THE LAST DAY & 6月29〜1日 #5
「うーん、どこにもない、見つからない」
全く覚えていなかった。まるで記憶になかった。たとえすっかり忘れてしまったことだとしても、記憶の構成がバラバラに分解され、そのかけらが意識の海の奥底に沈み込んでしまっていたとしても、細かな塵のような残滓が、その波間にたゆたいながらチラチラと目にくすぐったい光を乱反射させて、自身の存在を、あるいは過去に存在していたことの痕跡を訴えかけてくるものなのに、そんなものすら、何もなかった。だから私が、その存在を疑わず、こうして部屋中をひっくり返して捜し出そうとしていること自体が、我ながらおかしかった。
だけど妹がデタラメを書くわけはない。私にはその確信があった。なんら当人の功利に関わりを持たない発言の真偽のほどは、その証拠よりも蓋然性を基に判断できるものなのだ。つまりは、妹がわざわざこんな嘘をつくなんて不自然だ、というだけでそれを信じるのに十分なのだった。それにただでさえ妹は、頭が悪すぎて、嘘なんかつけっこないんだ。だからきっと、それは真実に違いないのだ。
――私にとって、とても大切なノートというものが、存在する。
そんなに大切なものなのに、失くしてしまうなんて、なんて私はバカなんだろう。
いうまでもなく、ノートは、ただの紙の束ではない。そこにいろんなことを書き込んで、地層のように一ページずつ、生きてきた時間とともに厚みを増しながら、ずっと手元に残せる形で積み上げて行くものだ。そこに書き込む内容は、退屈な授業の板書だったり、誰かの他愛もない落書きだったり、特に記録に留めておきたいと思った出来事の描写だったりするんだけど、それはまぎれもない私たちの「記憶」そのものだ。過去の大切な記憶たちが私という人間を形作っている要素だとするのなら、それはまぎれもなく「私自身」なんだ。
そんな大切なもの、記憶のように失ってはいけないものなのに、失くしてしまって、しかもそのことさえ覚えていないなんて、私はどうかしている。忘れてしまったことさえ忘れてしまうなんて、私はきっと、とんでもないバカなんだ。
うーん、やっぱり見つからない。私は一体、どこでそれを失くしてしまったんだろう?
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――びりーーっ!
私が片方の手を振り下ろすと、その紙の束は、甲高い、耳を刺すような、短い間鳴り続けてふっと消える、つまりは悲鳴のような音を立てて、背表紙から真っ二つに引き裂かれた。
――びりっ、びりっ、びりっ……
彼女は、地面にへたり込んだまま、青ざめた顔をして、ただ、見ていた。今まで書き込んできたページたちが、積み上げてきた時間たちが、私の手の動きとともに、引き裂かれされ、バラバラに分断された紙切れとなって、彼女の目の前を舞いながら、風に煽られ飛ばされていく様を。
私にとって、私の計画にとって、こんなものは邪魔でしかなかった。だから、文字通り手を下すその動きに、なんのためらいもなかった。私の記憶、彼女の記憶を、今この場所に置き去りにしてきてしまうことに、なんの迷いもなかった。
「――どう? ムカつくでしょ?」
私は、今日初めて彼女に笑いかけた。こんなに心からの笑みを彼女に見せたのは、今日が初めてなのかもしれないと思った。
「腹たつでしょ? 私のことが憎いでしょ? こんなやつ、いなければいいのにって、そう思うでしょ?」
座り込んだまま、ただ呆然とその光景を眺めていた彼女の表情からは、なんの感情も見て取れなかった。だけど、その瞳がぶるぶると震える様を見て、はっきりとわかった。彼女は感情を失っているのではない。むしろ、方向を定められない、どう表出させたらいいのかわからない感情の束が、彼女の内面にわだかまり、破裂する寸前のゴムチューブみたいに、乱雑に飛び交うエネルギーとなって彼女を内側から圧迫しているんだ。だとしたら、私のすべきことは、そのエネルギーを正しい方向に導き、彼女に抱くべき感情を与えてあげることだった。
