第三十七話 いちごのショートケーキとチーズケーキ<3>
飯沼さんと別れた俺は、美菜ちゃんの住むマンションへと来ていた。元俺の住んでいたマンションでもある。
ふと、マンションの前まで来て思う。
許してもらおうと? バカだ。許されるわけない。
謝りたい? 今更? ふざけるな、だけ言われるだけだ。
でも、やっぱり、謝りたい――そのままでいいわけがなかった。
俺の部屋だった一室は、真っ暗だ。それを見ていると、寂しい気持ちしかわきおこらない。
行こう。彼女の部屋へ。
「――一之瀬さん?」
嘘だ。何で。
電撃を受けたみたいに、俺は震えた。
神様が本当にいるとしたら、絶対にそいつは最悪最低な奴だ。
このタイミングで、美菜ちゃんが後ろに立っているなんて、あり得ない。
「……一之瀬さんですよね?」
俺は駆けだした。逃げ出したともいう。
「待ってください!」
彼女に謝りに来たのは、確かな事だ。でも、心の準備とかその他諸々が必要だった。
いつ謝るのか――今でしょ、なんてことが出来る人間じゃないのだ。
「ちょっと待ってほしいんだ!」
俺は振り向かずに叫んだ。まったくあべこべだが、とにかく時間が必要なのだ。
いくら貧弱な俺でも、小学生の足に、負けるわけがない。
「一之瀬さん!」
ところがすぐに美菜ちゃんは俺の隣に並走した。理由は簡単だ。彼女は自転車に乗っていたのだった。
俺の肩を掴もうと、彼女が手を伸ばす。
危ない。
バランスを崩した。
俺は手を伸ばして、彼女を抱きかかえる。
美菜ちゃんの自転車は、地面を回転して、電柱で止まった。カゴには、ケーキの箱が見えた。……きっと中はぐしゃぐしゃだろう。悪いことをしてしまった。
「……ありがとうございます」
彼女の声が近くにある。俺は慌てて、彼女を地面に下ろした。
彼女は、俺のコートの端をしっかと握り締めていた。
その手を払いのけることは、俺にはできなかった。
じっと、彼女の目が俺を見る。耐えきれずに、俺は目線を反らした。
「――何で逃げるんですか?」
ややあって、彼女が俺に聞いてきた。
「その……俺は、君に会わす顔がないんだ」
「何でです?」
「酷いことを言ってしまった……ただの勘違いで」
ようやく観念して、一か月前からのあほらしい顛末を語った。
自称神様に会ったこと。
そのさいに、俺は母親が欲しいといったこと。
その母親が、美菜ちゃんだと疑ったこと。
それは呪いだと悩んだこと。
その呪いを解くために、美菜ちゃんと決別したこと――
そしてそれら全てが、勘違いであったこと。
きっと、彼女は呆れている。
「ごめん」
俺は頭を下げた。彼女の顔なんて見れない。きっと、彼女は、許さない。
でも、それだけ告げれば満足だった。
「俺、もう行くよ」
「待ってください。どこへ行くんですか」
まだ美菜ちゃんは俺のコートの端を、掴んでいた。
彼女はため息をついた。白い息が、ふわりと空中に舞った。
「そんなことだろうと思いましたよ。一之瀬さん、そそっかしいところがありますから……私が、母親? まったく。どうしたらそうなるんですか」
案外、怒っていないようだった。
そうか。そう、思っていたのか。
「ごめん……」
それでも、申し訳なくて、俺は頭を下げた。
「いきなり、大金の入った通帳がポストにあって……当選証明書があっても、本当に心配したんですよ? 絶対、悪いことに巻き込まれていると思いました」
「ごめん……」
「ごめんしか言えないんですか?」
「すいません……」
「その返し、面白くないですよ。大体――」
ぽたり、とアスファルトに雫が落ちた。
「あれ?」
それを皮切りに、彼女の目から、いくつも滴が、流れていった。
「ち、違います。これは……違うんです」
でも、涙は止まらなかった。何で泣いてるんだ? 怒っているのならまだしも。
俺は混乱する。更に不思議なことに、彼女は涙を流しながら、謝ってきた。
「……私……また。ごめんなさい……一之瀬さん」
謝った? 何で? 彼女が謝ることなんてないのに。
そうして、彼女は話した。
ずっと寂しかったのだ、と。
隠し子だとばれたくないので、極力友達を作らずにいた。
だって、親しい人間がいれば、なんであの子には両親がいないんだろうと思われてしまう。
そこから、隠し子だとばれてしまうかもしれないと彼女は考えていた。
話しかけてくれても、わざと憎まれ口をたたいて。
何でも、一人で行動して。そうして、周りに壁を作って。
誰も帰ってこない家で、一人でご飯を食べて、一人で生活をする。
「だから、私、しずちゃんにすごく感謝してるんです。こんな私に、すごく仲良くしてくれて」
