第三十六話 いちごのショートケーキとチーズケーキ<2>
「おい、どーした? にいちゃん?」
俺はふらりと立ち上がり、財布からお金を取りだして、彼らに渡すと、居酒屋を出た。
俺は恐るべきバカだ。
何が、今までのことは神様のお陰だ!
「違う」
俺が、俺を信じていれば、良かっただけの話なのだ。
ただの偶然を、幸運だと信じればよかったのだ。
美菜ちゃんの優しさが、彼女本来の物だと信じればよかっただけの話なのだ。
何もかもが、俺が弱いから……引き起こされた当然の結末だった。
ただ一つ、勇気だけあればよかったことだった。
本当に恐るべきバカだった。
涙が出た。街行く人が、怪訝な表情をしている。
「きっと、振られたのね。可哀想」
そんな声も聞こえてくる。
美菜ちゃんも、静葉ちゃんも、おそらく、ハルナちゃんも、心配させて、傷つけて。
一人でバカなことをして、一人で悦に入って――
「一之瀬さんだね?」
考えに耽りながら歩いている俺に、声がかかった。聞いたことがあった。
顔を上げると、くたびれた中年のおじさんがいる。
飯沼さん。長瀬瀬里奈――美菜ちゃんの本当のお母さんを狙う、芸能リポーター。
「時間あるかい? 少し話そうじゃないか……何、時間はとらせんよ」
飯沼さんが案内したのは、コンビニの前だった。
暖かいコーヒーを買ってきて、俺に手渡す。
「すまんが、安月給で金が無いものでね」
「俺に話ってなんですか?」
そんなこと、分かり切っている。
「あんたの隣の部屋で暮らしていた、一之瀬美菜に関してさ」
予感はどこかでしていた。
なんとなく、飯沼さんは、美菜ちゃんのことを嗅ぎつけてくるだろうと。
「その子が、なんです?」
「あの子、誰かに似てると思わんか?」
「さあ……?」
余計なことは喋らないように、俺は心掛ける。
「例えば、長瀬瀬里奈とか」
「俺、テレビあんまり見ないんで」
「そうかい……ああ、申し遅れた。俺は芸能リポーターの飯沼ってんだ」
今更名刺を渡す飯沼さん。
「一か月前に、話題になっただろう? 長瀬瀬里奈の隠し子騒動……知らないか。そうだよな。あんた、テレビに興味がないもんな」
落ち着き払って、俺は尋ねた。
「あの、寒いんで、要件があるのなら、もったいぶらずに、話していただけませんか?」
「――ああ、そうだな。一之瀬さん。随分と苦労したぜ。俺としたことが、こんなにも時間がかかっちまった。あの一之瀬美菜が、長瀬瀬里奈の隠し子だっていうことがね」
「そうだったんですか」
俺は表面上は動揺していないフリをしていたが、内心、心臓バクバクだった。
やっぱり、気付いていたのだ。
どうする? あのロリコン週刊誌記者の言葉を思い出す。
ああ……美菜ちゃんに危機を伝えようにも、携帯の番号をもう覚えていない。
「今更、すっとぼけても無駄さ。こっちはネタをきっちり掴んでんだ。」
俺が黙っていると、彼はとんでもないことを俺に言ってのけた。
「あんたさ、証言する気ないか?」
「――?」
何を言ってるんだ、この人は。
俺が更に黙っていると、彼は煙草に火をつけて、また告げてきた。
「もちろん、誰かは分からないようにする。“長瀬瀬里奈の隠し子はいる”ってうちの編集長に言ってほしいんだ。金は出す」
「何を言ってるんだ、あんたは?」
そんなこと、するわけがない。
「――あんたは、一週間前、その一之瀬美菜となにかしらのトラブルが起きた……まあ、詮索はせんがね。それは、あんたと一之瀬美菜との関係に決定的な亀裂が入った出来事だった。だから、あんなにも急速に引っ越しをした」
俺は黙ったが、よくもそこまで調べているものだと舌を巻いた。
……俺たちは気が付かなかったが、彼はずっと俺たちを見ていたのかもしれない。
