DAY AFTER #5 & 5.5
すがすがしい朝である! 私はとてもやかましい騒音に包まれながら目が覚めた。
――大地を震わす道路工事の律動に、甲高く鋭い携帯電話の着信音が重なり響いていた。東京湾に面した沿道は掘り返された穴でセメントを水に溶かし、作業員のお兄さんやサラリーマンの革靴に踏ませながらボコボコになっている。
ダメじゃん。
……ん?
何だ、これは?
……私が最近読んだ小説(某芥川賞受賞作)の冒頭部分にそっくりじゃないか?
――わ、我輩は猫じゃない! 名前も、もうある。
こ、これは、私が昔、小学生の頃に読んだ本の冒頭部分だぞ?
――国境の長いトンネルを抜けると、異世界であった。
これも、私が昔読んだ本だ! ……いや、最近読んだラノベ? かもしれない。
……私は思わずぞっとした。私の思考回路が、自分が過去に読んだ本たちに侵食され始めているのだ。
私はどうしてしまったのだろう? なんで? どうして? 私はいつから、こんなに他のものたちに影響を受けるようになったんだろう? いつから私の頭の中は、自分の考えではなくて、他の人の書いた表現や思考で埋め尽くされるようになっちゃったんだろう?
私はふと、昨日のライブが始まる前、なぜか客席に座っていた妙有のことを思い出した。まるで彼女の周りに座っていた生徒たちと同じように、彼女も、お客さんとしてライブを観ることに頭の中を支配されてしまっていたみたいだった。彼女自身の思考や記憶を、全部無くして、他の人の頭の中にあるそれらを直接インストールしたみたいに……。
――ポコポッコッポッコッポッコポン♪
大地を震わすような道路工事の騒音の中、間抜けな木琴の音がポコポコとメロディーを奏でていた。ああ、そうだ、ケータイが鳴っていたんだった。ちなみに私がiPhoneの着信音を初期状態のまま変えていないのは、電話自体かかってくることが稀なので、特に変更する必要性を感じていないからなのだ! ……ああ、どうでもいいですね。私は急いで通話アイコンを押した。
「……あ、もしもし、相沢さん?」
全く聞き覚えのない声で、受話口から名前を呼ばれた。私はコミュ力はゼロだけど、空気の読めない子ではないので、ぶっきら棒に、あんた誰ですか? とは聞けない。というよりむしろ、コミュ力と空気を読む能力とは往々にして反比例するものなのだ。つまり私は空気を読みすぎて、相手に気を使いすぎてしまい、何をしゃべったらいいのか逆にわからなくなってしまうのだ。だから、コミュ障である人間のほうが、むしろ空気を読む力があるとすら言えるのだ! ……ああ、どうでもいいですね。ふーむ、この声のトーンの微妙な距離感と、ほんの少し垣間見れるよそよそしい緊張の色あいから察するに、相手は同じクラスの子、きっと何か、緊急に連絡しなければならないことがあって、義務的に、誰かから聞き出した私の番号に電話をかけている。どうだ?
「ごめんね、同じクラスの佐藤だけど、今大丈夫? ちょっと緊急の連絡があって……」
ちぇーすと! ほーら、当たった! やっぱりねー。私の空気を読む能力、まじすごくね!? やっぱり、コミュ力のない人間ほど空気を読む力があるのだ! ……ああ、どうでもい……
「大変なの!」
佐藤さんという子は、ものすごく緊迫した声音でそう叫んで、一人アホみたいにニヤニヤしていた私の頰を受話口から往復ビンタした。わ、私の空気を読む能力、まじしょぼくね?
「――楠田さんが! 楠田さんのお父さんが……!」
通話口の向こうで、佐藤さんは、涙声になりながらそう叫んでいた。
――椎香の、お父さん……?
