第三話 おかゆ(卵入り)
朝。
絶望の朝の時間だ。
頭が痛い。
体がだるい。
喉が痛い。
目覚めは最悪だった。
どうやら、昨日の入水が祟ってばっちり風邪を引いたようだった。
「うー……しまった……」
我ながら、貧弱な体に絶望する。
それでも、仕事に行かなければならないのがつらいところだ。
のそのそとベッドから這い出て、スーツに着替える。
濡れたスーツは、休みの日にでもクリーニング屋に持っていこう。
休みの日があればだけど。
スーツに着替え終えたら、身だしなみを鏡の前でチェックして、出勤する。
朝食なんて食べている暇はない。
俺の仕事は、まず、タイムカードを切る前に、掃除を済ませることだからだ。
靴を履こうとしたところで、
「あ……」
体がぐらついて、倒れてしまう。
がーん、と鉄製の扉が派手に音を立てた。
痛い。
視界が回る。ぐるぐるする。
でも、行かないと。
ぴんぽーん。
インターホンが鳴る。
一体何だ?
新聞なら、ほぼ全部購読してるはずだけど……また壺を売りに来たおばさんかな?
俺の家にやって来る人間は、そういったのしかいなかった。
あれは、追い払うのにすごく苦労して、結局買わされてしまうのだ。
……とにかく、出勤するためには扉を開けなきゃいけない。それを理由に断ろう。
俺は、ドアノブを回して、扉を開く。
「何か、大きな音がしたんですけど……大丈夫ですか?」
目の前にいるのは、ランドセルを背負った少女だった。
小学生?
小学生の知り合いは俺にはいない。
栗色の髪をツインテールにしていて、凛とした目をこちらに向けていた。
「あ、私、隣室に住んでいる、一之瀬美菜です……大丈夫ですか?」
再度、少女は俺に尋ねてきた。
「大、丈夫です……」
俺は息も絶え絶えに答える。
喉が痛い。声を出すたびに、死にそうになる。
彼女は背を伸ばし、俺の額に手を当てて、険しい顔を作る。
「ひどい熱じゃないですか」
「多分、風邪を引いていると思います」
「じゃあ、寝てないと」
「いや、でも、仕事に行かないと……怒られる」
「風邪をうつしたほうが、もっと怒られるに決まってるじゃないですか」
少女が呆れている。
ほら、立って、と、彼女は俺の肩に手を貸して、立ち上がらせる。
そのまま、俺のベッドまで運んでくれた。
「ご飯、食べたんですか?」
「食べて、ない」
「ポカリとか……ないですね……ちょっと待っててください。あ、その間に着替えてくださいね」
台所、汚い! とかいう声が聞こえる。
そういえば、まったく掃除も何もしていなかったな……なんて思い返す。コンビニ弁当とカップ麺の残骸が、うず高く積もれていたはずだ。
しんどい……でも行かないといけない。
俺は何とか立ち上がり、ふらふらとした足取りで玄関へと向かう。
玄関が開いて、目を丸くさせたツインテールの少女が現れた。
「何やってるんですか!?」
「仕事にいかないと……」
「だから、そのままだと迷惑が掛かりますから。というか、危ないですよ」
少女はお盆を持っていて、そこには小さな土鍋があった。蓋の小さな穴から、湯気がのぼっている。
……確かに、このままだと、危なそうだ。最悪、少女にぶつかって火傷させてしまうかもしれない。
「とにかく、今日はお休みにしてもらってください。会社の人だって、そんな体で働いてもらっても、迷惑なだけですよ」
――迷惑。
その言葉が、俺には一番堪える。
俺は回れ右をして、リビングへと向かう。
食卓の上に、彼女は土鍋が乗ったお盆を置く。
「おかゆです。作ってきました」
蓋を少女が開くと、もうもうとした湯気が立ち上る。白色の世界に、黄色い雲が乗ってある。
……温かな米の匂い。
俺は、蓮華を手に取り、口に運んだ。
「あっっつ――!」
想像以上に熱かった。舌と喉。両方が悲鳴を上げている。
「何やってるんですか!」
少女が、コップに水を入れてくれて、それをがぶ飲みし――
「ごほっ、げほ……ごほ……」
思いっきりむせてしまい、床に飲んだ水を吐いてしまった。
少女はため息をついて、蓮華でそのおかゆを掬い、息を当てる。
「はい」
とそれを俺に差し出した。
「え……」
「食欲ないですか?」
「いや……」
「食べないと、治りませんよ?」
蓮華を突き出されて、俺は口を開けた。
柔らかなコメの感触をゆっくりと咀嚼する。卵の優しい風味と、ほのかな塩味が口全体に広がっていく。
「美味しい……」
なんだか、久々に人間のご飯を食べている気がする。
俺が喉に流し込むと、彼女はまた、蓮華でおかゆを掬い取り、ふーと息を当てた。
「はい、どうぞ」
「……」
俺は、これが夢ではないかと疑うようになっていた。
こんなに優しい人間が、いるわけがないのだ。
もしくは、熱のせいで見える幻覚だ。
でなければ、こんな摩訶不思議なことがあるわけがない。
そうか、夢か。夢なんだ。
……ということは、このまま眠っていても良いわけだ。そういえば、スマホのアラームが鳴っていない。なんだ、そうだったのか。おかしいと思ったんだ。
少女が、俺の額に手を当てる。ひんやりとして、冷たい。
「……うーん、救急車呼んだ方が良いですか?」
「大丈夫……」
「お兄さん、さっきから全然大丈夫じゃないでしょ」
体のだるさも手伝って、俺は再びうとうととしている。夢の中で眠るのか? という微かな疑問が浮かんでくる。いや、実際眠いし。
「だいじょうぶ……」
「ほら、眠るなら着替えてください」
少女の肩を貸してもらって、俺は自分の部屋へと移動する。
ネクタイを取り、スーツを脱いで、スラックスを下ろす。
少女がそれらをハンガーにかけていくのを俺はベッドから見ている。
「ポカリも置いておきますから、ちゃんと水分補給してくださいね。濡れたタオル、頭の上にのっけておきます。苦しくないですか?」
「うん……」
ベッドに横になって、まどろみの中、彼女はランドセルをよいしょ、と背負ったのが見えた。
今日の夢はなかなかカオスだな……そんなことを思いながら、俺は意識を失うように眠りについた。