「おそらく、あの女からは口止め料として金を貰ったんだろうが……いいじゃないか。もう何の義理もないんだ。金を貰ってさ。話しちまえば」
だから、何を言ってるんだ、この人は。
「話が見えてこない。何で、俺があんたたちのために証言しないといけないんですか?」
俺が尋ねると、飯沼さんは舌打ちする。
「けっ……ロリコン野郎が。いっちょ前に、俺に交渉か?」
鋭い目が、俺を下から見上げてくる。
「ろ、ロリコン野郎?」
「あんたと一之瀬美菜とは、血のつながりはない……あんたは、一之瀬美菜の恋人だった。そうだろう?」
ようやく合点がいった。
俺が美菜ちゃんと離れたのは、神様の件を勘違いしたためだ。
しかし、飯沼さんは恋人同士のトラブルだと思い込んでいるのだ。
何でそんな風に考えるのか――というと、部下にそんな奴がいたから。
俺を、あの部下と同じ穴のムジナ……ロリコンだと思っているのだ。
「サツにチクってもいいんだぜ? ああ?」
完全に、俺をロリコンと勘違いしているようだった。俺に脅しをかけている。
というか、何で、俺なんだ?
隠し子が美菜ちゃんだと判明しているのなら、美菜ちゃんに直接、交渉すればいいだけだ。
断られても、そういった“疑いがある”というだけで、記事にすればいい。いつもやっているように。
……それが、できない?
あ。
「飯沼さん、単独で動いてるんじゃないですか?」
「――」
飯沼さんは、口に付けていた煙草を落とした。思わず、と言った感じだ。
「会社からは、もう関わるなっていう命令が出てるんじゃないですか? そりゃそうだ。自社の記者が、捕まっているんだから。よほどのことがない限り、記事にはしにくい。そうなんじゃないですか?」
飯沼さんは煙を吐き出して、たばこをもう一本点けた。当たってる。
「そうさ。だけど、それがどうした? あんたにゃどうでもいいことだろう? 金さえもらえばいい」
「なんでそこまで……それって、飯沼さん、自分のお金でこんな地方で取材をしてるってことですよね?」
恐ろしいまでの執念だ。
「どうでもいいことだろうが」
どうでもよくない。
つまり、それは、完全な脅威が消え去ったというほかないのだ。美菜ちゃんは隠し子であることをカミングアウトする気はないし、俺だって何も証言する気はない。
そして、飛ばし記事も封じられてしまっている。よっぽどの証拠がない限り、彼には何もできない。
恐るべきことに、この二、三週間で行った彼の行動は、全くの無駄足としか言いようがなかった。
「俺は、何も、言う気はありませんよ。大体、俺と彼女は、そもそも恋人同士じゃないんです」
「ふざけるなよ。じゃあ、何で一緒にいたんだ? 何で別れたんだ? 説明がつかない」
詳細に説明をしても良いが、正直、正確に伝えられる自信がないし、その義務もない。
そして、おそらく、彼は信じないだろう。
俺は缶コーヒーを一気に飲み干して告げた。
「コーヒー、有難うございました」
「おい、待て! マジでサツにタレこむぞ?」
「やればいいじゃないですか」
ため息をついて、彼に答えた。もう美菜ちゃんと関わることはないのだ。そして、俺は捕まる様なことは全くしていない。
「飯沼さん、俺が彼女をどうしたいのか、分かりますか?」
「急になんだ?」
「俺は、彼女を、幸せにしたかったんです」
彼女は、こんな俺の為に、色々な事をしてくれた。
その恩に報いたかった……こんな俺でも、彼女を助けたかった。でも、それが全て、自分のせいで瓦解してしまった。
だからこそ、飯沼さんからの申し出を受けることは、絶対にあり得ない。
「わけがわからん」
飯沼さんは舌打ちした。
心の中で、ロリコン野郎と蔑んでいることだろう。
別にそれでもいい。何とも思わない。
俺は歩き出す。真っ暗な夜の空に、雪がちらつき始めていた。