私は、ハッと気付いた。一瞬にして、何が起きたのかを、悟った。
なんか、現実という名のハンマーで、思いっきり頭をぶん殴られたような、そんな気がした。
雨の降りしきる夏の日というのは、特に珍しいわけでもないのだが、夕立や嵐などの激しい雨を想像しがちで、今日みたいに、穏やかな小雨がしとしとと降る様子は、あまり印象に残ってなかった。あるいはそれは、鮮やかで激しい夏のイメージにそぐわないという理由で、人々の記憶の中からたやすく忘れられがちだというだけなのかもしれない。
それでも、今日という日の、空が泣いているように悲しげに降る雨は、私の記憶の中に、ずっと、ずっと、残り続けるだろう。
色の着いた胸元のリボンだけ外した、冬服のブレザーの制服に身を包んだ女子生徒たちが、「参列者」と書かれた張り紙の前に並んでいた。私も、無言でその列に加わる。
私は、ずっと椎香のことを考えていた。いろんな場面、いろんな状況での、彼女の様子を思い浮かべていた。それでも、とびっきりの笑顔で、明るく振舞っている彼女の姿しか思い出せなかった。特に、お父さんがライブを観に来てくれる! と言ってはしゃいでいた彼女の笑顔は、まるで太陽のように、燦々と眩しく輝いていた。
そして今日は、雨雲に覆われた空からも、椎香の顔からも、その太陽は、姿を消してしまっていた。
黒い喪服に身を包んだ彼女を遠目に見つけた私は、思わず息がつまり、胸がきゅっと疼くように苦しくなった。その姿の私に与える印象が、普段の彼女とは、何から何までもが違っていたからだ。彼女は、力なく顔を伏せて、どこを見るともなしに視線を持て余し、行き場もなくただそこに佇んでいた。そのほっそりと伸びた身体からは、一切の生気というものがなくなっていて、ガラス細工の造花のように、何かの拍子に、粉々に砕けてしまいそうに思えた。おそらく彼女には、身寄りがいないのだろう、時おり弔問客が彼女のところへやってきて、短く会釈を交わすほかに、彼女のそばには誰もおらず、ぽつんと一人立ち尽くしていた。
私は、自分がどうしたらいいのか、さっぱりわからなかった。彼女のために、何かをしてあげたい気もしたけど、何もできないような気もしていた。彼女の元へ行き、何か声をかけてあげること、あるいは、何も言わずにそっと抱きしめてあげることが、怖かった。
椎香の心は、彼女の意識は、光も届かない悲しみの深淵に沈み込んで、息もできずにもがいているに違いなかった。私は、彼女のことをよく知っている。彼女は、嬉しい時には辺りの空気を引き裂くようにはしゃぎ回り、楽しい時には人目もはばからず大声で笑い出すような子だ。悲しい思いを抱えている時には、思いっきり泣き叫んで、心の澱を全て吐き出してしまいたい衝動にかられるに違いない。今こうして、ただその場に立っているだけでさえ、彼女にとっては自分の感情を押し殺すのに必死なんだ。彼女が、お父さんのことを、どれだけ愛し、どれだけ大切に想ってきたことか。そのことを知っている私は、今不用意に彼女に近づくことは、凍ったシャボン玉を素手で掴むように、彼女の心を粉々に壊してしまいかねないことだと理解していた。ほんの少し触れるだけで、彼女は、必死で保っている精神のバランスを崩し、床に泣き崩れて、起き上がれなくなってしまうかもしれなかった。
椎香は、一人ぼっちだった。彼女を襲っている悲しみを癒してくれる人も、一緒に悲しんでくれる人もそばにいなくて、誰にも使われずに静かに朽ち果てていく公園の遊具のように、一方的に与えられた自分の居場所を持て余しているように見えた。彼女の陶器のように白い肌も、頭がぽつんと飛び出るほどの長身も、その孤独感を余計に強調しているみたいだった。あまりにも寂しそうで、苦しそうで、見ているのが辛かった。
――普段の私も、あんな風に見えているのかな?
