それは大事件という名の、文字通りの大事件(5)
『攻撃は最大の防御』という言葉がある。
とにかく相手をさっさと倒してしまえば、そもそも守る必要が無くなるという、いかにも男の子的な考え方による戦いの真理である。
他にも『先手必勝』など、類似した言葉があるように、古来から先んずることが勝利の重要なファクターなのは確かだろう。
とはいえこの戦法、必ずしも万能なわけではない。
これまた昔からある話だが、どんなに優れた金言・格言にも、大抵その反対……対義語が存在する。
『腐っても鯛』には、『麒麟も老いては駑馬にも劣る』。
『君子危うきに近寄らず』には、『虎穴に入らずんば虎子を得ず』。
『好きこそ物の上手なれ』ときて、『下手の横好き』とあり、『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』ときたら『痘痕も笑窪』などといった具合で、まさしく枚挙に暇が無い。
ただし、誤解の無いよう補足すれば、別に対照的な表現があるからといって、何もそのどちらかが間違っているとか、どちらかだけが正しいとか、そういった話ではない。
要は状況・環境・立場の違いによって、適正な道も変わってくるということなのである。
事実、野蒜はそうした観点から、自身の戦闘スタイルを防衛主体とし、研鑽してきた。
はっきり言って客観的に見た場合、彼女の制限能力者、Restricterという立場は現実的に考えれば能力だけ限定して見たとしても間違い無く最弱の部類。もしくはそれ以下……まさに最弱そのものと断言してしまってもいい。
何故なら、理由は主にふたつ。
ひとつは、相手が(能力持ち)という前提がなければ何の旨みも無い能力である点。
ひとつは、相手の能力を使用不能にするという、明らかに防衛特化された能力にも係わらず、言い換えれば能力由来の攻撃以外には完全無防備な点。
特に、後者は致命的とすら言える。
野蒜は今まで接してきた状況や環境のせいか、または持ち合わせた能力の不便さからか、とてもリアリスティックな思考をする人間である。
その姿勢があったおかげで、彼女は今まで生き延びてこれたと言っても過言ではない。
自分は決して特別な存在ではないと、野蒜は冷静に己を分析してきた。だから生き長らえてこられた。
そこいらのフィクション作品に登場するような非常識にもほどがある幸運……というか、もはや運を数値化できるとしたらカンスト通り越して表示がバグってるぐらいのキャラクターたちと違い、自分には敵の撃った弾がのんびり決めポーズ取っていても勝手に逸れていったり、それでいてこちらの撃つ弾は狙いすら定めず、下手すりゃどう考えても明後日の方向に向かって撃っていてもバンバン的確に命中してゆくという、そんな都合の良い物理法則は発動しないのだと、極めて常識的に理解していたことが、野蒜を彼方のようなバケモノの傍でも今日まで生存しうる程度の強さまで導いてくれたのである。
実は生来、強弱の差こそあれ『能力持ち』の人間は決まって戦いというものに対し、恐ろしいほど現実的でシビアな思考傾向がある。
基本、自身の能力に驕らない。
能力は単にいくつもある手持ちの武器のひとつでしかない。
だから常に二の手、三の手を周到綿密と用意し、万事へ備えておく。
そういった思考傾向があるのだ。
実際、滑や彼方は能力を使わず、徒手空拳の状態でも充分すぎるほど強い。
ゆえに、彼方と(当人の希望ではないが仕方なく)係わっている野蒜にも、それなりの力が求められてしまうのは自然かつ必然の流れであった。
が、当然ながら野蒜は持ち合わせている能力以外、紛れも無い凡人である。
根本的な素養のレベルが、滑や彼方、さらに素手だという条件付なら数段、及ばないものの充分に規格外な箍流といった面子とは到底、比べられない。
大体、『とにかく先に一発、当てたもん勝ち』のようなロシアン・ルーレットまがいな戦い方をするには、野蒜は攻撃力という名の破壊力も、勇気という名の自殺願望も無い。
となると消去法に基づき、野蒜の選択すべき戦法は決まる。
専守防衛。
