第二十八話 ミルクココアとビスケット
その翌日の夕方、ランドセルを背負った静葉ちゃんがやってきた。
美菜ちゃんを連れてではない。
一人でだ。どうやら、学校帰りらしい。
「どうしたの? 美菜ちゃんは?」
俺が疑問を呈すと、彼女は目を反らしつつ、告げた。
「あ、あの、この前の、お礼を、ずっとしたくて、です」
「お礼? 何の?」
「あの、えっと、こわい人から守ってくれました」
「……ああ」
あの週刊誌記者のことか。
俺が何をしたということもないんだけど。
彼女はずっと目を伏せていて、もじもじしている。
「えっと、で、美菜ちゃんは? 一人で来たの?」
「あ、は、はい」
とりあえず、寒い。
要件を早く言ってほしいが、彼女は黙ったままだ。
仕方なく、俺は提案した。
「中に入る? ココアくらいなら、ご馳走するけど」
「あ、えと……」
少し迷って、静葉ちゃんは、「は、はい」と答えた。
暖房のお陰で、リビングは暖まっている。
静葉ちゃんはランドセルを下ろして、こたつへと足を入れた。
「寒くない?」
という俺の問いかけに、彼女は「大丈夫です」とだけ答えた。
コンロに火をかけて、やかんでお湯を沸かす。
「風邪、大丈夫ですか?」
静葉ちゃんが尋ねてくる。
「……美菜ちゃんから聞いたの?」
「あ、はい」
「情けないよね。鍛えるために、ジョギング始めたんだけど、逆に体を壊すなんてさ」
自嘲気味に言うと、彼女は否定してきた。
「いえ! そんなことないです!」
「あ、そ、そう?」
ここは少しばかり笑いが起こるかと思ったのに、彼女が全力で否定するので、俺は言葉に詰まってしまった。
……間が持たない。
しばらく、気まずい空気が流れる。
お湯が沸き、やることが出来て、俺は安堵のため息を吐く。
ココアと言っても、インスタント……インスタントでないココアって、どうやって作るんだろう?
などと思いながら、俺は二つのカップにお湯を注ぐ。
「はいこれ。熱いから気を付けて」
静葉ちゃんは、両手でカップを持って、ふーと息を吹きかける。
ちびりとカップを傾けて、笑顔を俺に向けた。
「美味しいです」
「そう? 良かった」
お菓子は、この前ハルナちゃんが買ってきたのがまだある。
個々に包装にされているもので、ビスケットやクッキーなんかをお皿に適当に入れて、コタツの上に置いた。
「適当に食べていいよ」
「ありがとうございます」
テレビをつける。
画面の右上の時刻は、夕方五時を回っていた。
今の時間は、ローカルの地方番組くらいしかやっていない。
アニメとか、そういうのはもう少し後だ。
「そういえば、家は大丈夫なの? ちょっと遅い時間だけど」
「あ、門限は六時なんで……それに、携帯、ありますんで」
と、彼女は白色のガラケーを見せた。
「この前の事件で、持たせてくれたんです……これで、いつでもお母さんと連絡が取れますから」
「そうなんだ。でも、あんまり遅い時間は……あ、そうだ。帰りは、俺が送っていくよ」
ぶんぶんと静葉ちゃんは首を勢い良く振った。
「いえ、結構です!」
え、ええ!?
全力で拒否られた。
「そ、そう? は、はは……」
何とか取り繕う俺。
……彼女に何か、失礼なことをしでかしたのか? いつの間にか?
俺が落ち込んでいると、彼女は慌てて否定してきた。
「あ、ち、違います。そういうことじゃ、なくて。い、いっちゃんに悪いから」
「美菜ちゃんに? 何が? むしろ、彼女は風邪だろうとお構いなしに送って行けと言いそうだけど」
「えと、ここに来たのも、いっちゃんに許可を得てないんです」
「いや……別に俺の部屋に来るのに、美菜ちゃんの許可はいらないよ?」
「でも、悪いんです」
本当に、悪いと思っているようだった。
うーん……美菜ちゃん、ああ見えてSっ気があるみたいだから、学校では女王様みたいになっているんだろうか?
『そんなわけないじゃないですか』
なんて言葉が、脳内に響く……俺は、完全に躾けられているようだ。
「……隼人さん、あの、これ」
と、彼女の可愛らしいキャラクター財布から出されたのは、二枚のチケットだった。映画の前売り券だ。
「この前のお礼です」
「う、うん。ありがとう……?」
『迷探偵犬ジュピターの冒険』……というタイトル。どうやら、動物モノらしい。
「いっちゃん、映画、好きなんです」
「そうなんだ。それは知らなかった」
「ですので、お二人で、どうぞ」
「いや……」
何で?
