それは先触れという名の、ついに来た本格的危険の前兆 (4)
後半、身内の話で勝手に盛り上がられてしまい、どうにもグダグダなまま終わった学院長室でのお説教タイムから数時間後の放課後。
東側校舎の突端に位置し、ぱっと見は校舎の一部と映るが実は屋根のみ繋がっているだけで、実質独立している二階建て多目的大型体育館の裏手へ、今日の授業を終えた野蒜が、内面も外面も溢れんばかりの気鬱さを発散させつつ向かっていた。
憂いに満ちた能面の如き顔と、目に見えるはずのない心の内に広がる曇天のような感情を視覚化できているのではないかと錯覚させられるほどの苛烈なネガティブさに、今にも押しつぶされそうになりながら。
無論、用件があって向かっている。というより、用件が無ければ向かわないだろう。何せわざわざクリアな視界をコンセプトに造られた校舎を避けて不透明な体育館の裏である。理由も無しに向かう者がいるとすれば、孤独癖をこじらせた人間くらいのものだろう。少なくとも、まっとうな人間なら理由無く行くような場所ではない。
では野蒜の場合、どのような事情があったのか。
まあ、いちいち語る必要も無い。
何せ、
「あ、来た来た。いつもながら早いわね野蒜ちゃん」
日も暮れ始めた体育館の影なのに、眩しいほどの輝く笑顔を浮かべ、訪れた野蒜を手招きする彼方がそこにいるというだけで、もはやそれだけで説明不要であろうから。
とはいえ、補足説明くらいはしてもらおう。
そんな彼方の姿を認めるやいなや、すかさず内ポケットから取り出したスマートフォンのメール画面を突き出すように彼女へ見せ付けた野蒜に。
「……正直、いろいろ言いたいことが多すぎて何から話したもんかと思いましたが、とりあえず呼び出しのメールと場所に関して。お願いですからホント、こういう誤解を生むような場所の指定はマジやめてください。もし誰かに見られて変な誤解でもされたらどうしてくれるんすか……」
言いつつ彼方の眼前に迫ったスマートフォンの液晶には彼女が送信したメール。
文章は、(放課後、体育館裏で待ってるね)という極めて簡素な一文のみ。
別段、問題があるとは思えないだろう。
だが、
このような何気無い一文が、ところによっては深い意味を持ってしまうこともあるのである。
だからこそ、野蒜は差し出していた手とスマートフォンを脱力したように下ろすや、深い嘆息とともにうつむきながらも言葉を継いだ。
「私、まだ一年ですけどここ……体育館裏が生徒の間でなんて呼ばれてるかくらいは知ってるんすよ? 通称『逢引の園』って……女子高なのに、これってつまり……」
「うん、私も知ってる。他にも『百合の密会所』とかとも呼ばれてるんだっけ? まあ、ぶっちゃけレズの子たちが逢瀬する場所ってことでしょ? でも私も野蒜ちゃんもノンケなんだから別に問題は……」
「大問題ですよ! てか、私ら自身がいくらノンケだって言い張ったとこで、実際どうだかなんて関係無く、周りが変に噂でも流し始めたりしたら、たとえそれが嘘でも、そっちが真実ってことになっちゃうのが世間様の怖さなんすよっ! 頼みますから、もう少し多数派意見ってもんの怖さを理解してくださいよっっ!!」
咄嗟、彼方のあまりの無自覚さと無神経さに苛立ち、思わず野蒜が怒鳴り声を上げる。
が、即座に彼女は自らの行為を後悔した。
怒声を張り上げた時点で一旦、感情のガス抜きが終わって落ち着きを取り戻したその瞬間、冷えた頭で知覚したのが同じ体育館裏のそちこち……主に等間隔で植えられた薄い銀杏並木の木陰で寄り添う、まあ、その……お察しな感じの女子二人連れが何組も揃って何事かと隠れたまま自分らのほうへ視線を一斉に向け、口々に何やらヒソヒソと話しているといった状況だったのだから、そりゃとりあえず後悔が一等賞。二番手はその後、波のように押し寄せる絶望感であったのは当然、順当といったところだろう。
もちろん野蒜への同情はやぶさかでないが、これも巡り合わせの不幸と諦めてもらうより無い。
土台、他人が気の毒に思ったからって状況が改善されるわけたりするわけもないし、最終的には潔く観念しちゃうのが精神衛生上よろしいんじゃないかな?
