それは先触れという名の、ついに来た本格的危険の前兆 (3)
「そんなわけでして、門限を破って長時間外出したままというのはいささか気が咎めると感じ、可及的速やかに雑事を片付けるため、檜風味さんが独断で能力の制限を解除してくださったものですから、ついつい埠頭の一区画を更地にしてしまいました。が、先に申し上げましたとおり、すべては檜風味さんの独断によっておこなわれたことですので、私は何も悪くありません。この人です、この人が悪いんです」
「アンタせめて形ぐらいは私をかばえやっ! 何、しれっと私に全責任転嫁して自分だけパーフェクトに助かろうとしてんだよっっ!!」
激熱の夜から日も改まり、翌日の朝。
大幅に寮の門限を破った件に加え、近くの波止場にある廃倉庫が跡形も無く焼失した件について、当たり前だが事情を説明するようにと学院長室へ呼び出された彼方と野蒜だったが、室内に入った途端、彼方の口から流れ出てきたのは徹頭徹尾、自分に非は無く、もし非がどこかにあるならそれはすべて野蒜へ起因するので、怒るなら彼女だけにしてくださいという、もう何と言うか幼稚園児でもここまでひどい言い訳はしないだろと思うような自己弁護の羅列だった。
揃って横並びに直立不動の姿勢で立つ野蒜を指差し、かしこまった顔をして自分のことは棚に上げるどころか棚の中へ厳重に仕舞い込み、いけしゃあしゃあと述べるその鋼鉄の面の皮へ、さしもの野蒜もガチギレで自分に向けられた彼方の指へかじりつかんばかりの勢いで怒鳴り声を上げたのも、『まあ、そりゃそうだろね』としか言いようがない。
何せ、どう言い繕おうとも実際に事を起こしたのは彼方である。
元々の騒動の原因も、喧嘩を売ってきた不良たちをダース単位どころかグロス単位で蒸発させたのも(世間的な意味でも物理的な意味でも)、埠頭の一角から切り取ったように倉庫ひとつを焼き尽くしたのも、気象庁の記録で昨夜の周辺地域の気温が一時的に45度をマークしたため、「観測史上最高の熱帯夜」としてこの夜が長らく語り継がれることになってしまったのも、どれもまとめて彼方によって引き起こされたのだ。
まともに考えれば、どこにも言い逃れの余地は無い。
まともに考えれば、なのだが、
「ま、若いときは誰しもそんなもんだ。わしも若いときは色々と無茶をしたからな。なんというかこう、若さゆえの過ち? みたいな? そういうの。分かるよ、うん」
残念なことに、ここの学院長はそうした常識的思考から最も遠いところにいる人間だった。
広い学院長室の出入り口対面に配された巨大な一枚ガラスのはめ殺し窓から覗く日輪の輝きを背に受けて、温和に微笑みながらそんな台詞を吐く男……とても90手前の老人とは思えぬ矍鑠としたアインクライネス・アイスビッテは。
「また夜の波止場とかっていうのが今時の若者にしてはシチュエーション的にも気が利いてていいよね。何かな? それも若さかな? それともアンダルシアにでも憧れてたのかな? まあその辺はさておき、今回の一件については元を正せば全部相手が悪いんだし、彼方は罪に問わずという形で。大人というのはこういう時に度量の大きさ、懐の深さってもんを子供には示さんとね」
で、さらになお、こうまで言い切ってしまう始末である。
自身の学院の制服に似たというべきなのか、もしくは単に軍服にしか見えないというべきなのか、やはり尋常のスーツとは明らか、一線を画する違和感・硬質感を漂わせるカーキ色(見た目の印象から、どうにも国防色と呼んだほうがしっくりくることは余談として)のスーツをまとうその襟元から生えた顔は、月並みな表現ではあるがさながらギリシャ彫刻の如き目鼻立ち。
それを後光のように差す太陽を反射する見事なばかりの光り輝くスキンヘッドがより強調する、それはそれはもうほとんどテリー・サバラス……いや、もはやテリー・サバラス……というかテリー・サバラス本人だわ、といった風貌。
