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ixte  作者: 琴尾望奈
26/57

DAY AFTER #9

 すがすがしい朝である! ……と言いたいところなんだけど、私はなぜかとても心地悪い疲労感に包まれながら目が覚めた。昨日のライブは、まあいろいろあって大変だったんだけど、なんとかやり遂げることができたというのに、どうしてこんなにも気分がすぐれないんだろう? 全身ひどい倦怠感に襲われて、起き上がるのも億劫で、私は罪悪感と喪失感で胸がいっぱいだった。


 テレビをつけてみると、何やら原爆が投下されて何年目に当たる昨日、長崎で祈念式典が執り行われました、という旨のニュースが流れていた。もちろん私は速攻でHDMI入力モードに変更して、ゲーム機の電源を入れる。昨日まであんなに一生懸命頑張ってきたんだ。今日ぐらい、一日中だらだらとゲームを……、



 ……やりたくない。



 私は、変な異物を飲み込んでしまったような、自然で、それでいてとても強烈な嫌悪感を覚えて、ゲームの電源を切ってしまった。ゲームをプレイする時、あるいはプレイする自分を想像する時、私たちはいつも、画面の中を駆け巡る自分の分身、その生き生きと躍動するイメージを脳内に奔流させ、そしてコントローラーのボタンの上を飛び跳ねる、その行為の確かな感覚を指先に宿らせる。イメージと行為との、豊穣なインタラクション。ところがその両者が、今日はどういうわけか、私の予感の中でうまく手と手を結ばないのだ。


 なぜだろう? ずっと蜜月を続けていくと思われた私とゲームとの関係が、いつの間に損なわれてしまっている。まるで友達と仲違いした時みたいに、私の素直な好意が、感情が、ゲームへのモチベーションに向かわなくなってしまっているのだ。


 不穏な胸騒ぎに駆り立てられるように、私はただならぬこの状況について思案を巡らす。誰かとの、あるいは何かとの関係を損なってしまう原因には、いくつかのパターンが存在するのだ。弱冠16歳にして数多くの友達を失ってきた私には、そのことがよくわかるのだ。まず一つは、自分が相手に手酷く傷つけられ、感情的になって相手を拒絶してしまう場合。ふとしたきっかけで友達から嫌なことを言われて、大げんかして、もう絶交だかんね! とかいうのがそれに該当する。二つ目には、特にこれといった出来事はなくとも、時間が経つにつれ、ああ、なんとなくコイツとは合わないなー、って感じになってきて、無感情になって自然と心が離れていってしまう場合。これはだいたい中学の1・2年の時に、それまでずっと仲良くやってきた同学年の仲間たちが、いくつかのグループにバラバラに別れていってしまうことの原因になる。そして三つ目。誰かと関係を保つこと、会話を交わし自然に触れ合うことがなんとなく怖くなってしまい、自分を偽りながらそれを続けることが心の負担になってしまう場合。模範的な引きこもりです! なんて言って、誰にも迷惑かけてないからなんてそんな消極的で消去法的な言い訳を振りかざして、青春を棒に振ってしまう、なんてのがこれに該当する。とまあ、かくあれ人間というのは、生まれてから死ぬまで様々な理由により大切な関係性を失い続けていくように定められた生き物のようである。


 ……まあ、最後の原因で友達を失ってしまう人なんて、私ぐらいのものかもしれないけど。


 さて、人間同士の関係に破局を導くこれらの原因が、とりもなおさず人間と人間以外との関係についても援用できるとすれば、私が今日ゲームをプレイする気持ちになれない理由もそこに存在しているに違いない。そこで私は思案し、愕然とする。三つ目の原因は、まあ、機械であるコンピューターと付き合うことに恐怖を覚える、なんてことはありえないので除外するとして、どうやらそれは、残り二つのうちの後者の方に該当するみたいなのだ。


