それは大事件という名の、文字通りの大事件(4)
大見得霧箍流は標榜されるとおり、常軌を逸したヒーロー願望の持ち主である。そこは疑いようが無い。
が、だからといえ彼女は決して直情バカなどではない。
単に思考の根本が、架空のヒーローをロールモデルとしているため、常識的な価値観から逸脱しているだけで、むしろ往々ではない非常事態にあっては並の人間よりよほど的確な行動を選択する。
それはもはやほとんど本能に近しかった。
滑との初見の際と同じく、中央区画の大階段前へ歩み進む途中の時点で視界に捉えた彼方を、自らの独特な臭覚によって即座、『悪』と断じた(困ったことに、この直感の精度が実際ひどく高度であるのは皮肉であろうか)箍流は、これまたやはり滑の時と同様、すぐさま心身共に完全な臨戦態勢を取って。
しかも今回は滑との時の失敗を学習し、冷静に相手の隙を窺いながら。
ゆえに、その場の誰もが上校舎側で……というより、上校舎そのものの爆発に気を取られた際ですら、彼女は泰然自若と己を保ち、眼前で自分へ背を晒した彼方の右脇腹に渾身の一撃を放つことが出来た。
淀みも迷いも無く腰を落とし、肩幅より半歩ほど開いた両足はそれぞれ、軸となる左足が根を張るように床を踏み、そこから力を伝える右足は踵からひねりを加え、曲げた膝を介して半回転する腰へと向かい、斜に構え、引き絞った弓の如く背まで反らした右腕は、そこから一瞬にして前へ突き出した肩を追い、柔らかくしなやかに伝達された力を纏う拳を凄まじい速さで送り出す。
その一撃、どれだけの威力があるものか。
本来、それは命中すべき彼方の脇腹が証明するところであった。なんとも物騒な話ではあるが事実、そうだったのである。
ところが、
そんな箍流の右拳の威力は異なる形で証明されることとなる。
打撃の威力を逃がさぬよう、わずか打ち上げ気味に放たれたはずの拳。
のはずが何故か。
無防備な彼方の脇腹へ抉り込まれるはずだった拳が何故か。
瞬く間に終えられた攻撃とともに鈍く、低く、響く重い音と同時、
リノリウムの張られた床を強打し、めくれ上がった床材の下に広がるコンクリート材の表面を砕いていた。
これに驚いたのは誰でもない。箍流自身。
攻撃性を露わに見開いていた両の目はそのまま、含む感情を驚きへと変えてさらに丸く剥かれ、まるきり気づかぬうち、大きく崩れている己の体勢に思わず、箍流は剥離したリノリウムが巻きつき、思いがけずおこなったコンクリートへの打撃で痛む拳の感覚も忘れて息を呑む。
と、転瞬、
何が起きたのかと混乱する思考の猶予も与えられず、知らぬ間に低く屈めた彼女の頭上で、彼方と野蒜の間に不可解な言葉が交わされた。
「……勘弁してくださいよ先輩。なにそんな無防備で突っ立ってんすか? あたしが手ぇ出さなかったら、間違い無く右のアバラ、この人に何本か持ってかれてましたよ?」
「あら、何も止めなくたって良かったのに。私、隙はわざと作ったんだから」
「……は? それってなんでまた……」
「だって、せっかくの大イベントよ? 滑ちゃんはメインディッシュとしても、その前にだってちょっとは楽しみたいと思うのっておかしいこと? どうせなら肋骨くらい、右側全部あげたかったわ」
「あのさ……状況的に、いい加減もう少し自重ってもんを覚えろや……遊び感覚で肋骨1ダースって、あんたどんだけドMだよ……」
「んもう、口が悪いわね野蒜ちゃん。これも貴女を信頼していればこその行動なんだから、むしろ誇って期待に答えてちょうだいな」
「……ったく、そういう言い訳ってズルイわホント……はいはい、分かりました。今回のところは特別、乗っかってあげますよ。確かに、なんかこんくらいだったらあたしだけでも時間稼ぎ程度、充分できると思いますし」
