THE LAST DAY & 6月29〜1日 #3
「……あのバカ……無茶しやがって」
驚愕。バカであることは本当に罪なのだ。それは社会に、周りの者に迷惑をかけるが故に咎められるべきなのだ。そんなことないよ! みんな一生懸命生きているんじゃないか、誰かの欠点をことさらにあげつらって責め立てるのは良くないよ! ……なんて言うのであれば、これを見てみるがいい。無責任で机上論的な博愛精神は、現実の、実際に起こっている悲劇を、破壊を前に、塵のように無残に吹き飛ぶであろう。
なるほど、妹は本心から私を祝福しようとしたのだろう。確かにその想いに何ら過ちはない。しかも、『誕生日は積み重ねてきた時間を忘れないために必要なのだ』という私の思惟を知ってか知らずか、ただ「おめでとう」という気持ちをメッセージに込めるだけではなく、そこに時間軸的な、私の生きてきた時間の積層的な重みを示唆するようなギミックを詰め込んできた。これも何ら責めを負うべきところはない。むしろ、あの妹にしてみれば上出来な方だろう。
だけど、その方法がよくなかった。
思うに、さかしい者は往々にして手段に酔う。自らの遂行する能力に酔って、目的の正当性を二の次にしてしまいがちだ。だが、ならば愚かな者こそは無実なのかと言えばそうではない。それは逆に、目的の正しさにしか考えが及ばず、その手段の如何によっては重大な悲劇を及ぼしかねないということに思いが至らないのだ。歴史を紐解けば、賢いはずの科学者が、その科学理論の先進性のために、換言すれば彼らの賢さが故に、カタストロフをもたらしかねない発明品を数多く産み出してきた。そして愚かな為政者が、素晴らしい世界を実現するためにとうそぶいて、いや、ひょっとすると本当に信じて、その悪魔の装置を実際に用いてきたのだ。
妹が私に手渡していったもの。その包みを破いて中を覗き込んでみると、一枚のメッセージカードが目に飛び込んできた。それこそが、妹が私に送りつけた悪魔の装置、もとい、悪魔のメッセージだった。
HAPPY BIRTHDAYS !
IO AIZAWA (2001 - 2018)
私、死んじゃってるじゃねーか……。
私の生きてきた時間を想起させるために、妹は私の生まれた年、および現在の年をメッセージに込めてくれた。その気持ちは嬉しいんだけど、これじゃあまるで生没年だ……。
しかも、HAPPY BIRTHDAYの末尾に、なぜかSがついてしまっている……。もしかするとこれも、私の生きてきた時間を表すため、「17回目の誕生日だよ、おねえちゃん!」ということを言いたかったためなのかもしれないけれど……、いや、多分これは違うな……。きっと妹は、CONGRATULATIONS ! みたいな感覚で、「なんか、よくわかんないけど、Sが付いていた方がおめでたそうな気がするや!」みたいに思ってこう書いてしまったんだろう。そうだとすると、私は妹に、辛辣で残酷な真実を伝えなくてはならない。妹よ、英語の表記において、末尾のSは「福」を意味するんじゃない。「複」を意味するのだ!
――驚愕。それは心の底からの驚きだった。妹がバカであること。これまでもバカで、今もバカで、そしてこれからもずっとバカであること。ずっとずっと変わらずにバカであり続けること。そんなことに、身の毛がよだつほどに驚いていた。
人間が驚きの感情を抱くのは、なにも、予想もしていなかった結末を突如突きつけられた場合だけではない。変化しないことへの驚き。万物が流転しつつも、突然姿を消して私たちを何もない宇宙の荒野に投げ出したりせずに、姿かたちを変えつつも常に私たちの身辺に寄り添っていてくれることに対する驚き。毎朝太陽が空へ昇る、今日も自分が生きている、生かされているというそのことに対する畏敬の念に満ちた驚き。そうか、妹がバカなのは、天より我らに授けられし啓示であるのか! ああ神よ、妹は今日もバカでした! どうか、我らの道にひかりを! 妹の脳にサプリを!
