それは転校生という名の、憐れな偶発的犠牲者 (5)
時間は少し経過して現在。
滑は購買部で新しく購入してきた紙コップ入りのルートビアをストローですすりつつ、一階廊下を保健室へ向かい、歩いていた。
十分ほど前、校舎裏で倒れている箍流と、潰れている鉄道を発見して保健室へ運び込んだその足で、である。
骨折やらの大事でなく、足首の捻挫程度だと思しき箍流のほうはともかく、コンクリート・ブロックの地面へとほぼ垂直に頭頂部から落下した(正確にはさせられた)鉄道の姿のせいで、そこはちょっとした死亡事故発生現場の様相を呈していたため、またしても蓮春が軽く発狂しかけたりもしたが、この件については今はさておこう。
ともかく、
危機感とか深刻さ、責任といった思考と感覚をお母さんのお腹の中に置いてきて生まれてきた滑は平常運転で保健室へと戻ってきた。
「すみません。お待たせしましたか?」
ドアを開け、呑気に言い終わりざま、紙コップへ挿されたストローを咥えて。
そんな滑を、並んだ二つのベッドに寝かされた箍流と鉄道を、傍らの椅子に座って看ていた蓮春は、最大級の侮慢と軽蔑も露わに見つめながら、
「……安定の人命軽視っぷりだな。怪我人二人もほっぽってジュース買いに行くとか、どういう神経だよお前は……」
毒づく気力も失せたように力無く問う。
「人命軽視とは、またひどい言われ方ですね。単に私の中での重要度がルートビアの次に人命なだけであって、別に人の命を軽く見たりはしてませんよ?」
「世間一般では、それを人命軽視って言うんだよ……」
「ちなみに今回のチョイスは基本に立ち返ってエンダーです。正直、ハイアーズにしようかとも考えていたので、かなり悩みました」
一般常識の欠落に加え、やはり人の話を聞いていない一方的な滑の答えに、しばし蓮春は眉間を押さえる。
すでに胃痛だけでなく、そこからくる吐き気によって催される頭痛にも苛まれて。
と、そんなタイミングに、
「まあまあハッチン、そう角立てるなって。ルートビアはスーチャンのガソリンなんだから仕方無えわな」
頭部をミイラ男かと見紛うばかりに包帯で巻かれた鉄道が、ベッドの上で上体を起こし、包帯の隙間から垣間見える笑顔も眩しく滑を擁護する言葉を挟んでくる。
「ハッチン……いや、どう考えても今一番腹立てるべきなのハッチンだぜ? その怪我だって滑に窓から落とされたのが原因なわけだし……なんで日に三度も自分を殺そうとした相手を笑って許せんのか、俺にゃ分からんよ……」
「だーから言ったっしょ? たかが女の子のイタズラ程度で俺はどうかなるほどヤワじゃないんよ。まあ運良くコンクリの柔らかいとこに落ちた幸運もあって助かったのは確かだけど、それを抜きにしたってどっちにしろ大の男が腹立てるほどのこっちゃねえわさ」
「……あー……なんか質問しようとしてる今の俺自身、自分の頭がイカレてないか心配になってきてんだけど、コンクリート・ブロックに柔らかいとこって具体的にはどういう条件で出来るの? 経年劣化? セメントが粗悪だったとか? それとあれ、敷設用のだから空洞コンクリート・ブロックじゃないからね? まんまセメントの塊だからね? ほぼ石だからね!?」
キリキリと痛みを増す胃のせいか、蓮春の問いかける声は徐々に大きくなっていったが、鉄道の態度に変化は無い。
いつも通り。
恐怖をすら覚えるほど、いつも通り。
のんびりとした様子を崩さない。
むしろ鉄道のほうが何故、蓮春がここまで感情を荒げているのかが分からないといった風で、キョトンとしているような印象さえ受ける。
「……もういい。そうだわな……テッチンが許すって言ってるもんを、俺がどうこう言うのも変な話か……まったく、人が良いなんてレベル通り越して聖人クラスだぜ? お前ってばさ……」
「多分、生まれる時代と場所が合っていたなら、間違い無くゴルゴダの丘で処刑されていただろうということですね。分かります」
「お前にゃ聞いてねえよ滑っ! 黙って買ってきたジュース飲んでろっっ!!」
「あ、でも鉄道君だと磔にされて槍で貫かれたくらいじゃ死なないかも……」
「だから物騒な話はやめろっての! もういい、この話は終わり! おしまいっ!!」
何故か中途に割り込んで勝手に危なっかしい話へ軌道修正した滑にした蓮春は叫んだ。
ひどくはあるが、普段と変わらぬパターンの会話。
普段ならこのまま終わるパターン。
のはずだった。が、
最後の叫びの後、蓮春は妙な違和感を覚え、自分を見つめたままでいる滑の顔を見返す。
憐れみ……が最も近いだろうか。
滑の瞳から伝わってくる感情。
同情、憐憫、そういった類の感情。
寸刻、蓮春はその表情の意味が分からず、ただ見つめ合うだけの時間が過ぎたが、
次の瞬間、理解する。