実際の権力も、見た目の威厳も、双方を兼ね備えた人間が放つ実状と釣り合わない気楽な物言いほど反応に困るものは無い。
とりわけ、すでにそういったことをある程度予想してしまえるくらい身近な人間にとってはなおさらに。
「……にしても想像はしちゃあいましたが、さすがの身内びいきっぷりですね学院長。むしろ、ここまでやられたらいっそ清々しいくらいに……」
思って、半ばつぶやき声にしか聞こえぬ意見を漏らし、野蒜は自分の予想が充分に的中してしまった現実へ、額を押さえ、うなだれた。
が、すぐに、
「あ、あと檜風味君は監督不行き届きということで責任有りと見なし、罪科としてササッと欠席・欠課を捏造・大増量しとくから、今年度の留年はほぼ確定だと思って覚悟しとくように」
「んで、私にはパワハラかよっ! しかもまたすっげえタチ悪いパワハラだなオイッッ!!」
一瞬前まで充分だと考えていた己が予想の程度をさらに超えてきたアインクライネスの言葉へ反射的に怒号を返す。
「ふうむ……これほど正当な裁定をパワハラ扱いとは、えらく穏やかでない物言いをされたもんだな。ま、仕方ない。わしも鬼や悪魔ではないから、それなり情状を酌量するとして……そうさな、評定最悪にするだけで許すこととしようか。言っておくがこれ、今回限りの大サービス、特別サービスよ? 分かる? この愛の重さ」
「……いや、愛云々とか毎度毎度そういう口先だけでまるきり実利の無い話はマジどうでもいいんで……てか、それも結構地味にキツイんで出来れば勘弁してほしいんすけど……そりゃ、今のとこはまだ進路それほど絞って考えてないからいいかもですが、つまり先々、少なくとも指定校推薦とかはもう今から絶望的になっちゃうじゃないすか……」
「いやいや、心配せんでも君は一般推薦すら絶対してやるつもり無いから安心なさい。大体、君って学業は元々優秀だろう? もっと自分を信じて! それに進学というのは本来、自分の力だけで勝ち取るからこそ価値がある。せいぜい今後も勉学に励みなさい。大丈夫、わしは君なら出来ると信じてる! 信じてるから!!」
「だからそれが完全にパワハラだっつってんだよこのクソジジイッッ!!」
が、なお止むことの無いアインクライネスの行き過ぎたパワハラへ対し、がなりたてたものの、
「さて。というわけで、そろそろこの話は一件落着したし彼方、ちといいか?」
「や、私にゃ何が何で『さて』なのやら、今のやり取りの中で何がどう落着したのやら、さっぱり見当もつかないんすけど……あ、やっぱ最後はお決まりの無視、ですかそうですか……」
そう、無視である。
というより、正確には自分の話はするけど他人の話は聞きませんよという、さすがあの滑の父方の祖父に当たるだけあるねといったところだろうか。
まあ間違いなく滑が人の話を聞かないのは、こいつからの隔世遺伝と見てよい。
とはいえ、そこらの事情を野蒜は知るはずも無し。
よしんば知っていても別段、何かの救いになるわけでもない。
なので力無く呆れ、諦めた声を漏らして頭を抱えた野蒜を当然、アインクライネスはそんな細事へかまける気は無しとばかり、さっさと視線も意識も存念も、そっくり真横へ立つ彼方に集約して見つめていた。
興味の対象が切り替われば、その場の話題も強制的に切り替わる。
そして、そういった祖父の性質を身内ゆえかよくよく理解しているらしく、注視された彼方もまた、これから振られるであろう話題を察して転瞬、少しく表情を引き締めると、
「どうも今日の檜風味君は何だろう……メンス? アンネ? 生理? 月経? どれだか知らんが、えらく怒りっぽくなってるから手短に……」
