表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ixte  作者: 琴尾望奈
4/57

レッスン#1! 〜私、忘れちゃうんです〜

 イントロ、スタート!

 曲が始まるとともに、いきなり降り注ぐシンセサイザーのシャワー。重低音が刻むビートに合わせて、みんなの足が一斉にステップを踏む。しまった、私だけ出遅れた。

 キック、ステップ、スライド、ターン。

 全く異なる振り付けが次々とやってくる。休む間も当然ないので、早く追いつかないとみんなからどんどん遅れていってしまう。

 Aメロ。

 複雑に絡みつくドリルのようなベースラインに合わせて、両腕、両脚を右へ左へ出したり引っ込めたりする。みんなで動きをぴったりと合わせなければならないパート。私だけできてない。中庭の芝生の緑には、ぴょこぴょこ飛び跳ねる小動物のようにキレのいい動きのみんなの影と、ツタ植物の成長を早回しした映像のようにぎこちない私の影が差していた。

 Bメロ。

 これまでとは打って変わって、一人一人が別々の動きをする。動作を1テンポずつずらしていき、最後には一周まわって再びみんなの動きが重なる。タイミングをぴったりと合わせるのも容易ではないが、わざとずらすのはなお難しい。結局私だけ迷子になってしまった。

 間奏。

 アンビエントなシンセのコード進行の中、最後のCメロに向けて気分を次第に盛り上げるように、コマ送りの映写機が次第にその回転速度を速めていくみたいに、キラキラした16ビートがフェードインして響いてくる。その音の洪水が最高潮に達するまさにその瞬間、光の乱舞の中に隠されていた宝珠をぱっと掴み取るような明敏さで、

「いくよっ!」

 楠田さんが、クラッシュシンバルを打ち鳴らすように鋭い叫びを投げつける。それを合図に、

「ワン!」「ツーです!」「ス、スリー…」

 私たち3人は掛け声をあげて、Vサインを作ったそれぞれの指先を差し出して突き合わせる。5人いれば星の形になったであろう(青春につきもののアレである)ところだが、3人なのでテトラポッドみたいな形になってしまった。その指を、地面近くまでぐーっと引き寄せてから、ぱっと宙に放り上げて、一気にジャンプ! 宙に舞う身体を、爆風のように吹き付けるドラム音が激しく撃ち抜く、その衝撃に私はすっかり圧倒されてしまった。

 ラスト、Cメロ。

 天の川のようにきらびやかなシンセ音の中、私たちのダンスの振り付けも最高の見せ場を迎える……っていうか、最高の難易度をマークする。両腕を体の右へ、左へ、複雑に絡みつかせるようにくるくる動かす。ちょ、ちょっと待って、右足と左足で違うリズムを刻めというの? 体だけじゃなくて脳の柔軟性まで要求されるなんて聞いてないよ? 中庭の芝生の上を所狭しと駆け回る、その運動量も半端ではない。ここで側転2回からのバック転…って嘘でしょ!? 私でんぐり返ししかできないよ? 誰? こんな振り付け考えたの……。曲が終わる頃には、私は芝生の上に仰向けになって倒れ込んでいた。


      ✴︎


「ぜい……ぜい……な、なんなの、このハードな振り付けは……? ()()()()()()()なの? それとも、()()()()()()()()()()()なの?」

「えー? 何よ、その謎のロシア人は? こんなのまだまだ序の口だよ! これからどんどん新しい振り付けを取り入れて、進化させていくんだから。ねっ、飯田さん。こんなの全然余裕だよね?」

「ふう、ふう。ちょっと、疲れちゃいましたー。けど、まだまだ頑張れますよー!」

「ほら、相沢さんも、もっと体力つけないとだめだよ?」


 み、認めたくない……。

 毎日、人間の能力をはるかに凌駕する魔物たちとの死闘を繰り広げているこの私が、ごくごく平凡な毎日の生活に甘んじている単なる女子高生たちに、体力で負けるなんて……!