だけれども、美菜ちゃんの味方は静葉ちゃんしかいなかったんだ。
彼女は確かに俺の情けない姿を見て世話を焼いていたが、誰もいないまっくらな部屋に帰ることに、抵抗を覚えていたのだ。
それが、彼女が俺と一緒に行動していた最大の理由だ。つまり、そう。単純に、彼女は寂しかったのだ。
「私、甘えていたんです。一之瀬さんの優しさと気弱さにつけこんで。世話を焼いているふりをして、ずっと、寂しさを埋めていて……だから、迷惑って言われた時、そのことを見抜かれたんだと思いました。でも、一之瀬さんの通帳が、玄関ポストに入っていたのに今日気付いて」
それで、もしかしたら、あの時の言葉は、悪い人に騙されていただけではないかと思ったのだと。
そして、今、俺がこのマンションに現れたのを見て、確信に変わったのだと彼女は告げた。
「当たり前だったんです。私と、一之瀬さんが一緒にいないのは。一之瀬さんがいなくなって……分かったんです。だから、ちゃんと……言わないと、いけなかったんです」
彼女は頭を下げた。俺のコートの端を掴んだまま。
「いかないでください……」
あの彼女が、俺に懇願している。寂しいから、一緒にいてくれと言っているのだ。
俺は、激しく動揺していたし、彼女が、こんなにも俺を頼ってくれていたなんて思わなかった。
もっと彼女は強くて……でも彼女は小学生で、子どもで。
当たり前のように、弱い存在なのだ。そんな当たり前のことを、俺は、この時まで分かっていなかった。
彼女が必要としていたのは、友達であり、家族だった。
でも、それを、得られることができない理不尽を与えられ続けていた。
俺は、それなら……と思ったけど、辞めた。俺の行動は、許されるものではなかったからだ。
「俺は……君には幸せになってほしんだ」
彼女は頑張っている。理不尽な目に遭いながらも、歯を食いしばって、強がりだけを武器にして、その小さな体で向き合っている。
報われなきゃおかしい。
「だから……その……俺は、また君を傷つけるかも知れない。バカだから」
それを何より、俺は恐れていた。
きっと、彼女は俺がいなくても、平然と一人で歩いていけるだろうと思った。
この手を振りほどいて、このまま別れ別れになった方が、彼女にとってはいいのではないかと思ってしまう。
「だからやっぱり――」
「嫌なら、嫌って言ってください」
美菜ちゃんの声は、消え入りそうなくらいに小さくて。けれども、俺の耳には、はっきりと聞こえたんだ。
「優しい言葉で、はぐらかさないでください。希望を、抱かせないでください……お願いですから。私を、これ以上、傷つけないで……」
確かな事は――
彼女にとって俺は大切な人間になっていた。戻ってきてほしいと言ってくれている。
それは、俺も同じ思いだった。
俺は、真っ暗な底の中にいた。しかし、彼女に出会って、日の当たる場所へようやく出られた気がしたのだ。
「嫌なわけがないよ」
俺は、俺じゃない誰かが、彼女を幸せにしてくれると思っていた。
もしくは、彼女自身が、自分でつかみ取っていくのだろうと。
しかし、今ここにいるのは俺で。彼女が必要としているのは、まがりなりにも俺なのだ。
そう。ごく単純な話だ。
彼女が信じている俺を、俺が信じればいいだけの話なのだった。この期に及んでも、俺は、自分が信じられないでいたのだ。
彼女にとって、俺しかいなかったというのもある。
偶然がいくつも積み重なって出来た関係だというのもある。
だからこそ、簡単に破綻する可能性が、十二分にあった。
でも――多分、強くなるって、そういうことだ。その時は笑って見送ればいいだけだ。彼女は子供で、俺は大人なんだ。
彼女が握っていたコートの端を、俺はなるだけ優しく離した。そして、いい加減にしてほしいと言いたげな、美菜ちゃんの自転車を引き起こす。
へこんだケーキの箱を、その籠の中に入れた。
後で聞いたところによると、彼女はケーキ屋を回って、俺を探しに行っていたらしい。「おめでたい一之瀬さんのことですから、絶対にケーキ屋に行ってると思ってました」と。
「……ケーキ、もう一回買った方が良いかな」
俺の言葉の意味は、ぐちゃぐちゃで台無しになったケーキを買い直そうという提案だった。が、図らずも、それが、彼女の言葉の答えになった。
ごしごしと目をこすりながら、彼女は「はい」と頷いた。今日はクリスマスイブで、そして彼女の誕生日でもある。二つあっても、別にいいだろう。
この部分、かなり変更しています。
前のがプロット通りで、何の疑問を持たずに終わったのですが、どうにも納得がいかなくて、もう一度書き直しました。




