第二十五話 回らないお寿司<2>
『なるほど。やっぱりそうでしたか』
俺の説明を聞いて、美菜ちゃんは納得した。
小学校では、昼休みに入っていたようだ。給食を食べた後、心配になって電話してきてくれたらしい。
「ど、どうにかなんないかな、美菜ちゃん?」
『どうにかって、何です?』
「だ、だって、このままだと……」
彼女は俺にとって、意外な言葉を言い放った。
『いいじゃないですか、このままで。何か不都合があるんですか?」
「……え?」
『ハルナさんは、どのみち東雲さんの所に行くしかありませんよ。生活レベルを落とせる人ではありません。一之瀬さんだって、ずっと面倒を見るわけにはいかないじゃないですか』
その言葉は、信じられない位に冷徹だった。
「……い、いや、でも」
『私も、その方が良いんです。このまま一之瀬さんの家に居座られれば、それだけ私が東雲さんの隠し子であることが、バレるリスクが高くなりますから……ハルナさんを一之瀬さんの所に繋ぎ止めたかったのは、彼女が危険な目にあうのが嫌だったからです』
何もかも、元通りになるだけですよ、と彼女は言った。
「俺だって、ハルナちゃんが家に帰った方が良いと思ってるよ。でも、それは、彼女が納得した形でないと、嫌なんだ」
『それは一之瀬さんの感傷の問題じゃないですか』
彼女は、またもや現実を突き付けてくる。
『みんな、理不尽なことの一つや二つを胸の内に秘めながら生活しています。私だってそうなんですから、ハルナさんも妥協を覚えないといけないのではないですか?』
「……」
『それとも、一之瀬さんは、私が隠し子であることが露見される確率が高い今のこの状況を、ずっと続けたいとお思いなんですか?』
はっきりと彼女は、ハルナちゃんが迷惑だと告げた。
「俺は……その……」
それに対して、俺は口ごもるだけだった。
やっぱり彼女は、強い。
どんな経験をしたら、小学生がこんなセリフを言えるんだ。
ハルナちゃんがここにいることで、美菜ちゃんに迷惑がかかる。……指摘されれば、当たり前のことだった。そんなこと、俺は考えもしなかった。
『……ハルナさんのことが好きなんですか? だから、東京に帰ってほしくないんですか?』
まったくそれは意外過ぎる言葉だ。
「いや、違うよ」
即座に否定できた。
そういうことじゃない。
『じゃあ、何です? 何が不都合があるんですか?』
「ここでの出来事を、悪い思い出にさせられようとしているのは、嫌じゃないか」
『……』
「おかしいよ、絶対に……美菜ちゃん、悔しくないの?」
悲しくなって、俺は鼻をすする。涙も出てきた。
少なくとも、美菜ちゃんは俺と同じ思いだと思っていたからだ。
呆れたのか、はあ、と美菜ちゃんがため息を吐き出したのがスマホ越しに聞こえた。
『分かりました。メールを送ります』
「メール?」
何のメールを送信するんだ?
『これによって、誤解は解かれると思います……ちょっと、私も、覚悟を決めました』
何の覚悟を決めたんだ?
俺が尋ねようとしたところで、スマホ越しにチャイムの音が聞こえてきた。
『すみません。昼休みが終わってしまうんで……とにかく、一之瀬さんはお座敷に戻ってください』
そこで通話が切れた。
……どういうことなんだろう?
美菜ちゃんはまだ小学校にいるはずだ。
彼女が、どうやって今この場に介入できるんだ?
不思議に思いながらも、言われたとおり、俺はお店へと戻り、お座敷へと入る。
ハルナちゃんが自分のスマホを凝視しているのが見えた。
東雲さんは、お寿司を食べている。
「すいません。遅くなりました」
俺が頭を下げて、自分の席へと着くと、ハルナちゃんが尋ねてきた。
「いっちー、知ってたの?」
ハルナちゃんの声が、心なしか震えていた。
「何を?」
「これ」
とスマホの画面を俺に見せる。
メール画面だ……えっと、『私、一之瀬美菜は、東雲渚の隠し子です』……はあ!?