自分が引きこもっている時は、その姿が人にどう見られているかなんて、考えてみたこともなかった。だけど、そんな椎香の姿を見て、私は初めて気が付いた。人は、誰かが一人ぼっちでいる姿を、見ているのが耐えられない。その相手が、自分にとって大切な人だったら、なおさらのことだ。
――椎香は、私を助けてくれたんじゃないだろうか?
椎香は、彼女自身の思いついた計画に、嫌がる私を無理やり誘いこみ、彼女の目的のために、私にダンスを踊るよう仕向けた、そう思っていた。でも本当は、椎香は一人ぼっちの私を見て、救いの手を差し伸べてくれたんじゃないだろうか? 一人寂しそうにしている私のことが気がかりで、放っておけなくって、助けてあげようとしてくれたんじゃないだろうか?
ふと見ると椎香は、喪服の窮屈な長い裾のスカートで、歩きづらそうに、お父さんの横たわる棺の前に身を伸ばそうとしていた。そして、履き慣れない高いヒールの靴で、毛足の長い絨毯を進んでいた足を何かにつまづかせて、体を大きくよろめかせて……
「……椎香!」
――今度は、私が彼女を助けてあげる番だ。
気づいたら私は、椎香の元に駆け寄って、床に倒れそうだった彼女の体を抱きかかえていた。
そうだ。最初から、こうしてあげなきゃいけなかったんだ。迷ってなんかいてはいけなかった。彼女が、悲しみに暮れている自分の姿を見せたくないと思っていたとしても、何かの拍子に、感情を堪えきれなくなることを恐れていたとしても、私は、彼女を一人にしてはいけなかったんだ。ちょうど彼女が私にそうしてくれたように、私は彼女を抱きしめて、彼女の苦痛も悲しみも、一緒に背負ってあげなきゃ、ダメだったんだ。
――椎香、ごめんね、私、何もできない。でも、椎香を放っておくことも、できないんだ。
――お願い。その悲しみ、私に少し、分けてよ。
私は、涙で滲む目を凝らして、彼女のことをじっと見つめた。
そして、異様なものを目にした。
彼女を抱きしめる私の腕の中に、椎香は、いなかった。
「……椎香?」
いや、やはり確かに、椎香はそこにいた。ただ、「それ」を彼女だと認識するのに、時間がかかった。
無表情。
私の腕の中に横たわる彼女からは、一切の表情が、感情が、抜け落ちていた。
例えるなら、氷のような無表情。いや、それも違う。今の彼女の表情からは、そんな冷たさや険しさをすら感じ取ることができなかった。全くの、のっぺらぼう、鉛の塊のような無表情だった。
私は、自分の手に横たわる「それ」が、本物の人間であることさえ信じられなかった。それは、人間にそっくりな「何か」だった。人の体温に近い温度を持ち、人のように精巧に動くだけのただのマネキンだ。人は、人間の姿とはかけ離れたものを見るよりも、人間の姿に酷似した別の何かを見るときの方が、余計に恐怖心をかき立てられると聞いたことがある。
気味が悪かった。
今すぐに「それ」を床に投げ捨てて、逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。
「ああ、相沢さん、ごめん」
私の腕の中で「それ」の口元が蛭のようにざざっと蠢いて、機械音のような抑揚のない声を発した。そして、その体は、紙切れが舞うようにするりと起き上がると、棺の側に歩み寄って、飴細工のようなとろりとした目で、父の亡骸を興味なさそうに見ていた――ように見えた。ただそんな風に眼球――とおぼしき部分を動かしていた。
「椎香……、だ、大丈夫?」
私は、得体の知れない恐怖に身をすくませながら、彼女に話しかけた。
「……何が?」
彼女は、私の方を見るともなしに、いや、何も見ようとしていないような虚ろな目を向け、表情をぴたりと固定したまま、聞き返してきた。
「お、お父さんが、こんなことになったんだよ? 椎香、悲しくないの?」
「……悲しい? どうして?」
……椎香はやっぱり、どこにもいなかった。少なくとも、私の目の前にいる少女は、椎香では決してなかった。
どうして? なぜこんなことになってしまったの? 私は、誰にも答えてもらえない問いを、頭の中で何度も何度も繰り返した。どうして彼女は、泣いていないの? 悲しんでいないの?
