第十話 ハンバーグとオムライス<3>
その日から――警察署から帰ったその日から、俺は部屋の中で引きこもった。
布団をかぶり、出勤時間になっても布団をかぶって起きなかった。
だって……怖いじゃないか。
『あいつ、金盗んだくせに、よくもまあ来れるもんだ』
『いつかやるやつだとは思っていた』
『最低最悪だ。あいつのせいで、ノルマが厳しくなるんだぜ?』
『おい、一之瀬! てめえ、こんな件数で足りると思ってんのか! この泥棒野郎!』
目を瞑ると、先輩や後輩や同僚、そして上司の顔がぐるぐると俺を罵倒する。
勿論、誓って、俺は泥棒なんてしていない。
でも、皆は信じてはくれない――あの日、社長に殴られた日に、それは判明していた。
会社からは何度も着信があった。
俺はそのまま、放置する。
インターホンが鳴る。
出ない。
居留守を決め込む。
……こんなことをしていたら、ますます疑われることになるんだろうけど。出ない。
三日が経った。
あれから、警察からは連絡がない。
こうしている間にも、着々と捜査が進展しているのだろう。
……いっそのこと、俺が犯人です、といってやろうかという妄想がよぎる。
それで刑務所に収監されれば、皆に会うこともない……こんな気持ちになることはなくなる。
「お腹が減ったな……」
ご飯を買いに行こう。
外へ出るために、俺は厚手のコートを着込み、マスクをし、帽子をかぶり、サングラスをはめた。
これならば、俺が誰だかは分からないだろう。
コンビニで弁当を買いに行くのに、俺はこの三日間ずっとこの格好をしていた。
もし、会社の人に見られたらと考えると……ぞっとする。
「よし」
と、玄関を開けたその時。
「……なにやってるんですか、一之瀬さん」
インターホンを押そうと手を伸ばしている美菜ちゃんがそこにいた。
「人違い、人違い」
俺はぶんぶんと首を振るが、美菜ちゃんは呆れた声を出すだけだった。
「一之瀬さんの家から出てきた人が、一之瀬さんじゃなかったら誰なんです?」
「実は俺にはそっくりな兄弟がいるんだ」
「世話を焼かせないでください」
俺の言い訳を無視して、はい、と彼女はビニール袋を俺に渡してくる。
「これ、イワシの南蛮漬けです。一之瀬さんが部屋から出てくれないから、作ることになってしまったんで」
「あ、いや、それは、その……」
「何でインターホンを押したのに、出てくれないんです?」
「あ、いや! その、色々、色々あってさ」
彼女のことなんか、すっかり頭からすっぽ抜けてしまっていた。
せめて、玄関にいる人が何者なのかを見るべきだった。
「で、一之瀬さんが勤めている会社の人から、話をしたい、と伝言を頼まれました」
「え? 何で美菜ちゃんに?」
「同じ苗字ですから、部屋を間違えたんでしょう。違います、と言ったんですけど、信じてくれませんでした。私を、妹と勘違いしたみたいです」
「そうなんだ……ははは……迷惑をかけたみたいだ」
「別に、迷惑なんて……いいですけど。一之瀬さん、会社には行った方がいいんじゃないですか?」
「……」
俺が沈黙したのを見て、美菜ちゃんは不審がった。
「もしかして、苛められてるんですか?」
「い、いや、そんなことないよ」
「……」
美菜ちゃんはふう、とため息をついて、「ちょっと待っててください」と自分の部屋へと入って行った。
しばらくしてから、インターホンが鳴る。
「これ、どうぞ」
と、お盆に乗ってやってきたのは、オムライスとハンバーグだった。
「ハンバーグは冷凍の物で、オムライスの中身も冷凍チキンライスを温めた物で、ちょっと申し訳ないですけど……私も落ち込んだ時は好きな物食べてるんで」
「……」
「一之瀬さん?」
俺は、涙をこぼしていた。
死ぬほど情けなくて……何でこんなに彼女は優しいんだろう? だからこそ、泣くことしかできなかった。
「ごめん……ありがとう」
ずっと鼻水を奥に押し込んで、俺は涙をぬぐう。
「その……」
と、美菜ちゃんは何かを言いかけて、ため息をついて、俺に提案してきた。
「会社の愚痴なら、聞きますけど? この前のビール、この買い物袋の中にありますよ?」
「――いや、その」
「もしかしたら、力になれるかもしれないじゃないですか」
「……うん」
彼女になら、話してもいいかもしれない。
俺は、三日前の出来事を話した。
泥棒として疑われていること。
警察署に行ったこと。
彼女を部屋に入れて、彼女の作ったご飯を食べながら。
「でも、一之瀬さんは、泥棒じゃないんですよね?」
オムライスを食べている俺に、彼女は尋ねる。その言葉が、すごくうれしかった。
「うん」
「じゃあ、堂々と出社すればいいだけじゃないですか」
「無理だよ。俺には」
そりゃ、胸を張って出社すればいいと思うかもしれない。
だって、悪いことしていないんだから。
でも、俺には無理だ。皆の懐疑の目が怖すぎる。仕事だって、まともにできはしないだろう。
「……じゃあ、どうするんですか?」
「考えたんだけど……事件が解決するまでは、大人しくしておこうかなと」
「クビになりますよ」
「だよね……」
いや、もうなっている可能性もある。
話をしたいというのは、そういった話をしたいのかもしれない。
「じゃあ別の仕事を探した方が建設的です。辞めた方が良いですよ」
「でも……そんなの、会社の人が、『やっぱり、身に覚えがあるからやめるんだ』とか思われるし」
「辞めるのですから、関係なくなりますよ。何を思われたって平気じゃないですか。一之瀬さんが、犯人じゃないんでしょう?」
「う……ん」
そう言われれば、確かにそうだ。
でも、他の仕事が俺にできるのか……という不安がある。せっかく、仕事を覚え始めたというのに。
今からあんな地獄のような面接を繰り返し、お祈りメールを待つような苦行は、やりたくなかった。
でも、今の状況よりは、確かにマシだ。
「け、けど、辞表届を会社に出さないといけないし、私物とかも、持って帰らなきゃ……ど、どちらにせよ、会社に行かないといけないんだ」
「やればいいじゃないですか」
「……」
会社の人間とは、もう絶対に会いたくない。
能力的なことで蔑まれるのはいい。それは俺が悪いからだ。
でも、俺が悪くなくて蔑まれるのは、堪えられないのだ。
反論をしても、信じてはくれない。それが容易に想像できる。
そして、一度人間関係にヒビが入れば、殆どの場合修復不可能だ。二度と、同じような関係性を持てないだろう。
美菜ちゃんは、呆れて、ため息をついて、「分かりました」ととんでもないことを口にした。
「私が、一之瀬さんの会社に行って、辞表届を出してきます」




