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ixte  作者: 琴尾望奈
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ダンスを踊ってみない?

「ねえ、あなた、ダンスを踊ってみない?」


 うららかな午後のひととき。教室の窓からは、初夏の穏やかな日差しが射し込み、午後は梅雨の貴重な晴れ間になるという天気予報が間違いでなかったことを教えていた。暖かくって心地いい。こんな日は、午前中の気怠い授業の、複素関数の積分法のことなんかきれいさっぱり忘れて、過ぎ去ろうとする春の余韻と、これから来る夏への期待に胸を膨らませ、季節と季節の間のモラトリアムのような無責任な自由を満喫しながら、ゆるゆると羽を伸ばして過ごしたくなるものだ。チャイムが響くやいなや、ある者は購買部へと急ぎ、ある者はお弁当を片手に屋上へと駆け上がり、またある者は仲のいい者同士で机を囲み合う。私は……


「……はい?」


 ……私はと言うと、聞き覚えのない声で、突然、予想もしていないことを言われたので、あっけに取られてしまった。


 学校のお昼休み、私は前日に例のごとく、永遠にクリアできないゲームをずーっとプレイし続けて夜更かししてしまい、寝不足気味だったので、午前中の授業の間睡魔と戦い続け、やったー、やっとお昼休みだー! と、いつものようにヘッドホンをつけて眠りに入ろうとしていたのだが、そのヘッドホンをひょい、と取り上げて私に話しかけてくる不届き者がいたのだ。


 気に入らない。


 他人のヘッドホンを勝手にひったくっておいて、貴重な睡眠時間を妨げておいて、この悪気の無さである。突然、変なことを言ってくるのも失礼だが、何より、そもそも私に話しかけてくるということ自体が許せない。


 この子は……えーと……誰だっけ? 見覚えはないが、同じクラスの子なのだろうか? 背が高く、姿勢もよくて、何気ない立ち振る舞いが、ちょっとしたファッション誌の読モのようにさまになっている。すらりと伸びた健康的な四肢は、もしもルーブル美術館のヴィーナス像にその両腕が失われていなかったら、という想像を逞しくさせるほどしなやかで美しい。しかもその長身の上に乗る小顔は端正な目鼻立ちに彩られ、同い年とは思えないほどの大人びた風貌を与えている。それなのに、にこやかに微笑んだその表情は、近寄り難さを微塵も感じさせないほどの愛くるしさを纏っていた。


 要するに、むかつく。


「ねえ、相沢さん。ダンスを踊ってみない?」

「……ダンスを、踊りません」


 突拍子のないことを言われた時に、その言葉の真意を相手に尋ねることなく、こちらの意思表示だけをすると、たちまちシュールな会話が成立するようだ。目の前の見慣れない女の子も、自分の発言が唐突過ぎたことにやっと気付いたみたいで、


「あはは、ごめんごめん。急にこんなこと言われても、意味わかんないよね」


 そう言ってはにかむと、薄桃に色づいた頰をふっと緩めて、その整った美麗な顔立ちをくしゃくしゃに崩してしまう。……や、やだ、何この子、ちょーカワイイ……じゃない、ちょー癪に障る。謝るんだったら、私のヘッドホンも返してほしいんだけど? そうすれば、あなたのことなんか無視して、爆音で音楽を聴きながら眠りにつけるのに。あなたがいくら話しかけてきても、いっさい聞こえないようにできるのに。


 遥か年下の妹のような愛くるしい微笑みを浮かべた長身の同級生は、そんな私のうんざりした気持ちなんかにおかまいなく、話し続ける。


「私ね、新学期になってから、学校にずっと来れてなくて、クラスのみんなともぜんぜん仲良くなれてないし、思い出も作れてなくってさ」


 そう言って、私の机に突っ伏すようにしゃがみ込み、長いまつ毛を伏せるように俯く。ふとみせるそんな姿はさっきまでとはうって変わって、はっとするほど寂しげに見えた。……おや? もしやこの子も友達がいないのかしら? おお、そうかそうか、そうだったのかー。な、なによ。別に親近感なんか湧かないんだからね。


