それは同級生という名の、他力本願な疑似雪女 (6)
「すみばせん……ご迷惑をおかけしでしまっで……」
「……いいって、気にすんなよ。お互い、滑に関わったのが運の尽きってね。これだって単に俺が他人事だとは思えないから勝手にやってることだかんな。間違っても、貸しとか借りとか、そういうめんどくさいことは考えないでくれよ?」
「……?……はあ……」
マイナス65度という過酷な環境下で長時間、走り続けた疲労。
加えて滑の考え無しなショットガンの乱射による流れ弾が、まとまって自分の周りに着弾したことで被った精神的ショック。
これらによって行動不能(一般には腰を抜かしているという表現も存在するが、当人が頑なにそれを認めなかったため、こちらの表現となった)に陥った箍流を、抱え起こして背負いつつ、蓮春は彼女と何気無い会話をしたが、どうやらやはり箍流に蓮春の言っている意味は通じていないらしい。
印象と情報は先に刷り込まれると、上書きや修正が効きにくい。
特に彼女のようなアメーバ的単細胞思考しかできない人間の場合、いっそう困難だ。
が、済んでしまったものを後になってとやかく考えても詮無いと、蓮春も分かっていた。
だからあえて考えないことにする。
自分自身を振り返れば当然の答え。
どう対策しようと、どう抵抗しようと、滑に関わった時点で諦めるしかない。
とっくに学んだこと。今更、徒労を繰り返すのも馬鹿馬鹿しい。
思って蓮春は蛇足の言葉は継がず、さらに、
(……箍流ちゃんって、見た目以上に胸あるんだな……)
という、背中から伝わってくる柔らかな感触により引き起こされた本能的な声をも心中で握り潰し、代わりに七雪へ話し掛けた。
「あー……と、まあ本来ならもっといろいろ話したり……主に謝ったりしなきゃなんないとは分かってんだけど、連れがこんなんなっちゃったからさ。すまねえけど、今日のところはお暇させてもらうわ。騒がしたね」
「とんでも……ないです。私のほうこそ……私なんかに会いに来てくださって……お礼をいわなくちゃいけないのは私のほうで……」
「ん……? いや、まあ好意的に受け取ってくれんのは嬉しいけど……俺の感覚からすると、迷惑かけた覚えしかないんだけどな……」
蓮春的には理解に苦しむ、不思議な心情を語る七雪に、いまいち思考のピントが合わずに何やら妙な気分になる。
だが、すぐにそれも立場の違いを考慮に入れた途端、割とすんなり理解できた。
七雪の力は強大だ。それこそ、非人道的と分かっていても、こんな場所へ閉じ込めているのが納得できてしまうほどには。
しかし七雪の精神が、その持っている力と同じく非常識であるかは別問題だということ。
詰まる所、当人が望んで手に入れた力でもない限り、七雪は精神面で言えば一般人と何ら変わりがないということ。
だとすれば、こういった反応も分からないほどではない。
などと、
短い間に自分の中でそれなり納得できそうな答えが導き出せたと感じた蓮春へ、
「ほら、蓮春君。何を起床直後のようにぼんやりしているんですか? 私は優しいので忠告しますけど、すでに平均的な人間が耐えられる時間はとっくに過ぎています。ふたりとも、もういつ凍死してもおかしくない状況だというのを分かっていますか?」
すでにひと足早くエレベーターに戻り、乗り込んでいた滑が、退屈そうに腕を組み、エレベーターの床をつま先でコツコツと踏み鳴らしながら問うてくる。
そしてそれを聞いた途端、蓮春は恐らく極限的な寒さによって一種の思考障害を起こしていた自分に咄嗟で気づき、
「やっべ……そういえば、もう随分前から手首と足首から先の感覚がほとんど無え……」
見事なまでに内心と言葉がシンクロし、ささやきとなって溢れ出した。
それと同時、自分とほぼ同一の立場にある箍流を心配して首を回し、背負った彼女へ話しかける。
「だ、大丈夫か? 我ながら聞くのが遅れたけど、箍流ちゃんは体とか……」
「えーど……何とが大丈夫だと思います。鼻と耳が無いみたいな感じはしますが……あ、あとは両手の肘から先と、膝から下の感覚が無くなってるぐらいで……」
「はい、完全アウトだそれっ! さっさと帰るぞっっ!!」
手短な応答を終えるや、蓮春は一目散に教室からエレベーターへと乗り込んだ。
考える必要さえ無い状況であることを、遅ればせながら理解して。
ところが、
「オーケーです……と、出来れば言いたいところなんですが、少しばかり時間を掛け過ぎましたね。もうさすがに全面的オーケーとは……いくらおおらかな私といえど、言い難いところです」
「……へ?」
「これですよ、これ」
自分の発した言葉に、間の抜けた疑問の声で返す蓮春へ、滑は分かりやすくオーケーでない理由を、ノックでもするようにコツコツと指で叩いて示す。
エレベーター内。すでにこちらへ一緒に来たメンバーはすべて乗り込み終えている。
その、メンバーのひとりを、
滑はノックしていた。
凍りついたミシュ○ンマン。
