DAY AFTER #6
すがすがしい朝である! 私はとても心地いい疲労感に包まれながら目が覚めた。昨日のライブは、まあいろいろあって大変だったんだけど、なんとかやり遂げることができたし。どういうわけか、昨晩は悪い夢でも見てしまったかのように、少し寝不足気味で眠たかったし、胸は淀んだ空気でも吸い込んだようにもやもやしていたけど、それでも私は達成感と満足感でいっぱいだった。
テレビをつけてみると、都内の電車を途中下車したタレントさんが、どう見ても普通の民家なのになぜか無断で立ち入っては、へぇ、ここ実はカフェだったんですかー、いやー気づかなかったなー! とか言ってて、じゃあお前なんで最初から入ろうとしたんだよ、とか思っちゃった。もちろん私は速攻でHDMI入力モードに変更して、ゲーム機の電源を入れる。昨日まであんなに一生懸命頑張ってきたんだ。今日ぐらい、一日中だらだらとゲームをプレイして過ごしたっていいでしょ? 外はどことなく秋の気配が漂ってきているような気もするけれど、まだまだ暑そうだ。こんな日は涼しい室内でゲームをするに限るね。
と、その時、また妹が勝手に私の部屋のドアをドカン! と蹴飛ばし、
「おねえちゃん、もういい加減にしなよ! いつまでゲームなんかやってるつもりなの!? ライブ終わってからもう1週間になるよ!」
ん? なにを言っているんだ、こいつ? ライブやってから、まだたったの一晩しか経ってないのに。
「カッコ悪いよ、おねえちゃん!」
妹は、まるで怒っているような鋭い目つきで私のことを睨んでくる。な、なによ、その目は? ……うーん、どうも私は妹のこの目が苦手だ。私が、妄想やゲームの中の世界に逃げ込もうとするのを、この目は決して許してくれないのだ。
「せっかくあんなにカッコよかったのに、ちょっとだけ見直してあげたのに、どうしてまた元のカッコ悪いおねえちゃんに戻っちゃうの? 私そんなのやだよ!」
ちょ、ちょっと待ってよ。なんであんたがそんなに怒ってんのよ? カンケーないじゃない?
「カンケーあるよ! だって私、嬉しかったんだもん。おねえちゃんが、ジャンプを跳んでくれて。おねえちゃんの、カッコいいところがこの目で見れて。私の、大好きなおね」
ん? 大好き? 何が?
妹は、なぜかハッと気付いたような顔をして口を両手でつぐんで、みるみるうちに、耳たぶの先まで真っ赤に染まるほどに顔を紅潮させていく。
「う、うわあああぁぁぁ! うるさい! うるさい! なんでもないからっ! も、もう、バカじゃないの!? ちょーキモいんですけど! まじ死ねば!?」
えー、ちょっと、意味ワカなんですけどー? ふと疑問に思ったことを訊いただけであって、私がキモいかどうか、死んだほうがいいのかどうなのかを訊いたわけじゃないんですけど?
妹は、ゆでダコみたいに真っ赤な顔をして、キーッ!! とか言いながら床をどしどし踏み鳴らしている。怒ってるんだか、恥ずかしがってるんだか、バカなんだかわからない。いや、多分バカなんだろう。
「おねえちゃんのことなんか嫌い! 嫌い! 大っ嫌い!」
妹は、とにかく私が嫌いだということを、色んな暴言や態度で示して、最後はストレートに「嫌い」と3回も言うと、部屋のドアをバターン! と閉めてどこかに行ってしまった。
……なんだ、あいつ? よくもまー、あんな足りない頭と語彙力で、そんなに人のことを嫌いだってことが表現できるもんだなー。……それにしても、大好き、って何のことだろ? あいつに陸上競技とメロンパンの他に好きなものなんてあるのか?
まあ、どーでもいいや。ゲームしよっ、ゲーム♪ なんたって、今日の私は自由なんだ! とても晴れやかな気分で、私はそう確信した。自由とは、無限の可能性に開かれているということ。今日一日、私の予定はまっさらな空白で、何が起こるかは誰にもわからない。言い換えると、私は何だってできるんだ。誰にも縛られることなく、何事にも規定されることなく、私は私の行動を自分で自由に選択できるんだ!