ほんと、無茶しやがって、あのバカ。バカのくせに、かっこつけて英語でメッセージを書こうなんてするからこんなことになるんだ。そんで、無茶した結果、死ぬのは私っていうね。もうほんと、なんなんだろね、この、感じ、あの、バカ、ほんと、しょうもない、バカ……
……ううう、あいつほんとバカだー、うわーん!
まったく、ほんと、あいつには驚かされてばっかりだ。どうして、こんな稚拙で単純なメッセージが、こんなにも複雑な感情のほとばしりを喚起するのか。どうしてこんなバカみたいな、うっすい言葉に、私の目頭はあっつくなるのか……。決して答えの出てこない問いは、問われること自体が間違っているのだ。なんの含意も期待もなく、ただ私の誕生日を祝おうとしてくれた妹がいて、そんな妹の気持ちに心を動かされてしまった私がいる。そこにはそれ以上のものは何もなくて、そして、それでいいんだ。……不覚、ほんと、不覚なんだけど、私の目には暖かいものがぶわっと溢れ出してきて、その視界に映る景色も、メッセージの言葉も、ぼやけさせて何も見えなくしてしまった。そしてそれは滴る雫となり、メッセージカードの上に幾つもこぼれ落ちて、その水性インクのボールペンで書かれた文字を滲ませて読めなくしてしまった。
私たちは、自分自身についてのことでさえ、一人では見ることができなかったりする。他人からあえて指摘してもらったり、目の前に提示してもらって、初めて見ることができる、今まで見ようともしていなかったという事実に気がつかされる。そんな事象がある。あらゆる認識が自分の輪郭、外界と自身の力とがせめぎ合うその境界の部分にしか向いていないのであれば、あまりにも自分にとって当たり前で、自己の内奥に沈み込んでいるようなものは、かえってその認識の網にひっかかりにくいのだ。そして、他者の行為を通してせっかく捉えることができたそんなものたちも、私たちは、すぐに自分で見えなくしてしまったり、損ねたりしてしまったりする。自分の本質が、そんな風に他者が媒介する一瞬だけそこに顕然と現れ、すぐに消え失せてしまうのならば、自分の生も、この私という物語も、他者からただ一方的に与えられ、なすすべなく受容させられている断片の、統一性を欠いた集合体に過ぎないような気がする。私の涙に濡れ、滲み、溶け出し、均一に薄まって広がったインクのしみ、妹がたどたどしい筆致で書いた、「2001」という文字。そんな、妹がせっかく気づかせてくれた私の生まれた源流点も、私は、もう見ることのできないぼやけた幻のような影へと変えてしまっていた。
ちょうどあの時もそうだったに違いない。私という存在は、暗い闇夜の雲間から、気まぐれに顔を覗かせて地上に降り注ぐ月明かりの仄めきのように、何の前触れもなくこの世界へと舞い降りてきた。光の届かない子宮の内部に横たわり、母胎と同化した状態、言ってみれば私個人として存在していなかった状態から、その外部にある光に照らし出されて、その外部が私の内部と同化して初めて私と言う物語は幕を開けたのだ。というよりも、それまで私という存在はこの世になかったのだから、それは私の内部ではありえない。外部はずっと外部のまま、私たちはずっと「世界」の一部のまま、ただその外部性を忘却することによって自己が確立されたと錯覚しているだけなのだ。そしてその錯覚は、それからすぐに、正確にきっかり1ヶ月後に、爆煙と粉塵のようなものをあげて、幻のように、この世界から消え去ってしまった。あの事件があったのだ。ニューヨークの高層ビルに飛行機が突っ込むという、あの事件が。
生まれたばかりの私は、当然、当時のことは何も覚えていない。遠い大洋の向こうで起こっている惨事を、騒乱を、ずっとそこに存在し続けると思われていたものの突然の消滅を、その頃の私は見もしなかったし、理解もできなかったはずだ。私がそのことを知るのは、それから何年もの時を経た後に、テレビや教科書でそれを見てからだ。人の目により解釈され、一つの統合的なストーリーに編集されて提示されたそれは、神話のように動かせざる完全性を持ち、それと引き換えに、当時の人々のむき出しの恐怖や衝撃といったものが濾し取られ、その事件の、からからに干からびた化石のように私の目に映った。私とその出来事との間は、距離によって、時間によって、また認識の質によって、幾重にも隔てられていたことになる。