銃や爆弾、ミサイルなどまで防げるはずは無いが、如何に凡百の才でも鍛え上げればそれなり、高等なディフェンスを身に着けることはできる。
防御だけを考え、防御だけに徹し、防御のみを追求して、そのうえでたゆまぬ努力と精進を積んだとしたなら、という条件こそ付くが、それでも到達は可能なのである。
命懸けの野蒜を思えばこういう表現をするのもいささか心苦しいが、彼女の戦い方は詰まるところ、『弾を撃たずに、ひたすら避け続けるシューティングゲーム』のようなものと思っていただきたい。
『火力も無え、残機も無え、ボムとかハナから持っちゃいねえ』彼女にとっては悲しいかな、これが唯一選択可能で、最も生存率が高い戦法だった。それだけの話。
とはいうものの、前述したように野蒜はどこまでも凡人でしかない。
力任せにただ攻撃してくる相手でかつ、一般的な素手以上・銃火器未満までの破壊力と速度になら対応可能な領域へと到達している……とはいっても、それはあくまで相手がザコやモブくらいのレベルだったら多対一でも応戦できるが、規格外を相手では良いとこ、一対一が限界。
すなわち、箍流ひとりを相手でも野蒜としては手一杯であった。
なのに、
そこへ靡の乱入。
不意打ちであったとか、そんなことは関係無く、結果として初撃を避けきれずに首の皮、一枚で繋がるならぬ、首の皮、一枚を切られたことからもお分かりいただける通り、靡も規格外。
しかも実戦訓練を経てきたガッチガチのプロである。
同じ規格外でも、下から数えたほうが早い箍流より数段、滑や彼方に近い、バケモノの近似値。
そんなのが加勢してきた時点でもう野蒜の頭の中には走馬灯のように短かった今までの人生が駆け巡った。
さらに、彼方の性格上、興味の対象である滑以外の人間がいくら出てきたところで一切、助力は期待できない。
そうでなくとも、今回の喧嘩を正当化し、滑を引きずり出して無理にでも戦うためには、滑の到着以前に彼方が喧嘩へ加わるわけにはいかない。
最悪、滑との戦いを前に水を差される危険性が高まるのだから。
となれば、自分の欲望に忠実な彼方は絶対に動かない。動いてはくれない。
ではなくても日常、自分の興味の外へは関心こそいくばくかは抱くものの、決して積極的に介入してこない彼方のこと。もはやそうした流れは揺るがない。鉄板で見殺し確定。
彼女の性格を知っているだけにこの時、そんな近い未来のビジョンを見つつ、野蒜が味わった絶望感は大変なものであったろう。
しかし、
「いやあ、すごいね先生! 最初、どっから飛び出してきたんだか分からなかったよ!!」
「……え? あ、ええ……まあ、ね……」
「よっし、んじゃ次はまたあたしのターンッ! さっきはなんか透かされちゃったけど、今度こそ一発、どデカイの喰らわしてやるっっ!!」
「ちょっ……いや、箍流さん待って! 貴女の大振りな攻撃じゃあ、いくらやっても当たるわけ……」
「いくぞオラアァアァァァッッ!!」
一瞬の隙が生死を分ける状況下。
にもかかわらず、余裕綽々なのかと思うほど、普通に乱入してきた靡へ話しかけ、あまつさえその制止を聞かず自分へ向かって突進してくる箍流を見つつ、野蒜は淡い希望がほんのりと灯るのを感じていた。
そう、
どんなに不運な人間にも、時として誰かの哀れみかとさえ思える幸運が、急に訪れることもあるのだ。
正直、野蒜としては自分の力量と相手方の力量を判断した場合、単純な力の差なら人数の差も含めて絶対的に向こうが有利……どころか、もう殺される未来しか見えやしないとすら思っていた。
のだが、
とてつもない速度と、圧倒的な肉の力を振りかざして迫る箍流の姿に、野蒜は光明を見る。
と、転瞬。
ほとんど左の頬へ接触する間際まで、凄まじい風圧を纏って飛び込んできた箍流の右拳を、野蒜は先ほどと変わって縦ではなく、横へと往なす。
それもわざと往なしきらず、自分を中心に箍流を回転させるように。
瞬間、思ったとおり、体勢を崩しきっていない箍流はなお、本来の軸足とは反対の左足で無理やりに踏ん張りを利かせるや、超接近状態からの左回し蹴りを放つ。
が、
近すぎるため、打撃(点)を最大威力で出せる踵ではなく、向こう脛を打撃(面)へと変えたその攻撃を、野蒜はかわした。