私は、何も椎香に泣いて欲しかったわけじゃない。悲しんでいる彼女を見たかったわけじゃない。ただ、泣くことの、悲しむことのできない人間になんかなって欲しくなかった。それは、人間ではないからだ。
そうだ、「それ」は、私の目の前にいるものは、椎香ではなく、そして人間ですらなかった。それは――、悪魔だ。きっと私が犯してしまったなんらかの罪を罰するため、天が作り出した悪魔に違いなかった。……なぜだかはわからないが、そんな確信が私の心を、胸を締め付けていた。そしてその悪魔は、恐怖という名の鋭い爪で、私の心臓を鷲掴みにする。その邪悪な意図と力で、思い切り強く握りつぶされた私の心臓は、ありえない形にひしゃげて、胸の中で小さく爆発し……
――ドクン!
この前と同じような、いや、今までに経験したことのないような、耐えがたい痛みが私の胸を襲った。心臓が奇妙なリズムで脈を打ち、内部から私の胸を押しつぶそうとしていた。それは、私の身体を、中心からバラバラに分解してしまうような、破滅的なまでの激痛だった。私はその痛みに、身体も、意識も、ずたずたに引き裂かれ、徐々に混沌としてきた視界の中、なすすべもなく、ただ、すがるような気持ちで椎香のこと考えていた。しかしそれはもちろん、目の前の現実に置かれた、椎香の姿をした「何か」についてではなかった。私の記憶の中にある、「本物」の椎香について、「本来」の彼女について、私は考え始めていた。
――――――――――――
黒い喪服に身を包んだ椎香を遠目に見つけた私は、思わず息がつまり、胸がきゅっと疼くように苦しくなった。その姿の私に与える印象が、普段の彼女と何も変わらなかったからだ。彼女の持つ溌剌としたエネルギーが、そのまま悲しみの感情に転化され、それでも襲い来るその悲劇の奔流を押さえつけるように、必死に「自分」を保とうとしているみたいに見えた。彼女は、涙に濡れた目を赤く腫らして、父の亡骸にすがりつくようにそこに立っていた。そのすらりと伸びた身体は、しゃくりあげるように小さく上下に震えていて、海面で小さく揺れる浮きのように、何かの拍子に、真っ暗な虚無の口を大きく開けた悲しみに、丸ごと飲み込まれてその海の底へと引きずり込まれていってしまいそうだった。時おり彼女の元へ訪れる弔問客に、挨拶を交わすことさえままならずに、父をじっと見つめるその目線を外すことができないでいるようだった。
私は、自分何をしたらいいか、はっきりと分かった。何もできないことは分かっていたけれど、何かをしなくてはいけないということも知っていた。
「……椎香!」
気づいたら私は、椎香の元に駆け寄って、彼女の身体をきつく抱きしめていた。
――椎香、ごめんね、私、何もできない。でも、椎香を放っておくことも、できないんだ。
――お願い。その悲しみ、私に少し、分けてよ。
椎香は、突然抱きついてきた私に驚いた表情も見せずに、何も言わずにそっと抱き返してきた。彼女の頬に、温かい涙が伝わるのを見た。まるで、私のことを待っていたかのように、崩れるきっかけを待っていた砂の壁のように、彼女は堰を切ったように、声をあげて泣き始めた。しがみつくことのできる私という対象を見つけて、自分が溺れてしまわないことを確認してから、こらえていた涙を流し始め、自分自身をその涙の海に浸し始めたみたいだった。彼女の瞳から滴り落ちてくる、涙の雫を頬で受け止め、その温かさに逆に励まされながら、私は思った。私は、喜んで椎香のことを受け止めよう。彼女が深い悲しみの淵に沈んで、浮かび上がってこられなくならないように、しっかりと、両手で支えていてあげよう。
「……お父さああああぁぁぁん――――!」
――よかった。やっと泣いてくれたね、椎香。私は、嬉しかった。彼女が悲しみにくれている姿を見ることが嬉しかったんじゃない。避けようもなく彼女を襲う悲しみを、一緒に受け止めてあげることができたのが、嬉しかったんだ。その慟哭は、シルクのドレスを引き裂くような悲痛な響きだったのだが、それでも、それは彼女の心からの叫びだった。私に、心の中の全てを託してくれたことの証として、彼女の喉と、私の鼓膜とを、確かな空気の振動で繋いでいた。
――あれ?