隔離された場所で起こる悲劇は、博物館のガラスケースに展示された青磁の壺に似ている。決して触れることの許されないもの。それも、単なる規則や規律のためではなく、ただひたすらに、自分の手の汚らわしさ、そして対象の壊れやすい完全さのために。その悲劇はとても完成されていて、古い映画フィルムの1コマのように完結していて、傷一つない青磁の釉肌のように、完全なまでに美しい。それに関与するのに、生きている私の手はあまりにも醜いのだ。そう、私と対象を本当に隔てていたものは、何千キロにも及ぶ空間的な距離ではなく、展示棚の分厚いガラスの壁でもなく、ただ与えられた資格の差のみなのだ。世界は全てを私の前に提示し、分け隔てなく全てを与えて、そして徹底的なまでに私を排除していた。この世界の「主題」は、常に私の手の届かないところに置かれていた。それは輝かしい達成であったり、目もくらむほどの栄光であったり、また目を背けたくなるような悲劇であったりするのだけれど、そんなものの悉くに手を触れることは、周到に禁じられていた。分厚い壁を穿って取り付けられた窓のような、小さなテレビスクリーンを通してのみそれらと接することを許されて、私たちは、日常という名の独房に閉じ込められていたのだ。そして、そんないやでも目につくような世界の「主題」、魅惑的だけど常軌を逸している偉人たちの人生だったり、遠い異国で起きている災害や殺戮だったり、そんなものと関わり合いを持たずに生きていけることを「幸せ」と呼ぶんだと、そう教わってきたのだ。
――幸せ。それは一体なんだろう? 彼らの言う幸せとは、一体どういう意味なんだろう?「君たちは幸せだね」と、諭すように、言い聞かせるように呟かれるその言葉には、それを認めることによる自己肯定的な心地よさでもって、それに対する疑念や深慮を進んで手放させようとする無言の圧がある。その定義について曖昧な余地を残すことが、却ってその概念のより正確な実践であるのだ。その矛盾は無限に遡及するパラドックスのように、私たちの自由を、その動機の階層から蝕んでいく。自由を手放すことの自由。幸せについて考えなくてもいいことの幸せ。……そんな矛盾に満ちた概念は、放っておけば、論理に立脚していたはずの私たちのものの見方に破滅的な打撃を与え、詐術に満ちた歪んだ形でそれを固定化してしまうだろう。だから私は今一度考えなくてはならない。あるいは、考えるでもなく心に浮かんだことを声にしておかなくてはならない。
私にとって、幸せとは、手違いで配られたチケットのようなものだった。
思いもよらぬそんなものを突然手渡され、私たちは、初めてそんな公演が行われるということを知る。知らされるまでそれは、私たちの日常の完全な外部、ただの他者であったはずなのに、一たびそのチケットが手に入るなり、私たちの関心はそれに釘付けとなる。その他者の存在により私たちの物語は、むしろ俄かに色めきだす。優れたエンタメ興行のマーケティング戦略が常にそうであるように、それは私たちの心をすっかり捉えてしまう。一夜限りの、非日常的な宴の、その破局的でさえある熱狂に比べて、私たちの毎日の、地に足の付いた堅実な暮らしは、なんて嘘くさいんだろう。まるで、目の細かい水彩画用紙の、その均質な繊維の構造みたいに、私たちの日常は均一な構造、定められた計画に則って動いている。その枠組みにすっかりと染み込み、ムラのない均一な色彩に染め上げるために、幸福の絵の具は水でさらさらに薄まっている。すっかり見慣れたその水のように稀釈された淡い色合いに比べて、チューブから絞り出されたばかりの、日常に決して溶け込むことのない原色の鮮やかさは、なんて本物らしいんだろう。……おそらく、私たちが自分の核心だと考えているもの、アイデンティティだったり、本物らしさ、自分らしさなんてものも、その規範の中で息苦しさを覚えないよう、ある程度は緩衝の余地を残し、相対的に決められるものなのだ。そして手渡された入場券は、それが示唆する非日常性への期待感は、その相対性を援用して私たちの価値観をひっくり返してしまう。社会のあるがままを追認的に放置することは、決して新たな欲望を生み出しはしない。それは常に転がり続けることを私たちに要求する。常態を持たない状態を常態にしてしまう。私たちの充足感、満たされているという感覚を、否定せず、否定しないまま、無価値化してしまう。なるほど、人から何かを取り上げるには、力づくで奪う必要なんかない。もっと魅力的に思えるものを、それに実体があろうとなかろうと、そんなものを目の前に突き出してやればいいのだ。それは、これまでの世界の空虚さ、無意味さというものを暴いて、「本質」を覗くことへの、喉の渇きのような欲望を私たちに植えつける。世界の「主題」に参加せよ、と、私たちにそうけしかけ、終わりなき衝動で私たちを突き動かすのだ。