溢れる期待感に突き動かされるように、私はコントローラーを握る。画面の中には、久しぶりに目にする『破壊する者』の姿。おお、会いたかったぜー、かかってこいや☆ 『破壊する者』が吐き出した炎が私に襲いかかる。私は横に滑り込んでそれから華麗に身をかわす。ふふん、かわり映えのしない攻撃方法だな。『破壊する者』が、今度は選挙カーのようにうるっさい声で私の名前を叫んでいる。な、なに? こいつ、こんな攻撃してきたっけ? 最近アップデートあったのかな? ……つーか何で私の名前知ってんの……?
……ん? 違う。その声は、テレビのスピーカーからではなく、家の外から、部屋の窓を通して聞こえてくる。
「ご町内の皆さーん! 私のおねえちゃんが今度、なんと! ライブをやりまーす! ぜひ観に来てくださーい!」
――い、妹だ! 妹が、表で大声で何やら叫んでいる。な、何やってんの、あいつ?
「まあ、まあ、相沢さん家の依緒ちゃん、ちっちゃい頃からべっぴんさんだと思ってたけど、いつの間になんとかビーのメンバーに入ったんだね?」
――と、角の家のばあちゃんの声。
「はい! センバツ総センターです!」
……あ、あいつ、何意味のわかんないこと言ってんの……?
「まあ、まあ、自分の孫の成長を見ているみたいで嬉しいよー。私も観に行こうかしらねー」
「えー、なになに? 相沢さん家の娘さん、芸能界デビューしたの?」
「はい! 私のおねえちゃん、歌って踊ってジャンプして、まじアイドルなんです!」
「本当ー? ついに我が町内にもゲーノージンが?」
「今のうちに、サインもらっておいたほうがいいかしらー? 将来プレミアつくかも!?」
「そうねー! ファンクラブとかも作りましょうか?」
「あら、いいわねー、私たちで後援会でも結成して、町中を巻き込んで大々的にバックアップしましょうよ! ちょっと、ご町内の皆さんにもお知」
「ちょ、ちょっと待ったーー!」
「あーら、噂をすれば、依緒ちゃん! すごいわねー、みんな応援してるから頑張ってね!」
「ち、違うんですよ! うちの妹がデタラメを……」
「デタラメじゃないもん! こないだだって武道館(正しくは体育館)でライブやってたじゃん! センターで大ジャンプしてたじゃん! カッコよかったじゃん!」
「まあ、まあ、依緒ちゃん、すごいわねー。もうそんな立派なところで、コンサートだなんて」
「ば、ばあちゃん、ちがうんですってば! あ、あんたまじ何言ってんの!? ちょーウザいんですけど! まじ死ねば!?」
「はー!? 意味ワカなんですけどー? 大好きなおねえちゃんがライブで輝いてる姿が観れて、嬉しかったって話をしてるだけであって、私がウザいかどうか、死んだほうがいいのかどうなのかを訊いたわけじゃないんですけどー!?」
「キーッ!! あんたのことなんか、嫌い、嫌い、大っ嫌い!」
「ねーねー、依緒ちゃん、そんな恥ずかしがらなくてもいいじゃない?」
「そうよー。あ、そうだ、おばさんたちにもサインしてちょうだいよー?」
「ダメです! おねえちゃん、いますぐにライブのリハーサルに行かないといけないので」
「えーそうなの? 残念。じゃあ、また今度、お願いね?」
「リハーサルだって! すごーい! 本当にアイドルみたい!」
「本当にアイドルなんです! 私のおねえちゃん」
「へーすごいな! 夏休みなのに遊ぶの我慢して芸能活動なんてえらいねー」
「リハーサル、間に合うのかい? よかったらうちの車で駅まで送ってってあげようか?」
「急いだ方がいいよ!」
「頑張ってね!」
「応援してるよ!」
「えっ、そ、その、その……、ううう、うわーん!」
私は、逃げるようにして、その場から駆け出した。
あんの、くっそ馬鹿が! まっじ覚えてろよー! 今度、台所の戸棚に置いてあるメロンパンの、皮の部分だけ剥がして全部食べてやるからなー!
――カランコロン♪ いらっしゃいませー!