まっすぐ相手にさし向けられた感情が、愛情というものならば、怒りや憎しみはむしろ、誰にも向けられず、故に誰かと分かち合って解消したり解決したりできずに、どんどんひとりでに増幅していく感情の内燃機関のようなものだ。自分の胸の中に抱え続けたまま、ぐるぐる、ぐるぐると反芻し、その度にかさを増して、取り返しのつかない大きさに膨れ上がるまで、誰にも気づかれず、やがて最悪な方法で暴発する、それが憎しみというものだ。
だとしたら、私のすべきことは、彼女がその感情を私の方に向けてくるのを、妨げ、彼女の胸の中でぐるぐると反復する自然な運動に変換すること、要するに彼女と私の間に感情の流れをせき止める障壁を置くことだった。
「教えてあげる。誰かのことが、憎くて憎くてしょうがなくても、そいつの存在をこの世からすっかり消し去ることなんてできない。殺すことだって、現実的にはできない。そういう時は、どうすればいいのか」
その障壁は、とてもシンプルなものだった。一般に拒絶と呼ばれているものがそれだ。そして、私が彼女を拒絶するのに、使われる言葉は決まっていた。
「忘れちゃえばいいんだよ。そうすれば全て解決するの。そいつのこと、最初からいなかったものとして扱えるの。……誰かに対して、憎しみの感情を抱き続けなければいけないのは、本当は辛いでしょ? 苦しいでしょ? そんなことだって、全て、最初からなかったことにしてしまえるんだよ。それが、憎しみを解消する、唯一の方法なんだよ。だから……」
「……そ、そんなこと」
彼女はそこで、私の言葉を遮るように口を挟んだ。私を思わず押し黙らせたその声は、それでも私を拒絶するものではなく、むしろ、はっきりと私に向けられたものだった。
「そんなこと、私、思ってません」
弱々しい声で呟かれたその言葉に、私に対する憎悪の色は、少しも浮かんでいなかった。
「依緒ちゃんのこと、憎いとか、嫌いだとか、そんなこと、思っていません。……悪いのは、ぜんぶ、私ですから」
「……何言ってんのよ、そんな……」
こんなにも彼女のことを傷つけたのに、こんなにも彼女を拒絶したのに、その言葉は、ただ自分の非を咎めるばかりで、私の罪をかばうだけだった。彼女がどうしてそこまで私のことを赦そうとするのか、私にはわからなかった。
「この期に及んで、何そんなこと言ってんのよ、こんなに、こんなに傷つけてあげてるのに!」
きっとまだ、傷つけ方が足りない、拒絶の仕方が足りないのだ。彼女の、私に対する誤った認識を、間違って積み上げられてきた記憶を、跡形もなく破壊してあげなければならない。間違いだけで書き上げられたこのノートを、一ページ残らず切り裂いてやる必要があるのだ。私はノートのさらなるページに手をかけ、一気に振り下ろそうとした。そして――
ふと私の目に飛び込んできた、そのページに書かれた文字。そこには、私の思いもよらぬ言葉が――
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きっと相沢さんは、私のことが嫌いなんだ。
それでもいい。ぜんぶ、私が悪いんだから、嫌われて当然なんだ。
だけど、それでも、私、相沢さんに覚えていてほしい。
すごい自分勝手だけど、私が相沢さんのこと忘れちゃったくせに、そんなことお願いするの、ほんと、おかしいけど、それでも、私、覚えていてほしい。
私のこと、恨んでても、憎んでてもいいから、忘れないでいてほしい。覚えていてほしい。
忘れられることは、とても悲しいことだから。私がどうしても嫌なことは、それだから。
相沢さんに、忘れられてしまったとしたら、私、とても耐えられそうにないから。