 それの何がそんなに問題なのか? 答えは容易に導かれる。前者においては、後にその関係性を修復できる可能性が多分に含まれているのだ。友達とけんかしたって、後できっと仲直りできるし、キーッ!! このクソゲーがぁ!! まじ金返せ! 開発者吊れやぁーー!! っていってディスク叩き割ったとしても、後でどうせゲオで中古買い戻すんでしょ? わかります。人の気持ちは振り子のように揺れ動くものならば、相手を拒絶してしまう一時のその感情は、反対方向に大きく振れてしまったそれのようなものである。その振れ幅の大きさは、相手を思いやる気持ちが大きいからこそのものであり、その()()の大きさは()()の強さによるものなのだ。だからこそその一時の負の感情は、放っておいても元の状態に戻れるだけの力を、強さを、振り子の位置エネルギーのようにして内に秘めているのだ。


 しかし、問題なのは後者の方である。往々にして、無関心になって霧消してしまった関係はずっとそのまま。離れてしまったグループ間で、再び親密な関係性を築ける可能性なんてほとんどないのだ。我々は経験則によってそのことを悟り、それを未来の先入観へと結実させ、そして、こと対象が我々自身の気分に関することであるため、その先入観はそれ自体が強力な論拠となって事象を証明し、事態を決定づけていく。止まってしまった振り子が、再び勝手に動き出すことなどないのだ。それが起こり得るのは、サブカル的な創作物の中で、男女の仲の形を取った場合だけ。余談だけど、ああいうのってなんでいつも決まって冴えない男子とイケてる女子とのカップリングなんだろうね? その逆は需要がないとでも思ってんの? 現実ナメんなよ! 女子だったら、ちょっとぐらい見た目がイケてなくても、誰か拾ってくれる男子がいるもんだなんて思わないでよね!


 ……話が横道に逸れたが、その時の私の抱いていた嫌悪感はそういう類のものだった。私と対象との間の空間は、溶け出して固まったゼラチンのような、透明でブヨブヨした膜に覆われて、それ越しに互いの姿は見通せるし、なんならその膜を力づくで押し破って向こう側にたどり着くことだって可能であるはずなのに、その不快な弾力と感触が、私にそうすることを思いとどまらせているのだ。そして、それは例えば鋼鉄の分厚い壁に隔てられて、それを突き破ることが絶対に不可能である状況よりも、さらに絶望的なのだった。誰かに強く恋い焦がれ、それでも会うことが叶わない状況は、古今、恋愛小説や映画などで陳腐に思えるほど繰り返し描かれてきた主題だ。その作品の出来不出来はともかく、彼らの演じる葛藤や苦悩は、確かに物語となり得る力を持っている。ひきかえ、目の前にあるのに手を伸ばそうとしない今の私のような状況なんて、空気系アニメのプロットにすらなれないだろう。物語はそこでばったりと死に、映写機の錆びたリールに再びフィルムが巻かれることがないように、ぽっかりと空いた私の心に、再びゲームによる興奮の熱が宿ることはない、そんな予感がするのだ。



 ……ん?

 ……ぽっかりと空いた、私の、心?



 一瞬の間、思考を反芻し、直後、私は慄然とする。それまで意識していなかった壁掛け時計の秒針の、乾いた無機質な音が私の体の中に染み込んできて、まるでそれが心臓の鼓動よりも自分のものであるかのように感じられた。今朝起きてから、ずっと気がつくでもなく感じていた怠さ、虚しさといったものが、ふとした瞬間にそう言語化してしまうと、それははっきりとした実像を結び、それが私の本質であるかのように、私の意識をすっかり占領してしまった。


 ――ぽっかりと空いた、私の、心。


 その奇妙な感覚は、気まぐれな、実体を持たない感傷的な思い込みなんかではなく、むしろ有無を言わさぬ物質的な存在のように、高速で海を行く船舶が数分後に衝突することになる岩礁のように、そこにただ屹立していた。それは、思考的、演繹的な因果性を欠いた、単純な物理的事実であるがゆえに、否定のしようがなく、まただからこそ、残酷で、運命論じみてもいた。そして、船の監視台からそれを発見した航海士のように、私は、そこにそんなものがあるなんてことが信じられなかった。昨日のライブだってなんとかやり遂げたのに。何も気をもむ必要なんてあるはずないのに。幸福で豊かな充足感こそあれ、そんな喪失感なんてものがあるのは変だった。


