第三十四話 塩
その日から、俺の神様探しは始まった。
相生橋を中心に、捜査の域を広げていった。
勿論、やるべきことはやる。美菜ちゃんの迎えに、買い物、自分の部屋の掃除や洗濯……とにかく、きちんと、全部やる。
「美菜ちゃん、言われた通り、今日はぶりと大根の煮物を作ってみたよ」
一日が経つごとに、俺は出来ないことが、出来るようになっていった。
――彼女から、自立するためだ。
「どう? これで、いつでも美菜ちゃんの世話にならなくてもいいくらいじゃない?」
「……まあ、一之瀬さんにしてはよくできてると思います」
そんな憎まれ口をたたかれるけど、完食しているということは、ある程度は美味しかったってことだ。
神様は俺の願い事の解除方法を言っていた。
“でもな、母親なんだからな。欲情なんかするなよ……もし事に及ぼうとしたら……魔法は解けてしまうからな”
論外だ。
それで、確かに願いは終わる。
だけど、彼女の気持ちはどうなる?
想像もしたくない。
バカな話である。
しかし、いくら探しても、神様は見つからなかった。
朝、昼、夜、深夜。どの時間帯でも、神様は見つからなかった。
そこで、俺は考える。
神様がもともといる場所……それは、教会か神社だ。
俺は片っ端から電話して、尋ねた。
「あの、神様を探してるんですけど」
しかし芳しい答えは皆無と言ってよかった。
『神様はあなたの心の中にいます』
『聖書にすべて書いてあります』
『社の中におられます』
『そこら中におられます』
それは宗教的な神様であり、あの髭面の、ホームレスと見まがうほどのおっさんではなかった。
むしろその話をすると、どこも嫌悪感をあらわにした。
そんなわけないだろう、と。
しかし、彼らと違って、俺は神様を見たのだ。
俺は再び考える。
こんな時は、インターネットだ。
インターネットで検索すれば、大体のことは分かる。
あらゆるサイトを閲覧し、俺は、一つのサイトに出会った。
『ベナサンティア教』。
ここの宗教の教えによれば、現世にある神様は全て嘘つきで、人類を堕落させた元凶……とかなんとか。
詳しいことは分からないが、神様を否定しているのに俺は惹かれた。
さっそくサイトに記載されてある番号に電話すると、「では、お会いしましょう」ということになった。
ベナサンティア教は全国に支部があり、この街にもそういったものがあった。
市電に乗って、スマホのナビに従っていくと、とあるマンションへとたどり着く。小綺麗な、今風のマンションで、八階建て。玄関ロビーのオートロックシステムで404号室を呼び出す。
「電話した一之瀬ですが」
『どうぞ』
若い女性の声だった。
404号室のインターホンを押すと、女性が現れる。おとなしそうな人で、声も落ち着いている。歳は、俺よりも一つ上か二つ上の大人の女性だった。
「中へどうぞ」
と部屋に入らされると、彼女はドアを閉め、何かを撒いた。
「何ですか? それは」
「聖灰です。これは、悪しき現世の神を退ける効果があるんですよ」
にっこりと笑顔を向けてくる。
リビングルームへと通されて、俺はソファに座らされる。
彼女はその対面に座り、自己紹介をした。
「ようこそ、ベナサンティア教支部へ。わたくし第三階位に位置するプラデア……いえ、そうですね。こちらでの名前は、高町京子と申します」
「はあ」
開始早々、圧倒されそうだ。
「現世の神に悪戯されたとか?」
「悪戯というか……その、なんというか、俺の願いを、解除してほしいんですね。それによって、知り合いが迷惑しているんです」
「勿論、お救いできます」
そう言って、彼女は小皿に、さきほど玄関に撒いた聖灰なるものを盛った。
「こちらを一つまみだけ飲んでいただければ、その呪いは解除できます」
「これだけで?」
「この世界が出来る前からある、アド・ヒボノミから生成されたものです。このアド・ヒボノミは神の力であるデル・デラコニアを減少させる効果があることが、我々の研究により明らかになりました」
「そうなんですか」
ちっともわからないが、とりあえず俺は頷いておいた。
「ただ――私共も、この聖灰を生成するのに多大な時間と、お金と、人件費がかかっておりますので」
「あ、はい」
言われていたお金を俺は財布から取りだす。
彼女は慣れた手つきで札を数えて、にっこり笑顔を向ける。
「……確かに、十万円。いただきました」
「それじゃあ」
「あ、お待ちください。ほんのひとつまみだけです。聖灰は、取り込み過ぎると、人体に悪影響が出てしまうのです」