「それでねっ!」


 次の瞬間、バン! と机を両の手のひらで叩くと、ミーアキャットのようにぴょこーん、と起き上がり、私の、梅雨の湿気の中で苦労して整えてきた前髪がファサっとなるほどに、おでこを至近距離に近づけてくる。私の前髪……。


「クラスの子たちと一緒に、何か夢中になれることをやりたいなって、思ってるの!」


 まるで部活を作ることを思いついた時の某ハ○ヒ嬢のようなテンションを周囲360度に放射しながら、私のちょっと抱いちゃった親近感をこっぱみじんに粉砕してくれる。ああ、なんだ、こいつ、単なるリア充志望か。つまりはごく普通の女子高生だったのか。私、ただの人間には興味ありません。


 しかし、このひと昔前の朝ドラのヒロインのような高気圧っぷりには、なんとなく見覚えがある。ええっと、誰だったっけ……ああ、そうか、思い出した。この子、新学期の頃、私の隣の席だった……えーと、名前は確か……そうだ、楠田(くすだ)さんだ。


 クラス初日の自己紹介のときに、背筋をすうっと伸ばして教壇に立ち、大きな瞳でまっすぐ前を見つめて、楠田(くすだ)椎香(しいか)です、よろしくお願いします! と、芯の通った、ソプラノの管楽器のような流麗な声であいさつする姿を見て、私は直感的に、ああ、この子とは絶対に仲良くなれそうにないな、と思ったのを覚えている。明るくて人当たりも良さそうな彼女は、きっとクラスの誰とでもすぐに仲良くなり、みんなを引っ張って行くようなクラスの中心的な存在になるだろう。そう感じさせるような素質が彼女にはあった。そんな子が隣の席なもんだから私も、警戒レベルを少し上げていたのだ。


 ところが、その後、彼女は学校にほとんど姿を見せなくなってしまう。登校拒否になりそうな感じの子ではなかったので、何か学校に来れない事情でもあるのかなと漠然と考えていたが、私にはクラスの噂話とかの情報網が壊滅的に皆無であるため、楠田さんに何かあったのか、他の子たちは知っているのかもしれないけれど、私は何も知らない。


 そして、なぜ今日になって突然学校にやって来たのか、さらに、なぜよりにもよって私なんかに話しかける気になったのか、皆目見当もつかない。


「どーせやるんなら、なにかみんなの前でばーん、と発表できるようなことがいいかなって」

「それで、ダンス?」

「そうなの! でね、誰か一緒に踊ってくれる人がいないかな、って探しているの」


 要するに、楠田さんは、クラスメイトとダンスユニットを結成して、みんなの前でライブを披露しようとしているようだ。……うーん、なんだか、どこかで聞いたことのあるような話ではある。この子はちょっと、最近のアニメの見過ぎなのかもしれない。


「……それで、私をメンバーに誘っているの? 悪いんだけど、他の子を当たってくれないかな? はっきり言ってやる気ないし、そもそも私なんか素質も需要もないし……。てゆーか、この私が、人前で何かするとか、ありえないし……」

「やっぱメンバーはできるだけ多いほうがいいもんね! そうすればきっとみんなとの絆も深まって、最高のライブができて、入学希望者もぐーんと増えて来年度の廃校も阻止……」

「聞いちゃいねーんだもんなぁ……。つーか廃校なんかしねーし。自らの都合でクライシスな展開望むとかどんなセカイ系厨二ヒロインだよ。そもそも在校生の芸能活動如何で志願者が増えんのなんて堀越学園だけだぜ」

「でしょ!? だから相沢さんも一緒に、アイドル、やろーよ!」

「…………」


 なんか、何言っても無駄なような気がしてきた。ロープレで、「はい」を選択するまで解放してくれない村人に話しかけられちゃった気分だ。


 ……しかし、こんなことで簡単に膝を折るわけにはいかない。私には、無意志を貫く強い意志がある。逃亡を敗北と、沈黙を否定と勝手に解釈してくれる社会通念の便利さに依存してきた私にとって、こんな単なる意思表示のコストでもあまりにも高くつくように思えるけれど、今ここでそれをきっぱり清算しておかないと、後々そのコストはさらに跳ね上がるに違いない。


 ここは断固として、断らねばならない!


