ixte -8月14日
8月14日
すがすがしい朝である! 私は、とても心地よい日の光に包まれながら目を覚ました。
……得体の知れない、このノートとともに。
なぜか、いきなり枕元に置いてあったそれは、私の全く見覚えのないものだった。
裁断された紙の束の断面が、カーテン越しの朝日を浴びて、少し使い込まれて薄汚れたテクスチャーをあらわにされている。その目に馴染むありふれた光は、どんなに痛烈な想いも感情も、時間の累積によって全て陳腐で無価値なものへと変貌させられてしまうこと、またその陳腐さに、人間がいかにたやすく馴らされてしまうのかということを如実に示唆しているようだった。
だけど、どういうわけか、その3ページ目には、私の文字で、見覚えのない言葉が書いてあった。
『すがすがしい朝である! 私は、とても心地よい日の光に包まれながら目を覚ました。
……得体の知れない、このノートとともに。
なぜか、いきなり枕元に置いてあったそれは、私の全く見覚えのないものだった。
裁断された紙の束の断面が、カーテン越しの朝日を浴びて、まだ比較的新しい白さを照らし出されている。その心地いい明るさは、まだ使い始めて間もないノートの、持ち主との蜜月を暗示する淡い光の仄めきなのだった。
だけど、どういうわけか、その2ページ目には、私の文字で、見覚えのない言葉が書いてあった。
『すがすがしい朝である! 私は、とても心地よい日の光に包まれながら目を覚ました。
……得体の知れない、このノートとともに。
なぜか、いきなり枕元に置いてあったそれは、私の全く見覚えのないものだった。
裁断された紙の束の断面が、カーテン越しの朝日を浴びて、真新しい白さを乱反射させている。その鮮烈な眩しさは、まっさらなページにこれから書き込まれるべき未来の出来事の輝かしさを、ささやかに祝福しているみたいだった。
だけど、どういうわけか、その最初のページには、私の文字で、見覚えのない言葉が書いてあった。』
』
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8月14日
街。公園。親子連れ。コンビニ。郵便ポスト。横断歩道。自販機。広場。小犬。飼い主。スクールバス。道路工事。駐輪場。消防署。フェンス。電柱。小児科クリニック。ジョギング。買い物袋。花壇。日時計。モニュメント。駅。本屋。ロータリー。クラクション。自転車専用レーン。学習塾。通学路。ブロック塀。配送トラック。低層住宅。消火栓。街路樹。砂利道。雑草。地面。影。私のシルエット。指先。
ページ。紙。罫線。右手。ペン先。インク。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。文字。
つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。
――あああああああーーーーーっ!! もう、ほんっと、つまんないんだよ! 私の文章は! 何なの、これ!? こんなどうしようもないことばっかりノートに書き連ねて、一体何がどうなるっていうの!? だいたい、私、こんなことしてる場合じゃないんだよ! 今すぐにでも相沢さんのところに行って、そっこーで仲直りして、っていうか相沢さんが嫌がったとしても無理やり強引に連れ出して来て、そしてまたみんなで×××しなくちゃいけないんだよ! 1秒だって無駄にしたくない! 朝から晩まで×××な時を、二度と来ない×××を、またみんなで×××していきたいんだよ! 私にはやりたいことが山ほどあるから、じっとなんかしていられない、×××だってやりかけのままだし、×××もまだしてないし、×××も、×××も、×××も、まだまだ×××なことばっかりなんだよ! みんなと×××して過ごす時の私は、一人でいる時の私よりもずっと×××で、×××らしくて、だからこそより私らしい×××に違いないんだ! あああ、また私の文章はわけがわからなくなってきたぞ! でももう我慢できない! 一人ぼっちで、こんなつまんない、どうしようもない文章をくどくどくどくど書いていないで、みんなと一緒に×××して、×××して、×××して! そしてこんなノートなんかめちゃくちゃに塗りつぶしてしまえばいいんだ! 私一人の、意味の通る物語なんかじゃなくて、みんなが好き勝手に、めちゃくちゃな文章を書き込んでしまえばいいんだ! そうすれば私たちはきっと×××な時間をまた×××して、×××の×××もまた×××して、そして×××はきっと×××になるから×××も×××も×××しながら×××して、×××を×××ながら×××、×××と×××も×××で、×××、×××、×××、×××……。
