満な胸元に揺れるフェイクのダイヤのペンダント、耳元を隠さんばかりに覆う大ぶりの銀のピアス。どうやって装着したのかわからないような知恵の輪みたいに複雑な形のブレスレット。私たちのすぐ前に、目もくらむほどの装飾品のカーテンがそびえ立っていた。……いや、そのカーテンに身を包んだ少女が立っていた。
そんなキラキラの個性的な少女が、私たちにまぎれてダンスを踊っていたのに、なぜ今まで気が付かなかったのか? きらびやかに飾り立てられたクリスマスツリーを目にした時、その電飾ばかりに目がいって、ツリー本体の形状や樹種のことは見えていないのと同じ理屈によるのだろうか? 緩やかに縦巻きウェーブさせた派手めの茶髪に、つけまでパッチリ開いた大きな目。チカチカと光るラメの貼り付けてあるネイル。どこからどう見ても派手な感じのギャルっぽい子なので、とても目立つはずなのだが、一度視界から外れると、どんな顔だったのか、どんな姿だったのか、たちまち思い出せなくなってしまうのだった。
「お前、誰だ!」
「「「いや、あなただよ」」ですよ」
「へ、あたし?」
逆に、その少女の方が私たちに気づいたようなきょとん顔を浮かべる。
「あたし、庭下妙有」
「「「?」」」
自己紹介までもが唐突で自分勝手なのだった。
「わ、私、学校ずっと休んでたから、よくわからなくて……。相沢さん、知り合い?」
「……え? も、模範的に引きこもってる私が、知ってるわけないでしょ? 飯田さんは?」
「あ、あわ、あわわわ。し、しし、知りま、知りましぇーん」
キラキラ少女は、私たちの狼狽なんかどこ吹く風と言った感じで、喋り続ける。
「いやー、あたしさー、こないだからずっとみんながダンスの練習してるの、見てたのねー。わー、いいなー、みんな可愛いなー、って思いながらね」
そういえば、私たちのダンスの練習を見に来る人たちが日に日に増えているような気がする。この庭下さんという女の子も、そんなギャラリーの一人だったのだろう。この前、私の目を襲った謎の光の正体は、この子のつけていた装飾品だったのだ。
「そしたらね! 気がついたら、あたしもダンスに参加しちゃってたの!」
うん、そこが全然わからない。話の前後関係が全くつかめない。風が吹けばNISAで儲かる、ってくらいに、前後関係無いよ?
「……あ、あなたねぇ!」
突然勝手に現れた少女のあまりに傍若無人な振る舞いに、楠田さんもさすがにカチンときたようだ。彼女にしては珍しく声を荒げて、その右手をおもむろに……
「よろしくっ!」
……握手を求めるように差し出した。く、楠田さん、コミュ力高すぎだよー。宇宙人や異世界人とも友達になって、一緒に遊んじゃえるレベルだよ?
「うん、私の方こそよろしくねっ! 一緒に頑張ろうね!」
庭下さんは、差し出された手をがしっと握り返し、かくして、女の友情は、出会ってわずか数秒にして固く結ばれたのであった。……しかし、力強く手を握るそのしぐさも、溌剌として自信に満ち溢れたその口調も、楠田さんのそれにひどく似ている気がした。すぐに人に影響されるタイプなのかな?
そんな光景を見ながら、飯田さんは、どこかから取り出した小さな青いノートに、何やら一生懸命書き込みをしている。……なんだろうあれは? 何か備忘録的なものなのだろうか? 健忘症の彼女は、突然現れた庭下さんという少女のことを忘れてしまわないように、せっせとメモをとっているのかもしれない。……うーん、でも、いくら飯田さんが忘れっぽい子だとしても、もし顔や名前まで忘れられたら、庭下さんとかいう子もショックだろうなー。
庭下さんが飯田さんの方をちらりと見ると、彼女は、慌ててそのノートを鞄にしまいこみ、
「は、はわわ、わ、私もよろしくお願いしますー。4人ならきっと振り付けの幅が広がりますー」
と言って、その小さな手をおずおずと差し伸べる。すると、庭下さんは、その手を今度はシュークリームを持つときみたいに優しくぷにっと包み込むようにして握り、
「うん! よろしく……お、お願いしますー」
と、途中からどんどん上ずった声になりながらそうささやいた。崩れ落ちてしまいそうな何かをそっと掬いあげる掌のような、いや、その掌自体が崩れ落ちてしまうのを恐れているようなおどおどしたその口調は、飯田さんのものとそっくりだった。やっぱり、この子には、人の口調を真似る癖があるのだろうか……?