「だから、嫌だって言っ☆てるでしょ! さっ☆きからしつっ☆こいんだけど!」


 うわー、思いっきり声裏返った(☆のところ)。地声でハウリング起こすとかなんてミラクル? 普段全然声出さないやつが急に大声で叫ぶとこうなるのか? なんか私が一人でヒス起こしてるみたいじゃない。


「……え? ……そ、そんな、急に怒鳴らなくても……」


 あ、あれ? いや、なんかごめんね? ち、違う、声出すのに慣れてないだけなんだってば。別にそんな怒ってるわけじゃ……あれ? なんか完全に私が悪い構図になってない? うわー、なんかクラスのみんなもこっち見てるし……ち、違うの! 別に楠田さんのこと嫌だったわけじゃないんだよ? 別に嫌じゃない……


「えっ、ほんと!? 嫌じゃないの? じゃー、相沢さんも参加してくれるんだね!?」


 うん、そうだよ! 実は私もやりたいかったんだスクールアイド……って、ちっがーう! そんなことひとっことも言ってないでしょ!? どうしてそうなるのよ!?

 楠田さんのあまりにポジティブな勘違いに、私は思いっきり困惑させられていた。ここで格言。ポジティブは己のためならず。巡り巡って誰かの迷惑。……うーん、3点。


「……あのね、楠田さん。本当に悪いんだけど、私、本気で断ってるの。絶対ダンスなんてやらないから」

「ええー? そんなぁー」


 なんか本当に残念そうな、しょぼーんとした表情で、雨に濡れて震える仔犬みたいに私のことじーっと見つめてくる。か、かわええ……。なんだろう、この、きゅんとした胸の疼きは? すごい美少女からの愛の告白をにべもなくはねつけるときのような、背徳的な快楽感は……。あれ? 私、同性のはずなんだけど?


「やだやだー! 一緒にライブやって欲しいのー! 相沢さんじゃなきゃダメなの! お願ーい!」

「……え? 何? なんでそんなに私にこだわるの?」


 今の今まで全然喋ったこともなかった私に、こんなにも執心を示すなんて、ちょっと不可解だった。どうせ手当り次第に声をかけているだけだから、断ればすぐに諦めて他の子を探しに行くだろうと思っていたのに。

 すると、楠田さんはまるで他人にひけらかす事のはばかられる秘密ごとを確認し合うみたいに、誇らしげに声を潜め、


「だってさ、相沢さんって、ほら……」


 ……ひょ、ひょっとして、この子は見抜いているのだろうか? 私の、自分自身でさえも気づいていないスーパーアイドルとしてのそのポテンシャルに。……い、いやー、ないない! ありえないってば! そ、そりゃあ、ゲーマーとしての私の才能はeスポーツのプロを軽く凌駕するレベルだしぃー? 音ゲーだって、初見の曲でフルコンボしちゃうくらいの実力を持っているわけだから、さ、さすがに、自分が非凡な人間であることを今さら否定することは……で、できないよ? だけど……、まさか、私が? 歌やダンスの才能にまで恵まれている? 磨くとピッカピカに光る、アイドルの原石だと言うの? や、やだなぁ。そんなに、一目見ただけで分かっちゃうくらいに、アイドルオーラ、ビンっビンに振りまいちゃってた? そ、そんな、困るよ、急にそんなこと言われてもー! 家族が勝手に芸能事務所にエントリーシート

「帰宅部なんでしょ?」

 送っちゃって、あれあれ? 知らないうちに、私、トップアイドル! どーせだし、ついでに将来は女優さん目指しちゃいます! って人の気持ちがよくわかる……はい? 今なんて言いました?


