それは大事件という名の、文字通りの大事件(1)
ところは変わり、上校舎の最深部に位置する隔離校舎内。
しかし場所は変われど、響き渡るかまびすしい校内放送だけは同じであった。
『……速やかに体育館へ避難してください。繰り返します。現在、不審者の集団が校内へ侵入しようとしています。生徒の皆さんは速やかに体育館へ避難……』
「それにしても、先ほどから長々とうるさいですね。飛び出していった靡先生の様子からして、恐らく数が少しばかり多いらしいとは察せますが、かといって所詮不良学生の徒党か何かでしょう。それは確かに危機感を保って警戒を怠らないのは良いことだと思いますけど、こうも過剰に反応するのはどうにも……」
隠す素振りも無く不機嫌そうな言動と態度をあらわにしつつ、滑はそんな不快感を濯ぐように、口元まで運んでいたルートビアの飲み口へ唇をつけると、傾けたアルミ缶から流れ込む濃い黒茶色の炭酸液を喉に通す。
彼女にとって最上の甘露にして嗜好品であり、最高の精神安定剤でもある清涼飲料水を。
「で、でも……怖い人たちがたくさん向かってきてるなら、それは心配になるのが普通なんじゃ……?」
「その普通というカテゴリにご自身は入っていないことをまるで自覚していないところが相変わらず七雪さんの面白いところですけど……さておき、少なくとも私たちにそういった心配は無用ですよ。以前もお話をしたとおり、靡先生は私たちとは違い、ただの人間でしかありませんが、それでも学園長が自らその実力を認めてヘッドハントしてきたほどのSoldier of Fortune(優秀な傭兵)です。それに、養護の欄房先生もまたそんな靡先生に負けず劣らずの実力をお持ちの方。こうまで心強く、実際の能力も伴った頼りになる大人の方々が揃っている以上、(能力持ち)とはいえ所詮子供でしかない我々が無用な心配をする必要はありません。要は何事も領分をわきまえ、子供は子供の、大人は大人の仕事をして過ごしさえしていれば良いだけの……」
一般的な感覚からすれば至極まっとうな不安を抱き、そしてあまりに事も無げな滑の様子へ、これまた至極まっとうな疑問を発する七雪に対し、如何にこの学園が人材・物理の両面、かつ攻防両面でも筆舌に尽くし難いほど堅固であるかを知っている滑のほうは、さも退屈そうな調子ながらも答えていた。
懇切に詳細を語り聞かせ、どれだけこの学園の防衛力が桁外れであるかを知らせ、納得させる方法も考えはしたものの、それがどこまで七雪に必要なのかと考えた場合、別に具体性が無ければならない話でも話し相手でもないなと考え直し、そこそこ簡便な説明のみで回答を済ませようと。
結果的に自分で振ってしまった話題ではあるが、だからといって手間を惜しんではいけない道理も無い。
思って、1+1=2的な紋切り型の答えに終始する。
いや、終始しようとした。のだが、
『……っと、あれ? これ……を、こっち……外し……から……そしたらこれで後はマイクを……うん、ONにして話せば……って、スイッチ……え? あ、もうスイッチ入ってるじゃん! てことは……えーと……あー、あー、テステス。ただいまマイクのテスト中……大丈夫かな……ん? ああ、ここのスピーカーから聞こえてるってことは校内にも流れてるってことなのね。了解了解、ではではー』
不意。
先ほどまで延々と垂れ流されていた避難指示の校内放送が一転、ループしていた音声をブツリと切って、何をしているのか雑音も激しく、打って変わってとぼけた口調の声がスピーカーから響く。
しかもその声が、どこか覚えのあるものであったことも重なってか、ふと発生した奇妙な出来事に我知らず発していた言葉を中途で飲み込み、気づけば突然たる声へ自然と耳を傾けていた。
同じく、といっても事情は自分と比べてより単純に、ただ急な校内放送の変化へ対する興味から、首ごと関心をスピーカーへと向ける七雪と共に。
『おーい、滑ちゃん聞いてるー? アナタの愛しい愛しい彼方ちゃんですよー。今日はね、ちょっといろいろ思いがけないことが立て続けに起きたせいで、何故かこちらにやってきてます。えっと、実は私の可愛い可愛い後輩ちゃんがさ、滑ちゃんのことを話したら急にどうしてもアナタと戦ってみたいって無茶なワガママ言い出したもんで、面倒見が良くて優しい私としては、危ないことにならないよう付き添いと仲裁の役目を果たすために同行してきたの。まったくの善意で。あ、言っておくけど私はただの付き添いだからね? 滑ちゃんとは喧嘩を禁じられてるし、私も家族会議の決定を破るほど馬鹿じゃないから、間違っても誤解しないでちょうだいな』
安い芝居のかかったような口調で何やら機嫌も良く、そう一気に語りぬける声と、自ら名乗ったことによって滑はそれが従姉妹の彼方であるとすぐさま了解した。
わずかながらもつい先ほどまで感じていた驚きを綺麗さっぱり心からも表情からも消し去り、変わって呆れきった苦々しい顔をスピーカーへと向けて。
普通の人間ならばこの際、疑問が湧く。驚きも増す。普通の人間ならば。
例えば、
どうして不穏な有象無象が学園に押し寄せてきたタイミングでわざわざ一緒に現れたのか。
どうして後輩の付き添いとして学園へ来たのに、この緊急事態(無論、滑はまるでそう感じていなかったが)の校内放送を占拠して自分に語りかけてきたのか。
最低でも大きなこの二つの疑問は考えないはずが無い。
が、滑の思考はそうならない。もっと簡潔明瞭である。