「ほら、わけわかんないことぶつくさつぶやいてないでさ、もう一度最初から、踊るよ!」

「ちょ、ちょっと休ませてー! お願い! 300円あげるからぁー!」

「何よ、そんなもんいらないから! ほら早く踊るよ!」


 ぐいぐい私の腕を引っ張る楠田さん。そのほっそりとした腕からとは思えないほどの剛力を発揮する。そういえば、剛力ちゃんってダンスうまいよね。……ってそうじゃなくて。


「もう! なんでそんなに腕力強いのよ? ひょっとして、お父さんの介護で体を支えてあげたりとか、そういう重労働で鍛えられたから?」

「えー、そんなことしてないよー」


 手を顔の前でぶんぶん振って、笑いながら否定する楠田さん。


「それって、寝たきりのお年寄りの介護の話でしょ? お父さんはそんな年じゃないからさ。ただの身の回りの世話とか、そういうのだよ」


 そうか。そりゃそうだ。介護という言葉から、つい力仕事を連想してしまったのだった。


「? なんの話ですかー?」


 きょとんとした顔で心底不思議そうに私たちの会話を聞いている飯田さん。その頭の上に、ほわほわのはてなマークが浮かんでいる。ん? 何を言っているんだ、この子は?


「何の話って……。昨日、聞いたじゃない。楠田さんのお父さんの話……」


 楠田さんのお父さんは病気で入院していて、ずっと楠田さんが看病していたのだ。


「? んんー? そうでしたっけー?」

「まあ、いいじゃん。そんなことより、ほら、練習、練習!」

「えー、もう無理だよー……」


 楠田さんに引っ張られるまま、ふらふらした足元で立ち上がり、自分のポジションにつく。正面の巨大な窓ガラスには、猫背でぜーはーしている貧乳の女子高生が映っていた。数年前に完成したばかりだというこの新校舎は、窓を大きく取り、外の光を建物内にたくさん取り入れる現代的な作りになっている。私たちの背丈よりもはるかに高くて大きいこの窓ガラスが、自分たちの姿をチェックする鏡の代わりになるということで、この新校舎の前の中庭でダンスのレッスンをしているのだ。ふと見ると、その窓ガラスに映るへろへろの姿の私の後ろから、何人かの女子生徒がこちらに熱い視線を送りつつ、きゃっきゃと何やら騒いでいる。うん? あの子たちはなんなんだろう?


「すごいですよねー」

 飯田さんが、その子たちの方を振り返りながら、感嘆したようにつぶやく。

「もう、ファンの子たちがいるみたいですよー?」


 え? なになに? ファンの子なの!? そ、そっかー、そうだったのかー! も、もう、やだなー! ダンス始めて初日で、こんな騒ぎになるなんて、自分が末恐ろしいよー。いやはやー、ほんと、私が貧乳で助かったよ。これで私に豊満なバストまであったら、男子生徒たちまで押しかけてきちゃって今頃DJポリスが出動……


「――ほらほら、あの子だよ、あの背の高い子! ちょー可愛いくない!?」

「――ほんとだー、やばーい!」

 ……ああ、楠田さんが目当てだったのね。


「ほらほら! 練習に集中して! 集中!」

 当の楠田さんは、顔じゅうを汗まみれにしながら、ダンスの練習のことだけを考えていた。ファンの子たちの黄色い声も、羨望も、彼女には届いていないようだ。優雅に空を飛ぶ鳥は、自分の姿がどれほど人々を魅了しているかなんてことは気にも留めないのだ。ただ私のみたいな、擬態する両生類のように地面を這って生きている醜い存在だけが、自分が他人の目にどう映っているか、常に、病的なまでに気にしているのだ。


 ……なんだか、自分が全く注目されていないことを思い知らされると、少しでもやる気を出すことがすごく恥ずかしく思えてくるよね。できないから注目されなくて、やる気がなくなってもっとできなくなる。なにこのダウンワードスパイラル? およそ主人公に似つかわしくない、うじうじしたマイナス思考……。そうだ、私ごときの器量ではせいぜい脇役くらいが関の山なんだ。楠田さんが光り輝く太陽のような存在だとすると、私はじめじめした低地に生える灌木のような存在だ。私は、そんな彼女の放つ光に焦がれて、その光をこの目に焼き付けたくて……


 ――ギラン!