「え? そうなんですか?」
「何事も、欲張れば身を亡ぼす……それは、どこの世界でも同じなのです」
俺は言われた通り、ひとつまみ、その聖灰を取り、口の中に入れた。
しょっぱい。
まるで塩みたいだ。
「これで大丈夫なんですか?」
「ええ。だいぶ、現世の神の影響は薄らいだように見えます」
俺は自分の体を見る。うーん、どこも変わったようには見えないんだけど。
いや、ちょっと待て。
「薄らいだということは……完全に呪いは解かれていないんですか?」
「……一之瀬様は、直接現世の神にお会いされたとか? そのせいかもしれません。デル・デラコニアの影響が、他の人よりも強いのです」
なんてこった。
「こ、これをあとどれくらい飲めばいいんですか?」
「先ほども申しました通り、聖灰を取り込むことは、人体に悪影響がでるのです。少なくとも、一月は間を置かないといけません」
「一月、かあ……」
「うっ……!」
突然、高町さんが胸を押さえた。
テーブルに突っ伏し、体が細かく震えている。
「だ、大丈夫ですか!?」
俺の声に、彼女は手で制止して、荒い息をしながら起き上る。
「今、現世の神による介入が行われました」
「? ……えっと、どういうことですか?」
「一之瀬様を取られまいと、邪魔をしに来たのです。ここは、ベナサンティア教の聖域ですし、わたくしは第三階位ですので、どうにか退けましたけど」
「そう、なんですか?」
「しかし、このままだと、一之瀬様はこの聖域を出た後、再び神の呪いをその身に受けてしまいます」
「なんだって」
そんな……じゃあ……どうすれば。
ここだけが頼みだったのに。
「一之瀬様……こうなれば、徹底的に戦いませんか?」
「ど、どういうことです?」
「我々とともに、神に反旗を翻すのです」
「……どういうことなんですか?」
まったく意味が分からず、俺は再度尋ねた。
「ベナサンティア教の洗礼を受けさえすれば、神もおいそれと一之瀬様に手出しをしないはずです」
「そうなんですか? でも、洗礼ってどうすれば」
「我々の教団に入らなければいけません……もちろん、それに対してお金をいただいたりはしません。よくあるでしょう? 悪徳な新興宗教がお金をだまし取って、信者をだますような」
「ええ。まあ」
「我々は、そんなのとは違うのです。どうでしょうか?」
お金を取らないのか。
それなら、信用できる気がする。
「入ります」
にっこりと高町さんが笑った。
「ようこそ、ベナサンティア教へ。あ、こちらは小冊子です。あとで目を通しておいてくださいね」
それから、高町さんはベナサンティア教における注意事項を話した。
自分がベナサンティア教の信者であると、聖域以外で一言も言ってはいけない。何しろベナサンティア教は神に反旗を翻す宗教ですから、すぐさま目の敵にされるのだとか。
家族や知人に感づかれてはいけない。
感づかれて、「やめておけ」と言われても、それは神様から言われた言葉である。絶対に信じないように。
会員は、布教活動に協力しなければならない。一週間に一度。
「それと、会員の特典として、聖灰が支給されます……ほんの一万円で」
一万円!?
十万円だったのに、一万円なんて、凄まじく安い。
「同じ、神と戦う同士ですもの。当たり前です。それと、このようなものもあります」
と、カタログを取り出し、色々なものを紹介した。
「特におすすめなのが、このヘッドギアセットですね。これをかぶることで、脳が活性化され、頭が良くなり、東大にも受かったり、一流企業にも就職されたりと……ほら、この体験談の松永さんもおっしゃっているでしょう?」
そのお値段、百四十四万円。
「ローンでも大丈夫です。私共には、付き合いのあるローン会社がありますので」
まあ、いらないけど。
俺は興味あるげに頷いておいた。
美菜ちゃんの着信が鳴ったのは、その時だった。
『もしもし一之瀬さん? 今日、病院への迎えは結構です』
「どうしたの?」
『お爺ちゃん、退院が決まったって電話がありました。あとは恋人さんにお任せします』
すごい。
早速効果が出るなんて。
「それは、よかった……」
俺は心底安堵した。
これも、十万円払って聖灰を飲んだおかげだ。
源蔵さんは、会ったことないけど、俺のせいで死んでしまうなんて、そんなこと許されるわけがない。
『今日、何が食べたいですか? 私が作りますよ』
「そうだなあ……たまには魚じゃなくて、肉がいいかな」
『そればっかりですよね、一之瀬さん』
スマホ越しに呆れる美菜ちゃん。
