それは幼馴染という名の、超越した完璧狂人 (1)
真夏の、浅い睡眠からの目覚めは実に不快である。
取れない疲れ。
交雑する眠気とだるさ。
脱水に軋む体のあちこち。
たとえ意識が先に覚醒し、枕に埋もれた頭から横倒しの光景をその目にしても、粘り気を持ったような体は脳からの(起きろ)という単純な指令にも容易に従わない。
結局、大半の人々は半身を起こす動作だけでも非常な精神力を削られる結果となる。
眠りによって体力が回復していないのに加え、朝から無駄な精神疲労。
これでは夏バテに悩まされる人が絶えないのも至極当然だろう。
さて、
ここに一人の少年が自室のベッドで眠っている。
少し正確に言うと、学生用の男子寮。その一室で。
頻繁に寝返りを打ち、うっとうしそうに水色をした薄手のタオルケットをもがくような手足で跳ね除け、鼻を抜ける生温かい空気と一緒に小さな苦鳴を漏らしながら。
見れば顔もしかめている。
悪夢にでもうなされているのかもしれない。
だとすれば彼の寝覚めはこの時点で最悪なものとなるのは明白だろう。
が、
それはまだあくまで常識的な範囲の最悪。
非常識をも範疇に入れれば、実のところさらに下はある。
刹那、
狭い室内をけたたましい電子音が響いた。
ベッド脇の机に置かれた目覚まし時計からの音。
時刻はデジタル表示で7時30分を指し、単調で人の気を荒立てるよう設計された耳障りな音が、プラスチック製の小さな箱から流れ続ける。
それはあと数秒、
そう、
あとほんの数秒でも鳴り続けていたなら、ベッドの少年に快適とは言わないまでも人並みの目覚めを与えてくれたろう。恐らく。
しかし、現実にはそうならなかった。
目覚まし時計が目覚まし時計としての職務をまっとうしようと、神経に障る音を垂れ流し始めてほんの1、2秒ほど。
騒音に満たされていたはずの室内が突如、静まり返る。
いや……実際には静寂など訪れていない。
錯覚。
両極端による錯覚。
現実はまさしく真逆。
思い返せば目覚まし時計の機能が発動したのを合図にでもしたような突然の出来事。
覆ったのは静けさではない。
耳を引き裂く……どころでなく、
部屋そのものを振り揺するかの如き轟音。
それへ包まれたとき、聴覚はその知覚限界へと達し、一時的に無音と錯覚したのである。
だが無論、それはひとときのこと。
すぐに事実は追いついてきた。
時間軸を戻そう。
真実、起きた出来事を説明するため。
7時30分、机の上で目覚まし時計が鳴って数秒後、
少年の寝ている部屋のドアが、爆発した。
それはもう派手に。
まあ、正しく言うとドアは外側から爆破されたわけなのだが。
いずれにせよ、このことを理解するまでに当の部屋で寝ていた少年が辿らねばならなかったプロセスは過酷としか表現のしようが無い。
何せ朝、寝ているところへいきなり自室のドアが爆発である。
単純に済むほうがむしろおかしいだろう。
少年は瞬間、麻痺した聴覚を即座に音というより直接物理的な鼓膜への激震で無理に復活させられ、爆発に伴う地震のような部屋の揺れもあって、強引に意識は覚醒したものの、そこで終わりとなるほど甘くは無かった。
何故なら目が覚めた以上、もはや嫌でも現実と向き合わなくてはならないのだから。
狭い室内に残響する爆発音。
吹き荒れる爆風。
その爆風に乗って飛ばされてくる木片、金属片、コンクリート片。
舞い上がる粉塵は開いたばかりの視界を奪い、起き抜けの渇いた喉を傷めつける。
そうした中、少年は何をしていたかといえば、
右往左往するばかりであった。
とはいえ、これも致し方ない。
我が身に降りかかったことだと想像するなら。
朝、眠っているところへ急に自室のドアが爆破されて冷静でいられるほうが異常だ。