「――おっ、いたいた! やっほー、相沢さん!」
た、妙有! 来てくれたんだね……
「……って、エロっ!!」
面倒な人間関係のいざこざを起こさないように、余計なことは何があっても口にしないよう鍛錬に鍛錬を重ねてきた人類最強コミュ障の私であったが、それでもこんなストレートで禁忌な形容詞を思わず叫んでしまうほどに、今日の妙有はエロかった。黄色いタイトなタンクトップに身を包んで、その胸元から豊満なバストが今にもこぼれ落ちそうになっている。こ、これはもしや、人類の至宝とも呼ばれるロケット型のおっぱいというものではなかろうか……! さらに、その上向きにツンと張り出た胸元からも、大きく開いたタンクトップの脇や背中からも、黒のレースのブラがはみ出してチラチラと見えてしまっている。こ、こんなエッチな下着、絶対見せブラじゃないよな? さらにさらに、そんなところどうして破くの? って思ってしまうくらいきわどい箇所にダメージ加工を施したデニムのホットパンツを履いて、艶めかしいぱつんぱつんの太ももをまるで見せびらかすようにして立っているのだ。そんな彼女の無駄に刺激的で挑発的な格好を見せられた私は、思わずキャラメルマキアート吹いたwww
「うわっ、相沢さん、いきなりどうしたのさー? だいじょぶ?」
「えほん、えほん、えほん。たっ、妙有っ、なんなのよ、そのいやらしい格好は……?」
妙有のそんな服装を見るのは、これが初めてのことだった。今まで、制服やジャージ姿の彼女(それでも十分にいやらしかったんだけど……)しか見たことがなかったので、彼女の普段の私服姿がこんなことになっているなんて知らなかった。妙有はと言えばまったくのんきなもので、えー? 何か変かなー? とか言いながら自分の体を覗き込むように見回している。
「こ、こともあろうに、同性の私にそんな姿をさらけ出すなんて、も、もしも私が変な勘違いでも起こしたら、どうするつもりなのよ?」
すると妙有は、一瞬きょとんとした表情を作った後、いたずらに成功した男の子みたいにニシシっと奥歯を見せて笑って、
「いやー、あたしも、初めての子が相沢さんなんだったら、本望だよ? 本気で、あたしたち2人で、人生間違えちゃおっか?」
と、割とシャレにならない、それでいてとても魅力的に思える提案をしてくるのだった。そ、そっかー、私が16年間の人生でまったく男子にモテなかったのは、いつかこんな素敵なオンナトモダチに出会うためだったのね? なるほど、全ては、神様が仕向けた必然だったのだ。納得。これで、私のぺったんこすぎる胸にも歴然とした説明がつく。要するに、そーゆーことになってしまった場合、どっちもがあまりにも女の子の体をしていては非常に困るわけで、つまりは、そそそ、その、なんていうの? で、凸と凹の、ににに、肉体関係ガッシャーン!
「あーあ、もう、相沢さん、何してんのさー?」
私は手に持っていたコーヒーカップを床に滑り落としてしまっていた。その音を聞いた他のお客さんたちは、何事かとこちらを振り向いたが、空調の効いた涼しい店内でなぜか汗だくで真っ赤な顔をしている私のことを見るや、何か見てはいけないものを見ちゃった的なそぶりでばっと目を背けてひそひそ話しこんでいる。マニュアル仕掛けの店員さんが飛んで来て、お怪我はありませんかー? とか微笑みながら見事な素早さで床を掃除してくれている。店員さん、ごめんなさい、ごめんなさい。
「もー、相沢さんってば、妄想力高いよー? 今のたった数秒の間に、相沢さんの脳内のあたしは、一体どこまで服を脱がされちゃったのさー? ケラケラ」
脱がされた、どころか、に、肉体関係の一歩手前まで行きました! ……なんて、とても言えません。ええ。
――カランコロン♪ いらっしゃいませー!
「――おっ、楠田さんだ。はろー! こっちだよー!」
椎香だ。椎香も来てくれた。そうだ、私の本命(?)は椎香だったんじゃないか。こんな、ただエロいだけの少女のハニトラに惑わされてはいけない。
「椎香! ごめんね、急に呼び出したりして……」
……え?
