それは先触れという名の、ついに来た本格的危険の前兆 (2)
人生は後悔の連続である。
よく、「後悔の無い人生を送るために……」だとか、「我が生涯に一片の悔い無し」とかほざく輩がいるが、すなわちそれはそれだけ後悔だらけの人生を送ってきた証拠だともいえよう。
後悔を経験していない人間は、そもそも後悔という言葉自体を使わない。
後悔とは、後悔という言葉を使った時点で大抵、もうしているものなのである。
まあ、後者の台詞に限って言えば、オリジナルで叫んだ人物は例外的に後悔していないと思うが。
さておき。
そういった稀有な例外に含まれない、十人並みな後悔を背負った少女がここにいる。
檜風味野蒜。
私立極楽大往生学院一年生。
思えば彼女の不幸と後悔は、この学院を受験した時でもう決定していた。
やたら世間体を気にする母と、無駄に昨今の若者たちの性の乱れを憂う父。
加えて、浄土真宗西本願寺派である母方の親戚連中と、禅宗である父方の親戚連中との極めて馬鹿馬鹿しい宗教観の対立が激化した結果、何故か直接的な係わりなど何も無いはずの野蒜に、しかも高校受験も差し迫った中学三年の折に、紛う事無きものすごいとばっちりが襲来する。
やれ、「レベルが高いのは当たり前。世間的にも評判のいい学校にしなさい」だの、
やれ、「共学だなんて破廉恥な! 女子高以外はお父さん、絶対に許しません!!」だの、
やれ、「まあ進学先は仏教系の学校なのは確定だとして、どうなの? 結局あなたは浄土真宗なの? 禅宗なの? どっちなのっ!?」だの。
自分の意向などまるで聞く気も無く勝手なことを言う身内たちを絶望の眼差しで見つめつつ、それでも扶養家族の悲しさから、必死で日本全国、北はカムチャツカ半島から南は岐阜県までの(日本全国の基準が変!! というツッコミは覚悟の上で)あらゆる高校を精査し、ようやく三河武士よりめんどくさい身内ども全員を納得させる進学先として選び出したのが、繰り返す必要も無いが極楽大往生学院であった。
女子高で、しかも全寮制。
学力も学校自体の評判も全国トップクラス。
トドメは仏教系だけど特定の宗派には属していないというユルさ加減。
はっきり言って、ここまで条件が整っている学校があること自体ほぼ奇跡に近かったのは間違いない。
実際、野蒜自身は探している最中も頭の中ではもう高校を諦めて高卒認定試験を受け、直接大学へ進学する覚悟さえ決めていたため、余計にその発見時の喜びは大きいものだっただろう。
だが、現実とは皮肉なものである。
最良の選択だと思い、苦労しつつも何とか狭き門をくぐって入学したにもかかわらず、実はこれが最悪の選択だったのだと気づいたときにはもう遅い。
世間様では、それはそれは評判の良いお嬢様学校という認識だったものが実際は、
一般人の感覚で見たらどうやっても軍服にしか見えない制服。
俯瞰して目にされたら確実に物騒な誤解を招くこと必定の卍型校舎。
それら常軌を逸した事柄を、自然にか諦観からか、ラフな感じで受け入れちゃっている学校関係者と生徒たち。
ただ、これらはどれも事前に学校見学などで確かめられる内容ばかりなだけに、野蒜自身の粗忽も手伝ってしまっていることは否定できないが。
とはいえ、不幸は不幸。
注意が足りなかったのは事実だとしても、不幸は不幸。
そして何より不幸だったのは、
「で、あそこが約束の場所かしら? 野蒜ちゃん」
日もすっかり落ち、薄く延びた夜空の雲間に瞬く星の下、まばらな外灯に照らし出される波止場隅の古びた倉庫を遠巻きに眺めつつ問うてくる、獄門坂彼方という比類なき異常性格者に出会ってしまったことだろう。
思い、野蒜は己が運命を呪うのもやっとこさ、諦念が満ち過ぎて無感情に聞こえる声音で答える。
「はい、指定されたのはあそこで間違いないです。時間も指定通り。というか、『立ち入り禁止の波止場の、第三倉庫で八時半』なんてすこぶる簡潔な指定だったから、逆に間違えようがないすよ。ただまあ、ここの波止場って別に立ち入り禁止じゃないんで、そこだけが微妙に謎なんすけど……」
「野蒜ちゃん、ワルを気取りたい子たちっていうのは本能的に立ち入り禁止の場所とか、裏道なんかを好むものなのよ。それに細かく言えばここだって『関係者以外立ち入り禁止』なのは確かだから、あながちその表現も間違いってわけではないわ。ちょっと言葉足らずなだけで」
「そんなもんなんすかねえ……」