 私は胸に手を当て、ゆっくりと深呼吸してみる。何度か吸って吐いてを繰り返すうちに、私は少しずつ落ち着きを取り戻していった。空気という他者を体内に取り入れることによって、逆説的に私は私らしさを取り戻していくのだ。そしてその自分らしさの正体とは、言い換えれば、肺の中に、胸の中にぽっかり空いた空洞であるのだ。


 なーんだ、バカバカしい。そんな生理学上の当たり前な事実を指して、心の中に空いた穴だなどと呼んでみたところで、そんなものは単なるレトリックなパラフレーズにすぎないぞ。やっぱり、私の抱いていた倦怠感なんてものはただの思い込みだったのだ。ゲームに対するモチベーションが上がらないのだって、一時的な生理痛のようなもので、しばらくすればまた元どおりになれるに決まってる。夏休みはまさに今日、始まったばかり。焦ることなどない、気長に待つことにしよう。


 テレビのリモコンを操作して、再び地上波を映してみると、先ほどのニュース番組はまだ続いていて、長崎の平和祈念式典の模様が流れていた。式典の執り行われている平和公園には、平和の象徴として設置されたあの有名な男性像がうやうやしく鎮座している。その青銅の肌の醒めるような蒼さは背景の空の抜けるような青さによく調和していて、その美しくモデリングされた体躯の逞しさは、その内に秘める人間の精神の純潔さを祝福しているようにも思える。しかし、その像が高らかに掲げた右腕が、まっすぐと指し示している快晴の青空で、73年前のちょうど昨日、まさにその人類は最大の愚行を犯したのだった。



 ……あれ?

 ……長崎? 平和記念式典?



 ……おかしい。昨日が一学期の終業日で、まさに今日から夏休みが始まるはず。それなのに、昨日が長崎の原爆の日だった、と報道されていて……じゃあ、今日は8月10日? そんな、ありえない。そんなはずはない……。


 おかしな現実を目の前に突きつけられて、私は今度こそ思いっきり動揺した。私は寝ぼけてもいないし、精神がおかしくなってもいないはず。だとすれば、この世界がなんらかのエンドレスエイト的な力によって歪められて、8月の時間軸がデタラメに組み替えられてしまっているのでは……なんて昔のラノベじみたことを真剣に考えたりまでした。


 しかし、次の瞬間、興奮の熱のようなものを丁寧に漉し取られた、数学的な「解」のようなものが、空から天啓のように降ってきて、私ははっきりと理解した。



 ――私は、何かを失ったのだ。



 それは、何かを知識として理解する前に立ち現れる、曖昧で、しかし確かな感覚だった。どこか霊感にも似たそれはしかし、それを反駁あるいは証明しようとして繰り広げられる思念上の論争が、丸ごと矮小な概念に立脚した行いに過ぎないとして払いのけてしまえるほどに、私自身の、直裁的な感覚だった。


 私は、何かを、失った。


 そしてその感覚の背後には、その「何か」の正体が決してわからないだろうという予感が込められていた。そこでは、失われたものは失われたという事実さえも失われて、真の意味で、あるいはメタ的な意味で、永遠に失われてしまっているのだった。