ではなく、
冷凍マグロ並みに芯まで凍結した鉄道を。
ひどい話なのは分かっている。友人を忘れていたなど。
といって、真実から目をそむけることはできない。
自分自身も余裕が無かったとはいえ、蓮春は鉄道のことが今の今まで、まるきり頭の中から抜け落ちていた。その事実は変えられない。
結果が、
「ご覧の有様だよっ!!」
「うっせーわっ! こんな大事が起きてる時に地の文を先回りして口述したりとか、くだらねえ遊びしてんでんじゃねーっつのっっ!!」
そう、
先に言われてしまったが、このような有様である。
ただ、付け加えるべきことはあるので述べておこう。
まあ、地の文の意地だとでも思っていただきたい。
本来は仕事を奪われた私が怒るのが筋なのだが、そこは蓮春が代わって憤激してくれたので良しとして、問題なのはその後であった。
「ふむ……それだけ怒る余裕があるなら、蓮春君に関しては心配しなくとも問題は無さそうですね。では、余裕の無い私は、余裕の無い行動へ移らせていただきましょうか」
「余裕なんて微塵も無えよ! 俺のどこをどう受け取ったら余裕あるとか、ふざけた判断できんだお前はっっ!!」
「……ほお……ということは、蓮春君は今現在の私よりも余裕は無いと。そう言いたいわけですか…?」
「んなもん、決まって……え、え?」
疑問形の声を上げながらも、蓮春はこの短い会話の中でひとつ、とてつもなく重大な事柄を察知して身構える。
それは長い、長い経験則によって彼が習得した危険予測。
ここに来てからすでにかなりの時間が経過した。
にもかかわらず、
今日は滑がルートビアを口にしているのを見ていない。
これが何を意味しているのか。
幸か不幸か、蓮春は知ってしまっていた。
「おおよそ、小一時間ですか……マイナス60度以下の場所に炭酸飲料……でなくとも、飲み物を持ち込めないのは覚悟していたからまだギリギリで耐えられていますが……さすがにもう限界が近いですね……」
冷汗……いや、
脂汗が流れる。滑の言葉を聞いて。
落ち着いているように聞こえるが、明らかに正常でない精神状態なのを示唆する空気を漂わせる、滑の言葉を聞いて。
「……あの……滑……さん? そんなに余裕が無いんでしたら、それこそすぐにでも上に戻ったほうが……」
普段は絶対に使わない、丁寧な口調で蓮春は滑へ問いかける。
寒さからではない、声の震えを懸命に抑えつつ。
されど、
「いえ。そうしたいのは山々ですが、このまま帰ろうとした場合、下手をするとエレベーター内で私が暴発しかねません。ので、少しガス抜きしてから参りましょう」
答えた瞬刻、
滑はエレベーター奥で凍り付いていた鉄道の首元を掴むや、マネキンでも投げつけるようにエレベーターの外へ放り出すと転瞬、
目にも留まらぬ早業でショットガンを腰撃ちの姿勢に構え、
まだ不安定に宙を舞っている状態の鉄道へ向かい、ポンプアクションの音も置き去りに、
撃った。
瞬間、
小型爆弾の爆発を思わせる強烈な衝撃と発射音の後、
一瞬にして空中の鉄道は細かく赤い氷片と化して放射状に爆散する。
大量の硝煙と、高温化で発生した煙の如く漂う湯気の中で。
そうして、
露の間を置き、それらがパラパラと音を立てて床に落ちてゆくのを眺め終えると、滑はマリアナ海溝のように深い息を吐き、
「……はー、これで幾分は気持ちが軽くなりましたね。銃の残弾もこれでちょうどゼロ。ありがとう鉄道君。私のストレスの軽減に役立ってくれて。多分また会うことになるとは思いますが、君のことは出来るだけ忘れられるよう努力します」
「……」
少しく機嫌が上向いたようにそんな台詞を口にする。
なのに、珍しく蓮春は無言を通した。
自分の背中で低体温症による意識障害を起こしている箍流と一緒に。
いつもなら怒鳴りつける場面であるはずが、蓮春は無言を通す。
というより、口など開けなかった。
過去の記憶から、ルートビアの切れた滑がどれだけ危険であるかを知っているがゆえに。
すると、
「あ、そうそう。七雪さん?」
やにわに滑は再び口を開いたかと思うと今、眼前で起きた惨状に目を白黒させている七雪へ話しかける。
「は……え、は、はい……?」
「せわしくて申し訳ありませんが、今日は顔合わせだけで失礼をさせていただきます。積もる話は後日、ゆっくりといたしましょう。何しろ……」
当惑も露わな七雪に、優しく微笑みながら、
「私たち、もうお友達ですからね」
言って、滑は小さく手を振りつつ、エレベーターの(閉)ボタンを押した。
やおら、扉は閉まり始める。
エレベーター内の、
微笑む滑。
死をも覚悟し、焦点の合わぬ目を薄く開いた蓮春。
その背中で白目を剥いている箍流。
そうした三人の姿を少しずつ遮り、消し去ってゆく。
教室にひとり、
そんな彼ら……滑に向かい、それまでの複雑な表情はどこへやら、
眩く、輝かんばかりの笑顔を湛え、喜びのあまり言葉も無く、一心不乱に両手を振り続ける七雪を残して。