しかし、私たちがその公演を観ること、言い換えれば、世界の「主題」の一部になることは、許されていない。手違いで配られたそのチケットには、効力がないのだ。
私たちは、手渡されたそのチケットを行使することなく、それ抱え持ったまま生きながらえなくてはならない。ただの紙切れであるその存在と、公演の実際の内容との間の、本来ありもしない関連性を夢見ながら。行使されなかったが故に回収されず、物質として残り続けるその姿に、自分の存在の矛盾、世界の主題に参加できなかったにもかかわらず、それでも生き残り、存在し続けなければならないというその矛盾の、類似性を求め、自らを肯定的に認めていくためのヒントを見出しながら。手元に残ったそのチケットの存在をいわば慰めとして。
無価値であることを暴かれた後の世界で、それでもその世界を生きながらえるために作り上げられた屈折した方法論。それが「幸せ」というものの正体だった。
自身の無価値性の発露、主題から隔離されているという事実、それでも期待を抱くことへの無責任な自由、自明の結果として与えられる落胆、そんな状況に対してなすすべもない、決定的に無力であるという不甲斐なさ。しかし、そんな自分の姿を受動的に肯定していかざるを得ないしたたかさ、卑屈さ。私にとっての「幸せ」とは、そんなものだった。
しかし、それならば世界の主題の側にいた彼らは、本物のチケットを手渡された彼らは、その主題の意味ある一部たり得たのだろうか? 彼らに、その主題を生きる必然性はあったのだろうか? こんな、「幸せ」なんて概念をでっち上げて正当化する必要のない、根源的な必然性が、そこにはあったのだろうか?
彼らの存在が、その犠牲という名の献身が、悲劇の材料として必要だったとすれば、そしてその悲劇が、世界の主題に不可欠な要素だったとするなら、その完成のために彼らは存在していたと考えることもできるだろう。彼らと世界とは、相互補完的な完全性を共有していたということもできるだろう。彼らの生は奪われ、対象として固定され、世界の完全性と同化、その一部となり、永遠に続く停滞の中で意味論的に充足し続ける。しかし、それでもなお、その完全たる姿に成就すべき必然性があったとは言えない。局所的な完全性は、世界から切り離しても成立し得るからだ。
ならば、必然性とは一体なんだろうか? それはおそらく、もっと物語的なものだ。優れた物語は、決して完結しない。形ある、故にモータルな完全性にその身を委ねてしまったりしない。人々により読まれ、解釈され、広く伝播し、ことあるごとに想起される、その刹那刹那に、物語は立ち現れてくるのだ。規則や完全さなんてものを飛び越えて、私たちの心に直接、想起しなければならない理由を訴えかけてくる。それも、一時の快楽や愉悦のためでなく、もっと根源的な、その物語の背後に潜む真価のようなものをほのめかせて。必然性というのはそういったものだ。
だけど、その必然性は、もう既に消え去ってしまった。
高層ビル群が頭を寄せ合って形作っていたいびつな地平線の上に、ぽこんと顔を覗かせてその均衡を破っていたツインタワーが、崩落し、青空が元の形の完全性を取り戻したあの日に、必然性は、真っ黒な煙雲と共に、その空の中へ、その完全性の中へと霧散してしまった。
罪なき人々の命が奪われなくてはならない世界。そんなものに、語り継がれるべき、物語的な必然性は存在しない。そんなものを認めるのは、作者なき無秩序性への賛美であり、本当に作者を、その意図を必要とする物語への、また物語を必要とする作者の意図への冒涜だ。
……そう考えると、「幸せ」なんてものは、その物語性の忘却、そのものではないのか?