「そんなものよ。大体そこを言い始めると、はて八時半というのは朝の? それとも夜の? とかって余分な疑問も出てきちゃうでしょ? 物事はある程度、素直に受け止めたほうが楽だし正確なものよ」
言って、彼方はわずかに首を前へ傾けて目を細めると、煤けた水色の塗装が剥げた部分から潮風による侵食を受けて錆び、赤茶けた模様を映し出す倉庫の扉周りを徘徊する人影たちに焦点を合わせた。
「武装はやっぱりありきたりね……外で見張ってるのは三人。それぞれ鉄パイプと金属バット……残り一人はナイフちらつかせて遊んでる……」
「ここまで見事にテンプレだと、むしろ妙な安心感すら覚えますね」
「人の期待を裏切らないって大切なことだもの。そういう意味では敵ながら天晴れだわ」
「けど、命を助けてやる気は無いんでしょ?」
「物騒な言い回しはよしてちょうだい。私はただ彼らを土に還すだけよ」
「……土じゃなくて、灰だと思いますけどね……」
さも当たり前のことのように訂正する彼方の言葉へ、小声で反論しながら野蒜は夜の海辺に漂う湿った潮の香りを鼻から吸い、呆れ気味に嘆息した。
さて、
そもそも彼方たちがこんなところにいる理由は、今から三日ほど前の出来事にさかのぼる。
学校近くにある商店街の、行きつけの輸入雑貨店へ学校帰りに揃って来店し、台湾の黒松沙士といった飲料や、フィンランドのサルミアッキといった菓子など、初見殺しでマニアックな飲食物を嬉々として漁る彼方を野蒜が死んだ目で見つめていたとき、急に店の外から聞こえてきた男女の不穏な声に反応してそちらを覗いたところ、近所の共学校の生徒らしき不良男子が数人で、二人連れの女子を無理にナンパしていたのである。
この時、その制服を見てすぐさま女子たちが自分たちと同じ極楽大往生学院の生徒と知るや、彼方の性格を嫌というほど理解しているいる野蒜は、血の気の失せてゆく己の顔を気にする間も無く即座に不良男子と女子との間に入ってゆこうとしたものだが、
まあ、
何と言うか、
お察しのとおり。
間に入ろうと思ったときにはもう、終わっていた。
おびえた様子で立ちすくむ二人の女子はそのままに、取り囲んでいた不良男子たちは、
ある者は閉店した店のシャッターに突き刺さり、
ある者は道の脇に止めてあったハイエースの側面へ突き刺さり、
ある者は空を自由に飛びたかったのか、商店街真上のアーケードに突き刺さり、
等々。
人間が投擲武器だったなんて知らなかったよ……という、えらく思考の混乱した野蒜をよそに、とっくで瞬殺を終えた彼方が何事も無かったかのような顔で買ったばかりのサルミアッキをモチモチと咀嚼しながら肩をつついてきたのへ、はたと我に返り、その場を後にした。
と、ここまでならば、ここで話は終わる。
いや、普通は普通に傷害沙汰で警察沙汰なのだが、そこは近所の人々も彼方がどれだけ危険かをそれなり知っているため、わざわざ通報もしないし証言もしない。
触らぬ神に祟り無しという考えは、今も昔も変わらないのだ。
が、困ったことに、
この時は少しばかりイレギュラーが発生してしまった。
実は、自校の女子らに絡んでいた不良男子たちはその場にいたのがすべてではなく、隠れて遠巻きに成り行きを見ていた者がいたのである。
そうなるともちろん、情報は漏れる。
いつの時代も無駄に行動力があるのが不良の特徴ゆえ、次の日の朝にはもう三十人からの人間が登校してくる彼方と野蒜を校門前で待ち構えていた。
この辺り、完全に無関係で巻き込まれている感じがなんとも野蒜の不幸体質を物語っているが、ひとまずそこはさておいて。
ただ、この際に限ってのみ言えば、事は穏便だった。
相手方は単に改めてケジメ(あくまで彼らにとってのであって、彼方らからしたら単なる逆恨みとしか受け止められなかったが)をつけるため、再戦の日時と場所を指定するだけに留まった。
で、
こんなものはそれこそ警察に通報するなりしてバックレを決め込んでしまえばいいものを、何故か律儀に売られた喧嘩を買ってしまうのが彼方クオリティなのである。
というわけで現在。
世間的にはお嬢様学校で通っている女子高の生徒二人が、夜の八時過ぎに埠頭の隅に鎮座ましますボロ倉庫を影から眺めている。
「ふむ……一昨日、人の学校まで乗り込んできた時の人数を考えると、倉庫の中には最低でも三十人以上いる計算かな?」
「でしょうね。揉めた次の日にさほど用意も無く三十人からの人数を集められたんですから、下手すると百人や二百とかいても不思議じゃないかもしれませんよ?」