などと、
結論としては一傍観者に徹しようという結論へ至った地の文など知る由も無く、彼方と、望みが絶たれた野蒜の会話は続く。
「あのさあ、野蒜ちゃん。これは前々から思ってたことだけど野蒜ちゃんて、ちょっと周りの目とかを気にし過ぎだと思うな。私としては、もっと自分というものを強く持ったほうが良いんじゃないかって感じることがままあるの。そんな風に何かあるたび、他人の評価なんかでいちいち心を揺さぶられてちゃ、それこそ何をやるにも息苦しくて動けなくなっちゃうんじゃないかってさ。楽しくないよ? そういうのって。あと、女子高でモテるのは基本、運動部の子ばっかりだから、貴女はそれほど危機感を感じる必要無いわよ。それに実際はガチの子って少なめだしね。大抵が純粋に恋慕を抱いてるくらいのレベルまでで、フィジカルな関係まで望む子は少数派だから心配無いわ。うん、特に根拠は無いけど、きっと心配無い。と思う」
「すいません……前半はなんとなく慰めてくれてるんだろうなって感じで悪くなかったんすけど、後半はもうまるで慰めになってないです……というか、後半部分のせいで、何だかいろいろと台無しです……」
これを幸いだったと言うべきかは微妙だが、初手から彼方に何の期待も抱いていなかったおかげで追い討ちの精神的ダメージは追わずに済んだ野蒜は、しかし前述の自爆で被ったダメージだけでも充分に致命傷だったため、ほとんど伏せた顔を上げることなく、手で顔を覆っての受け答えに徹する。
とはいっても別にそれが何になるわけでもない。彼方はそれしきのことを気にするほど繊細でもなければ、他人を慮る神経も持ち合わせていない。
自然、話は進んでいった。
いや、正確には彼方が一方的に話すのへ、野蒜はごく形式的な相槌を打っていただけなので、これをもって会話と呼んでよいものかは難しいが、
「と、前置きはこのぐらいにして、そろそろ本題に入りましょうか」
いずれにせよ、彼方は語る。
「まあ野蒜ちゃん、私が退室した後も残されてたから学院長にそれなり事情は聞いたと思うけど……」
「ええ、先輩が出てってからみっちり小一時間、懇々と聞かされましたからね。ほぼ把握してると思います。先輩が暇潰しのために、骨のありそうな相手を探してたってことも。それで目を付けた子が、偶然転入した先がこの学校と同じく、お身内の運営されてる学校だってことも。そしてその学校にも先輩や私みたいな(能力持ち)がいて、しかもその筆頭が従姉妹さんだってことも。で、最後に……その従姉妹さんとは親族会議で『喧嘩禁止令』が出てるから戦えないってことも」
「……そう、本当にすっかりこっちの事情は聞いてきたわけか……なら、もうわざわざ言わなくっても分かるでしょ? 私がこんなところへ呼び出した理由」
「そりゃ、察しくらいはついてます。先輩のことですから、おおよそは。普段の個室じゃなく、こんなとこでという時点でまずは間違っても学院長の耳に入れたくないことだろうとまでは確定として、残りは予想。これでも入学以来、ずっと先輩のお目付け役やってますし、考えることも考えてることも大体は分かるつもりですよ。ただ、本音を言えば絶対に当たってほしくない予想ですが……」
「うん。その感じなら、補足も必要無いわね。じゃ、答え合わせよ。私が考えてること……簡単なことよ。私は戦いたいの。家族や親戚からは『喧嘩禁止令』が出されちゃったおかげで、もうずっと戦えずにいる従姉妹の……滑ちゃんと、とにかく戦いたいの。けど、気持ちだけじゃ駄目なのもよく分かってる。だから方法も考えてあるわ。約束を、『喧嘩禁止令』を破らずに、どうやったら滑ちゃんと戦えるか……そう、気づいてみれば単純な理屈だった。取り決められた『喧嘩禁止令』は、(私が滑ちゃんに喧嘩を仕掛けちゃいけない)っていう、すごくシンプルな内容。それだけに抜け道を見つけるのは苦労したけど、一度見つけてしまえば何のことは無いのよね。だって、つまり……」
ゆっくりと、だがしっかりと言葉を継いでゆく彼方の一言一言を注意深く聞きつつ、野蒜はすでに話の半ばで確信へと変わってしまった自身の予想を、どうか当てが外れますようにと願っていた。
しかし、結局は最後、
「……喧嘩が起きたとしても、それが(私と滑ちゃんの喧嘩)でさえなければ、いいってことでしょ?」
まるきり頭に思い描いていたとおりの言葉を彼方は説き、同時、
その救い難い事実を受け止めながら、もはや野蒜は心を色濃く染める落胆に飽いたとばかり、胸を空にするほどの長く、深い溜め息を吐いて、自分とは真逆に希望の光で満ちた彼方の瞳を覗き返してしばし、その場へ立ち尽くした。