第十一話 チョコレートサンデーとオレンジジュース
翌日の夕方。
俺は、会社の近くのファミレスに待機していた。
ここで、美菜ちゃんの帰りを待っているのだ。
「じゃあ、行ってきますんで」
彼女は学校帰りにここに直行してきたようで、ランドセルを俺に預けてから、その言葉だけで単身、俺の勤めていた会社へと向かった。
「や、やっぱりいいよ。その、ちょっと、情けないというか。そこまでしてくれるのは、さすがに」
という俺の制止の声を、彼女は尋ね返した。
「じゃあ、一之瀬さん、一緒に行きますか?」
無理です。
「こういうのは、早い方が良いに決まってます。会社にも迷惑がかかるじゃないですか。丁度、会社の人も私が妹と思っているみたいだし」
とだけ言って、彼女は颯爽と会社へと向かっていった。
その様は、まるでジャンヌダルクだ。女戦士だ。小さいのに、頼もしい背中である。
そして、当の俺はファミレスでチョコレートサンデーをつついている。
……さすがに情けなさすぎる。
「まだかな……」
ここから会社までは、5分くらい。往復十分。今、三十分が経過しようとしている。
何かがあったんじゃないかと心配になる。
まさか――俺の妹だからって、いじめられているとか。
いや、でも、そんなことって……や、やっぱり俺がいかないと駄目なんじゃないのか、ここは。
「よ、よし」
と、俺が何度目かの決意を新たにしたところで、「何やってるんですか?」と呆れた顔の美菜ちゃんが現れた。
「だ、大丈夫だった? 酷いことされたり」
「当たり前です。スラム街とかに行くんじゃないですから」
「で、でも、ちょっと遅かったし」
「――少し、話し込んでしまってですね」
そういって、俺の目の前に、彼女は俺の私物が入ったバッグと、厚みのある封筒をぽん、と置いた。
「……なにこれ?」
「お見舞金と退職金と、今月分の日割りのお給料みたいですよ」
退職金が出たってことは、円満に辞表できたのか?
でも、お見舞金ってなんだ?
「……結構、腹が立つ話なんですけど」
と、彼女は不機嫌な表情で、会社で話し込んでいたことを、教えてくれた。
「とりあえず、一之瀬さんの嫌疑はほとんど晴れているみたいです」
「え?」
そ、そうなのか?
あの社長の様子や社員の人たちの目は、そういう風に見えなかったけど。
「何故なのかというと――犯人はもう見つかりましたから。正確には、一之瀬さんよりもかなり疑わしい人が」
「へえ……そうだったのか」
日本の警察は優秀だというけど、本当なんだ。何はともあれよかった。
「誰だと思います?」
「さあ? 分からない」
「一之瀬さん以外の全社員です」
? い、今なんと?
「ふざけた話です」
と、彼女はむっつりとした表情で、オレンジジュースのストローを口に付けた。
「な、え、だ、だって……」
それに対し、俺はしどろもどろで言葉にならない。
そんなことあり得るか?
俺以外の全社員って。
「肝心の金庫には残っていなかったみたいですが、ドアノブや、社長室のいたるところに、指紋がべったり残っていたみたいです。一之瀬さん以外の、全員が」
「そんなの、だって、どういうことなのさ」
「話がちょっとややこしんですが……実は、お金を取られていたのは、隠した金庫から……脱税したお金からだったんですよ」
「だ、脱税だって?」
「はい。それを知っていた社員の人たちは、バレても社長さんは泣き寝入りするしかないと踏んで、毎日のようにつまんでいたようです……コンビニ感覚で。それで、指紋を残すようなヘマをしてしまったと」
情報が一気に頭の中に入ってしまって、混乱する。
「一之瀬さんを犯人に仕立て上げたのは――私の推理なんですが――社員の人たちは、一之瀬さんも、お金をつまんでいると思ったからです」
「俺はやってないよ!?」
ざわり……
俺の大声に、ファミレスの店内が一瞬静まり返る。
「あ、あ、す、すいません」
俺が頭を下げた後に、ウェイトレスが慌ててやってくる。
「お客様、他のお客様の迷惑になりますので……」
「す、すいません」
俺はウェイトレスにも頭を下げる。
そのウェイトレスが去った後、俺は小声で彼女に尋ねた。
「どういうことなの?」
「『社長室に隠し金庫がある』という情報は、全社員が共有しているくらいには知れ渡っていたようです。だから、一之瀬さんも、当然、それを知っていて、お金を横領していると思いこんでしまった」
「そんな……」
「そして、彼らは、一之瀬さん一人に罪を押し付けようとした……それで、警察の捜査が打ち切りになるだろうと予想したのです。ですが、実際は一之瀬さんの指紋は社長室にはなくて、その当ては外れてしまったわけですけどね」
「……」
ショックな話だった。
「勿論、これは私の推理ですし、本当のことは違うかもしれませんが」
「なんだって、そんな……馬鹿な真似を……」
実際、信じられない。
あの陽気な同僚や、いつも怒っている上司、小言を言う先輩に、呑むと面倒くさい後輩すべてが――お金を盗んでいたなんて。