……でも、この声、椎香の声じゃ、ないような?
――――――――――――
――私はそこで突然現実の世界に引き戻された。私の腕の中ではなく、目の前で立ち尽くす椎香は、やはり何の声も発していなかった。我関せずといった顔をして、道路標識のように、ただそこに立っているだけだ。
……また私は幻を見ていたのだった。不自然な、文脈を無視して現れる胸の痛みとともに、私の脳裏に去来する幻覚。私はまたそれに惑わされていた。何度も同じことを繰り返しているのに、相も変わらず騙されてしまうのは、それが、その幻惑の中の体験が、凄まじいほどの質的なリアリティを持って私に迫り来るせいだ。高熱にうなされて寝込んでいる夜に、何度も繰り返し見る悪い夢が、見ている最中にはどうしてもそれが夢だとは気づけないように、それは、事後的にしか偽物であることを明らかにしてくれないのだった。
いや、それだけじゃない。
私は、それが、その幻覚が真実であることを、望んでいるのだ。
ちょうど、夢から覚めるのを嫌がる、寒い冬の朝の子供たちのように。私は、その幻覚が偽物だと気づかないことを、自ら選択しているのだ。
失われたものについての、記憶。
ライブの前日の、立ち入り禁止のステージを見つめながら、私が最初に胸の痛みを覚えたとき、確かに、はっきりと、その感覚があった。空に飛んで行ってしまった風船、実現しなかった大きなステージでのパフォーマンス、そんな、失ったものについての記憶。私の気持ちをいつも縛り付けて、動けなくしてしまう記憶たち。それを「思い出す」たびに、私は決まってこの胸の痛みに襲われるのだった。
そうだ。私は、ありもしない幻を見ているんじゃない。それを「思い出し」ているのだ。
失ってしまったもの。言い換えれば、確かに存在していたもの。
みんなで力を合わせて、大成功のうちに終わったライブも、悲しみを全て私に託してくれる椎香も、絶対に存在していたはずなんだ。いや、むしろそれこそが「本物」のはずなんだ。今の、このおかしな現実の方が、偽物なんだ。どこかで世界が狂ってしまったんだ……。
「うわあああぁぁぁん!! お父さあああぁぁぁん!」
私の胸の痛みをすっかり覚ましてしまったその声が、まだ叫んでいる。明らかに椎香のものではないその声が、「本物の」椎香のように、叫んでいるのだ。
――その声の主は、妙有だった。
「お父さあああぁぁぁん、いやだよおおおぉぉぉ! いかないでよおおおぉぉぉ!」
「――妙有!」
椎香のお父さんの亡骸にへばりついて、周囲を唖然とさせるほどの大声で泣き叫んでいる妙有を、私は引き剥がした。
「……た、妙有! 椎香のお父さんがこんなことになって、悲しいのはわかるけど、いくらなんでもおかしいよ! みんな不審に思っているじゃない!」
「放して! いやだあああ! お父さあああん!」
妙有は、まるでそれが自分のお父さんであるように、我を忘れて泣き叫んでいた。
わけが分からなかった。
椎香も妙有も、おかしくなってしまっていた。もうすっかり狂っていた。
もしこれが夢ならば、いや、現実であっても、悪夢と呼ぶしかなかった。
そして、理論上、最悪の悪夢があるとすれば、それは、覚めることのない悪夢なのだった。
そう、この私の目の前の、現実のように。