楽しげに答える彼方に、野蒜が呆れ気味、余裕を得た声を返す。
それを聞きつつ、はたと折れた半身を急ぎ起こす箍流の目に入ってきたのは、変わらず警戒心も無く背を向けた彼方。
そして、
先ほどまでとは、まるで別人。
いつの間にか自分と彼方との間へ入り込み、針のように閉じた双眸を細くもギラリと開き、半身の構えで左手を突き出した野蒜が、ひりつくほどの緊張感を全身から発散させて睨み据えている。
瞬間、箍流は理解した。
いや、理解を強制されたというべきか。
具体的に何をされたか。それは分からない。
だが、
どのような方法かまでは不明ながら、自分の攻撃を野蒜という少女は、
(往なし)たのだ。
でなければ今のこの状況を説明できない。
隙の無い相手であればともかく、完全に無警戒な相手へ向けた攻撃が逸れるなど。
直視をしていた相手とのわずかな間合いへ、知らぬ間に他の人間が入り込むなど。
考えて咄嗟、崩れた……もしくは恐らく崩されたのであろう体勢を慌てて正した。
すると、
「……そうそう、期待してるわ野蒜ちゃん。貴女の言うとおり……」
気持ちの整理までは手が回らないところへ、やにわに彼方のつぶやきが聞こえたかと思うや、
眼前で自分を睨む野蒜の瞳が警戒の色から転じ、驚愕の色を表した刹那、
野蒜と背中合わせへ近い位置になっていた彼方の左側から突然、
人影が踊る。
瞬刻、
何事かと戸惑う箍流を蚊帳の外、飛ばしてきていた睨みを放り出した野蒜へ向かい、その人影は飛び掛った。
と同時、蓮春たちは見る。
幾度と急転を繰り返す状況で、乱れに乱れる頭の中を追い打たれつも同じ方向へ視線を向けた箍流と、
立て続けの異常事態にさしもの唖然となる、非常識と非日常には慣れているはずの鉄道と、
これだけの状況にあってなお唯一、落ち着きを保った彼方と、
共通した光景。
それはまさしく、文字通りの瞬く間。
どこからともなく現れ瞬時、彼方と野蒜の脇手を風のように抜けた人影の正体。
気づいたときにはすでに蓮春ら一団との距離およそ約10メートルを離れ、靴底とリノリウムとの高い摩擦音を響かせて急制動、床に着地した人影の正体。
地を這うほど身を屈曲し、翼の如く広げた両手へ無光沢の真黒いナイフを持ち、
眼鏡を外した、靡。
普段の虫も殺さぬ雰囲気はどこへやら、フレームの中から覗いていた温和な瞳を純然たる殺意で染め上げ、自身の加速がもたらした風圧にポニーテールをたなびかせ、真っ直ぐと射る視線の照準を野蒜へ定める、白旗靡。
暫し寸秒、
次から次と目紛るしく変化する事態、もしくは眼前の戦いへ対する緊迫に声の止まった一同を尻目、
「ちょっとプロが混ざっちゃったけど、毛色の違う(能力無し)を二人相手に、唯一のアドバンテージが通用しない戦い……これを野蒜ちゃんがどうやって制するのか。さすがに私も興味が出てきたし、それだけ自信があるならたまには高みの見物に回るっていうのも楽しそうだわ」
そう漏らしつつ、
皮一枚。
かわしきれず薄く裂かれた左の首筋からシャツの襟を染め上げる鮮血と、重ねて湿すよう滲ませた冷や汗を拭う余裕も無くただ、
(……ヤバイ……これ、どう考えてもあたしの余命が仕事しなくなるパターンだ……)
思い、絶望感で青ざめてゆく顔を誤魔化す余裕も無く、油断すれば今にも震えて折れそうになる両膝へ無理くり力を込め、気を取り直したようにゆっくりと上体を起こす箍流と、両腿へ瞬発力を溜めてさらに構える靡の双方へと交互、視線を這わせ、限り無く諦めに近い心境の中で必死の防衛姿勢を固める野蒜へ、愉悦に細めたその両眼を向けた。