「かと思えば今度はパワハラからセクハラのコンボかよっ! あとそれ、全部おんなじ意味だよっ! つか、私が怒りっぽいんじゃなくて、あんたが私を怒らせるようなこと言ってんだろっ!? 自覚ねえのかよっっ!!」
「ほら、こんな調子だからな。簡潔に伝えよう」
指向性でもあるように自分へ向けられ飛んでくる野蒜の咆哮を、どれだけ神経が図太いのか、何事も無いようにスルーし、自身と彼方・野蒜らをわずかに隔てる木製デスクへ備わったいくつかの引き出しの中からひとつを開けるや、端をダブルクリップで留めた数枚の印刷物の束を取り上げて机上へ置き、
「お前が興味を持ってた生徒、調べがついたぞ。なるほど、お前が目を付けたぐらいなだけあって確かに(普通の人間)のカテゴリで見たなら相当のものだ。が、それでもわしの見た限り、お前を満たしてくれるほどの相手だとは到底、思えん。しかし……」
カードでも配るように机の上を滑らせ、彼方へと放る。
と、机からしばし宙空を経た紙の束を、さながら直に手渡されたかのような自然さで彼方は手に取ると、そのまま一番上の印刷物へ目を走らせた。
貼り付けられた顔写真。名前。年齢。素行記録。
そのどれもが特に彼方を刺激しなかった。
だが、
「つい先月、その生徒が転入した先を含めて考えれば、もはや手ごたえの有る無しどころではないぞ。もし手を出すとしたらもう遊びや趣味、暇潰しといった気楽な構えは捨てねばならんだろう。ま、よう知った仲ではあるし、念のため先方へ連絡だけは入れておいたが、今度ばかりはわしも諸手を挙げてとはいかん。行くなとまでは言わんが、行くなら相応の覚悟をすることだ。何せ、転入先がこれとなると、さすがにお前が無事で済むという保障が……な」
転入先の校名を見た瞬間、彼方の眼は驚愕で見開かれ、同時、
「……大見得霧箍流……私立燦輝鉄十字学園二年へ転入……」
自身へ言い聞かせるようにそうつぶやいた口元は、渦巻く感情を表すが如く、双眸と相反した凄まじい狂喜を湛え、裂けた傷口が如き笑いを浮かべて赤黒いクレバスを広げるやいなや、
「Opa!!」
やにわに大声を張り上げた。
手に取った書類になどもはや興味も無いと言わんばかり無造作に放り投げ、突進するような勢いでアインクライネスへと視線を移して。
が、言った刹那で我に返った彼方は、
「……コホッ、学院長?」
自らの熱気と、失言に対する忸怩で流れ出た、汗とも冷や汗ともつかないおかしな体液が頭皮を抜け、こめかみを滴る感触を味わいつつ、わざとらしげな咳払いひとつして誤魔化そうとしながらすぐに落ち着きを取り繕って呼び名を訂正する。
「別に構わんよ。どうせ聞きたいのは滑との喧嘩禁止令についての質問だろう? なら身内の話だ。公私を分けて話すなら、むしろOpaのほうで合っとる。崩して話すといい。身内の話は気楽に、な」
「え? なら……」
「しかし変な期待はするんじゃない。滑との喧嘩禁止令は今でも継続中。こればかりは破ったらさすがのわしでも庇い立て出来ないぞ。というかお前、以前に滑と喧嘩して三度も死にかけたのにまだ挑もうとか、いつもながらどういう神経してんの? 何? お前ってサドだとばっかり思ってたけど、実はマゾなの? 何なの?」
「Opaは年嵩の割に見識が狭いなあ……いい? SMっていうのはSとMの両方こなせて始めて一人前なんだよ? 痛めつけるか痛めつけられるか、どっちか一方でしか楽しめないのはまだ半人前。その点、私はもう大人だから、滑ちゃんを焼くのも、滑ちゃんに吹っ飛ばされるのも、どっちも好きなの。というか大好きなの! 嬉しい、楽しい、大好きなのっ!!」
