それは先触れという名の、ついに来た本格的危険の前兆 (6)
早いもので、すでに滑が2年D組を去り、上校舎へとその居場所を移してから一週間が経とうとしていた。
以来、蓮春の朝は穏やかそのものである。
目覚めがドアの爆破から始まることも無く、土足で室内を踏み荒らされることも無い。
無論、教室の内外で日常的にモブキャラたちが死屍累々していたりなども無くなった。
と、言いたいところなのだが、
「ナイススティックが値上がりした! もう、超死にたいっ!!」
「……また、なんだかえらくライトな理由でヘビーに死にたくなってんな……けど、今は小麦やら何やら、原材料費も上がってるし、どこも値上げラッシュだから、そこは仕方が無いって諦めるしか……」
「にしたって、税込み価格にしたら平均でどこも100円超ですよ? あのナイススティックが! あのナイススティックがっっ!!」
「うん……まあ、あれ以外のナイススティックってそもそも存在するのかとか、なんでそこまで菓子パンひとつに熱くなってるのかとか、俺も俺でいろいろ言いたいことはあるんだけどさ……」
実はそうでもなかったりする。
理由はこの、庶民派ロングセラー菓子パンへ妄執にも似た情熱をたぎらせつつ、その現物に噛り付きながら持論を打つ少女、祟果。御了院祟果。
困ったことに……という言い方をすると気の毒な感も多少あるが、彼女はここ数日、どういうわけか昼休みになると自分とはまったく関係性の無い2年D組に現れ、これまたどういうわけか蓮春たちと同じ、机を組み合わせた簡易な食卓を囲んでいる。
滑の分の机がひとつ減り、ただでさえ手狭になったその上へ遠慮無しに自分が食す大量のナイススティックを広げて。
しかも、こういった面だけは同類といっていい箍流の分のあんパンも含めれば、もはやほぼ卓上はナイススティックとあんぱんが完全占有。
これぞまさしくパン祭り。
春でもねえのにパン祭り。
ごはん党の人には、ちょっとした地獄だね。
加えて、よく分からない彼女の愚痴まで聞かされる蓮春は貧乏くじもいいところだろう。
系統は違うといえ、祟果も滑ほどではないまでも人の話を聞かない傾向があるため、会話するたび疲労の色を濃くしてゆく様子は見ていて同情を禁じえない。
が、とはいえ。
実際は別に彼女も何の理由も無しに蓮春たちの教室へ来ているわけではない。
でなければ、彼女が来るたび迂闊にも目を向けてしまい、全身の穴という穴から血を噴き出して死んでいったここ何日間かの犠牲者たちが浮かばれない。
上記で説明したのはそういう意味である。
さておき、それでは何故に彼女は蓮春たちのもとへ訪れるのか。その訳はというと、
「……とにかく、今日もそんな他愛無い話しかしてこないってことは、滑も元気でやってるってことでいいんだよな?」
「お、さすが滑先輩のオサナナジミ。私が話すより前に察っしちゃうなんて、やっぱ心が通じ合ってますねえ」
「いや……それは無い。単に付き合いが長いから大抵のことは予想がつくってだけだ。慣れたくもないのに慣れちゃった。それだけだよ。勘繰られるようなことは何も無い」
「ふうん、本当かなあ?」
つまりはご様子伺いならぬ、ご様子お伝え。
自分は無事にやっていますよという、よく考えたらメールとかでも充分に事足りそうなことを、わざわざ祟果に毎日、昼休みの時間を使って伝えに寄越している。
そして祟果は、どこから調達してきたのやら分からない椅子で、ちょうど蓮春の対面に座り、そう疑念を口にしつつ、指で頬をなぞりながら、また持参してきたナイススティックを頬張った。
「でもスーチャンが元気してるってのは何よりだわな。俺らとしちゃあ、それだけが何せ心配だったからさ」
「だね。まあ師匠に限って何かなんてあるはずが無いと思ってても、こう接点が無くなっちゃうと、どうしても不安になるし」
すると、話が途切れたのを確認してか、ここにきて鉄道と箍流も口を開く。
箍流の言うとおり、滑は上校舎へ移って以来、極端なほどに蓮春らと接触していない。
というより、接触しないようにしている節すらある。
どうやら上校舎に教室が変わってからは、正門からの登下校はしていないらしい。登下校の時間帯に関しても、意図的にずらしているようにも思える。
とはいっても、はっきり調べてそう結論したわけでもない。あくまで(そのように思える)という程度でしかない。
ゆえに、蓮春たちはそれ以上の詮索をしないことにした。
事情があるなら事情があるで、それが解決すれば元に戻るようなことだし、それに、
もし、何か考えたくない理由で滑がそうしていた場合、単に互いが不愉快な思いをするだけだと、本能的に深く調べるのを避けているのである。
もちろん、それがただ臭い物に蓋をしているだけの行為だと自覚していても、望んで気落ちする可能性を追求したくないというのが三人に共通した意見だった。
だからこそ今の、表面上の平和を蓮春たちは取り繕おうとしているのだ。
その場しのぎの安い逃げでしかないが、精神衛生を考えればこれが即席としては最良の選択だという現実はなんとも物悲しい。
などと、少しばかり現在の状況説明を終えたところで話を戻そう。
