第四話 おかゆ(卵入り)<2>
……なんだか幸せな夢を見ていた気がする。
起き上がると、頭の上から濡れたタオルが落ちてきた。
なんだこれは……?
全然、記憶がない。
……ん?
嘘、だろ……?
部屋の置時計が指している時刻は、午後三時十四分。午前の見間違いかと思ったが、15時表記なのと、窓の外は明るい。間違いなく、午後三時。おやつの時間。
大遅刻だ。
「うわわわわ!」
俺は慌ててスマホの画面を開く――あ、そうか! 昨日水没して壊れたんだった! 通りでアラームが鳴らないはずだよ!
とにかく、会社に電話だ!
家の電話から、会社へとかける。
「もしもし、すいません、一之瀬ですけど」
『遅えよ、お前よぉ!』
受話器越しに、怒声が響いてきた。俺は慌てて頭を下げる。
『今何時だと思ってんだ!』
「すいません、寝坊しました」
『すいませんじゃねーだろ! 携帯にも出やがらねーしよ!』
「昨日、水没で壊してしまいまして……」
『くっそしょうもない言い訳は良いよ! ったく、たいそー余裕だなあ、一之瀬君はさあ! ノルマまであと何軒あるんだ!? ああ!? お前だけだぞ、今月契約取れてないの!』
「すいません……」
『もう今日は良いよ! 明日倍働けよ、お前!』
「はい、頑張り……」
がちゃ。
電話が切れた。
「ます」
……絶対明日、嫌味を言われるな、これ。
でも、とにかく、今日は休める……それだけは、すごく良かったことだ。
明日はまた地獄が始まるわけだけど。
立ち上がると、まだふらふらする。熱はまだ、収まっていないようだ。
とりあえず、お腹が減った。
冷蔵庫に、何かあったっけ?
そんなことを思いながら、リビングへと向かい――
ん?
リビングの食卓に、手紙が置かれてある。
『コンロに朝のおかゆがありますので、食欲があったら食べてください』
と書かれてある。
「? なんだこれ?」
一体誰が、こんなの書いたんだ?
こんなこと、俺がやるわけがない。
確かに、コンロには見たこともない小さな土鍋があって、その中には食べかけのおかゆがあった。
コンロの火を使うことなんて、カップ麺のお湯を作る時のみだ。
……これは一体、誰が作ったんだ?
その時、ぴんぽーんとインターホンが鳴り響いた。
また新聞屋か壺売りのおばさんか。
もう今日は出勤することはない。このまま、居留守を決め込むことにしよう。
ぴんぽーん……
再び、インターホンが鳴る。
「すいませーん」
おばさんじゃない……新手の押し売りかな。
とにかく、俺の家に来る人間なんて、ろくなもんじゃないに決まっている。
くわばらくわばら……
俺は、自分の部屋へと帰ろうとして、足を滑らせた。
その時に、スリッパを勢いよく玄関のほうへ飛ばしてしまい、ばーんと派手な音が出てしまった。
「!? 開けますよ、一之瀬さん!」
玄関が開き――そこには、栗色の髪をツインテールにした少女がいた。
凛とした目が、俺を見下ろす。そして、彼女は呆れた。
「……何やってるんですか」
「足がもつれて、こけたんだ」
俺は彼女を見上げながら答えた。
「まだ風邪が治ってないんでしょう? 無理しないでください」
「うん……えっと、君は……?」
どこか見覚えがあると思ったら、夢で見た少女そのままだ。
「覚えてないんですか? お鍋、返してもらいに来たんですけど」
「あ、ああ――え? あれ? あれは夢じゃない……?」
「一之瀬さん、すごく意識もうろうとしていましたから。覚えてないんでしょうね」
ふう、と少女がため息。
「とにかく、無事でよかったです。一応、心配してたんで」
「あ、ありがとう。で、でも、何で俺によくしてくれるんだ?」
「登校しようと家を出たら、いきなりがーんと大きな音がしたから、気になってインターホンを押してみたんです。あとは、成り行きですね」
「それは、お世話になって……ごめん」
「しっかりしてください」
「はい」
小学生に説教される俺。
「えっと、隣室っていってたよね。名前は――」
「一之瀬、一之瀬美菜です。一之瀬さん」
「……?」
俺はもう一度尋ねる。
「だから、一之瀬です。同じ苗字なんですよ。私たち」
「そうだったのか……?」
ずっとここに住んでいるけれど、気が付かなかった。
ぐう、とそこでお腹が鳴った。
「お腹、へったんですか?」
美奈ちゃんが呆れている。
「うん。そうみたいだ。あ、平気だよ。適当に何か食べるから」
「適当に……」
美菜ちゃんは、顔をしかめた。
「何を食べる気なんですか?」
「あー……まあ、あのおかゆ、食べて良いかな? お鍋、後で返しに行くよ」
「いいですけど。それで、夜は?」
なんでそんなことを聞くんだろう?
「カップ麺でも食べるよ。まだストックがあったはずだし」
「……」
はあーっと深いため息をする美菜ちゃん。
「分かりました。一之瀬さんは、寝ていてください」
「え?」
「聞こえませんでしたか? このおかゆを食べて、寝ていてください」
「何で?」
「台所を片付けて、私が何か作ってあげます」
「い、いやいや何でさ。そんなことする義理なんてないでしょ?」
「台所が汚いの、すごく気になるんです! それと、病人なのに、そんなものを食べないでください!」
彼女はゴム手袋を両手にはめて、俺の家の台所の掃除に取り掛かった。
「邪魔ですから、自分の部屋に行ってください」
「はい……」
邪魔と言われて、俺はすごすごと土鍋を持って移動した。
彼女はとにかく、すごい世話焼きで、綺麗好きみたいだ。