静謐
渋谷のセンター街に面している喫茶店。
美香にはこの場所に座っている宏司が妙に場違いでならなかった。
「昨日は悪かったな。あんなところ見せちゃって」
本当にそう思ってたなら連れていくなよ、といつものように心の中で毒ずきながら、表面上は軽く頷いていた。
「でも、どうしても美香に見て欲しかったんだ。修のことを、そして俺のことも。あの死んだ男、修って言うんだけどな、あいつと俺は同じ30歳だった」
それだけいうと目の前のコーヒーカップの中に入っている琥珀色の液体をせわしなくかき混ぜた。美香は宏司のいつもと違う態度に少し戸惑いを覚えた。自分から、それも自分自身について語るなんていうことは今までにないことだったからだ。美香はフッと視線を上げると、美香のことをじっと見ている宏司の視線とぶつかった。他人の顔を良く照れもせずに見つめられるものだと美香は思ってしまう。逆に見られている美香の方が照れてしまう。宏司の大きな瞳で見られているとどうしても視線を逸らすということが出来なくなってしまう。これも逆の意味での条件反射なのだろうか。奇妙な心地悪さを感じながら宏司の視線を受けている美香に、宏司はやんわりと口を開いた。
「美香、俺や修の生まれたころ、今から30年前頃のの日本ってどういう時代だったか知ってるか」
「30年前?」
予想外の質問に、美香は思わず聞き返してしまった。今から30年前というと1968年である。1970年前後の日本でいったい何が起っていたのだろう。いきなりそんな事を聞かれても全く想像がつかなかった。自分が生まれる前のことなど縄文時代の事だろうと、江戸時代の事だろうと美香の中では昔の事という範疇の中にいっしょくたにされている。しかし、自分の住んでいる国のたった30年前のことなのに、その当時の様子や状況を何一つ分からないという事で、改めて自分の不勉強さに気付かされた。改めて考えてみると、自分の生きてきた22年間ですら、どの様な時代だったのかと問われると全く答えられない自分に愕然とした。
「御免なさい……。全然わかんないよ。私って馬鹿だからさ……」
「そんな事ないさ。別に美香だけが知らないわけではないんだから。それに、そんな事知らなくても、生きていけるしな。今から30年前の日本は、安保闘争に明け暮れた時代だったんだ。いわゆる学園紛争の時代だ」
何故だか知らないけれど、悲しそうな表情を宏司はした。学園紛争、その言葉は確かに聞いた事がある。しかし、美香にとってはただの名称に過ぎなかった。美香の知っている事といえば、教科書や本にかかれてある「学園紛争」という四文字の漢字以上でもなければそれ以下でもないという程度に過ぎない。実際、美香にはそれがどの様なものなのか想像もつかない。一度、教科書に載っていた写真を見て、学生と機動隊のような人達が睨み合っていた、何だか物々しいものだという事ぐらいしか知らない。本来、名称に伴って在るはずの中身がまるでないのである。
「学園紛争の最中に俺とあいつは生まれた。両方とも二親はバリバリの闘士だった。紛争の中で同じ運動員の奴とくっついたんだろう。親同志が同じ組織ということもあってあいつとは小さい頃から顔見知りだった。両親は学生結婚して運動を続けていた。もう、俺も修の両親もいないけどな」
「亡くなられたの」
「違う。捨てられたんだ」
それだけを吐き捨てるように言った。そう言ったときの宏司の顔には何の表情もでてはいなかった。
「学園紛争の頃運動していた奴の末路は悲惨なものなんだよ。ただ、少なくても俺は両親を恨らんじゃいないけどな。俺がこの世に生きることが出来たのはあいつ等のおかげなんだからな。俺も、多分修も小さいときから奴等の思想ばかり聞かされて育った。そういう事もあり、俺は俺なりに自分の生まれてきた頃のことを調べてみた。どういう状況の中で、どういう思想をもった人々の間で生まれてきたのか」
美香にはまるで想像したことも、考えたこともないような世界の話のような気がした。まるでお伽話でも聞かされているかのようだった。
渋谷の賑やかな喫茶店の中では宏司の話だけが現実から切り取られているかのようだった。宏司の発する言葉が、そのまま美香と宏司の間だけをぐるぐるまわっているかのようだ。行くあてのない言葉たちが一つの雰囲気を作り上げている。宏司の発する言葉たちはいつもそうだ、と美香は思う。必ず消えることなく留まるのだ。時には、その残った言葉たちが、宏司の言ったこと以上の事を別の方法で教えてくれようとしているのではないかとさえ思ってしまう。美香には今この瞬間がとてつもなく大事に思えた。初めて、宏司のことが少しだけでも分かってきそうな予感がしたからだ。いつしか、美香の脳裏から、昨日見た塊の像は消えていた。