 突如、虫眼鏡で一点に集約したような強烈な光が、窓ガラスに反射して私の目を射った。驚いた私はとっさに目を押さえ、その場にしゃがみこんでしまった。


「な、何……? 今の光……!」


 その光は、さっきから私たちを見ている女の子たちの方から射してきたように思えた。


「ほら、相沢さん! 早く立って! これくらいでへばってちゃ、しょうがないよ!」


 ……楠田さんには見えていないのだろうか? やはり凡人には感じ取ることのできない不思議な力が、私という選ばれし存在に対してのみ作用している……?


「ちょ、ちょっと待って……謎の光が突如私を襲って……」

「もう、厨二っぽいこと言ってないで、さー、立った立った!」


 ……そうですよねー。こんなこと考えちゃうの、やっぱ厨二っぽいですよねー。


 その後も楠田さんは容赦なかった。私たちはへとへとになるまでダンスの練習をさせられ、やっと帰る頃には、曇り空から覗いていた太陽はもう、ビルの群れでギザギザのシルエットになっている人工の地平線に沈もうとしていた。




「それじゃあ、今日はお疲れ様! 私は、駅こっちだから。また明日ね!」

「「またねー」ですー」


 うへー、やっと解放されたー。私は喉の乾いた老犬のようにべろーん、と舌を垂らしてうなだれていた。一人別方向へ帰る楠田さんを手を振って見送ると、私と小柄な飯田さんとが二人きりで残された。私の肩の高さまでしかない飯田さんの頭を見るともなしに見下ろしていると、楠田さんの帰路の方角をずーっと向いたまま、彼女が曲がり角を曲がって姿が見えなくなっても、その小さな頭をぴくりとも動かそうとしない。


「――飯田さん?」


 どうしたものかと怪訝に思った私が呼びかけると、ビクっと驚いたように肩をこわばらせ、恐る恐る私の方を上目遣いに見つめてくる。先ほどまでのほんわかした話し方とは打って変わって、張り詰めたような、凍えるような声で、


「な……何……?」


 ――ん? この子、怯えてるの? なんで?


「何、じゃないでしょ。そんなとこに立ち止まってないで、さ、帰るよ?」


 私がそう急かすと、彼女はハッとしたような表情を浮かべ、大きな瞳をまん丸に開いて、その視線を吸盤みたいにピタッと私に吸いつけてくる。


「い……一緒に帰って、いいの?」


 うーん、できることなら、楠田さんさえいなければ模範的に引きこもっていたい私だし、飯田さんのことを無視して一人で帰るというのもなかなか魅力的な選択肢ではあるけれど……


「べ、別に構わないわよ、そんなの。特に許可を取らなければならないようなことじゃないでしょ? 変なの」

「そ、そっかー。よかったぁー」


 えへへー、と甘えるように口元を緩めて、安堵したようにふわーっと微笑む。そうそう。そういう風に普段通りの感じでいた方が、全然かわいいよ?


「相沢さんは、優しいんですねー。私の名前も、覚えてくれていましたしー」

「覚えていた、って、そんな特段大したことでも……」

 ふと、私は、先ほどの会話のことを思い出した。

「そういえば、昨日の楠田さんの話。お父さんの看病してたってこと、本当に覚えてないの?」

 飯田さんが、自分から楠田さんに問いかけておいて、その答えを聞いて大げさにうろたえて号泣していたのだ。昨日の今日でそのことを忘れたなんてとても考えられない。


 飯田さんは、5秒間ぐらい頭をひねって、むむむーと考えるようなそぶりを見せたが、すぐにまた、諦めたような、だらしない笑みをえへー、と顔じゅうに広げる。


「私、ね……」


 梅雨空が、思い出したかのように、また小雨を落とし始めた。傘を差すまででもないその雨粒は、疲れ切って火照った体には心地悪いものではなかった。


「忘れちゃうんです」

「……え?」

「嫌なこととか、辛いこととかがあると、すぐ、傷ついたり、泣いたりしちゃって……。次の日には、まるで覚えていないんです」


 駅前のスーパーマーケットの前を通りがかる。幼稚園児くらいの男の子が、駄々をこねて道に座り込んでいた。お母さんに、おもちゃ入りのお菓子を買ってほしいとせがんでいるようだ。