「いや、相沢さんって帰宅部なんでしょ? 部活やってる子はなかなか誘いづらくってさー。うちのクラス、帰宅部の子が少ないんだよね」


 ……………。


 ……それだけですか、理由!?


 いくら私がガラスのハートを持っているからと言っても、何もしないでいてくれれば割れたりすることはないのだ。高いところから落とすとか、熱された状態から急激に冷やすとかしなければ大丈夫なのだ。……が、目の前の美少女は何の悪気も衒いもなくそれをやってくれた。うぐぐ……私の心、粉々だよ。楠田さんは、私が帰宅部だから誘った、ただそれだけだったんだね。率直だがあまりにも忌憚のない意見を述べてくるものだ。ああ、なーんだ、そういうことなのね。私は本っ当ーに昼寝がしたかった。いいかげんにヘッドホン返してよ。私は今日一のジト目で楠田さんを睨みつけてやった。


 まともに受ければ男子でも怯む、つーか、ちょっと、マジで怖いんだけど……、とか言われて私自身傷ついたことも数知れない、目つきの悪さに定評のある相沢依緒の睨みつけ攻撃だ! これでこの、血と肉と自己肯定感だけでできているような少女も、さすがにたじろぐに違いない……


「おおっ、いいね、その鋭い目つき! なんか、やるぞー! って感じの士気と意気込みに満ち溢れた凛々しい表情に見えるよ! そっか、相沢さんやる気だねー!」


 だー! ダメだー。な、何なのこの子? どうしてここまで物事をポジティブに捕らえられるの……? ひと目見た瞬間に薄々感づいてたけど、やっぱ、私とは似ても似つかないっていうか、全くの正反対っていうか……もはや私の思考や言動を()()させて、()()()させたような存在だぞ……?


 ……いや、だけど私、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だって、()()()()()()()に決まってる。そんな姿、()()()()()()()()()()()()()()()()くせに、なに()()()()頑張っちゃってんの? って陰口叩かれる。しかも(こんな容姿端麗な)()()()()()()()とか、()()()()()()()()! って感じ……。でも(そんなこと)()()()()()()()()()()な……。


()()()()()()! ()()()()()()()()! って感じを()()()()()()()に味わいたい! ()()()()頑張ってる姿こそが一番()()()()んだってことを、()()()()()()()()()()! たとえ()()()()としても、それさえも()()()()()()()()()()()として刻みたい! だから私、()()()()()()()()()んだ!」


 ……ほら! この子、やっぱり私と正反対……っていうか、マジで私の思考を()()()させたみたいな感じになってるんだけど……! や、やだ、なんかちょっと怖い……。


 い、いや、しっかりしろ、相沢(あいざわ)依緒(いお)! これしきのことでやすやすやす請け合いするわけには行かない! あ、なに今のちょっとカワイイ『やすやすやす請け合い』だって! ……って、そんなこと考えてる場合じゃないっての!


 鋼の心で、断固、拒否だ!


「とにかく、絶対ダンスなんかやらないから! 私、忙しいし。悪いけど、そんなことに使う時間は一秒もないの!」

「えー? 何そのハードスケジュール? なんでそんなに忙しいの?」

「皇帝ナポレオンの生まれ変わりの美少女騎士となって現代によみがえり、怪ビームを放ちながらコテージを襲う怪獣から人々の不安を取り除くの」

「な、なんかよくわかんないけどすごいね……。……それって、ゲームの話?」

「ゲームだと……? いや、ただのゲームなどではない! ゲームという形の、生死をかけた戦いなんだよ」

「そ、そっかー、ゲームにはまってるんだね。でもね、相沢さん、考えてみて。一人で閉じこもってゲームなんかするより、みんなでダンスをやる方が、達成感を共有できて、ずっと楽しいよ」

 うーん、楠田さん、私は、楽しいか、楽しくないかを問題にしているわけじゃないんだよ? やるべきか、やらざるべきか。それこそが問題なんだ。……だけどきっと楠田さんは、楽しいかどうかで全てを判断してしまうような子なんだろう。ならば……

「楠田さん、私にとってはダンスよりもゲームの方がずっと楽しいことなの。だから、私はダンスなんかやらな……」

「うーん、相沢さん、私は、楽しいか、楽しくないかを問題にしているんじゃないんだよ?」

 う、うわー! さっき私が心の中で思ってたことを、口で言われた! な、なんかこの子、やっぱり私の思考や言動を逆再生してるみたいな……!