「“皆がやっているから”という心理も、脱税したお金というのもあると思います。どちらにせよ、社員の人たちの指紋は残っていたわけですから、捕まるのは時間の問題でした」
ずずーっとオレンジジュースを音を立てて飲みほして、彼女は俺に言った。
「一之瀬さん、私、少し、いえ、けっこう……かなり、怒っています」
「う、うん。あ、ありがとう?」
なんだか不穏な空気を感じながら、俺が謝礼を述べる。
「聞けば、その疑惑の目が向けられた時、社長さんが一之瀬さんを殴ったとか」
言われて思い出した。
色々ありすぎて、今まで忘れていた。
「勿論、警察の人がそばにいたので、すぐに現行犯逮捕されていて、脱税の疑惑もあって勾留されているみたいです」
「そうなんだ」
それは気が付かなかった。バタバタしていたからなあ。
「一之瀬さん、腹が立ちませんか? 衆人環視の前で、まだ加害者と確定していないのに、殴ってきたんですよ? そのために、一之瀬さんは精神的外傷も受けています」
「それは言い過ぎだよ」
「何言ってるんですか。一之瀬さんは会社に行くことも出来なくなったのに」
「――う、ま、まあ。でもそれだけじゃないから。俺が臆病なのもあるし」
「一之瀬さん、裁判、やりましょうよ」
小学生とは思えない発言で、俺はむせてしまった。
「ごほっごほっ……ごほっ!」
チョコレートサンデーのスポンジ部分が、テーブルに飛び散る。
美菜ちゃんは呆れた顔をしながら、それらを布巾でぬぐい取った。
「だって許せないじゃないですか。謝罪して済むことじゃないと思いますよ、これ」
「確かに、悔しい思いはあるけど」
「じゃあ、やりましょうよ。というか、私、対面した社長の奥さんに言ってあげましたから」
「何を?」
美菜ちゃんはお冷の中の水を指に付けて、両目に塗った。きらきらと光る目で俺を睨んでくる。
「こんなはした金で許されると思ってるんですか? お兄ちゃん、あの日からずっとご飯も食べてなくて……絶対に許しませんから」
「――」
俺が絶句していると、にこり、と笑う美菜ちゃん。
「我ながら迫真の演技でしたよ。社長の奥さん、平謝りでした。きっとそれを伝えられた旦那さんは、今頃檻の中で震えていることでしょう」
……俺は、絶対にこの子の敵にはならない。そう心に決めた。
というか、美菜ちゃん、少しSっ気があるのかもしれない。
「ただの暴行罪じゃないですから、訴えれば、結構なお金を取れると思うんです。取られなくても、やりましょうよ。一泡吹かせないと、一之瀬さんも腹の虫がおさまらないでしょう? それに、一之瀬さんを犯人に仕立てようとした人たちも、訴えてやりましょう」
「いや、そういうのは、別に」
「……はあ?」
目を瞬かせる美菜ちゃん。そして、その凛とした瞳を俺に向けてくる。
「何故ですか?」
怒りの矛先も俺に向いた。
「えっと、いや、ほら。その、俺が疑われなかったら、別にもう良いというか」
「じゃあ、一之瀬さん、殴られて、そのままなんですか? あんなに、傷ついたのに、ですよ? 許せちゃうんですか?」
傷ついた……そうだけれども。
「許したわけじゃないけど」
「じゃあ……」
「正直、もう関わり合いになりたくないというのが、本音なんだ」
「……」
美菜ちゃんは目を瞬かせ、むすーとした顔でオレンジジュースを飲み干した。
「一之瀬さんが良いというのなら、私から言うことはありません」
全然納得していない表情でそれを言うんだ。
と心で思っていても、俺は口には出さない。
「社長の奥さんには……俺が後日に連絡する」
「できるんですか?」
「やるよ。さすがに――これ以上、君に迷惑をかけたくないし」
「別に、迷惑なんて」
「でも、本当にありがとう。美菜ちゃん」
俺は、テーブルに頭をこすりつけて、彼女に謝意を示した。
「君のお陰で、助かった」
「……どうも」
「だから、何かお礼をしたいんだけど」
「一之瀬さん、いいですから、その、そろそろ頭を上げましょうよ」
「いや、本当、何でもいいから、欲しいものを言ってほしんだ!」
「ちょ……」
ざわ……ざわ……
なに?
ロリコン?
事案発生か?
「~~っ、か、帰ります! 一之瀬さん!」
美菜ちゃんが席を立ちあがる。
俺は慌ててその後を追う。
会計を済ませて外へ出ると、彼女は早歩きでずんずんと先に向かっているのが目に映った。
「ちょっと! 美菜ちゃん!」
俺が駆けだして、彼女を呼び止める。
だが彼女は、俺の声を聞いてより一層歩みを速めた。
「いや、ランドセル! ランドセル忘れてるから!」
俺の声が届いたのか、ぴたりと足が止まり、回れ右をして、ずんずんと歩いてきた。
栗色のツインテールが揺れる。
その顔は夕日に照らされて、赤い。
「ああいうの、やめてください」
俺からランドセルを受け取る。
「ごめん。でも、本当に――」
「分かりました。分かりましたから……まったくもう。本当に大人なんですか? 一之瀬さんって。ちょっと、空気読めなさすぎです」