だって、ずっと魚ばっかりだったんだもの。
「あ、それと。毎度聞くみたいだけど……飯沼さんは? それらしい人物は?」
『……ですから、それらしい人はいません』
「そっか。でも、本当に、気を付けて」
分かっていますよ、と彼女は電話を切った。
「いけませんね」
スマホをしまうと、対面の高町さんは渋い表情をしていた。
「一之瀬様、その彼女とは別れた方がいいでしょう」
「え? 何でですか?」
「現世の神に、目を付けられています。分かるのです」
う。
た、確かに、彼女は神様に選ばれた人間だ。
目を付けられているのは、間違いはない。
「で、でも、呪いは俺に向けられているから、それが解除されるんでしょう?」
呪いが解けば、俺と美菜ちゃんは、一緒に行動することなんてなくなるはずだ。
そう。一緒にご飯とか食べるのも……そんなことはなくなっていくはずだ。それが自然なんだ。
「現世の神の力を、侮ってはいけません。むしろ、一之瀬様が洗礼を受けても、彼女がいることにより、その呪いが解かれることはないでしょう」
「そんな……どうしたら……」
「彼女と別れる。きっぱりと。決別しましょう」
「でも」
「一之瀬様、彼女のためです。彼女が現世の神によって、不幸になってもいいのですか?」
いや、そうなのだ。いつか、が今か、後かの話だ。
俺は、迷いを振り払った。
俺は、自分のマンションへと帰ってくる。
玄関の鍵を開けて、寒々とした部屋の暖房をつける。
しばらくすると、インターホンが鳴る。
「遅かったですね、一之瀬さん」
美菜ちゃんが、俺の部屋へと入ってくる。
「あ、ああ、うん」
彼女は久しぶりに台所に立ち、まな板を取りだす。
「今日は肉じゃがにしました。それと、アジの干物です。あとは、この前作り置いた切り干し大根と、お漬物を食べます」
「み、美菜ちゃん!」
言うのか?
そんな酷いことを?
彼女に対して?
俺が黙っていると、彼女は小首を傾げて、俺にとって、恐るべきことを言って来た。
「――あ、そうそう。一之瀬さん。これからは、しばらく、私が作らせてもらいます」
「え? な、何で?」
「何でって……いけませんか?」
「いや、だって……」
そんな。
これは、確かな、神様の介入だ。
聖灰の効果が、はやくも切れてしまった。
俺が、彼女とのこれまでのことが、すべて神様によるものだと信じ切ったのはまさにこの時だ。
だって、彼女が俺のために料理を作りつづける理由が、無いといっていいのだ。
まるで、彼女が、俺と過ごしたいみたいだ。
高町さんが言うように、神様に強制されているのだ。知らず知らずのうちに。
これは……もう、やるしかない。
「美菜ちゃん!」
「――なんですか、さっきから」
再び、美菜ちゃんが振り向く。
俺は目を瞑った。
これまでの、色んな事が思い浮かぶ。
これでいいんだ。
間違いなんてないんだ。
彼女は、幸せにならないといけない。
「美菜ちゃん、もう、ここに来ないでくれないかな」
「……」
目をぱちぱちさせて、彼女はその言葉に答えられなかった。
やがて、彼女は尋ねる。
「どうしてですか?」
その凛とした目が、俺の目を射抜いてくる。
それを、俺は真っすぐに見た。
「もう、美菜ちゃんがここに来る理由なんてないしさ」
「その……一之瀬さん、だって、まだまだ教えることがあるんです。魚のおろしかただって、全然できないじゃないですか」
「それは自分で、頑張る」
「掃除や洗濯だって、まともにできませんし」
「自分でやるよ」
「それに」
「迷惑、なんだ」
まったく心にもないことだ。
勇気を絞り出して。
自分を押し殺して。
俺は言った。
「正直なところ、俺は、自分の好きなものを食べたいんだ。誰にも邪魔されることなく……今まで黙っていたけど。でも、もう、お節介はやめてほしいんだ。飯沼さんも、たぶん東京に帰っただろうから……美菜ちゃんとかかわるの、これで最後にしたいんだ」
痛すぎる沈黙の間があった。
彼女はその目を下に向けて、ぽつりとつぶやく。
「……すいませんでした」
彼女はぺこりと頭を下げて、俺の部屋を出て行った。
今日買って持って来た材料も、そのまま……マイバッグも忘れている。
俺が、自分の体を動かしたのは、それから数十分経った後だ。
胸の中に、ぽっかりと穴が開いたみたいだ。
それは、美菜ちゃんの部分だったのだろう。随分と、大きかったようだ。
これでいいんだ。
自分に言い聞かせた。
むしろ、こんなこと、何でもないようにならないといけないんじゃないか。
強くならなきゃいけないんだ、俺は。