「ダンスをやるべきか、やらざるべきか。それこそが問題なの!」

「そ、そっかー、()()()にはまってるんだね(正しくはシェイクスピア)。でもね、楠田さん、考えてみて。みんなで馴れ合ってダンスなんかするより、一人でゲームをプレイする方が、達成感を一人占めできて、ずっと充実感があるよ」

「馴れ合いだと……? いや、馴れ合いなんかじゃない! 馴れ合いという形の、センターをかけた戦いなんだよ!」

「な、なんかよくわかんないけどすごいね……。……それって、ライブの話?」

「ナポレオン服を、萌え萌えの美少女仕様にして現代によみがえらせ、サイリウムを放ちながらステージを揺らす会場の人々をファンにしていくの」

「えー? 何そのヘビーローテーション? なんでそんなにやる気なの?」

「とにかく、絶対ダンスやるから! 私、本気だし。悪いけど、相沢さんも放課後集まってよ!」


 ……と、またもや会話が()()()……というか、私だけが空転している間に、楠田さんに勝手に結論を出されて、押し切られてしまった。こんな風に、私はいつだって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のが常なのだけれど、楠田さんほどの、破壊的なまでのポジティブ思考を持つ存在には、私のそんな秘技も通用しないようだ。って言うか、柔道の投げ技のように、その力を受け流し、むしろ巧みに利用して見事な一本勝ちを収められてしまっていた。……ほら! もう私がなんて呼び止めても、まるで聞いちゃいないもん。ああ、もう手遅れだな。どうやら、楠田さんの中ではもう私が参加することは確定事項になってしまったようだ。


 ニコっと小さく微笑んだ口元で、じゃあね、とだけ言い残すと、ぴゅう、と、弾丸のように走り去って行ってしまう。きっとまた次のメンバーの子をスカウトしに行くのだろう。


 まったく、見た感じそのままの子だな、楠田さん。太陽のような女の子。底抜けに明るい子。大人びた雰囲気なのに、子供みたいに幼くて可愛い笑顔を隠さない子。走り出したらどこまでも突き進んでしまうような子。それでいて、よく気配りができて、困ってる子や一人ぼっちの子がいたら放っておけないような子。……私の一番苦手なタイプの子。


 ようやく返してくれたヘッドホンを耳に当て、私は溜息をつく。私の放課後の居残りが決まったということは、もう楠田さんの計画に巻き込まれることが決まったようなものだ。憂鬱。さらに深い溜息をつきながら、頭の中で、この状況の一番コストの少ない切り抜け方を模索する。いっそ、すっぽかしてしまおうかしら? ……いやいや。参加してくれる、って言ったでしょ? どうして約束破るの? ひどくない!? ……って大騒ぎされたらまずい。周りのみんなを巻き込んだ騒動にだけはしたくない。こういう場合、断り方を失敗すると、往々にしてさらにめんどくさいことになるものだ。相手は、楠田さんだ。今のほんの短い会話の中でさえ、その凄まじいポテンシャルをまじまじと私に見せつけてきた彼女だ、最大限の注意を払う必要がある。当面は、渋々参加している体にして、楠田さんのやりたいと思っている目標を何か一つでも達成した時点で、それらしい理由を作ってしれっと辞めるのがベストだ。それが一番後腐れのないタイミングだろう。この場合、その目標に該当するのは、「ライブを披露する」ことだ。なーに、たいしたことじゃない。隅っこのポジションに名乗り出て(そんなポジションに立候補する子はまずいないだろう)、なるべく目立たないようにしながら、他のメンバーの動きに合わせてパントマイムを演じていればいい。