飯田さんと挨拶を済ますと、庭下さんは今度は私の方にその視線を送ってきた。私は、初対面の人は例外なく警戒してしまうので、何も言わずに彼女をじとっと睨み返してやった。すると、庭下さんはバッタの死骸でも見るような目つきになり、
「なによ? 気に入らないことがあるわけ? 私の胸があなたより大きいからって、逆恨みはやめてくれない?」
うっわー、何だこいつ、ちょーむかつくぞー! 一体誰の口調を真似たらそんなくっそ性格の悪いしゃべり方が出来るのよ? そいつの顔が見てみたいもんだ……。えっ、なに? なんで鏡を指差すの?
「あはは、ごめんね、庭下さん。この子……相沢さんはちょっとツンデレなだけだから」
とまあ、なんだかかっるーい感じでフォローされてしまった。なによ、腹たつ。私の16年間に及ぶ人生の思想や哲学の結晶である、この複雑に入り組んだ深淵なる性格を、たったのカタカナ4文字で表現しないで。
そんな私の鬱屈などどこ吹く風、といった様子で、楠田さんは突如舞い込んだ僥倖にキラキラと目を輝かせながら、
「メンバーが増えるのは大歓迎だよ! 一緒に最高のライブを目指そう!」
「うん! 頑張ろうね!」
――はぐっ!
私の目の前で、目もくらむような光景が展開されていた。楠田さんと、再び楠田さんのような口調に戻った庭下さんとが、互いの友情を激しくぶつけ合うようにガシッと思いっきり抱き合っていたのだ。……わ、私をメンバーに誘ったときは、ハグなんてしてくれなかったのに!
清楚で純潔なタイプの超絶美人、楠田さんと、セクシーで挑発的なギャルタイプの美少女、庭下さん。その2人が、汗まみれになった薄いTシャツ越しにギュッと抱き合っている姿を目にして、おそらくその日過去最高の数を記録していたギャラリーから黄色い悲鳴が上がった。それぞれ、発達途上の胸元をきゅっと手で押さえて、「キャー!」とか「イヤー!」とか「ダメー!」とか叫んでいる。近所の人が学校の前を通りがかっていたら、何事か、と思われていたことだろう。突然繰り広げられた百合展開に、私も虚を衝かれ、当惑するやら、困惑するやら、羨ましいやら、妬ましいやら……ん? 最後の2つ何……? と、とにかく、一体どうしたものやらと顔が真っ赤になってしまった。何か、見てはいけないものを見てしまったような背徳感、咎となる秘密を懐に滑り込まされてしまったような罪悪感、先生に見つかってはいけないことを目撃しているような、そんな……
「――お前ら、何やってんだ!」
生徒指導の先生が、ギャラリーの生徒の波をかき分けて現れ、鋭い叱責の声を私たちに投げつけた。
私たちの意図したことではなかったのだが、ギャラリーの生徒が増えすぎて、あまりにも目立ってしまったことから先生に目をつけられてしまったようだ。生徒指導室に連れて行かれて、こんこんとお説教を受ける。部活でもないのに中庭の一部を活動スペースとして占領していること。そもそもグラウンドや体育館でなく中庭で活動していること。期末テストも近いのに毎日下校時間ギリギリまで残っていること。さらには、大勢の生徒の前で女子同士で抱き合っていたこと。あと、校則を完全に無視した茶髪やアクセやメイクをしていたこと(これは庭下さんだけでしょ?)。指導の厳しいことで恐れられている先生にきつく叱られて、飯田さんは、もう今にも泣き出しそうに目をうるうるさせている。そんなにショック受けてたら、またこのことも明日忘れちゃうよ?