結果がそうなのだから、そうなるような過程を経たのだろう。としか考えない。
物事を深く思索し、意味理由を探求する行為が馬鹿馬鹿しくなってしまうほどの思考のショートカット。
それが滑クオリティ。
とりあえず目の前の現実さえ相手にすれば、後はどうでもいいというある意味、もしかしたらこれってこの世の真理なんじゃね? とさえ思える受け止め方は、良く言えば究極のおおらかさとも捉えられるかもしれない。
それゆえ、滑は見え透いて届く彼方の真の目的を感じ取り、そこについてだけごく限られた瑣末な疑問を抱いていた。
彼方。
変わり者の巣窟と傍から見られている獄門坂家の中でも、ひときわ異常性の強い自分の従姉妹。
苦痛を感覚のひとつとして楽しみ、他者にもまたそれを強要する倒錯した人格の持ち主。
歳が同じせいか、身近な、それも似通った(能力持ち)であったせいか、幼少時から何かにつけて喧嘩を売ってきたのを覚えている。
加え、そのことごとくを無残なまでの返り討ちにしたことも。
なのに、
それでも彼方は自分へ挑んでくることをやめなかった。
痛めつけることも痛めつけられることも、等しく楽しみとしか感じない彼女の性質にとって、迷惑なことに滑は大層、好ましい存在だったらしく、これ以上は続けていると間違い無く彼方が命を落とすと判断した親戚一同の総意により、互いの喧嘩を禁じられるまでそんな状況が続いていたのである。
ならば何故、彼方はここへ来たのだろうか。
親族間の決定。家族会議の結論。これらは国の定める法律は原則として守らない滑でさえも遵守せざるを得ない鉄の掟。
その事実は当然、彼方も変わらないはず。
であれば、彼方の目的は何なのか。
しゃべった内容、額面通りなどということは彼方に限ってありえない。
純粋に己が利益だけを追求するのが当たり前の彼方が、後輩のために自ら動くなど、何か裏が無ければ逆におかしい。
では、その裏とは?
そんな空疎な疑問が滑の頭の片隅で少しばかりうずいたとき、スピーカーから彼方が言葉を継いだ。
『というわけなんで、面倒だろうけど滑ちゃん、ちょっと中央区画の大階段前まで来てくれる? もちろんこれはあくまでお願いだから、強制じゃないから、無理に来てなんて絶対に言わないけど。ただ……ね』
そして、
『来てくれないと、こっちに避難してるみんなが危ない目に会う可能性は否定しきれないんだよなあ。ほら、私も気をつけはするけど、うちの後輩ちゃんが暴れるのを完全に止められるかは、ちょっと自信が、さ。なので、気の回る私としては滑ちゃんのことを思って……』
そこから滑は彼方の企みがどのようなものかを、最悪の形で知ることになる。
『蓮春君……だっけ? それと、他のお友達のみなさん。私が直接、近くに置いて見てるから心配しなくても大丈夫よ……うん、大丈夫。今のところは誰も傷ひとつ無いわよ? 本当に。今のところは……と、てことで理解してくれたならいいんだけど……ともかく、そんな感じだから、出来るだけお早いお越しを彼方ちゃんはお待ちしております。そんじゃ、急いでねー♪』
しれっと、とんでもなく含みのある物言いを残響させ、スピーカーはそこでプツリと音を止めた。
瞬間、見開かれた滑の双眸など無視して。
瞬間、その場へ広がった重い静寂を無視して。
瞬間、低い金属音とともに教室入り口のエレベータードアの内側がこもった音を漏らしながらゆっくりと開き、
「ういーっす、先輩たちー。おふたりの可愛い可愛い後輩が、ただいま戻りま……」
言い止し、ドアを抜けて教室に踏み入ろうとした祟果は、まさか知らぬ間に隔離校舎の教室内が鉛の空気で満たされているとは思いもよらず、さらに言えば偶然にも放送での彼方の台詞と被った軽口を聞いてしまうという、見事な地雷の踏み抜きをおこなってしまったことには不憫にも気づくことが出来ず、ただどう見ても普通ではない教室内の雰囲気に、慌ててその視線を滑たちへと向けた。
何が起きたのかを聞くために。
何が起きたのかを知るために。
しかし、
「……祟果さん。せっかく戻ってきたのに、早々ですみませんが……」
そんな希望は、一瞬にして儚く消えた。
地獄の底、悪夢の深淵から漏れ出てきたような、的確な形容の手段に困る、本能的恐怖を心の中から直に抉り出されるような滑の声を耳にし、半身をエレベーターの中へ置き去りにしたまま、硬直して動かない体のため、逸らすこともできなくなった視線の先に移る滑を瞳に映し、ゆらりと揺れながらスローモーションの如く立ち上がり、振り返った彼女の姿に、思わず祟果は両の目を丸め、全身からどっと冷や汗を噴き出す。
「私はちょっと魂すら残さず、存在そのものを消し飛ばさなければいけない相手と用事が出来てしまいましたので、これから少しばかり上へ行ってきます……」
何の感情も無い、冷静な……口調に限ってのみ冷静な調子で語りつつも明らか、あまりの怒りに充血した両眼をぎらりと祟果へ向けた滑は、
およそ怒りの感情を表す言葉のすべてを連ねてもまだ足りぬ、もはや神妙の域にあって、その全身を未知の光で淡く発光させながら、やおらエレベーターへと足を進め始めた。
まさしく悪鬼羅刹。
さもなくば純然たる悪意の権化。
それが我が目の先で確かに存在している。
これまでの生涯、体験してきたあらゆる恐怖を凌駕するほどの、どす黒い意識と不可思議な光に包まれた滑が迫る状況の中、
祟果は悲しいまでにどこまでも、
怯え震えるしか己の為せることを探り得なかった。