戸惑いもせずにいられたら逆に心配すらしてしまう。
などと、
妙な言い回しになるが、少年が正常に錯乱して何が起きたか分からぬままベッドから飛び起きて無意識、ドアから最も遠い(といっても6畳の室内で離れられる距離などたかが知れている)窓際の壁へ背中を押し付け、驚きのせいで声すら出せず、恐怖に引きつった顔をして寝汗、冷汗、脂汗を惜しげも無く頭から額、頬、顎へと伝わし、フローリングの床へ垂らしながらドアの存在していた辺りに漂う、独特の甘く煤けた匂いのする爆煙を見つめることしばし。
徐々に煙と塵埃が上昇しつつ薄まり始め、見えてきたのは下に一部を残して文字通り微塵と化した部屋のドア。
それを、
部屋の外から飛び込んできた蹴り足が乱暴に吹き飛ばした。
途端、
「やあ、おはようございます蓮春君」
いまだ遮る灰煙の類を気にもせず、ちょうど(邪魔だ)とばかりに残されたドアの残骸を蹴り飛ばしたその足で、部屋へと侵入してきた人物は、とても状況にそぐわぬ軽く陽気な調子で言いつつさらに歩を進めてくる。
そして、
眼前を漂う大量の煙を薙ぎ、入ってきたのは、
一人の少女。
くすむ視界を断ち、踏み込んでくると鮮明な姿を少年の目に映す。
かなり大胆というか、派手なアレンジを加えたウルフカットの髪は、部屋の外、廊下側の窓から差す朝日に照らされ、眩く輝くプラチナブロンド。
瞳の色は洋風ならサイアン・ブルー。
日本的に言うなら緑がかった千草色といったところだろうか。
どちらにしろ日本人の風貌ではないことは明らかである。
さりながら、顔の造形は特別大きな両の眼以外、むしろ外国人的ではない。
鼻は小さく低く、口もごく平均的な大きさと唇の厚み。
身長は目算で170以上はあるだろうといった感じだが、小洒落たデザインのブレザーに身を包んだ様子は、大柄に見えるはずの印象を若干、緩和している。
すると、
「やはり晴天の広がる日というのは清々しい気持ちになりますね。そしてそのせいか、今朝も朝一番に嗅ぐニトロの甘い香りはまた格別です」
真っ直ぐに、見開いた双眸で蓮春と呼んだ少年を見つめて少女が言う。
微笑した口元へ、右手に持っていた紙コップから伸びるストローを近づけながら。
そうこうするうち、
ほぼ煙も雲散し、視界も明瞭になると少女に蓮春と呼ばれた少年は気抜けて背をつけていた壁を30センチほどずり落ち、折れかけた両膝でかろうじてその場へ留まるや、嘆息するように少女へ話しかけた。
「……滑……お前、また人の部屋のドア……」
「おやおや、ようやく気づきましたか? そうですよ、たとえ寝起き早々の緩慢な思考といえど、毎日毎朝、君の部屋のドアを吹き飛ばしている私の苦労はきちんと理解してもらわなければ困るというものです。大体、手間だけでもそうですが爆薬その他、材料だってタダじゃないんですから、少しは散財をする私の身にもなってもらわないと」
「だから……なんでわざわざドアを吹き飛ばしたり……」
「そう、重要なのはわざわざドアを吹き飛ばすのがどれだけ大変かということです。まあ金銭面の話をするのは無粋ですし、私も別にそう懐に余裕が無いわけではないですからその辺りまでうるさく言うつもりはありませんが、それでも長い付き合いの幼馴染が来る日も来る日も頑張ってる事実をもう少し真剣に受け止めてくれないと、さすがの私も虚しさと悲しさで不機嫌になりかねませんよ?」
「いや、だから……」
そこまで言い、蓮春は言葉を続けるのを止める。
この行為に芥子粒ほどの意味も無いことを思い出して。
思えば彼女、獄門坂……獄門坂滑は幼少の砌に知り合ってから今の今まで、一度として人の話を聞いたためしが無い。