 一通り作戦を立て終わると、午前中にあれだけ睡魔と格闘していたのに、どういうわけか、すっかり眠気が覚めてしまっていることに気がついた。楠田さんとの会話で久しぶりに脳の言語中枢をフル稼働して、変に興奮状態になってしまっているのかもしれない。それでも私は、いつものように机に突っ伏し、ヘッドホンから爆音で音楽を流して、誰からも話しかけられない状況を作る。そしてまた、昼休みの間中、自分の中に引きこもるのだった。




 ――私は、引きこもりだ。

 普通、こんな不名誉な言葉を、自分に対して積極的に使おうとする人は多くないだろう。特に、腫れ物に触るような細やかな配慮を共有し合い、自他の別を問わずに、その人を表すのに用いる形容詞に過大な注意を払うことを最善とするこの社会においては。西洋的な一神教の、厳格な教義というか通念がついぞ根付かずに、「恥」だとか「世間体」だとか、そんな汎神的な実体のないゆるい圧力のようなもので互いが互いを規定し合うことでなんとか秩序を築いてきたこの国では、言葉はそれの持つ実態的な意味ではなく、むしろその実態を覆い隠して見えなくしてしまう曖昧なニュアンスによってより判断される。だけど私は、自分をその一言で呼び習わすことを厭わない。なぜなら、まさにその実態的な意味の開示こそが、見えない底なしの不安から私を救ってくれたからだ。私を言い表すのに、それ以上的確な言葉は他にないとそう思えるから。だから私はこう言う。私は引きこもりだ――。


 もっとも、引きこもりとは言っても学校には毎日通っているし、一人でぶらっと外に出かけたりもする。私が引きこもっているのは、物理空間的な自分の居場所についてではなく、人間関係においてである。常に自分の中に引きこもって、なるべく他人と関わらないようにしているのだ。


 友人関係であれ、何であれ、他人と関わりを持つことが、たまらなく嫌なのだ。正確には、嫌と言うより、めんどくさい。人と関わることは、想像以上に力を使う行為なのだ。友人を作ったり、恋人を作ったり、バイト先で先輩や後輩を作ったりすることによって得られるメリットと、その為に消耗しなければならない体力やすり減らさなければならない精神のコストを比較して、後者のほうが大きいと判断した、ただそれだけのことだ。


 どうして人は、友人に裏切られたとか、裏切ってないとか、私たちは親友だとか、親友じゃないとか、親友かどうか相手に尋ねてしまった時点で親友じゃない、なんてルールを勝手に作ってトラップを張ったり、恋人なら週に3回は会わなきゃね、なんてノルマを設定して自分たちを追い込んだり、手をつなぐのは何回目のデートから、キスは何回目のデートからOK、なんてガイドラインを秘密裏に定めて、その基準値に満たなかったり、もしくは超過しても、この人は私の彼氏としてふさわしいのだろうか? などと心配になったり、後輩なら敬語ぐらいきちんと使えるようになれよー、とか、先輩ならたまには奢ってくださいよー、とか、そんな、超超超超めんどくさいことに身をやつしているのだろうか? 私には全くわからない。


 他人との付き合いは、本質的に、多大な労力を伴うものだ。それなら、人付き合いはなるべく少ない方がいい。いや、全く無くしてしまえるのなら、それが一番いい。そのことで、他人からどのように思われようが、どうでもいい。


 そう、どうでもいい。私にとって救いとなった「実態的意味の開示」とは、まさにそれだった。世の中のありとあらゆる訓戒や規律など、それが効力を持つと思われているのは実は曖昧模糊とした感傷的なベールに包まれてよく見えなくなっているだけであって、それらの実態は何もない、「どうでもいい」ものなのだ。多分、その空虚に耐えられない人間の心の弱さが、ありもしない意味合いを付け加えて認識を歪めているだけで、一度その本質を見やれば、鳥が飛ぶ方角に迷うことがないように、獣が狩りをするとき罪悪感に苦しめられることがないように、私も何も悩むことなく日々を送れるはずなのだ。引きこもりだなんて、とんでもない! まだ若い女の子が友達の一人も作らずにいるなんて異常だ! なにかが狂っている! なんてことを言ってくるやつは、そんな社会的な圧のようなものは、蹴飛ばしてやればいいのだ。