「ほう、それはそれでなかなか興味深い話だ。感動的だな。だが無意味だ。そして釘を刺しておくが、鉄十字へ喧嘩しに行くのまではよしとしても、滑とはダメ、絶対!! これだけは守らなきゃホントにもう知らんよ? ホントのホントに知らんよ? 分かってるはずだが、わしと違って上は怖いぞ? わしだっていまだにちょっと怖いと思うくらいだからね? だから絶対あいつ怒らせてもお前のフォローとかしてあげないからね? 知らないからね? 泣いても喚いても絶対に助けてあげないからね!?」
「……うぅ……」
話を逸らされてからの完全シカトという流れで、途中からまったくの傍観者となっていた野蒜には、果たしてこの二人が何の話をしているのやらほとんど理解することが出来なかったが、ただ漠然とその現在進行形で語られている問題が野蒜の知る限り嘆息程度ならしこそすれ、苦鳴を漏らすようなことは山中幸盛が尼子を嫌いになるぐらい彼方には有り得ないことだと思っていた彼女へ非常な驚きとともに、難解なふたつの疑問を与えていた。
ひとつは、ちょくちょく話の中で出てきた『滑』なる人物について。
話しぶりから察するに、どうも過去にも何度か彼方はその滑とやらとやり合ったことがあるらしいが、いずれも負けか、それに近しい結果で終わったような内容。
そこへまず驚かずにはいられなかった。
無論、世間が広いことは理解している。自分が認識している範疇の世界など、まだまだごく一部でしかないないのだろうという予想も、頭では成り立っている。
しかしそれでも、彼方の能力は甚だしく強力だ。
おおよそ知覚できる範囲ならどれだけ離れた場所であろうと、どんなに広範であろうと、どんなに狭小であろうと、自在に発火させる能力は、その際立った細密な能力コントロールと戦術眼が合わさることでほぼ比喩的な意味ではない本当の(無敵)に限りなく近い存在である。
しかも彼方は火がプラズマであるということに着眼し、自身の発火能力をより精緻に操作することでプラズマ加速やプラズマの生成時に生じる磁場などを用いた擬似的なPsychokinesis(念動力)すら持ち合わせているうえ、聞いた話でしかないが理論上、発火に際して発生させられる熱量の限界値は実に1プランク温度(絶対熱)にまで達するという。
摂氏で表記すると1420,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000℃。
もはやカンマで区切ってもゼロの数が合っているのか確認しなければ不安になるほどの馬鹿げた熱量。てか、ほんとに馬鹿じゃねえの? なんだコレ?
こういうのをまさしく、天文学的数字って言うんだね。きっと、うん。
そういったわけで正直、少し手前味噌になってしまうものの、野蒜は自分のようなかなり特殊で強力な拘束力のある能力でも持ち合わせていない限り、こんなガチのバケモノにどうやって勝利する方途があるのか、そこがもう想像すらつかない。
で、これだけでもすでに頭の中はクエスチョン・マークが雨後の筍並みに大発生しているにも係わらず、まだ疑問は残っている。
難解なふたつの疑問と書いた通り、なおもうひとつの疑問が。
それは、
「というわけだから、鉄十字学園に乗り込むまではよしとしても、あくまで相手するのは当初の目当てだった子とかだけにしときなさい。滑とは絶対にやり合うな。上は子供の喧嘩を咎めるほど狭量じゃないが、約束破りは絶対に許さないって、お前もよく知ってるだろう? だから上に怒られたくなければ、そこだけはきちんと守りなさい。いいね? お返事は?」
「……はい」
一時の興奮はどこへいったものやら、しょげ返って頭を垂れ、暗然とした調子で返事をする彼方を見て、一体この怪物をここまで気落ちさせる『上』という人物とは如何なる者なのか。
これまた、どころか下手したらさらに想像がつかないよその身内事情を思い、この時ばかりは野蒜もただ、彼方の失望に満ちた横顔を疑問のあまり90度近くまで傾げながら延々、覗き込むよりほか為すことも無かった。