「は、はあ!? な、何で!?」
あ、と俺は気が付いた。
美菜ちゃんが隠し子であることを隠さなくていいのなら、先ほど、何も言えなかったことが、言えるようになるのだ。
彼女の『誤解を解く』というのは、まさにそれだろう。
「知ってるんだ……」
「い、いや。まあ、その」
口ごもる俺に、見切りをつけて、東雲さんに鋭い目を彼女は向けた。
「本当なの? ママ!?」
「知りませんわ、そんなこと」
「じゃあ、このメールは何? ママの番号も、ここにあるわ。何でみなちんが知ってるの!?」
その本文のあとに、電話番号と一緒に『東雲渚の番号です。連絡を取り合っていました』とあった。
「……こちら側のことは、干渉しない子だと思っていたのだけど」
ふう、とため息を吐く東雲さん。
「本当なのね!?」
ハルナちゃんの顔が、鬼の形相に変わった。
「いっちーのマンションの住所も、十万円を借りてるってのも、みなちんから聞いたことだったんじゃないの?」
「そうよ? それがなに?」
あっさりと東雲さんは白状する。
「何でいっちーを陥れようとするのよ!? おかしいじゃない!」
「当たり前じゃない。これから、芸能界入りをするのだから。くだらない男と付き合うだなんて」
「それで、あたしが、いっちーと、会わないようにって……?」
ハルナちゃんが、俺の席にあるお寿司をひっつかんだ。
あ。
と思う間に、東雲さんに向かってそれを投げつけた。
おそらくは天然物の、最上級のタイであり、職人の手によって素晴らしい味になっているであろうそのお寿司は、東雲さんの顔面に当たってばらばらになってしまった。
「ちょ、ちょっと、ハルナちゃん!」
俺はハルナちゃんを羽交い締めにした。
「許せない! 離してよ! いっちー!」
「お、お寿司は食べるためにあるものだから! 投げるためじゃないから!」
ふう、と東雲さんはため息を吐き出し、俺の席にあるお寿司をひっつかんだ。
あ。
と思う間に、ハルナちゃんに向かってそれを投げつけた。
おそらくは荒波にもまれた最上級のマグロの大トロ部分、職人の手によって素晴らしい味になっているであろうそのお寿司は、ハルナちゃんの顔面に当たってばらばらになってしまった。
「ちょ、ちょっと、東雲さん!?」
俺の手から抜け出して、ハルナちゃんは手近にあったお寿司をひっつかみ、再び東雲さんにぶつけた。
それに対し、東雲さんも同じように寿司をひっつかみ、投げつける。
「バカ娘。わたくしの苦労を知らないくせに!」
「ママはいつもそう! ありえない!」
「最短距離をすすませようとしてあげようとしているだけだわ。何が不満なの!?」
「あたしが!」
最上級のイカが、
「そんなこと!」
最上級のホタテが、
「いつ頼んだのよ!」
最上級のサーモンが、東雲さんにぶち当たる。
「世間にもまれたことがない箱入りのバカ娘が、よくも生意気なことを言えますわね!?」
かっぱ巻きをむんずと掴んで、東雲さんが投げつける。散弾のようになってハルナちゃんを襲ってきた。
「親の金で食べさせてもらってるくせに!」
「……いーわよ! 出てってやる! あんな家!」
あわわわ。
美菜ちゃんのカミングアウトは、図らずも最悪のタイミングのようだった。
二人が距離を詰める。
ま、まずい。寿司がなくなったもんだから、直接的な暴力に訴える気のようだ。
「ちょ、ちょっと! 落ち着いて! 二人とも!」
酢飯とネタがはりついた二人を、どうにか止めに入ろうと間に割って入り――両方からビンタが飛んできた。
パシーン!
パシーン!
頬っぺたがとても痛い。
「さっきから邪魔しないでよ! いっちー!」
駄目だ。
とても俺が出て止められるような状態じゃない。
騒ぎを聞きつけて、お店の人たちがやってきた。
「な、何やってるんですか!」
しかし、それを聞いてもまだ二人はヒートアップしている。
口々に罵り、髪をひっつかみ、ビンタの応酬を行っている。
「警察を呼んでくれ!」
店主が悲鳴に近い声で叫んだ。
もう俺もそれしかないと思ったその時――渋い声が、遮った。
「いや、それは勘弁してくれないか」
お座敷に、ロマンスグレーのおじさんが現れた。
髭は整えられていて、労働者のような浅黒い肌をしている。
背が高く、顔はハンサムだ。すらりとした長身。いわゆる二枚目――その顔を、俺はどこかで……。
「パパ……!?」
パパ!?
あ……!
石渡健! 昭和を代表する銀幕のスターとして、テレビで何度も紹介されていた。俺でも知ってるくらい、有名な人。そして、長瀬瀬里奈の夫……つまり、ハルナちゃんのお父さんだ。
「久しぶりだね、ハルナ……渚も」
「ついでのようにおっしゃるの、止めて頂ける?」
そこで、ようやく、嵐のような母娘喧嘩が終わったのだった。