 それは、私にほとんど恐怖を与えた。


 失うこと、それ自体は嘆くことでも忌避すべきことでもない。というのも、人間は失うことによって、逆説的に自分らしさを確立していくからだ。脳細胞の数は、生まれたての赤ん坊に最も多く、歳をとるにつれそれが死滅して失われていくごとに、残された脳細胞はニューロンネットワークをより強固にしてその人の人格を形成していく。言い換えればそれは、石膏の塊から不要な部分を削り取り、塑像の形を彫り出していくような、創造にも似た重要な過程である。それに比較すれば、むしろ「得ること」などは人生の本質なんかではない。それは私という彫像の、形作られる過程の必然性が生み出した輪郭線に、無意味に付け加えられた粘土の塊のような、軟弱で不自然な私らしさの延長であり、血が通い感覚の行き届いた「私」とは本来的に無関係なものであるのだ。いかなる論拠をもってしても、そんなものに「得る」ことの必然性を見出すことはできないだろう。ひきかえ、失うことは、もう絶対に取り戻せないというその決定的な非可逆性が人生を定義し、人間を形作っていく。私は、私の失ったものによって、私であるのだ。古いカメラのネガフィルムのように、私の失ってきたものたちの総体が折り重なって像をなし、反転した私の絵を描く。それが過去という背後から矢のような光陰に射抜かれ、照らし出されて、現在というスクリーンに今の私がありありと像を結ぶのだ。


 しかし、そんな風に「喪失」を肯定できるのは、それが今の私のありようになんらかの形で関与する限りにおいて、である。皿の縁が欠ければ、そのいびつな形を見て元の皿の丸さを思い浮かべることもできるだろう。だけど、失ったことにさえ気づけない今の私は、そんな形あるものでなくむしろ無定形な、砂金の山のようなものだった。それが少しずつくすね取られていっても、すぐには気づくことができなくて、そしてやっと気がついたときにはもう手遅れで、大量の砂金はすでにどこかに運び去られているのだ。最初から何ら固有の形を持っていなかったそれは、最後まではっきりとした形態を獲得できないまま、その総量だけが目減りして、ただそのことを悔やみ続けることしかできないのだ。


 それは消滅にも似た、不吉な予感だった。私の恐怖の源は、こんなところにあったんだ。


 テレビで流れている式典の間中、カメラは平和公園内の映像しか映していない。周囲の街の景色が全く映らないのは、公園が高い木立に阻まれて、周りを見通すことができないからだけではない。公園から一歩外に出た長崎の街には、普段と変わらない日常が溢れており、人々は失われた記憶の中を、それぞれの幸せを胸に抱いて今日という日を生きている。そこには過去に起きた悲劇の名残を見出すことすらできない。なぜなら、長崎の街には、広島の原爆ドームのような、その悲劇の記憶を喚起するような象徴が、失われてしまっているのだ。


 蝉の声が今日はやけに大きく聞こえる。


 私はその音がテレビから流れてきているものだと思っていたが、そうではなかった。それは窓の外で鳴いている、本物の蝉の声だった。


 家の中が妙に静かだった。


 私は部屋から出て廊下を渡り、階段を降りて1階のリビングへと向かう。その静けさの原因は、分かりたくなくても、すぐに分かってしまった。


 妹がいないのだ。


 2階の妹の部屋のドアは開け放してあって(女の子なんだから、部屋にいないときでもドアはきちんと閉めなさい、っていつも言ってるのに)、リビングのソファにもその姿はなかった。中3の妹は、夏休み前に部活は引退していて、外出する用事なんてないはずなのに。


「あら、依緒。おはよう。相変わらずねぼすけさんねー」

「あ、お母さん、おはよう。あいつ、どこか出かけたの?」

 お母さんは、一瞬困ったような表情を浮かべた。

「あ、うん、そうね。あの子、えっと、買い物に行くって言って、朝早く出かけていったのよ」


 何か言いよどんでいるようなお母さんの様子は、ちょっと変だった。


「あ、ごめんね。実はあの子に、このことはおねえちゃんには内緒にしててね、って言われてて……。だから、依緒からあの子に、お母さんが喋ったって、言わないでね」



 ……内緒? 妹が、私に? 何で?