「百や二百かあ……それは楽しそう……なんだけど、うーん……」
「何か問題でも?」
何やら歯切れも悪く、難しい顔で帽子の鍔を弄りながら言う彼方へ野蒜は問う。
「いや、数が多いのはねえ……それだけ遊べるから嬉しいんだけど、ちょっと時間かかっちゃうかなって……ただでさえもう寮の門限は破ってるわけだし……」
「そんなん、少し急げば大丈夫でしょ? 獄門坂先輩が本気になれば、それこそ相手が百だろうが二百だろうが何分とかからずに片付けられるはずじゃ?」
「あー……まあそうなんだけど、それはあくまでただ片付けるんならって話であって……」
「?」
「こうさ、数が揃ってるとどうしても遊びたくなっちゃって、ついつい一人ずつ念入りに苦しみ叫び、這いずり回らせ、然る後に三途の川へ向かわせたいっていう、欲? 煩悩? みたいな? そういうのが出ちゃいそうだから……」
「……」
そう、困ったような照れくさそうな笑顔を浮かべて野蒜のほうを見、指で頬を掻きつつ答える彼方の様子を目にし、思わず絶句しながらもどこか納得して息を漏らした。
冷静になってみれば今さら不思議に思うほどのことでもない。
今、目の前にいるこの生き物がどれだけ人として破綻しているかを自分は何度と無く目にしてきている。
人格的にも、性格的にも、衝動的にも、能力的にも。
だからこそ、
こんなとき悩ましく額を押さえてうつむいた自分が取るべき道も心得ている。
一般常識の通用しない相手に、一般常識で導き出せる答えなど当てはめようが無い。
ゆえに、
「……分かりました」
与えるべき答えもまた、非常識とならざるを得ない。
「五分だけ制限解除します。その間に、さっさと済ませちゃってください。私もお目付け役の立場とはいえ、これ以上こんなとこに長居させられるのはメンドイんで……」
途端、
嘆息して言ったこの野蒜の言葉を聞き、彼方は両の目をかっと見開いて輝かせるや、
「ホントッ!?」
はしゃぐような調子で確認を飛ばす。
「マジですよ。まあバレたら怒られるかもですけど、どうせ身内に甘々な学院長のことだから、結局はいつもみたいに『ま、若いときは誰しもそんなもんだ。わしも若いときはウンヌンカンヌン……』とかで済まされるに決まっ……」
刹那、
野蒜が答えきるより早く、まるで言葉尻を遮るようにして瞬間、目の前が真っ白になったのかと見紛うほどの強烈な閃光が視界全体を包み込んだ。
と、ほぼ間を空けず、
焼け付くような光に照らされた夜空へ凄まじい叫声が轟く。
光に焼きついた視界はまだ回復しない。
だが、何が起きたのかは容易に想像がつく。
必死の叫びは複数が重なり、波止場全体へ広がって響き渡り、どこから聞こえてくるのか定かでない。
だが、何が起きているのかは容易に想像がつく。
しばしして、
うっすらと視力が戻り始めたその目でようやく野蒜が捉えたものは、
やはり想像通りのもの。
天をも焦がすほどに高く燃え上がる第三倉庫。
その外をうろついていた連中だと思しき人型の走る炎。
ならぬ、絶叫しながら走りながら燃えながらと忙しい人間たち。
やはり想像通りのもの。
「うーん、こうなると中の連中は大変ね。熱で変形しちゃってるからもうどこの出入り口も簡単には開かないだろうし、まさしく倉庫の中は焦熱地獄の様相ってとこかしら?」
「……でしょうね」
「よっし! となれば久々の制限解除だし、ここはもういっちょ火力を上げて、大焦熱地獄にランクアップしちゃおっか!!」
「……お好きにどうぞ……」
答えが早いか瞬刻、
すでに限界かと思われていた加勢はなおも強まり、倉庫から発せられる熱量の激しさに、周囲を突風が吹きすさび、目どころか肌すら焼け付く熱波に、野蒜は強く顔をしかめた。
溶解する鉄骨。
崩れ落ちる屋根。
赤熱して液状化し、流れ出すコンクリートの外壁。
わずかに、
わずかに、時を惜しんで制限解除した自分の選択を悔いながら、熱帯夜とはまるきり意味も熱さも違う熱気によって流れ出す汗を拭いつ、野蒜の決してよろしくない意味で慣れてしまった思考は、ただ一分一秒でも早く寮へ帰ってシャワーを浴びたい。
その一点のみであった。
檜風味野蒜。
極楽大往生学院に入学後、偶然にも『能力持ち』の能力使用を制限することができるという極めて特異な力を持っていることが分かり、以来、彼方が暴走しないようにとお目付け役を押し付けられた不幸な『能力持ち』。
制限能力者、Restricter。