と俺が疑問に思っていると、当の美菜ちゃんから電話がかかってきた。
『もしもし? 起きてますか?』
「うん」
『ご飯、食べれそうです?』
「平気だよ」
正直なところ、おかゆやうどんはもう食べたくないので、俺はそう答えた。
『今日はお鍋にします』
「いいね。寒いし……あ、今ここに静葉ちゃんがきてるんだけど」
『しずちゃんが?』
訝しんだ声がスマホ越しに聞こえてくる。
『何の用で?』
「前、俺が助けたお礼に……映画の前売り券をくれた」
『そうなんですか? 良かったじゃないですか』
「いや、でも、美菜ちゃんも一緒にって言ってるんだ」
『はあ? 何でですか?』
「いや、それが、分からないんだ」
『ちょっとシズちゃんに代わっていただけますか?』
「静葉ちゃん」
俺が彼女を呼ぶと、バツが悪そうな顔をしていた。
「――どうしたの?」
「なんでも……」
「……? 美菜ちゃんが、代わってくれって」
俺がスマホを渡すと、彼女は震える手でそれを受け取った。寒いのかな?
「もしもし? いっちゃん? ――うん。お、お礼、だから……そうだけど……でも……わ、私は良いよ! 悪いし、お礼、だから……え? うん……あの、隼人さんに代わってくれって」
話が済んだらしい。
俺がスマホを耳に当てると、美菜ちゃんは呆れた声をしている。
『しずちゃん、やっぱり私が一之瀬さんを好きだと思っているみたいなんです』
あー……そういうことか。
何で俺と美菜ちゃんが二人でかと思った。
静葉ちゃんはちょっとそういう思い込みが激しい所があるみたいだということを、今更思い出す。
『この映画、シズちゃんも見たがってたんです』
「そうなんだ」
『このままだと、シズちゃんが見れなくなりますんで、一之瀬さん、今度の土曜日、私たちと付き合ってくれませんか?』
「いいよ」
そんなことくらい、お安い御用だ。
『分かっていると思いますけど、しずちゃん、帰る時に送ってくださいね』
ほら言った。
「
「そっちは、どう? あのい」
飯沼さん、と言いかけて、俺は慌てて言い直した。
ここには事情を知らない、静葉ちゃんがいるのだ。
「あ、あ、怪しい人! いないかな? 前、あんなことあったばかりだから!」
『――大丈夫ですよ。それらしい人は、見当たりません』
飯沼さんは、あれ以来姿を見かけなかった。
もう諦めたんじゃないのかと思うが、それでも油断は禁物だ。
美菜ちゃんを、守らないといけない。
絶対に。
「静葉ちゃんを送った後、美菜ちゃんの迎えに行こうか?」
『結構です。そのほうが、帰りが遅くなるじゃないですか』
もっともだ。
美菜ちゃんの通話が切れて、様子を見守っていた静葉ちゃんに俺は告げた。
「静葉ちゃんも、映画を見に来なよ。俺の分は、俺が出すから」
「え? な、なんで? お二人で、って」
「でも、静葉ちゃんも見たかったんでしょ?」
「私は、べつに……」
「あ、俺が邪魔なら、なるべく視界に入らないようにするんで……」
「隼人さんは邪魔なんかじゃないです」
「美菜ちゃんも、静葉ちゃんと行きたいみたいだし」
「……」
そこで、静葉ちゃんは観念したように首肯した。
静葉ちゃんを送る際、彼女はずっと沈黙したままだった。
俺が話を振っても、ずっとうつむいたままで、「は、はい」「そ、そうですね」などという言葉しか言わなかったのだ。
……やっぱり、嫌われている。
失敗したなあ……やっぱり俺が映画に付いていくの、止めた方が良いんじゃないのか?
でも、やっぱり、美菜ちゃんが街中をうろうろするんだから、俺もついていきたいんだよなあ。
などと考え込んでいると、彼女の暮らすマンションの前まで来た。
静葉ちゃんは走って、くるりとこちらを向いた。
「隼人さん、それじゃ、また」
笑顔だ。
俺は呆気に取られて、しばらく言葉を失う。
「あ、うん――また」
俺の言葉を待たずに、彼女はランドセルを揺らしながら駆けだしていた。
なんなんだ? 不機嫌だったり、今みたいに笑顔を向けたり……
静葉ちゃんが俺には分からない。
次回、『かつ丼セット(うどん、香の物)』の前半部分。
明日朝九時に投稿です。