――何かが違う。椎香の姿を見た私は、言葉にするのが難しいような、そんな違和感に捕らわれていた。
まず第一に、彼女はこのクソ暑い日に、なぜか暗い色のジャケットに身を包んでいた。パンツも靴も、非常に落ち着いた、コンサバティブなものだった。妙有のような派手派手でエロエロな服装を椎香がすることはあまり想像できなかった(妄想はできる! ……いえ、自粛します)が、それでも、高2の夏休み、人生で一番はっちゃける時期の女の子の格好としては、さすがに落ち着きすぎているんじゃないだろうか? さらに私が違和感を抱いたのは、彼女の表情だった。いつもずっと笑顔を絶やさなかった、笑っていない時間の方が短いんじゃないかとさえ思わせていた彼女の顔からは、その笑みがすっかり消えてしまっていた。目の前の少女は、紛れもなく彼女なのだが、ただそれだけのことで、私は、彼女が「本当に」椎香なのか、さっぱりわからなくなってしまっていた。人間そっくりのアンドロイドを見たときのような、変な異物を飲み込んでしまったときのような、ふわふわと落ち着かない焦燥感に捕らえられていた。
椎香は、私たちの座る席に、音も立てずにするーっとやってきては、舞い上がった土砂が海底に堆積するような速度で、静かに空いている椅子に腰掛けた。その椅子も、誰かに座られたことにさえ気付いていないみたいで、軋み音ひとつ立てなかった。
「――ごめん、家庭の事情でちょっと遅れた。話って何? 相沢さん」
「……え? あ、ああ、うん。そうだね。実は……」
私は2人を喫茶店まで呼び出した理由を説明した。
「……と、いうわけで、うちのバカ妹のせいで、またライブをやらなきゃいけない羽目になっちゃったんだよ。1回目のライブが終わったばっかで悪いんだけどさ、2人にもまた協力してほしくって……」
「……?」
「……?」
「あ、あちゃー。そりゃーそうだよねー。初めてのライブが一応成功したんだから、まだその余韻に浸りたいっていうか、もうちょっと休んでいたいよねー、2人とも。たははー、なんか、ごめんねー。私の勝手でこんなこと……」
「――何を言っているの? 相沢さん」
「……え?」
「初めてのライブとか、成功したとか、言ってるけど、私たちまだライブなんて一度もやっていないじゃない」
――な?
「ななな、何言ってんの椎香? 私たちみんなでステージに立ったじゃない? 覚えてないの? 忘れるわけないでしょそんなの!? 椎香!?」
彼女に対して抱いていた違和感が、何かとても悪い予感の養分を吸い込みながら、みるみる膨張していくのを感じて、私は思わずパニックになって声を荒げてしまっていた。
「あんまりうまくいかなかったけど、練習のときみたいな100%の力は発揮できなかったけど、みんなで頑張って最後まで踊ったじゃない? 最後のジャンプは、ちゃんと成功できたじゃない? 覚えてるでしょ? 椎香!?」
私は思わず椅子から立ち上がり、テーブルを力一杯バン! と叩いていた。椎香の前に置かれたコップの水が揺れ、ぶつかり合った氷がカランと音を立てた。それでも目の前の椎香は、湖に張った氷のように、表情も顔色もピクリとも変えずにそのさまをただ見ていた。
「知らない。私、そんなことしてない」
「……どうして……なんで……?」
私は血の気がさーっと引いていくのを感じていた。目の前の少女は、本当に椎香なんだろうか? いや、むしろ、椎香とは似ても似つかない、正反対の存在のように思えた。椎香のように見える皮を被ってはいるが、世界で一番椎香に似ていない人物の内面をそこに据えられ、その内面の持つ仄暗い重力に引きずり込まれるように彼女の姿も、周囲の空間も、何か醜悪な形に歪められ、軋み始めているような気がした。ここにいるのは、邪悪な黒魔術によって作られた彼女の出来損ないの身代わりで、本物の椎香は、どこか別の時空の狭間に迷い込んでいるだけなんじゃないだろうか? そして、その身代わりは、彼女の記憶を正確にコピーすることに失敗してしまったんだ。
「妙有! 妙有は覚えてるでしょ!? 私たちの初めてのライブのこと!」
私はすがるような思いで、妙有にそう問い詰めた。
「うん! もち、覚えてるよ! 忘れるわけないじゃん!」
……た、妙有!