「お母さんからは、絵奈ちゃんは嫌なことがあるとすぐに忘れちゃうのねー、って言われて呆れられちゃってて……。子供の頃から、ずっと、そうなんです」

「じゃあ、昨日のことも、本当に覚えてないの……?」


 うーん、と口元に手を当てて、


「楠田さんのお父さんの話を聞いた時、私、泣いたりしてませんでした?」


 うん。すっごい、泣いてた。ちょっと、ウザいなー、って思っちゃうぐらい、大泣きしてたよ。……ってなこと言うと、また泣いちゃうな。


「えへへー」


 飯田さんは、終始笑みを浮かべていた。自分のだめなところ、至らぬところを、人に咎められまいと無意識のうちに身に付けてきてしまったような、そんないたいけで、だからこそどこか憂いのある、不思議な微笑みだった。


「やっぱり、泣いちゃってましたかー」


 だめなんですよねー、私。といいわけしながら、小柄な同級生は、自分のこめかみのあたりを、ぽんぽんと手の付け根で叩く。同い年とは思えないほどに、幼げな、子供のような仕草だった。まるで、嫌なことや、辛いことと一緒に、成長すること、大人になることさえも忘れてきてしまったような、そんな感じに見えた。


「……別に。そんなにダメってわけでもないと思うけど?」


 わからなくもない。そう思ってしまった。彼女の無垢な微笑みに翳りを落としているその正体、成長しなければならない、大人にならなければいけないという、そんな脅迫めいた社会通念こそ、私の忌み嫌う実態のない共同幻想のように感じたからだ。それに、個人の自由を脅かすような身勝手な正義感ほど、それ自身が立脚すべき論理的整合性を欠いた、矛盾にまみれた存在も無いと思えるから。どんな自由であれ、他者に干渉しない限りそれは手放しに認められて然るべきなのだ。みんなそれぞれ、自分の好きな服を着て、好きな音楽だけを聴いて、好きなことだけをして暮らしているじゃないか。好きなことだけ、覚えておきたいことだけを記憶に残して、後のことは全部忘れてしまったって、何がいけないというのだ? ……てゆーか、私もそんな風にして生きていけたらいいなー、と、ちょっとだけうらやましく思ってしまった。


 なんてったって私の半生は、そんな忘れてしまいたい数々の記憶たちに、ギラッギラの極彩色に彩られているのだ。私が、友達に内緒で密かに書いていた、生物の進化史における愛の起源をテーマとした前衛ポエムが記されたノートが、上着のポケットからくすね取られてクラス中に流通してしまった話とか、あと、体育の授業の前に、あれ、私の体操服がない、男子が盗んだんじゃないの? 誰よ、盗んだの? へんたーい! 返してよー、と騒いでいたらお母さんが学校に届けに来てくれた話とか、それはそれはもう恥ずかしいどころの騒ぎじゃなくって、普通の人間だったらとても生還できないような心の致命傷には枚挙にいとまがない。こんな傷を負いながらもなんとか戦い抜いた私ってやっぱ最強じゃね? 私のようないわば戦士にとって、古傷は勲章のようなものなのだ! どうよ!? この、体育祭でトラック逆走してしまった時の傷とか、オリエンテーリングで捜索願い出された時の傷とか、合唱コンで1人だけ出だし間違えた時の傷とか文化祭でクラTに名前がなかった時の傷とかねぇ君ちょっといい? って後ろから声かけられてやべ、告白されたんじゃね? って思って振り向いたら教頭先生だった時の傷とか……ううう、やっぱり忘れたいよー! こんな恥ずかしい思い出でも忘れてしまえる飯田さんって、正直、超うらやましいよ?