 そう考えるようになってから、私は毎日がとても楽になった。それまでの私は、どちらかというと他人に気を使い過ぎてしまい、他人から傷つけられるのが怖かった。仲のいい友達もいるにはいたが、その子と、例えばどこかへ出かける約束をして、一度でもその約束をすっぽかしてしまったら、もう修復不可能な亀裂ができてしまい、次の日から口もきいてもらえなくなるんじゃないか、なんて恐怖にいつも締めつけられていた。私にとって、友情とは、決して安息の家となるものではなく、むしろカードを積み上げて作った家みたいに、来るべき崩壊の予感が常に脳裏にちらつきながら、それを避けるために震える手で絶えず修正作業が必要とされるような難儀な代物だった。例えば、朝、教室に着いて、友達に、おはよう! とあいさつを済ませて、その後、さあて、何を話そう? 昨日観たドラマの話? でも、その友達がドラマを観てなかったらどうしよう? 飼っている犬がおなかを壊しちゃった話でもしようかな? でも、その友達が猫派だったらどうしよう? ああ、このまま黙っていて何も話さなかったら、性格が暗い子だと思われちゃう。どうしよう? 知ったことか! そもそも他人と付き合わなければいいのだ。私の方からは何にも話しかけなくていいし、友達の方から話しかけてきても、適当に気のない相槌を打つか、無視を決め込めばいいのだ。


 こうして私は引きこもりを始めたのだった。引きこもりとは言っても、自分の部屋から一歩も外にでないような普通の引きこもりとは違って、親や先生に迷惑をかけないタイプの引きこもりなので、自分で勝手に「模範的引きこもり」と呼んでいる。その模範的引きこもりを開始して最初のうちは、クラスメイトも「相沢さん、どうしたの? お腹痛いの? なんで急に口きいてくれなくなっちゃったの?」なんて心配して聞いてきたりしたけど、一週間も経つ頃には、こいつ、なんか変だぞ。頭おかしいんじゃね? 的な空気が醸成されてきて、みんな見て見ぬ振りをしてくれるようになった。作戦成功。教室にいながら、自分のコンフォートゾーンを作り出すことに成功したのだ。この状態は、クラス替えや進学のタイミングでリセットされてしまうのだが、せいぜい一、二週間でまた元の状態に戻すことができるので、さして問題はない。


 模範的引きこもり生活はおおむね上手く行った。私は毎日の精神的な苦痛から解放され、生まれて初めて安堵感のようなものを味わうことができた。以前は、毎日あれだけ疲れ果てて学校に通っていたのに、今ではとても楽だ。月曜の朝に、体が重くてベッドから出たくない、なんてこともなくなった。なんと、テストの成績まで上がったのだ。学生生活に付随する重荷から解放されて、勉強に集中できるようになったのかもしれない。誰にも迷惑をかけず、私自身も救われて、学生の本分たる勉学にもいそしむことができる。模範的引きこもり生活に、何一つ悪いところなんて無いように思えた。だから私は、これからもずっとこの生活を続けていこう、そう考えていたのだった。

 しかし、私の模範的引きこもり生活は、始まって以来の存続の危機に立たされていた。今日までほとんど顔を見せなかったのに、突然現れるなり、私が一人きりの王国でせっせと築き上げてきたその城壁をたちまち突き崩してしまった、恐るべきダークナイト的存在のクラスメイト、楠田(くすだ)椎香(しいか)、その人によって。いずれ彼女が、模範的引きこもり生活だけでなく、私の考え方そのものを根底からぶち壊してしまうということに、この時の私はまだ気がつけるはずもなかった。そして……


 そして、そのことが、私たちに悲劇をもたらすということにも。


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