眼(まなこ)
ここにある男がいた。その男は、毎朝起きてから顔を洗うのが憂鬱でならなかった。それは、いやでも鏡を見ない訳にはいかないからである。
彼は自分の顔に酷くコンプレックスを持っていた。中心から大分離れているうえにつり上がった眼がその原因だった。
その為に子供の頃から友達からもからかわれたりもしたし、大人となった今でも道ですれ違う人々の顔つきが一瞬変わる気がするのだ。それが自分に向けられたものであると思うと耐え難くなった。
顔を洗い終えると、眼鏡を手に取り顔に掛けた。すると一層に自分の顔がはっきりと見える。この眼鏡も市販されているフレームでは焦点が合わないので、特別注文した代物であった。
「どうして、こんな顔に生まれたのか……」
そう呟くと深く溜息をつくのが毎日の日課のようになっていた。
そうして、憂鬱な気持ちのまま、会社に行く準備に取り掛かるのだった。本音は誰とも顔を合わせたくないが、生活して行く為には働かなくてはならない。家を出ると視線を下に落とした格好で駅へ道のりを急いだ。少しでも人と目線を合わせたく無いという心理がそうさせたのだ。
だが、俯いて歩けば背筋も曲がり、逆にすれ違う人々には不自然に映り、かえって浴びなくても良い視線を向けられていることに男は気付かずにいた。
ある日の夜のことだった。
「もうこんな日々はうんざりだ。いっそ目が見えなければ、人の視線を気にすることも無くなるのに……」
男は、自分の眼を手で確認するように触りながら呟き、涙を流した。そして布団を頭から被って寝てしまった。
次の日の朝、男はまた憂鬱な気持ちで目覚め、いつものように顔を洗いに行った。無造作に顔を洗い、ふと鏡を見ようとして驚いた。なんと、そこに自分が写っていなかったのである。何度も鏡を覗き込むが、自分は見えずに後ろの壁が写っているだけだった。
暫し茫然としていた男だったが、出社する時間であることを告げる腕時計のアラームが鳴り、我に返った。とりあえず、会社に行かなくてはと思い急いで身支度を済ませ、家を飛び出た。
周りの風景や人は自分から見ることはできた。だが、自分が他の人に見えているのかと、不安に駆られた男の行動はいつもとは違っていた。普段ならなるべく他人と眼が合わないようにと俯いているのだが、この日はまるで自分の存在を他人気づいて欲しげに、周囲をキョロキョロと見まわしていた。自分に気づけば、きっと怪訝な表情か好奇な視線を向けるに違いないと思ってのことだ。
だが、周囲の人たちは別に自分に対し、怪訝な表情も好奇な視線を投げかける者はいない。男は益々不安になった。
会社に到着し、自分の席に着いた時、一人の同僚が近づいてきた。男の心境は、存在に気付いてもらえないのでは、という不安が最大限に達した。
その時、同僚がポンと肩を叩くと
「どうしたんだ、今日はいつもと違って真っすぐと前を見て、随分と堂々としているな。いつもの自信のなさそうな君とは別人のようだよ」
そう言われて男は、他人から自分が見えていることを知って安心した。そして、しばらく考え込んだ後、こう思った。
《他人から見られることが怖かった自分が、見えなくなったらと思っただけで、こんなに不安になるとは……。それに、見えていたということは、自分が思っていたよりもずっと人は俺のことを特別に偏見の眼で見ていたわけではなかったのだ》
「どうしたんだ?」
黙り込んでいる男を心配した同僚が聞き返すと、
「なんでもないよ」
そう言って男は、同僚の眼を見て答えた。もう、以前のように視線を逸らすことなく。
男は休み時間にトイレに行き、鏡を覗いて見ると、そこには、いつもの自分の顔があった。朝、鏡を覗いたときに自分が映らなかったのは、きっと頭を垂れ、上目使いで見たために自分が鏡に入らなかったからなのかもしれない。
男にとって、そんなことはもうどうでも良いほど小さなことのように思えた。