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8月14日
「
しね
うざい
きえろ
こっちくんな
」
辛い、痛い、苦しい。胸の奥が、鉛の球を埋め込まれたみたいに、重く、鈍く、疼いて、あたしの体を、ゆっくり、じっくりと、内側から蝕んでいくみたい。息を吸い込むたびに、奥歯を噛みしめるたびに、その痛みはあたしの体の奥深くへと、どんどん鋭く食い込んできて、もがけばもがくほど、あたしはきりきりと締め上げられていく。
「
きもい
うせろ
きたない
さわらないで
」
そーいや、この心臓は今まで一度だって、あたしのいうことを聞いたことがない。いつだってあたしの意志とは無関係に、一人で勝手に鼓動し、脈打っている。そして今はその脈動のリズムとともに、一層堪え難い苦しみを生み出して、あたしの胸を勝手に内側から圧迫してくるんだ。あたしの意志の介在しないその脈動は、まるで天災か何かのような外部の存在みたいだ。破滅への不吉な予兆を含んだ地鳴りのリズムのように、その地でのうのうと生きることを夢見た人間の思い上がりを罰する強大な天の力のように、それは、あたしが知らずに犯してしまった罪を、その堪え難い痛みで咎めているんだ。
「
なん きもちわる のがいる
うわーな か こへんなにおい する
うまれ こなけ ばよか たのに
てゆー はや しね いい になんで きて んだろ
ま ょ きも しね に
」
もう、ペンが動かせない。指先に力が入らない。しぼり出すように、なんとか書き続けようとしても、そんなあたしの意志は、真っ白なページの上に、目に見える形の像を結ぶことなく、文字にもなんないようなインクの染みを、かすり傷のような醜い何本かの線を、ペン先で刻みつけるだけなんだ。
そうかー。こんなしょーもないもんが、あたし自身の姿なんだ。あたしはちゃんと、自分のことを書けているじゃないかー。なんもなくて、なんもなくて、なんもなくてなんもなくてなんもなくて、あるものといえば醜くてきもい、傷跡だけなんだ。
「
き が に
う に
し
」
――もう、だめだ……!
もうこれ以上、一文字も書けない。
なんなんだろう? 楽しくって、楽しくって、夢中になってペンを動かしまくっちゃって、ノートに触れている手が真っ黒になってもまだまだ止められなくって、気がついたらページをびっしり文字で埋め尽くしちゃっている時もあるのに、かと思えば、今みたいに、一文字も書けなくなってしまう時もある。
いったい、どっちが本当のあたしなんだろう?
……んなことわかんない。きっと、本当のあたしなんて、どこにもいないんだ。
最初は、どっかに本当のあたしがいるんじゃないか、あたしがちゃんと向き合えば、その本当のあたしが見つかるんじゃないか、なんて思って、そんでこのノートを取り始めたんだけど、でもよく考えてみりゃ、どっかにいるあたしなんて、そんなの、あたしでもなんでもないんだ。どっかってのは、ここじゃないんだから。
みんな、どっかに本当の自分がいるはずだー、なんて言うけど、でもそんなどっかは本当のどっかじゃないんだ。そんなどっかなんて、きっとただのここの延長線上にすぎないんだ。もしも、どっかにあたしがいるとして、そのどっかが本当のどっかなら、あたしはきっとどこにもいないんだ。
だから、あたしの本当さは、ここかどっかかなんてことでは決まんない。どっかにあたしがいて、そのあたしが楽しく笑いながら過ごしてるんなら、そのあたしの楽しいは本当で、その楽しいだけが本当で、そのあたしから見たどっかのあたしであるこのあたしは、それこそどこにもいないんだ。偽物なんだ。
もっと、何が本当の本当なのかについて、よく考えておくべきだった。
本当の自分を探そうなんて考えて、そんなんどーせありもしないのに、そのために毎日毎日辛くて苦しい思いを抱え続けなきゃなんないなんて、そんな生き方の方が偽物な気がする。そんな本当は、きっと偽物の本当なんだ。
ずっとそのままのあたしで、偽物のまんまで、楽しいになる。本当の楽しいを生きる。そんな本当さだって、きっとあったんじゃないのかなー? そんな楽しさの本当さの方が、偽物が偽物の本当になろうとする本当さよりも、本当の本当なんじゃないのかなー?