わざと往なさず、素直にかわし、靡がいる位置からちょうど身を隠すように箍流の五体で自らを覆う。
思惑は単純。ヒントも明快。
この箍流という生徒と、靡という教師は、
連携がまるで取れていない。
意思の疎通もまったくもって怪しい。
ということは、
最も恐れていた十字砲火……二方向からの間断無い、往なすことも避けることも無理な、『HARD』だとか、『VERY HARD』だとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしい『MUST DIE』やら『LUNATIC』的なものの片鱗を味わったぜ……というより味わうものだと確信すらしていたのだが、それは杞憂に過ぎなかったということになる。
だけでなく、この連携の拙さは野蒜の防御にまで一役、買ってくれた。
ご自慢なのだろう、イノシシの如く自身のパワーとスピードだけに寄りかかった箍流の攻撃は、楽々とはいかないまでも、死を覚悟するほど気合を入れずとも往なすことはできるし、避けることも効率は落ちこそすれ、そう困難なわけではない。
そして予想通り、箍流は体勢を完全に崩しでもしない限り、手を休めることなく攻撃を繰り返してくる。
とすると、野蒜にとっての箍流の立ち位置がまるきり変化する。
休むことなく絡みつくように近距離で攻撃を続けてくるということは、きちんと相手の攻撃を捌きつつ、残った靡が加勢してこれないよう、上手く箍流を自分の周りで踊らせていればいい。
攻撃をすべて見切り、対処さえ適切におこなっていれば、箍流は靡からの攻撃に対する盾としても機能する。
そうと悟り、あえてますます消極的な、しかし守備だけはきっちりとこなすその状況に、
靡は、『してやられた』という自責の念にも似た感情を。
箍流は、子供のようにあしらわれる(実際は野蒜にそれほどの余裕は無かったが)ことへの怒りと焦燥感を。
野蒜は、実のところかなり逼迫した恐怖を。それぞれに感じていた。
今はいい。
問題は時間。
それが野蒜を恐れさせていた。
さほど時間は喰わずに現れてくれるとは思うが、もし滑の到着が想像以上に遅くなった場合、自分の生存率は一気に急落する。そうと分かっているから、野蒜は心の中で恐怖していた。
滑が出てきてさえくれれば、黙っていても彼方は戦いに参加してくる。
逆に言えば、滑が出てくる前の段階でこの意図的に作った膠着状態の戦況がひっくり返ってしまったら……具体的には、箍流の体力が尽きて靡との一騎討ちにでもなってしまったら、まず勝てる気がしない。
戦いを有利に進めているようで、実はひどい綱渡りを強いられている。それが野蒜の実情。
だからこそか。
(お願いします……一秒でも早く、滑さんとかいう人……早く、早く来てください……あたし、まだ楽しいこと何にもしてないのに……)
気取られぬようにと注意しつつも、ついつい心中、穏やかでないものが影のように漏れ出してしまう。
そこへ、
距離を置いて蓮春、鉄道らとともに高みの見物と洒落込んでいる彼方が唐突、直接にやり合っている箍流にさえ気づかれないほど微小な感情の空気を皮膚感覚だけで察するや、
「それでも野蒜ちゃんなら……野蒜ちゃんならきっと何とかしてくれる……」
腕を組み、ニヤニヤしながらそうつぶやいたのを耳にしてさしもの野蒜も、
「いらんわっ! そんな自分都合なうえ、無駄に重たい信頼っ! てか、せめてセリフと表情ぐらい一致させろやっっ!!」
次々と襲い来る箍流の攻撃を刹那に見切りながらもその最中、一瞬の隙を突いて心の底から怒号を発してしまった。
余力を残しておかねばという理性のささやきを無視し、本能的に。
途端、
再度の攻撃に転じようと左足を引き、捻り上げた体からまた矢のような拳を放とうとしていた箍流が、目を丸くする。
程度の差こそあれ、靡も、蓮春も、鉄道さえも。
ただそんな束の間の静寂の後、すぐさま何の合図も無く気持ちを改め、再開された目まぐるしい箍流の連撃と、流れるような野蒜の回避行動を見つめながら、蓮春だけはどうもおかしげな場の雰囲気に、ようやく漠然としていた頭の中の疑問が、明確に形を成してくるのを感じ取っていた。