それに至る過程や経緯を省略した、直接的な結末である「幸せ」という観念は、物語性の否定であり、反証である。私たちは、世界の本質、物語性への関与を閉ざされ、その代替として「幸せ」なんて概念をあてがわれ、それにすがってきた。そして私たちはその虚構に満足してしまった、あるいは気づかないふりをしているうちに本当に気づけなくなってしまった。まるで、とってつけたような「……いつまでも幸せに暮らしましたとさ。」の一文で唐突に終わるおとぎ話のように、稚拙で、無価値で、没個性的で、合目的的なもの。それが私たちの手に入れた「代替品」なんだ。
私が生まれるとほぼ時を同じくして、そんな風にしてこの世界から物語性は失われてしまった。ならば、この世に誕生した私の産声を聞いて、笑顔を浮かべたであろう人々の「幸せ」も、同様に意味を欠いていたことになる。私の生は、それを生きる直裁的な意味でも、それとほぼ同時に世界から意味が失われることになったという象徴的、メタ的な意味においても、同様に意味がなかったことになる。でもその意味の欠如、必然性の欠如は、彼らの死の必然性のなさとぴったり呼応している、というメタのメタレベルにおいて、ようやく、(恐ろしく悲劇的な方法ではあるけれど)ようやく肯定されるのかもしれない。そうだ、彼らが死にゆくことには必然性なんてなかった。断じてそれはなかった。そして、私たちが生まれたこと、生きて、生き抜いて、幸せになること。たくさんの笑顔に囲まれながら、自分が生まれたことに肯定的な意味を見出して行くこと。そんなものにも、必然性なんてなかったんだ。
私たちが、生き残りとして「選ばれた」こと。そこには、必然性なんて、何もなかった。
✳
「それは、依緒ちゃんがいたからです」
彼女が、毅然とした眼差しとともに、まっすぐと私に向けてきたその言葉は、全く必然性を欠いていた。文脈を無視した感情の発露は、そこにどんなに強い想いが込められていたとしても、世界に表出される意味なんてないのだ。
「……何言ってんの? ちょっと意味わかんないんだけど?」
「い、依緒ちゃんが、いたから、だから、私は……」
彼女は小さく唇を噛んだ。その顔は泣き出しそうにも、そんな自分を戒めようとしているようにも見えた。意味のない感情と、その感情に対するやはり意味のない意志とが拮抗しているその表情は、どうしようもなく意味を欠いているもののように私の目に映った。
「……だから、もう2度と忘れないようにしようって、決めたんです、依緒ちゃんのために」
――私のため?
何を言ってるんだ、この子は。私は、忘れたいことなんてたくさんあるんだと、そう言ってきたじゃないか。忘れてもらいたいことだって、それと同じだけ、いや、もっとたくさんあるんだと。こんな意味のない私の毎日が、無理やり価値のある世界の一部として、みんなの共有する輝かしい物語の一部として肯定されなければならないと断ずるのは、決して果たされない目標へ向けての、長くて虚しい苦行の行程を私に課すことと同義なのに。世界の、讃うべきその物語性から忘却され、それに永遠に触れられない場所に隔離されることが、私にとっての唯一の救い、唯一の「幸せ」なのに。だから私は忘れてもらいたいって、そう言ったんじゃないか。そして、忘れてもいいんだよ、って、あの時飯田さんにそう言ってあげたんじゃないか。
……ひょっとして、当てつけ?