「とにかく、こんな風紀を乱すようなら、活動は禁止だ! 生徒としての分をわきまえろ!」
最後にそう怒鳴ると、やっと先生は解放してくれた。生徒指導室の外に出るなり、飯田さんは堪えきれずに、ふえーん、と泣き出してしまった。楠田さんは納得がいかないのか、悔しそうに拳を握り締め宙の一点を睨んでいる。外はもう薄暗くなっていて、校内に生徒はまばらだった。あれだけたくさんいたギャラリーの子たちも、もう誰一人として残っていない。さえぎるもののなくなった中庭を吹き抜ける夕風は、思いもかけない涼しさで私たちの頰を打ち、まるで何かの終わりを告げにひっそりとやってきているみたいだった。
……さて、私たち一体明日からどうすれば……
「やるよっ!」
誰に向けたものでもない、独り言めいた私の問いかけに、楠田さんはかぶせぎみにそう即答した。えー? でもこのまま続けてたら、また先生に怒られちゃうよ?
「続けるに決まってるでしょ!? こんなことくらいですごすごと引き下がるわけにはいかないよ! だって、他でもない私たちがやるって決めたことなんだから! 私たちは、誰かに命令されて生きているわけでもなければ、誰かに咎められないために生きているわけでもないんだよ!」
うーむ、正しい意見である。誰にも怒られないように、「模範的」に引きこもっています! とか言っているどこかの誰かに聞かせてあげたい……。なに? なんで鏡を指差すの?
「だけど……どこでやろうか? 明日も同じ場所で練習するわけにはいかないし……」
――あ、
あそこなら――!
街灯が、ジジジジ……、という不快な音を立てている下を、私たちは俯きながらなんとなく無言で帰路を歩いていた。坂を登りきって、その頂上から街並みを見下ろすと、街の起伏の影になっている暗いところから順番に街灯が照らされているのがわかる。こうやって見ていると、まるで街灯がその耳障りな音とともに暗闇を呼び寄せる不気味な装置のように思えた。梅雨時のジメっとした夜風は、気分次第で感じられかたがまるで違う。気分の良い時には、そこにはキラキラとした夏の予兆が含まれているように思えるが、気分の乗らない時には、それはただ鬱陶しいだけなのだ。
「今日は、あんまり練習できなかったね……」
楠田さんが残念そうにそう言うと、私と飯田さんが無言で頷く。こんなにしゅんとした彼女を見るのは初めてだった。
「……悔しいな」
そう呟くと、唇をきゅっと噛み締めて、渋い表情を作る。
「私たちが、部活動の集まりじゃないからって、何にも認めてくれなかった。……きっと、先生は私たちのダンスを、ただのお遊びだ、って思ってるんだよ」
ぎぎぎっ、っと、彼女の歯噛みする音が聞こえたような気がした。そうか、楠田さんはこんなにも本気だったんだ。
「悔しい。絶対に見返してやりたい。何か、一目見ただけで、すごいな、こいつら本気だったんだなって思わせるような、そんな圧倒的なパフォーマンスを見せつけてやりたい」
私と飯田さんは、無言で顔を見合わせる。悔しいのは、私たち2人も同じだ。できることなら、先生を見返してやりたいのも。でも、そんなすごいダンスが私たち3人にできるのだろうか? 3人ともまだ始めたばかりで、基本を追いかけるのに精一杯だというのに。
「あのさあ、なんか、ごめんね?」
――わっ、て、庭下さん? いたの?