ガタンッ! と音を立て、つい今しがたまで薬棚の中を物色していた人物が、やにわに蓮春のほうへ振り向き、
「何も終わっちゃいねえっ! 何もっっ!!」
蓮春を突き刺すように指差し、そう吼え立てる姿を目にして。
燦輝鉄十字学園養護教諭。
俗に言うところの保健の先生。
名を、
伊刈乃欄房。
名前だけでは分かりづらいが、昨今でも少し珍しい男性の養護教諭。
スーツの上に白衣という恰好にも関わらず、はち切れんばかりに服の生地を張りつめさせるほどの巨大な筋肉で構築された鋼の肉体。
濃い焦げ茶色をした天然パーマの髪は、うっすらとウェービーで肩までの長さ。
生粋の日本人でありながらとても日本人とは思えない彫りの深い顔立ちをし、その造形を一言で表現するとすれば、まさしく(イタリアの種馬)といったところだろう。
さて、
実はそんな欄房には聞かせてはいけない言葉……すなわち、禁句がある。
(終わり)、もしくは(おしまい)。
詳しい事情は知られていないが、どうやらこの言葉は欄房の過去のトラウマを刺激してしまうらしく、これをうっかり当人の前で言ってしまった場合、
「俺にとってこの治療は今も続いてる! あんたが無理やり連れてきて、治すために必死で処置した! だが結局は治せなかったっ!!」
怒涛のように意味不明な長話を延々と聞かされることになってしまう。
「……見事に地雷を踏み抜きましたね蓮春君……油断大敵……と、今さら済んだことを言っても詮無いですが……」
さしもの滑でさえ、悲しげな顔をして溜め息をついてみせた。
それほどに、欄房への禁句を口にしてしまった後の状況は辟易以外の何物も与えてはくれないのである。
そうしている間も、欄房の一人語りは続いてゆく。
もちろん、人の話など一切聞かず。
「手頃道鉄道を覚えてますか? 保健室が好きなやつで、妙にウマが合ってよく話をしたんです……」
「え? あの、先生……俺は別に好きで保健室によく来てるわけじゃ……てか、先生と俺ってそんなによく話なんてしましたっけ?」
鉄道の質問も、当然無視して。
「そして俺は備品を取りに行った。その間に悲劇が起きた……2年D組には爆弾が仕掛けられてて……そいつは、でかい爆音と悲鳴が一緒んなって……」
「や、俺は窓から落ちたんすけど……まあ、うちのクラスに爆弾が仕掛けられてるってのは、比喩としてはあながち間違ってない……」
「こいつ泣きながら、『うちに帰りてえよ、うちに帰りてえ……』って……でも、こいつの足が……足が見つからねえんだ……」
「ちょっ、先生ってば、大丈夫ですか!? 足を怪我したのはタガリンで、俺は頭だったっしょ! 先生、自分で治療したのになんでそこらへん覚えてないんすか! つーか、足が見つからないとか怖すぎですからっ! そんな重症だったら保健室とかで済ませたりできないっすからっっ!!」
必死に会話を成立させようとする鉄道の行為を、滑も蓮春も哀色の目で見つめる。
話を聞かない。
自分一人で話をどんどん進めてゆく。
話している内容が明らかに事実と異なる。
こうしたところは滑とよく似ているが、欄房のそれは次元が違う。
滑ですらも負けを(何に対しての勝ち負けかはよく分からないが)認めるほどの人物。
それこそが伊刈乃欄房。
始めに誰が言い出したのか、この保健室を一部の教師・生徒らは揃ってこう呼ぶ。
(ランボウ イカリノ ホケンシツ)
2年D組とは違った理由での畏怖の対象。
そしてやがて、
永遠に続くかと思われた欄房の一人語りもついに終わりの時を迎え、いつものように彼はすすり泣きながら保健室の床へと崩れていった。
「助けてください大佐……俺は……どうすれば……教えてください……」
泣きじゃくりつつ、そうつぶやいて。
(……大佐って……誰? ねえ、誰!?)という、彼の独白を聞く羽目になった人間が必ず背負わされる疑問に、ゴリゴリと削られていく蓮春たちの正気度など構う素振りも無く。
注釈・「ランボー」はアメリカの小説家デビッド・マレル作の「一人だけの戦場」を原作として製作されたアクション映画。
主人公のシルヴェスター・スタローン演じるジョン・ランボーはベトナム帰還兵という設定で、戦場での体験と帰国後の反戦ムードに駆られた社会によって心に深い傷を負っています。
映画終盤、保安官事務所に立て籠もるも、外を警察や州軍に取り囲まれ、説得のため派遣されてきた元上官であるサミュエル・トラウトマン大佐に警察への投降を促された際、「もうこの戦争は終わったんだ! おしまいだ!!」と言われ、激昂してからの長回しのランボー独白シーンは映画ファンの間でも有名。
余談ながら、「イタリアの種馬」とはランボーを演じたスタローンが同じく出演した「ロッキー」における主役、ロッキー・バルボアのニックネーム。