 ……おかしい。あいつ、今までそんなことしたこと、ないのに。バカだから、隠し事なんて、できるはずないのに。





 部屋に戻った私は、ベッドの背もたれに身を預けるようにして座り込み、宙を仰いだ。何をする当てもなく、視線の先にある天井の壁紙の模様を、ただぼんやりと眺めていた。パステル色のわずかな濃淡の2色で描かれたその単純な模様は、エッシャーのだまし絵のように、同じモチーフの図と地が無限に繰り返されて部屋全体を覆っている。平面の世界の中に行儀よく詰め込まれているそれらは、変わった形のレンガを並べて作った壁のようにも見える。


 私はその「壁」に、かつて、イギリスのロックバンドが『我々は壁の中の一個のレンガに過ぎない』と歌詞にしたような、全体から俯瞰した際の個々の存在の無意味さ、儚さといったものではなく、もっと快いものを見出すことができた。それらは「繋がって」いるのだ。それぞれのモチーフは、自分の周りにいる仲間の存在によって形をなすことができ、また、その他者の存在に理由と根拠にを与えている。陳腐な言い方をすれば、絆を基に、互いに支え合っていく関係性。その愛すべき縮図がそこにあるような気がした。くだんのロックバンドが歌にした頽廃的な観念よりも、幾分か希望的な響きが、そこにはあった。


 しかし、安易な希望的観測に常であるように、その背後には紙一重の脅威が息を殺して潜んでいる。


 「彼ら」は変化することができないのだ。彼らのうちのどれか一つでも、形を変えたり姿を消しただけで、周囲のモチーフたちもおしなべて変形させられ、姿を消されてしまう。彼らの姿かたちは、頭の先からお尻まで、全て隣人によって定義されて、自らの世界の完全な反復性を守るため、その一部となりすっぽりとそこに収まっているのだ。小さな変化は次々と他の変化を呼び、長い時間をかけて世界を破綻へと追いやる危険性を孕んでいる。それゆえ、完璧な世界は、自らの単調な繰り返しを守るためにその変化を排除する。そして、永遠に続くというその不死性のうちにひっそりと死んでいるのだ。


 そんな世界は、壊されなければならない。


 たった一つのモチーフが姿を変える、などという、些細な徴などによってではなく、もっと目に見える、象徴的で粗暴な力によって。そう、例えば、いきなりドアをドカン! と蹴飛ばして勝手に現れる闖入者のような、そんな迷惑千万な力によって、その世界は破壊されるべきなのだ。


 しかし、今日は私の部屋のドアは決して蹴飛ばされることはなかった。完璧なその世界の、従順な一部分として、その空間を構成し、私を閉じ込めているだけだ。


 こんな完璧な世界は、破壊されなくてはならないのに。


 しかし、そんな破壊的な力を、一番疎ましく、一番うざったいなー、って思っていたのは、当の私なのだ。このどうしようもなく完璧な世界を求め、自分をその中に閉じ込めて虚構の安息を貪ってほくほくとしていたのは、他でもない、この私なのだ。


 そこで私は、はっと気づいた。


 私は、()()()()だったのだ。


 失うべきものを、きちんと、()()()()()()()だったのだ。


 先ほども言った通り、弱冠16歳にして数多くの友達を失ってきた私である。確かに私は多くのものを失ってきた。しかし、その失い方は、果たして正しかったのだろうか? 誰かに傷つけられ、ケンカになってしまうのは、相手によって自分の誇りの一部が失われてしまったということ。誰かに無関心になってしまうのは、相手を想う気持ちを自分が失ってしまったということ。そして、人付き合いを避け、引きこもってしまうこと、これは……最悪だった。私は、「失って」さえもいないのだ。


 まるで禅問答のような曖昧な観念だけど、私は、失わないことによって、何かを決定的に失ってしまったんだ。そうだ、私はいつだって、間違ったものを大事に守って、本当に失ってはいけない大切なものを、失ってしまうんだ。



 ――ポンポコポンポン♪



 ちょうどその時、不意に私の携帯が鳴った。わずかな破綻のかけらの包有も許さない閉じた世界の中で、ちょっと間抜けながらもけたたましく響くその音色は、SF映画のディストピア的世界観の中で、悪の支配する巨大な要塞に向かって小石を投げつける少年の瞳の光のように、小気味の良い反骨の印のようなものを内に宿していた。しかし、もちろんそんなものではこの世界は崩れない。