そうか、飯田さんは、私が「忘れてほしい」って言ったから、だからあえてこんなこと言って嫌がらせしてくるんだな。人の気持ちも知らないで。……いや、むしろ私のこと熟知しているから? ……そうだ、きっとそうに違いない。普通の子たちなら、過去の恥ずかしい出来事や忘れてしまいたい失敗でも、思い出話にして、ネタにしてみんなと一緒に笑い飛ばせたりするのに、引きこもりで、周りに誰もいない私は、それを正当化してくれる客観的な視点の可能性に気がつけなくて、いつまでも胸の奥でぐるぐると、自己否定の観念を強化していく材料としてリサイクルし続けるしかないんだ。だから、飯田さんは「忘れないぞ」と、そう言うんだな。「お前が私たちと同じ資質を持っているなんて、勘違いするなよ。私たちの世界の『主題』が、お前のその汚らわしい手が触れることを許すなんて、思うなよ」と、暗にそう言っているんだな。
――やっぱ、むかつく。
「――私のためにって、何よ!?」
自分でも驚くほどの大きな声が出てきた。その驚きはおそらく、自分の行動に対する先行する計画性や主体感の欠如のせいだった。考えもせずに咄嗟に出たその行動は、もはや目的ではなく、目的に対する手段でもなく、ただの欲望、それも、抱いてから果たされるまでの時系列的な過程を自覚的に認識できる類の、「物語性」のある欲望ではなく、頰をかすめて飛ぶ羽虫を無意識に手で払うような、即時的で、刹那的で、浮かぶそばからすぐ世界から忘却されていってしまうような、どうしようもなく意味を欠いた欲望だった。
突然の大声を浴びせられ、恐怖にビクッと身を竦ませるようにしている彼女の姿も、私の前を音もなく過ぎ去り、やがて忘れ去られてしまう、意味を欠いた存在としか思えなかった。
「……私のため、だとか、誰かのためだとか、そんなことばっかり言いあって、本当は相手のことなんか、なんにも考えてなかったって、昨日、わかったじゃない。そんな独りよがりな思い込みばっかり抱いて、相手のこと傷つけていたんだって」
どんなに、その「正しさ」を信じて行ったことだって、世界の完全性に則っていなければ、それはただの間違いなんだ。そんな自分勝手な想い、身勝手なその行動に、世界に受容されるべき「必然性」なんてものはないんだ。
「近くに居すぎたんだよ、きっと、私たち」
私は、悲しみに目を伏せるようにしながら、そう続けた。決して共有されることのなかった悲しみを、私の中に、彼女の中に、別々に見出して行くように。
「きっと、ずっと近くに居続けると、交わす言葉も、笑顔も、自然と増えていって、相手のこと喜ばせたり、楽しませたりできるんだって、そう勘違いしちゃうものなんだよ。自分が相手の人生の一部になれる、って、そう思い込んじゃうんだよ。本当は、傷つける危険性だって、すごく増えるはずなのに、だからみんな、ただの『他人』とは、余計な諍いや争いごとにならないように、自然と無関心や不干渉でいることを心がけるものなのに。そんな自然な防御機能、本当の意味で相手を『思いやる』ことよりも、ただの間違った欲望、それも、その欲望を正しいものとして認め合って、肯定してほしいと相手に求めるどうしようもなく間違った欲望、そんなものの方が大きくなって、どんどん肥大化してしまって、すっかり平衡感覚を失ってしまった状態、それが今の私たちなんだよ」
悲しみだけではなく、欲望も決して共有されることはなかった。私たちは、それぞれ間違った欲望を抱いたまま、個々の物語の「主人公」でいることを決して放棄しようとはしなかったのだ。だからこそ、相手の物語の「観客」にすらなることができなかった。その劇場のチケットすら手渡されることはなかった。まして、全員で一つの物語を演じることなんて、できるわけがなかった。世界という大きな物語から隔離された私たちは、個々の小さな物語を演じることすら、本当は、許されてなんかいなかったのだ。
「そんな風に、誰かのこと傷つけるくらいなら、傷つける前に全部忘れてしまった方がいい。そんなに悲しい関係性なら、全部忘れて、失ってしまった方がいい。そうするべきなんだよ。飯田さんだって、そう思うでしょ?」
