第二十七話 生姜湯(蜂蜜入り)
12月の朝五時。
寒いというより、痛い。
高校時代に履いていたジャージの上下では、全然心もとない装備だった。
「さ、寒い……」
がたがたとマンションの入り口で、俺は立ちすくんでしまった。
この日も出ていない暗黒の世界で、、俺はジョギングをする気だったのだ。
何で?
あほか?
無理だ。今すぐにこたつに入って、甘いミルクココアで体を温めたい欲求に駆られる。
ぐ……! いやいや。ちょっと待て。
こ、ここで戻ってしまったら、何のために起きたのかわからないぞ、俺!
薄弱な意志力を、どうにか奮い立たせて、俺はそろそろと走り出した。
動けば暖かくなる……とか、生ぬるいことを言ってられない寒さだった。
俺がこんなことをしているのは、ひとえに自分を鍛えなおすためだ。
あの週刊誌記者の時から始まって、ずっと自分の無力さを痛感していた。
だからって走る、というのはかなり安直だと思ったのだが、とにかく、やれることからやろうと心に決めていた。
「はあ……はあ……はあ……」
走ることなんて、高校以来だ。
やっぱり、動き出すと体もあったまる……まえに、苦しい。
「はあ……はあ……気持ち悪……」
目標としていた公園のベンチで、俺はへたりこんだ。
最悪だ……
どんだけ体力がないんだ。
息を整えていると、ぶるぶると体が震えてきた。
汗をかいたせいで、より一層冷えてしまった。
「はっくしょん!」
その結果――俺はがっつり風邪をひいてしまった。
「……何やってるんですか」
夕方。
美菜ちゃんに今日は買い物に付き合えないという旨のメールをしたら、心配してやってきてくれたのだった。
美菜ちゃんの手には体温計があり、その数字を見て呆れているようだった。
「……」
喉が痛くて、喋れない。
また世話になって、ごめんなさいを言う気だった。
彼女はため息を吐き、台所へと向かった。
「生姜湯です。蜂蜜も入っているので、のどにも良いですよ」
湯呑に入っていたのは、白濁した液体だった。中にレモンをスライスしたものが入っていて、湯気が立っている。
「……」
ありがとう。が言えない。
情けない。
ため息すらつけなかった。
「いいですから。飲めますか? 熱いですよ」
ふー、ふー、と冷ましてから、ちびりと口に含む。
……あたたかい。お腹から、じんわりと伝わってくる。
「夕ご飯は、おかゆにします。ポカリも飲んでください。宿題、やってからまた様子を見に来ますんで……首にタオル巻いて、靴下履いて、あったかい恰好で寝てくださいよ?」
俺がこくりと頷くと、「本当に分かってるんですか?」と訝しんだ目で見つつ、彼女は部屋を出た。
本当に彼女には世話になりっぱなしだ。
せめて、この風邪は速攻で治そう……俺は言われた通り、というか、体が暖かくなったからか、いつの間にか眠ってしまっていた。
『一之瀬! てめえ、また契約取れなかったのか!?』
――夢だ。
退社した会社の記憶。
なんだって自分の夢なのに、嫌なことばかりなんだ?
俺は頭を下げる。
申し訳ございません。
『○○学習支援会社? 聞いたことないわねえ、本当に効果があるの?』
『おい! 全然うちの子の成績があがんねーぞ!』
『騙してんじゃないでしょうね?』
『一之瀬! 契約とれよ! 何で取れねえんだ!? ああ!? 気合がたりねーぞ!』
俺を取り囲む大人の人たち。
俺は頭を下げて、謝罪をするのみだった。
『やめてください! なんですか! あなた方は!?』
そこに、女性の声。
俺は頭を上げる。
女性は、俺を取り囲む大人の人たちを追いはらった。
『一体、どういう理由でうちの子を怒っているんです? ことと次第によったら、ただじゃ置きませんよ!』
大人たちは舌打ちをして、その場を去っていった。
――だれだ、この人?
俺は疑問に思う。
うちの子って……親は父親しか知らないんだけど。
彼女が振り返る。
『大丈夫ですか? 一之瀬さん?』
栗色の髪をツインテールにして、意志の強そうな瞳が俺を見る。
何で美菜ちゃんが俺の夢に?
『何言ってるんですか? 母親に向かって』
いやいやいや。おかしいから。俺は二十二で、君は十歳だろう。
『だから何です?』
彼女は悪戯っぽく笑った。
『だって、一之瀬さんが神様に望んだんじゃないですか』
そこで俺は目が覚めた。
「はあ……はあ……」
息が荒い。
まるで全力疾走したみたいに、心臓がばくばく鳴っている。
「――そんなわけない」
そんなわけがないんだ。
自分の想像を笑った。
……汗が気持ち悪い。
アンダーシャツが汗びっしょりだ。
着替えをしよう。
パジャマを脱いで、パンツだけになる。
こんこん、とそこで部屋のドアが叩かれる。
「一之瀬さん? 起きてますか?」
美菜ちゃんだ。宿題が終わったらしい。
「ああ、うん。気分はだいぶいいよ」
部屋のドアが開かれる。
「でしたら、おかゆでもつく――」
彼女の言葉が止まり、目が丸くなり、顔が真っ赤に染まった。
「し、失礼しました!」
急いでドアを閉める美菜ちゃん。
な、なんだ?
俺はドアを開けて、彼女の様子を見る。
「美菜ちゃん?」
「きゃあ!」
女の子みたいな悲鳴を上げて、彼女は後ろを向いた。
「何考えてるんですか! 裸じゃないですか!」
「一応、パンツ履いてるけど」
「だから何です!? はやくパジャマ着てください!」
確か、一か月前くらいに風邪を引いた時、彼女は着替えを手伝ってくれた記憶があるんだけど。その時に、こんな反応しなかったはずだ。
「う、うん。ごめん」
「いいから、はやく!」
釈然としないまま、俺はパジャマへ着替えた。
「一之瀬さん……少しくらい、デリカシーを気にしてください」
まだ美菜ちゃんの顔は赤かった。
次回 第二十八話は、『ミルクココアとビスケット』。
明日朝9時に投稿予定です。