 それをするのは、私だ。


 私は、鳴り続ける携帯をつかんだまま、立ち上がる。まっすぐそのまま、歩き出す。


 ドアが蹴飛ばされないなら、自分の手で開ければいい。


 その電話をかけてきたのは、椎香に決まっていた。私は、発信者の確認もせずに、それに出る。


 これから、私は、何かを失うだろう。


 そして、何かを守るだろう。


 いいことも、悪いことも、私たちは失った後にしか気づけないのだ。


 だから、その会話の内容は、決まっていた。


「――相沢さん、今から来て」

「……うん。すぐ行く」





 真夏の校舎は、しんとしていた。


 うだるような暑さやら、遠くで鳴いてる蝉の声やら、見慣れた校舎に誰もいないという非日常性やら、どことなく漂い始めた秋の気配やら。そんな、様々な感情を喚起するものたちが一体となって、ベクトルが相殺され、相対的な無の世界へと沈み込んでいるのだ。映画のスクリーンを、カメラのシャッターを開け放して撮影すると、物語の様々な場面は塗りつぶされて、ただの真っ白な沈黙だけが写るように。


 何かを見ようとしなければ、逆に言うと、他の何かを見るのをやめなければ、本当に見るべき景色は失われてしまう。


 私の見るべき世界は、中庭の新校舎の前にあった。


「……相沢さん、遅い」

「やっほー、相沢さん! こっちだよー!」


 そこには、椎香と妙有の姿があった。それに加えて、私。その3人だけで、この世界は満ち足りていた。他の何ものをも必要とせず、ただそこに在った。


「……ごめんね、待たせちゃって。また今日から、練習、頑張ろうね!」


 私がそう言うと、椎香も、妙有も、一瞬不思議そうに顔をしかめた。それでも次の瞬間には、ああ、と何か思い出したように合点した表情を見せ、


「うん……今日から、ね。……相沢さん、頑張りましょう」




 熱量が凝固して肌にまとわりついてくるような錯覚を覚えるほどの暑さの中、私たちは一心不乱にダンスを踊り続けた。私が体を動かせば動かすほど、気持ちのいい汗が身体中からたくさん出てきて、周囲の世界へと蒸発して溶け込んでいく。世界は私の関与を待っていて、そして、私がそれに応えれば、世界と私とは次第に融合して、一つに溶け合っていくのだ。


 考えてみると不思議なものだ。私が、例えば右腕が動くよう念じると、本当にそれは動き出す。そして、校舎の窓ガラスに映った自分の右腕が動くさまを視覚イメージとして見ることになるのだ。イメージと行為との、豊穣なインタラクション。ゲームをプレイするよりも確かな感覚が、快感が、そこにあった。


 しかし、行為は、私の行為は一体どこに立ち現れてくるのだろう? ゲームにおいてはその因果関係ははっきりとしている。押されたボタンが信号を発し、それがCPUの回路を通って、プログラムがキャラクターを動かすのだ。ダンスを踊る私も、ほとんどそれに似ている。大脳皮質の運動野が信号を発し、それが脊髄や末梢神経を通って腕を動かす。それならば、ボタンを押す「私」は、脳に信号を発生させている「私」は、一体どこにいるんだろう?


 そんな、デカルトが仕組んだ罠のようなことについてぼんやりと考えを巡らせている間にも、私の体は無意識の内に踊り続けていた。「私」の関与を待たずして……。そこで私は不穏な疑念に捕らわれ始める。本当は、私は何一つ関わってなんかいないんじゃないだろうか? 「私」は、私の身体も含めた世界の総体を、何も手出しできずに、ただ外側から眺めているだけなんじゃないだろうか?


