それは先触れという名の、ついに来た本格的危険の前兆 (7)
靡は駆け足だった。
本来教職の身にありながら、まさしくその身ですり抜けてゆく廊下のところどころへ張られた『廊下を走るな』の警告文が、なおさら空しく意味を成さない紙切れであることを強調するように。
走りつつ、眼鏡を外す。無造作に胸ポケットへと収める。
フレームに遮られていた視界が広がり、緊張感で高められた集中力が認識される世界を広げた。
それからほどなく、辿り着く。
目的の場所へ。学園長室の扉の前へ。
そしてすかさず、
「大佐っ!!」
呼びながら、ノックも省略してドアを開ける。
その様子から、何かは知らないが逼迫した状況であることを傍の目にも明らかにしつつ。
だが、
「……分かった。では引き続き周囲の警戒と監視を頼む。今、ちょうど白旗君が到着したところだ。すぐそちらへ向かわせる」
室内にいた上は、机の前でトランシーバを持ち、何やら会話をしつつ、入り込んできた靡へ空いた腕を突き出して制するように手をかざす。
ほどなく、
「以後、君は交代して全校生徒を体育館へ誘導、避難させたまえ。その後は侵入者が出た場合のため、遊撃的防衛に当たること。命令は以上。作戦を開始する」
『Rog(了解)』
漏れ聞こえてきた返事に合わせ、一旦役目を終えたトランシーバを机上へと置くや、上の視線が靡に移る。
これまた、無駄な前置きを省いた話を皮切りにして。
「報告は無用だ白旗君。今、屋上の伊刈乃君からすべて聞いた。現在、本校正門側に自動二輪31と一般車両5が接近中。裏門側には武装した他校生徒81。両側面にもそれぞれ65、63が取り付き、敷地内への侵入を試みているらしいな。なるほど、大変だ。まさか約四個中隊もの規模で喧嘩を仕掛けてくる子供がおるとは、さしものわしも見抜けなんだ。悲しいかな、これも平和ボケというやつかの?」
「……」
「まあいい。己の読みの甘さを今、呪っていても始まらん。白旗君、君には伊刈乃君と交代して屋上へ向かってもらう。正直、手が足りんから向かう途中で各教室の生徒らに避難を呼びかけていってくれ。そして屋上に着いたなら……」
言い止したかと思った同時、上はやおら屈み込むと、机の下へ伸ばした手に何かを掴むや、立ち上がる余勢を借りて(それ)を投げ渡すように靡へと放った。
反射的、靡は両手で抱えるように受け取る。
瞬間、渡された(それ)を目にし、自分が何を課せられたのかをすぐさま理解して。
VSS。
Vintorezの愛称でも知られる。
ロシアがまだソビエト連邦時代だったころに開発・製造した中距離狙撃銃。
特徴的な大きく肉抜きされた木製ストックと大型のサプレッサーが目を引く外観。
専用の亜音速ライフル弾を使用し、その隠密性、消音性能は極めて高い。
そんなものを渡され、屋上へ行けとは、つまり……。
「ところでもし、子供の喧嘩……その域を、子供たちが超えてしまった場合、大人としてはそんな子供らにどう対応するのが正しいと君は思うね?」
不意、上は言いかけた言葉を後回しにすると突然、落ち着いた口調で語りだした。
質問の体を取ってはいたが、欠片ほども言を差し挟む余地など無く、ただ淡々と。
「喧嘩というものには、仕掛ける側も仕掛けられる側にも共通した暗黙のルール……不文律がある。決して致命的なことをしないといった、まあ、要は力加減についての不文律だな。しかし、そこの加減を間違え、喧嘩の域を逸脱してしまったとしたら、それはもう喧嘩ではなくなる。もはや戦争だ。そして戦争には喧嘩と違ってルールなど無い。ゆえに故意であろうと、無知ゆえの過ちだろうと、そんなものは関係無く、戦争となってしまった時点で大人だの子供だのの区別も失われる。何せ戦争にルールは無いからの。つまり、そうなってしまったらもう(子供だから)という言い訳は通用せん。お互い、平等で対等な敵同士としての殺し合い。それのみ。それあるのみ……分かるか?」
聞いて靡は、この問いへ露ほどの躊躇いも見せずうなずく。
それをきっかけのように、自分の中で何かのスイッチが切り替わるのに似た感覚を覚えながら。
「さて、今回のこれは……恐らく若さゆえの愚かさから来る失態か、または不肖の孫が手引きしたものか、どちらかだろうとは思うが……いずれにしても、そんなことは情状酌量の余地とはならん。やってしまった事実だけがすべてだ。よって、彼らは自分たちが始めたことのツケを自分たち自身で払わねばならない。それが一線を越えてしまった人間の取るべき責任であり、通すべき物事の筋道でもある。というわけで白旗君」
自分の名を呼ぶ声に感じる。
ここからはもう明確な命令など不要だと。
ここからはもう自ら判断し、実行してゆけばいいだけなのだと。
徐々に快い熱を帯びてくる。
愉悦に近い感情を伴って。
狂喜に近い感情を伴って。
そして、そんな歪に猛りだした靡の意識へ向かい、上は言う。
「行け。弾は屋上にある。SP-5の10連装マガジン4ダースほどな。そして、それを使って調子に乗ったハナタレ小僧どもを……ミハエル・ヴィットマンを気取るじゃないが、たっぷりと……」
最後のひと押し。
最後のひと言。
「『教育』してきたまえ」
厳として、そう言葉を放った刹那、
眼前で自らが渡した銃を抱え、不動の姿勢を保った靡は無言のまま鋭利なまでに素早い敬礼を飛ばしたかと思うと、即座に踵を返して学園長室から飛び出していった。
その背へと向けられた上の視線になど気づくことなく。
まるで、野に獣を放ってしまったとでも言わんばかりの複雑な目をして。
達観したような目をして。
諦観したような目をして。
遠ざかってゆく自分を見つめていることになど気づくことなく。