滑ほどではないまでも……や、彼女と比べること自体が根本的に間違っているのだが……よりはマシとはいえ、まっとうな言語によるコミュニケーションがほとんど成立しない祟果との、会話という名の戦いが一段落したのを見計らって声を発した鉄道と箍流を視界の端に捉えながら、厄介ごとを一方的に押し付けられていた蓮春は、それでも腹立たしさより、(そりゃそうか)といった気持ちと精神的な疲れを顔に浮かべ、チルドカップのカフェオレをストローですすりつつ、鼻から小さく息を吐く。
実際、祟果の相手をするのが面倒だから、二人がその役を自分に丸投げしていたのだろうことは傍目からも明らかだったが、しかしそこは『餅は餅屋』とも言う。
ツッコミや、肩透かしを喰らったときの立て直しなど、まともに会話を成立させるのが困難もしくは不可能な相手との経験値は間違い無く三人の中で蓮春が最も高い。
二人が一歩引いて任せきりにしていたのも、さもありなん。
結局、必ずどこかで誰かが割を食うように世の中は出来ている。それだけの話だ。そう思って蓮春はいつもどおり諦めた。それだけのことである。
「しかし、人選とかを見るに、如何にもスーチャンて感じだあな。あれだろ? ナナチャンは確か今なら三時間までなら冷凍庫ん中じゃなくても動き回れるんだろ? なのにあえてイカチャンを寄越すとか。イタズラ好きのスーチャンらしいね」
「その、お前が言うところのイタズラで日々、コンスタントに死人がゴロゴロ出てることをどう受け止めているのかが俺にはどうも理解し難いけどな……てか、それもそうだけど、そのあだ名はさすがにやめろ。さっきからそれ言うたんびに祟果ちゃん、すげえ表現しづらい顔してんじゃねえか」
「え? だって名前、祟果ちゃんだろ? スーチャンじゃ被っちまうし、かといってスイチャンとかイーチャンっていうのも変だし、消去法でいったらイカチャンしかないじゃん。スイッチョンなんかも考えたけど、これじゃ虫の鳴き声みたいで失礼だしさ」
「だったらそもそもあだ名で呼ぶなっての。それならまだ普通に祟果ちゃんで呼んであげたほうが何倍もいいだろうが。なんでそんなにあだ名をつけて、あだ名で呼ぶことに固執すんだよ」
「私も……正直、タガリンはマジやめてほしいって思ってんだけどね……呼ばれるほうの身にもなってほしいわホント……」
いつもながら単純かつ、センスというより箍流が言うとおり、呼ばれる人間がどう感じるかまでをまったく考慮していないあだ名について、全方位で集中砲火を受ける鉄道の、そこまでの不評が理解できないといった顔をよそに、言外でも冷たい視線を送り、蓮春、箍流、祟果はなおも責めるが、これが通じるような人間ならハナからこんなふざけたあだ名は考えないのだというのは、まこと悲しい事実としか言えない。
ちなみに説明の必要は無いとは思うが、鉄道が言ったナナチャンとは七雪のこと。まあ、祟果に対してのイカチャンと比べれば、まっとうだし無難ではある。
加えて余談だが何故、蓮春や鉄道、箍流たちが祟果と当たり前のように話をしていられるのかというと、ひどく身も蓋も無いが、
「慣れてしまった」
この一言に尽きてしまう。
人間の順応力、環境適応能力というのは本当にすごいね。ほんと、大したものだと思うよ。
ただし、モブキャラ勢は蓮春たちと違って主人公補正もメインキャラ補正も無いから、ほぼ慣れる前に死んじゃうんだけどね。
いやはや、持つ者と持たざる者の差って残酷だなあ。
「にしても、こんな状態がいつまで続くんですかね。別に私は滑先輩のおかげで今、けっこう軽々しく出歩けるんで、むしろ嬉しくはあるんですが」
「……そうだね。まだ何も考えつかないけど、出来るだけ早く、なにか手立てを見つけて、師匠をあの牢獄みたいなとこから連れ出さないと……」
ようやく落ち着いたところにやおら、話題を振ってきた祟果へ、係わらないよう努めていた箍流がつい反射的に返答するのを聞きつつ、蓮春はこれも反射的に口をつぐむ。
思乱れる心が無いわけではない。それどころか間違い無く箍流以上に憂慮している。
だが、いやな言い方になってしまうが、それだけなのだ。
蓮春は滑がどれほど危険な存在であるかを長年の付き合いで知り尽くしている。
だけに、希望を持つことが出来ない。
もしかしたらもう二度と会えないかもしれないとまで考え、悩み、諦めようとさえしてしまう。
悲観的なのではなく、現実的。
そういう思考が、余計に蓮春から希望を奪ってゆく。
さらりと言葉が出てくるはずが無いのだ。希望を言葉にしようにも、それへ被さった現実が重過ぎて、容易に喉を通ってはくれないのだ。
思って、蓮春はひとり勝手に落胆し、カフェオレの最後のひと口を飲もうと斜めにした容器から伸びたストローを吸った。
途端、
足元……と、始めこそ感じたが突然、全身を奇妙な感覚が走る。
ごく微かな眩暈のような。
ごく軽微な振動のような。
違和感と呼ぶにもあまりに幾分な違和感。
すると刹那、
「……地震?」
言っていながらも、自分でそうではないと思っている、分かっている、疑問符にデコレートされた単語を口にしつつ、蓮春の思惑など知るはずも無い箍流が、ふと教室の窓へ、その視線を泳がせた。