悪い意味ですべてのことを完璧に自己完結している人間へ真面目に対話しようとするのは壁に向かって自説を説くより無意味だ。
むしろ徒労である分、なおひどい。
諦め、首を後ろに倒して後頭部を壁につけると、まだうっすらと靄のかかった天井が目に入り、溜め息が漏れた。
「あら、いけませんね。考えたら私、蓮春君を起こそうと来たはずだったのに、こんなのんびりしていたら遅刻してしまいます。せっかく早起きしてルートビア買ってからドアを消し飛ばそうと急いで支度してたのをすっかり忘れるとこでしたよ」
「お前……これだけのことしといて優先順位はルートビアのが上かよ……」
「ごく一般的な価値基準でしょう?」
「……」
滑のこの返しに、呆れていたところをさらに呆れ果てた蓮春は、改めて常識の通用しない相手を前にしているのだという現実に、なんとも難渋さに満ちた顔をする。
「ふむ、蓮春君が何をそんなに難しそうな顔をする必要があるのか知りませんが、大雑把に言うとそんな流れですかね。ちなみに、今朝もエンダーとダッズ、ハイアーズからのチョイスで悩みましたが最終的にダッズのルートビアで決めました」
答えつつ、滑は寄せていたストローをくわえる。
半透明のストロー越しにも見える真っ黒な液体を吸い上げ、口中に含んで嚥下する彼女の顔には、うっとりとした法悦の表情が見て取れた。
ちなみに、
ご存知の方々には余談となるがルートビアについての説明を少々。
ルートビアとはアメリカにおいてコーラとほぼ同時期に生まれた古い歴史を持つ非アルコール炭酸飲料の中のひとつであり、使用される原料の名から「サルサパリラ」などとも呼ばれる。
ただしアメリカではメジャーなこの飲料も、その特徴的すぎる味わいが災いし、世界的に見るとコーラに比べてマイナーな飲料だというのは否めない。
しかし日本にあってはその知名度がほぼ皆無に等しいものの、例外的に沖縄地方でだけはよく知られ、親しまれている。
閑話休題。
と、すっかりルートビアに舌鼓を打っていると思ったのも束の間。
滑はパチンとスイッチの音でもしそうな切り替わりの早さで真顔に戻ると、部屋半ばまで進んでいた踵を返し、首だけ背後へ巡らせて再び蓮春へ声をかけた。
口から名残惜しそうにストローを引き抜きつつ。
「ほら、何をぼんやり立ってるんです? 朝の一分一秒は大変貴重なんですから早く体を動かして、はい! 急ぐ急ぐ!!」
後半の語気は強かったものの、不機嫌さからくるものでないのは明白だった。
室内で履いたままの靴を踏み鳴らし、紙コップで塞がった右手の代わりに右手首付近を左手で叩く手拍子を立てながら、楽しげな声音は変わらない。
いたずらっ子のような笑みも含めて。
ただ、そうは言われても、
驚愕した顔から苦い顔へと移りつつ、蓮春とて口にしたいことは他にもあった。
「……ところで滑……お前、さっきからずっと人の部屋に土足……」
「さあさ、早く支度しないと本当に遅刻ですよ? 朝の時間は貴重だと今言ったばかりでしょうに。いいからテキパキと支度してください」
「それは……それは分かってるけど、そうじゃなくて土足……」
「それにしても、やはり今朝は不思議と気分が良い日です。きっと今日もまた夢と希望に満ち溢れた素晴らしい一日になることでしょう。ねえ、蓮春君?」
「……靴………」
消え入る一言を最後、蓮春は口を閉じる。
言葉が通じない災厄という点で、滑は限り無く自然災害に近い。
防ごうとして防げるものではないし、避けようとしたところで向こうから勝手に寄ってきてしまう。
だから諦める以外に道など無い。
長年の付き合いでそれは分かっているし、とうの昔に諦めもつけた。
つけたのだ、が。
つけたはずなのだ、が。
それでも、
蓮春は思う。
真夏の、浅い睡眠からの目覚めは実に不快である、と。