胸の内に抱えていた、これまた間違った欲望を、決して見せないように隠匿しながら、「べき論」を振りかざして、世界の主題の反転したその一部であるふりをしていた私に対して、彼女は、
「――嫌です!」
彼女は、自分の欲望を決して隠そうとはせず、詐術のような甘い言葉で正当化しようともせず、ただひたすら、情動的とすら思える口調で、そう言うだけだった。
「忘れるなんて、絶対嫌です。……それがたとえ誰かのことを傷つけるとしても、それでも、ずっと覚えていなくちゃ、いけないんです」
「そんな……。じゃあ、飯田さんは、嫌な思い出や辛い出来事の記憶を、それがどんなにその人の尊厳を損ねるとしても、ずっと、ずっと抱え続けなければいけないというの? 大切だと思っていた人に、自分が受け入れられなかったということも、愛されなかったという事実も?」
それは私にとって、あまりにも受け入れがたい、残酷な審判だった。自らを否定することに慣れすぎて、自分の中のごく一部分しか肯定的に認めることのできなかった私にとって、自分の全てを受け入れられることは、全てを拒絶されること、限られた部分だけを見つめようとする私の意志の全てを否定されることと同義だったからだ。
「……忘れるな、っていうの? 自分が誰かに傷つけられたことも、誰かが傷つくのを見ていたことも、……自分が、この手で誰かを傷つけてしまったことさえも……」
「傷つけたこともです!」
そこで彼女は、その小さな体から出てきたのが信じられないくらいの大きな叫びをあげ、私の言葉をさえぎった。身体を前かがみにしていたせいで私の胸の高さよりはるかに下に位置していたその小さくて華奢な肩は、わななくように震えていた。それはきっと、怒りや、泣き出したい感情のせいではなく、ただその叫びに渾身の力を込めたせいだった。
「誰かを傷つけたことだって、忘れちゃいけないんです。その事実から逃げちゃ、いけないんです。……それは、戒めでも、罰でも、償いでも、何でもなくて……ただ……」
顔をくいっとこちらに向け、涙で潤みながらも、それでもその奥に熱い意志を燃え上がらせるような、凛々しくさえ思える瞳で、私の両の目を、突き刺すようにきっと睨みつけて、
「……仲間だからです」
その眼差しは私を捉えて離さなかった。私の生きてきた全てを見通して強く肯定するような、私が自分の過去の一部を否定して逃げたり隠れたりすることを許さないような、そんな、とても優しくて、そして峻烈なほどに厳しい、眼差しだった。
「ただの他人だったら、痛みも、苦しみも、何も気づかずにいた方が幸せなのかもしれません。だけど、私たちは違います……。仲間だから、大切な友達だから、だから傷ついたことだって、傷つけたことだって、忘れちゃいけないんです。ずっと、目をそらさずに見ていなければいけないんです」
彼女の言葉はひどく独善的だった。だけど、その口調に、その傲慢さを恥じる気配はまるでなかった。窓ガラスを伝い流れる雨粒が、自らの大きさのために他の雨粒を呑み込んでさらに大きくなっていくように、自らの正しさを疑わないその態度が、さらにその確信を力づけ、意志を持たない私のような小さな存在を呑み込んでいこうとするのだった。
「これからも、お互いに、たくさん傷つけたり、傷つけられたり、辛い想いをしたり、させたり、悩んだり、悩ませたり、……そんなことを、はたから見たらすごく無駄で、痛々しくて、バカみたいで、何の意味もないようなことを、ずっとずっと、いつまでもずっと繰り返していかなければいけないんです、仲間だから」
彼女の言っていることの意味が、私には理解できなかった。仲間なら、というその条件の定義も曖昧だし、結論に至るまでの過程もよく見えては来なかった。とりわけ、その条件の曖昧さを推量して、都合よく解釈していくだけのずるさが、強さが、私には持てなかった。
「……どうして? ただの寄せ集めなんだよ? 私たち」
一人は、いつもおどおどしているせいで、椎香の強引な誘いを断れなかったから。一人は、自分というものを持っていなかったせいで、ただ周りに流されて。そしてもう一人は、誰も友達がいなくて、ひとりぼっちでいたから、誘いやすそうだという、ただそれだけの理由で。