「相沢さんも、楠田さんも、ちょーカッコよかったよー! あたしも客席から2人のライブ観ててさー、まじ感激しちゃったよー!」
「――ちょちょちょ、ちょっと待って!」
「ん?」
「何言ってんの、妙有? 妙有も一緒にライブやったじゃない?」
「……えー? そうだったっけ?」
妙有は、どこか釈然としない様子でぼんやりと私を見つめていたが、やがてぱっと何かに気付いたように目を輝かせ、
「あー、そっか! 思い出した。あたし、突然ジャンプする役させられたんだった。いやー、いきなりみんなであたしのこと持ち上げて、宙に放り上げるもんだからさ、びっくりしちゃったよー。でもあたし、うまく跳んで見せたでしょー?」
「ち、違うよ! それは、私! 妙有は足場になって、私のこと支えてくれていたじゃない!」
「えー? そうだったっけ……、あれー??」
妙有は、眉毛をひっ付けながらむむむー、と首を傾げて考え込んでいる。私はといえば、彼女の次の言葉を渇望しながら、それでも心の中は不安で押しつぶされそうだった。
「……ごめーん、相沢さん。あたしもよく覚えてないやー、たはは」
そ、そんな……。私は呆然とした意識で、椎香と妙有のことを、いや、ただそのように見えるだけの2人の人間の姿を、眺めていた。
私以外、誰もライブのことを覚えていなかった。
私はもうわけがわからなくなってしまった。そんなことってありえない。つい昨日のこと、それも、私たちにとってこんなに大切なことを忘れてしまうなんて、2人ともどうかしているのだ。こんなふうに、身の回りの人が突然記憶をなくしていたら、誰だって戸惑いや困惑の気持ちを抱くにちがいない。
「そんな……、ひどい。ひどいよ……!」
しかし、その時の私を襲っていたのは、全く違う感情だった。私は、悲しかった。私にとっても、みんなにとっても大切な、せっかく見つけた宝物を、どこかに無くしてしまったような、いや、この2人によって、紙くずのようにくしゃくしゃに丸められて、無残に捨てられてしまった、そんな気がした。
「2人とも、ひどいよ。つい昨日のことなのに、もう忘れちゃうなんて……」
「――昨日の、こと?」
椎香は、相も変わらず表情をぴたりと静止したまま、語尾だけをわずかに、かろうじて疑問形と聞き取れるくらいにあげて、私に問いかけてきた。
「相沢さん、昨日は、告別式に参列してくれたじゃない。ライブやってたなんて、おかしいよ」
……え? なに? なに言ってんの? 告別式……? 誰の……?
「私の、お父さん、おととい、死んだ」
下手くそな日本語通訳アプリが出力する音声のような、無機質な声で、ただ単語だけを組み合わせて事実を述べるように、椎香はそう言ってのけた。その言葉は非常に数学的だった。まるで円周率のように完全で、意識で割り切ることができないくせに理由もなしに正しくて、諭すことも、触れることさえも許されないままに、悲劇的なまでに自己完結しており、一切の人間の感情というものの入り込む余地が、まるでないのだった。
「……な、何言ってんの、椎香? じょ、冗談でしょ!? ど、どうして、どうして冗談でもそんなことが言えるのよ!?」
私は思わず声を震わせて、身を乗り出すように椎香の胸元に、まるで彼女を責めるようにして詰め寄っていた。奇妙な状況に直面して、無理やり抱かされた困惑や焦りの気持ちが、なぜか彼女に対する怒りのような感情に姿を変えて、誰を救うこともない、そんな無益な行為に私を突き動かしていた。
……そんな、ありえない。だって、彼女はおととい、ライブの前日に、言っていたのだ。「明日のライブに、お父さんが見に来てくれる!」って。まさかその日のうちに、彼女のお父さんにそんなことがあったなんて、いくらなんでも信じられない。それに、昨日のライブだって、彼女は確かに参加していたのだ。その前日にお父さんが亡くなっていたとすれば、ライブなんてできるわけが……
――バタン!
私は、床に倒れ込んでいた。昨日のライブの最中に感じたような、強烈な痛みを胸に感じて、体を支えることができなくなっていたのだ。
何度も何度もやってきては、私の意識をすっかり奪い去ってしまう、激痛。
その胸の痛みとともに、私の記憶は、またありもしない幻想の中を漂い始めていた。
――いや、きっとそれは、幻想なんかじゃない。
それは、私の求めた、「本当」なんだ。
おかしくなってしまった椎香や妙有よりも、今のふざけたこの世界よりも、ずっと「本当」な世界へ。当然そこにあったはずの、私に与えられて然るべき、本来の、正しい世界へ、私の意識は旅立とうとしていた。
「相沢さん」
急速に遠のいていく意識の中で、私は、記憶を失ってしまった同級生、楠田椎香が私に話しかけてくるのをぼんやり眺めていた。彼女は、その水銀のしずくのように虚ろに光る目で私を覗き込み、魂の抜けたような小さな声で、
「あなた、記憶、なくしてない?」