「なんか、あたしが茶髪だったり、アクセ付けすぎたりしてたせいで、余計に怒られちゃったみたいでさ」
思いっきり短いスカートに、セクシーに開いたシャツの胸元をちらつかせながら、庭下さんが申し訳なさそうに言う。うーん、それはあるかもしれない。どうぞ、私を指導してください! って言いながら歩いてるようなもんだもんね、その格好。
「ううん。庭下さんのせいじゃない。私たち、全員の責任だよ」
楠田さんのその声は、薄暗くなった辺りの空気に沈み込むように重たく響いた。側の車道を通る車のヘッドライトは、俯いた私たちの顔を照らすことなく、さっさと追い抜いていってしまった。目の前には、横断歩道の押しボタン式信号がある。私は、俯いたまま、そのボタンを押そうとし、そして、
「……痛たっ!」
差し出したその手首を、熱を帯びたような鋭い痛みが襲い、私は小さく叫んでしまった。そうだ、思い出した。手首にガングリオンができていたんだった。
「ど、どうしたの? 相沢さん。大丈夫? ……うわっ」
手首にぐるぐる巻きにしていた包帯越しに、ぷくっと瘤が飛び出しているところを見られてしまった。
あ、これはなんでもないの。ガングリオンって言ってね、ちょっと痛いだけで、ほっとけばすぐ治るの。
「そ、そうなんだ……。そんなものができてるの、全然気づかなかった……」
「あたしは、超気になってたよ」
艶やかな唇から漏れる吐息のこそばゆい温かさが、包帯越しにも感じられるくらいの、すっごい至近距離から、庭下さんがじっと私のガングリオンを見つめていた。その長いつけまをぱちくりと瞬かせて、包帯の脇の私の肌をちくちくと刺激していたので、思わず、ひゃっ、と驚いてしまった。
「て、庭下さん? い、いつの間にそんな近くに……」
「カッコいいよねー」
……へ?
「この手首に巻いた包帯。なんか、傷を負いながら戦い抜いてきた! って感じがして、学園異能アニメの主人公みたいでカッコいい!」
おっ。わ、わかるー? なんだ、お主、なかなかわかっておるではないか。やっぱかっこいいよねー。戦士の勲章、っていう感じがするよねー。ふと見ると楠田さんは、「なに? 相沢さんって厨二病?」とか言って、飯田さんの耳元でひそひそ囁いている。ふん。一般人にはわかるまい。
「あと、ガングリオン、っていう名前、昭和時代の戦闘ロボットみたいでかっこいいよねー」
う、うーん、それはどうかな? ダッサいと思うけどなー。
「……だけど、相沢さん、本当に大丈夫なの? ひょっとして、ダンスの最中も、痛みを我慢して無理して踊ってたんじゃないの?」
「い、いや、割と平気だよ。ほら、ダンスって、基本足とか腕全体を使うじゃん。手首さえ動かさなければ大丈夫だよ」
心配して訪ねてきた楠田さんを安心させてあげようとそう答えると、彼女は、顎に指を当てて何やら思案気な表情を作り、
「……ふーん。そうなんだ。手首さえ動かさなければ、足ならば大丈夫……ふーん」
頭の中で何やら目論んでいる様子の彼女を見ていると、なんだか、出会った頃のような不安な気分になってくる。……また突拍子も無いこと突然言いだして、私のこと困らせなければいいけど。
そよそよとそよいでくる夜風は、その流れに乗せて、一時の清涼感やら、街の喧騒やら、飲食店からの美味しそうな匂いやら、いろんなものを私たちに運んできた。日の消えた後の街並みは、太陽の光の代わりに、信号待ちの車のテールランプやら、灯り始めた家々の明かりやらを、人工の星空のように、精一杯に瞬かせ始めていた。夜には夜なりの、人間のつましい営みがそこにはあるのだ。日の光と比べてあまりにもちっぽけなその光は、それでも自らを着飾るように、いじらしくも誇り高く光り輝こうとしている。人は自らの存在の小ささを自覚し、またその小ささに救いを見出すからこそ、精一杯に輝き、悩み、前に進もうとするのかもしれない。次の日の朝には夜風とともに消え去ってしまうとわかっていても、いや、わかっているからこそ、その刹那に輝く街の灯りは美しいのだ。もしできることなら、私たちのこのちっぽけな憂鬱も、その夜風に溶かして、どこかに運び去ってくれればいいのに。