 それでも飯田さんは、アスファルトを交互に踏む、自分の足元を眺めるように俯かせていたその目を、寂しげに細めて、こう言うのだった。


「ううん、だめ。本当にだめなんです。私の、こういうところ」


 その声には、悔恨とも自戒とも取れない、厳しさがこもっているように聞こえた。ずっとへらへらしていた彼女の口調から、そんなものが感じ取れたのは、これが初めてだった。


「だめなんです、本当は。どんなに忘れてしまいたいことがあっても、絶対、忘れちゃ、だめなんです」




 家に帰った私は、またもや、虚空の闇を縫って時折ほとばしる炎の舌先が触れることすらなく私の肌を焼くその鮮烈なまでの熱さの感覚に苦痛ではなくむしろ慰めを感じていた……のだけれど、このくだりはさすがにもう飽きてきたので、適当にコントローラーのボタンを連打する。健忘症であることを私に告白してきた小柄な同級生と、彼女が、私にというよりも、自分自身に言い聞かせるかのようにつぶやいた、あの言葉の真意について、何度も何度も頭の中で反芻しながら。忘れることの意味、その救い、そしてその対価。飯田さんは、忘れることによって、傷ついたり、誰かを傷つけたりした過去があるのだろうか? 私なんかは、忘れることによる救いにとても心を惹かれるので、もしそれにどんな損失が伴うとしても、そのことすらも忘れてしまえばいいんじゃないの? って簡単に考えてしまうんだけどな。忘れて、忘れて。忘れたことさえも、忘れちゃって。青春の痛みや苦しみの記憶からも、解放されて、全部無かったことにしてしまって。そうやって人は「大人」になっていくんだ。間違いだらけのこの世の中で、傷つきも、立ち止まりもしないで生きていける、立派な「大人」に。そしてどんどん時間は過ぎて、昔のことはどんどん忘れてしまって。年老いて、最後には、全部忘れて、消えてなくなってしまえるんだ。それは虚しくて、悲しいことのように思えるけど、同時に、この上ない救いのようにも思える。最後はみんな、無になるんだ。恨みも、憎しみも、誰かを傷つけた過去さえも、全部なくなってしまうんだ。そんなこと考えちゃう私は、やはりとても弱くて、ちっぽけで、無力なんだろうか? 飯田さんの言うように、どうしようもなくだめな存在なのだろうか?


 そんな出口のない浅慮を頭の中でぐるぐる巡らせていると、私の帰宅後の物思いにふける時間を破壊する者(妹)が、やはりというべきか、前触れもなく突然現れて、


「打率、上がったー?」


 とか訊きながら、私の部屋のフローリングの床の上を、中学校の制服のハイソックスでするーっと滑りながらスノボのようにバランスをとって見せた。安定のバランス感覚、そして安定のウザさである。


「何よ、打率って?」

「あれ? だって、おねえちゃん、野球ゲームやってるんじゃなかったっけー? あ、違ったか。ぷぷw 世界を救うゲームでしたねー♪ サーセンww」


 ケツバットかましたろか、このガキ。


 私はもう、ただでさえダンスの練習でヘトヘトだったので、こんな巨大な害虫のようなバカ妹を駆除するだけの体力なんて残っていなかった。


「悪いけど、今日はあんたの相手なんかする気分になれないの。お姉ちゃんは超疲れてるんだから。さ、帰った帰った」

「えー? 何でそんなに疲れてるのー? そーいえば、今日は珍しく、部活やってる私より帰ってくるの遅かったし……。一体何してきたの?」


 ダンスの練習をしてきました! 私、スクールアイドル! ……なんてこと言ったら、妹に全力でバカにされるな。


「どーだっていいでしょ? あんたにゃ、関係ない。しっ、しっ」

「えー、あやしいんだー。なんなのー? おーしーえーてーよー。ずるーい!」


 いったい何をどうずるいと思ったのか、よく分からないが、妹は、ニャー! とか言いながら、マタタビを発見した時の猫のように私の肩に跳びかかってきた。こいつ、こういうとき、容赦なく全体重かけてきやがるんだ。私は迫り来る衝撃に備えて体をのけぞらせようとしたが、久しぶりに運動して疲弊している体の至る箇所の筋肉が言うことを聞かず、バランスを崩して、そのまま妹にドン! と押し倒されてしまった。