なるべくしてなったんじゃない、ただの偶然の成り行きで、たまたま同じ浜辺に打ち上げられた漂流物。それが私たちなんだ。蝶の羽ばたきのような些細な要因が少しでも違っていれば、きっと出会うこともなく、知り合うことさえもなく、それぞれ別々の道を歩んでいくことになった、そしてそのことを憂うことさえなかった私たち。そんな4人が、こんな風にいざ本当にバラバラになってしまって、果たして今さらその関係を取り戻す必要なんてあるのだろうか? 彼女の言うように、堪え難い、それでいて分かち合えない痛みをそれぞれの胸に抱えてまで。
「……仲間でもなんでもない。理由もなく集められて、なるべくしてバラバラになった、ただそれだけの存在だったんだよ。そんな私たちが、4人でいなくちゃいけないわけなんて、最初から、何もなかったんだよ」
「……そんな……そんなことって……」
――仲間じゃない。
そんなたった一言で、急に弱気になるその姿を見て、彼女が裏付けも根拠もなく、そのことをただねだるように信じていただけであったことが知れた。無条件に信じることが強さであるなら、それに対する猜疑は、正義の力に庇護されるべき弱さであるはずだった。
「ただの他人なんだよ、私たち。みんなの輪からはぐれて、世界に受け入れられずに、そして、そんな負の共通項が、ねじれた発端となって、輪になれなかったロープの切れ端みたいに、ほんの一時身を撚り合わせていた、それだけの存在なんだよ。……私たち4人がメンバーとして選ばれたこと、そこには、必然性なんて、何もなかったんだよ」
✳
6月18日 月曜日
お昼休み、楠田さんって言う、背が高くて、すごく可愛い女の子に、急に話しかけられた。
突然だったから、すごいびっくりした。
なんだか見慣れない子だった。始業式以来、ずっと学校に来れなかったらしい。それなのに、久しぶりに学校に来るなり、ほとんど初対面のクラスのみんなに次々に話しかけている。すごいなあ、私なんて、何ヶ月もクラスにいながら、誰にも話しかけられないのに。
どうしてそんなに積極的にみんなに話しかけているのかと思ったら、どうやら何か勧誘をしているらしい。私も誘われちゃったー。どうしよう?
よくよく楠田さんの話を聞いてみると、どうやら、学校でダンスユニットを結成して、クラスのみんなの前でライブを披露しようとしているらしい。……うーん、この子はちょっと、最近のアニメの見過ぎなのかも知れないなー、って思っちゃった。
すごくいやだった。絶対無理だって思った。人に話しかけることさえできない私が、いきなりみんなの見つめるステージに立って、歌ったり、踊ったり、そんなことできるわけない。背だって小さいし。かわいくないし。
お断りしよう。断るの、すごく苦手だけど、誰かのことがっかりさせちゃうの、すごく怖いけど。でも、私には絶対無理だから、無責任に引き受けて、将来的にもっとがっかりさせちゃう前に、勇気を出してちゃんと断ろう。
だけど、楠田さんが、これまでに勧誘に成功したメンバーの一覧表を見せてくれて、そこになんと、相沢さんの名前があった。って言うか、相沢さんの名前しかなかった。
びっくりした。相沢さん、そういうの興味ないと思ってたから、すごく意外だった。
楠田さんは、女優さんみたいなすごく整ったその顔立ちを、びっくりしておろおろしている私の顔に、すごい至近距離に、吐息が聞こえて来るくらいの位置に近づけて、強い目力で、それでいてすごく優しい眼差しで私の目をじっと見つめてきた。そして、それほど大きくもないのに、いつまでも耳の奥に残るような、すごく芯の通った、透き通るような綺麗な声で、
――どう? 飯田さんも、やってみない?
そんな風に言われて、私も、もちろんドキドキしちゃった。でもそのドキドキは、きっと、楠田さんのせいだけじゃなくて……
怖いけど、自信ないけど、迷惑かけちゃうかも知れないけど、こんな私が、ダンスをするなんて、似合わないけど、笑われちゃうかも知れないけど、ぜんぜんふさわしくなんかないけど、私がメンバーに選ばれる必然性なんて、なんにも、ないけど、
相沢さんが、いたから。
――私も、やります。
相沢さんがいたから、そのひとことが、言えたんだ。