「ふーっ、だんだん調子出てきたねー。相沢さん、すごいいい感じに踊れてるじゃんかー」

「えー? そ、そうかなー?」

「うん、上手」


 そんな風に私が、世界との距離感を測りあぐねている原因の一つは、今日の私があまりにも「うまくいきすぎている」からだった。と言うのも、今までの私はずっと、決して順調にダンスの練習をこなしてきたとは言えないからだ。思い返してみれば、最初の頃は私一人だけへばっていたし、ライブの前日に至るまで、私一人だけがずっと浮かないもやもやとした不快感を抱えていた。妙有はいきなり変な登場の仕方して私を驚かすし、椎香はいきなりジャンプを跳んでみて! とか言って私を悩ませるし、そのせいで変な夢まで見ちゃったし、ライブ本番だって、実際に私がジャンプを跳んで……


 ……あれ?


「よっしゃ、じゃー次の練習行くよーん。相沢さん、次のパートでジャンプだかんね。張り切って行こう!」

「ちょ、ちょっと待って!」

「「…………?」」

「絵奈は!?」


 私がそう叫ぶと、2人は、うわー、まーた始まったよー、とでも言いたげな視線でこちらを見返してくる。


「相沢さん、この前も言ったけど、飯田さんという人のことは、知らないし、私たちのメンバーではない」


 椎香は、全く感情のこもっていない声で、私にそう告げた。スマホの音声認識システムが「よくわかりません」と応える時のような無機質な声で。普段の彼女とは、似ても似つかないような声で。


「いやー、相沢さん、あたしもその飯田さんって子のことは、一度も会ったことないからよくわかんないんだよねー。昨日だってその子、うらやましかったんですううー! とか言っていきなり泣き出しちゃうしさー。やー、あたし、思わず、最初から出会わなければよかったんだよねー、とか思っちゃったかんねー?」


 妙有は、意味のわからないことを言って、それでもとにかく絵奈のことを知らない、と言い張った。いつもより明らかに、彼女はおかしかった。


 2人とも、今日はとても変だった。そして、そんな2人を乗せて、絵奈のことを抜きにして回っていられるこの世界は、もっと変だった。


 だけど、そのおかしさは、私が朝から抱いていた妙な気持ちと化学反応して、巨大な結晶となって私の頭上から落っこちてきた。




 ――やっぱり、私は何かを失ったのだ。




 目の前のおかしな世界は、明らかにおかしな様子の椎香や妙有は、私の失ったものによって、こんな救いようもない在り方で、今、在るのだ。


「そんなことより、相沢さん」


 椎香はそう言葉を継いできた。「そんなことより」、と。私たちが一番大切にしてきた何かを指して、「そんなこと」、と。


 どうして彼女は、こんなふざけた世界の従順な一部でいられるんだろう? どうして「ほつれ」になろうとしないんだろう? こんな間違った世界を、内側から突き崩そうとしないんだろう?


「相沢さんがジャンプを跳ぶんだよ。早く、準備して」

「……跳ばないよ」


 私の声は、情けないほどに震えていた。誰もがその世界の在り方に疑念を抱いていないときに、ただ一人それを拒絶しようとする人間の声音は、いつだって、稚拙で、身勝手で、無様に、その世界の中で反響するのだ。それでも、どんなに疎まれても、どんなに見苦しくても、それは、どうしても言わなければならないことだった。小さくて、非力で、醜いその両手で、完璧な、ちり一つないつるつるな世界を汚さなければならなかった。


「……相沢さんが、言い出したんだよ? ()()()、ライブをやろう、って。それなのに、そんなの、勝手じゃない。相沢さん……」

「――そんなこと、私、望んでないよ!」


 私の言葉は、彼女の胸に響いただろうか? 彼女の信奉する世界は、私を、関与を許す形で、その一員として迎えてくれているのだろうか?


 椎香は、眉根ひとつ動かさずに、こう言い放った。


「……そう。じゃあ、やめようか」


 ……やっぱり、この世界は、私の関与なんか待っていなかった。


「えー? 相沢さんのジャンプ、すごいカッコよくて、あたし好きだったのになー。本当にやめちゃうのー?」


 私は、正しく失うために、ここに来たのに。


「……うん、もう、()()()()


 いつだって、間違ったものを大事に守って、失ってはいけないものを失ってしまうんだ。


「もう、やめよう。私たち、もう、今日で、解散しよう」

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