「いててて……」

「ご、ごめん、おねえちゃん。大丈夫……?」


 とっさに床についた右手の手首が、大丈夫、とは言えないくらいの、そこそこの痛みに襲われていた。いてて……。なんか嫌な予感がする。そっと手首を見やると、案の定、お餅を焼いたような、ぷくーっとした膨らみがそこにできていた。これは……


「あっ、シャングリラ?」

「ガングリオン、ね」


 手首とかの関節にぷくっと瘤状の膨らみができて、動かすと地味に痛い、でも別にほっとけば治る(実際、病院に行っても、医師に、ほっとけば治りますよー、とか言われてまともに診てもらえないらしい)、ガングリオンという疾患をご存知だろうか? 気になる方はぜひググってみてください。小説を書くのも、とても楽な時代になりました。そのガングリオンが再び手首にできていたのだ。


 このガングリオン、何が問題かって、何度も何度も再発するところ。あと、名前が昭和時代の戦闘ロボットみたいで、全然可愛くないところ(そこかい)。


「ちょっと! あんたが押し倒してくるから、また再発しちゃったじゃない。どうすんのよ」

「ご、ごめんー。でも、おねえちゃんがちゃんと受け止めないからいけないんだよ!」

 妹がさらっと責任転嫁してくる。ガングリオンと一緒で、全然可愛くない。


「もー、明日もレッスンがあるのに……どうすんのよ。とりあえず今日はゲームもやめて、安静にしておいて痛みが引くのを待って……」


 ……あれ?


 私はハッと気付いた。以前の私だったら、このことを渡りに船として、レッスンをサボる、あわよくばダンス自体をやめてしまう口実としただろう。でも、今日の私は、無意識のうちに、なんとか痛みを鎮めて、明日のレッスンに向けて備えようとしていた。……なぜ? なぜ私はこんな自分らしくもない考えを抱いてしまっているのか?


 ――私の中で、何かが変化し始めているのというのか……?


 うん……。やめたい、とは思わない。

 心の中のどこかからやってくる、説明のつかない、だからこそ正しい、私の感情だった。


 私は、ダンスを続けたい――!


「……なんてことなの……」

 私はこめかみを押さえて力なくうつむいた。私の中の大切なもの、紛れもない私のアイデンティティだと考えていたものが、文字通り破壊されているのを感じた。


 あの、超前向きフルスロットル少女、楠田(くすだ)椎香(しいか)によって?

 あの、ちょっと後ろ向きほんわか少女、飯田(いいだ)絵奈(えな)によって?


 わからない。

 わからないけれど、一つだけ言えること。


 私は、あの二人に、少しずつ()()()()()()――。


 あの二人のダンスにかける意気込み、情熱。そんなものたちが、硬い地層のように凝り固まった私の思考の中に、酸のように侵食し、固着した構造を溶かし、太古の昔に閉じ込められてしまった生物の痕跡を掘り起こすみたいに、私の中に眠っていた、生き生きとした感情を再び喚び醒まそうとしている……。私を、私という確固たる存在を、徐々に変容させ、彼女たち自身に()()()()()()()()()……。


 少年は大人に、ならず者は善人に、よそ者はその土地の人々に。

 それぞれ自分の周囲にいる人たちに、少しずつ似てきて、強くなれたり、優しくなれたり、その土地の言葉が喋れるようになったりすること、それを人は成長と呼ぶ。


 ならば、私たち3人も、それぞれお互いに似てきて、楠田さんはもっと周りが見れるようになったり、飯田さんはもっと自信が持てるようになったり、私は、もっと、引きこもらないで毎日過ごせるようになったりすること。それも立派な成長と呼べるんじゃないだろうか……?


「ねえ、ねえ、おねえちゃん、いま、明日もレッスンがある、って言った? なになに? レッスンって? ねえ?」


 ――あ、やば。さっきついうっかり口走っちゃったの、聞かれてた。


「な、なんでもないよ……」

「えー、なんなのー? レッスンって。ねえ。そんなの、おねえちゃんらしくないじゃん。……まさか、部活でも始めたの? お、おねえちゃんのくせに、生意気だぞ!」


 うっさい。

 このバカ妹だけは、一生成長しなさそうだな。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