楽しいについて、本当の楽しいについて、もっとよく考えておけばよかった。
どーせ、全部のあたしは偽物で、本物になんかなれないんだったら、せめて、本当の楽しいになってればよかったんだ。そして、そのことだけでノートを埋め尽くせばよかったんだ。
ここじゃないあたし、どっかのあたしになって、偽物のあたしになって、本当の楽しいになって。そしてもっとのびのびと、自由に、そのことをノートに書け
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8月14日
ばよかったんだ。
あーあ、今日もノートに書くことなんて何もないや。
宿題、お勉強、家事のお手伝い。あとはひたすらぼーっとするだけ。ぜんぜんつまんない。
なにかもっと楽しいことが起こればいいのに。
……そうすれば、そうすればあたしは、楽しいを、本当の楽しいをもっとこのノートにたくさん書けるんだっ! 楽しいになって、本当の楽しいになって、ほいで、そのことでこのノートをびっしり埋め尽くすんだーっ!
――えっ、何これ?
なんだなんだ? 私、なに意味のわかんないこと書いてるんだ? 「楽しいになる」、ってどういう日本語なんだ? なに言ってんだ私? 全然わかんない。
なんだろう、私、頭がおかしくなっちゃったのかなあ?
そうか、たぶん、ずっとひとりぼっちでいて、刺激がぜんぜんないから、脳が勝手に知覚すべき情報を捏造して、ありもしない幻を感じ取ってノートに書き込んじゃったりするんだ。それでこんな訳のわかんない文章になっちゃうんだ。だっておかしいじゃん。私はどうせ、これから先もずっとひとりきりなんだから、楽しいことでノートを埋め尽くすことなんてできるはずなんてないのに。楽しいことが起こる可能性が、わざわざ私のところへやってきてくれたとしても、私はそれを自分で台無しにしちゃうのに。この前だって、せっかく相沢さんが来てくれたのに、私、あたし、相沢さんに、相沢さんと、またライブ観たいです! また一緒にライブやろう! とさえ言えなかった、って言うんだ!
――えっ、ええっ??? 何これ、何これ???
ななな、なんだなんだ? 私の持つペンが、私の指先が、勝手になんか意味のわからない言葉を書いている……? 思ってもないこと、考えてもないことが、空から降ってきて勝手に私の指を動かしてる……?
いやまてよ? これは、……ひょっとして、私の、隠された願望??
もしかして、もしかして、私、心のどこかで、そのことを願っている……? 相沢さんたちと一緒に、ダンスをしたり、ライブをしたりすること……?
……そんなの、変だよね。おかしいよね。誰かにそんなこと言ったら、大笑いされちゃうよね。だって、私、そんなのぜんぜん似合わない。ちびだし、かわいくないし。相沢さんみたいに、なんか人を惹きつけるオーラみたいなものがあるわけでもないし。人前に立ってなんかやるなんて、ぜんぜんふさわしくないよね。
……だけど、もしも、もしも私が、相沢さんが私と一緒に、ダンスができるとしたら、ライブができるとしたら……。誰かに与えられた資格によるのでなく、つまらない自己顕示の目的のためでもなく、ただ、私がやりたい! というそれだけの理由で、この想いが許されるのなら……。それだけで十分なんだと叫ぶ勇気を、気概を、私が持てたとしたら……。
そしたら……、
……そしたら、そしたら、あたし、また相沢さんと×××で、×××な感じになって、一緒に×××するんだ! ほんで、
――えっ、ちょ、ちょっと……。
……ほんで、あたし、また相沢さんと×××で、×××な感じになって、一緒に×××するんだ! そんで、そんで、
――ちょ、待って、待って! なにこれ……
さらにさらに! あたし、また相沢さんと×××で、×××な感じになって、一緒に×××するんだ! しかも、しかも……
――わー! なんだこれ、なんだこれーー!?




