表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

作者: 本栖川かおる

他サイト企画「癒しの雨」に参加した小説です。

 私はベッドから起き上がりマグカップに粉を入れた。そして、保温のランプが点いたポットからお湯を注ぐ。

 男物の大きなシャツだけを身に纏って、白いカップに入った褐色の液体に息を吹く。湯気がかき消され、そしてまたゆらゆらと立ち上る。格子状の窓から見える景色はどんよりとして、今にも降り出しそうな重たい雲が覆っていた。


 雨は好きじゃない。今まで雨が降って良いことなどひとつもなかった。両親が交通事故で死んだ日も、五年間一緒に生活した夫と離婚したのも、雨が降る物悲しい日だった。だから雨は好きじゃない。


 サイドボードの上の時計は昼の十二時になろうとしていた。

 ベッドと隣り合わせのテーブルで、不在着信を示す青いランプが脈を打つ。

 私は二口ほど飲んだカップをテーブルに置き、それを手にした。

 不在着信二十四件。全ての名前に部長とだけ表示されている。未だに二つ折りの携帯電話をパタンと閉じて、ベッドの上にうつ伏せに倒れた。


 日曜日なのに、何度も電話してきて大丈夫なのだろうか――

 私はそんな心配をするが、もう関係ないんだと自分に言い聞かせた。


 夫の浮気が発覚してからと言うもの、家の中は氷に閉ざされた空間でしかなかった。家庭という温かみはどこにもなく会話もない。お互いに仕事を持っていて、各々が外で食事をして帰ってくる。そして勝手に風呂に入り、勝手に寝て、勝手に仕事に行く。そんな日々が数ヶ月続き、夫は出て行った。六月の雨が降り止まない中で、テーブルに一枚の用紙だけを残して。


 正直、全てがどうでも良かった。冷え切った夫婦生活の中で精気は失われ、毎日を無気力に過ごし、ただ息をしているだけの一個の生物になっていた。そんな空虚な心を埋めてくれたのが部長だった。別に彼が好きと言う訳ではない。誰でもよかった。人の温もりに触れ、ただの生物ではなく私は人間だと言う認識を持ちたかった。だから彼に抱かれた。何度も何度も。


 どうでも良かった彼の存在が、私の中で花開きかけたときに恐怖を感じた。夫の愛人と同じことを私はしている。あんなに許せなかった夫の浮気。立場の違いはあるけれど、部長の奥さんからしてみれば、夫を許せないと同じに身体を重ねあう相手の私も許せないはず。自分の愚かな行為が人を苦しめていると分かったとき、怖かった。何よりも自分自身が怖かった。だから彼との関係に昨日終止符を打った。これでいいんだ。これで――。


 ベッドから手を伸ばし、テーブルに置いていたカップを取る。上半身を起こしカップに口をつけて一口啜った。窓から見える都会の街は、先程まで降っていなかった雨が降り始め、勢いを増し、冷たく寂しい灰色の心を濡らしていた。


 私は雨が好きじゃない。今まで雨が降って良いことなどひとつもなかった。両親が交通事故で死んだ日も、五年間一緒に生活した夫と離婚したのも、彼に別れを告げた昨日も、雨が降る物悲しい日だった。だから雨は好きじゃない。


 でも、今日は雨の中を少し歩いてみようと思った。理由は分からない。傘もささずに降りしきる雨の中を歩いて、今までの自分を洗い流してしまいたかったのかもしれない。花が開いてしまった彼への想いも一緒に――


 自室の鍵を掛け、マンションのエントランスに向かう。傘は持っていない。道行く人に傘もささず歩いていたら笑われるだろうか。変な女、危ない女と思われるだろうか。でも、今日はそう思われても構わないから、雨の中を歩きたい。そう思った。


 エレベーターが一階に到着し、正面にある大きな自動ドアを見る。外は相変わらずの雨。少し厚めのガラスに近づき、ゆっくりとドアが開く。私は外との境を跨ぎ、一歩を踏み出した。そして顔を上げ正面を見つめた。


 私の前には、ずぶ濡れになった彼が佇んでいた――。


 私は雨が好きじゃない。それは良いことがひとつもなかったから。

 でも、今日の雨は少しだけ好きになれた気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