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変質

それはほんの一瞬の出来事だった。何事もないかのように、屋上の縁に立っている男が一歩前に足を踏み出しただけだった。ただそれだけのことだった。

 しかし、美香には何だかスローモーションの映像を見ているかのように、現実世界がコマ割りに分割されていた。自分が、もちろん宏司とともに、その分割されている現実世界の一コマ一コマにいるということに何の違和感も覚えなかった。そのコマ割りに構成しなおされた世界で、美香は落ちてくる人の顔を凝視していた。目と目が合った気すらするから不思議だ。その落ちてきた人の顔が、美香の目には微笑ともとれるような穏やかな顔をしているように映った。その人が屋上の縁から一歩足を踏み出してから、美香のいる地上に到達するまでの間、まるでその空間だけが四次元世界の中にある感じがした。少なくとも美香には時間軸の存在を、明瞭に感じとることが出来た。

 そして、美香の眼前には、いましがた塊になったばっかりの、生々しい物体が一つ在った。

 「いやー」

気付いたときには大声を上げていた。美香は自分の大声に少し驚いてしまった。自分でもこんなに大きな声を出せるということに初めて気がついた。四次元にいるかのようなどこか浮き世離れした世界にいたつもりが、美香のすぐ傍らに転がっている物も言わなくなった物体によって、いやがおうでも現実世界に引き戻された。美香の大声が止むと辺りは不思議な静寂に包まれた。少なくとも今までの沈黙とはその根本が違っているように美香は感じた。この空間にあるあらゆるものが皆、何かしらのことを主張したがっているかのようにざわついているのだ。しかし、何一つそれを表には現せていない。多分、傍らに転がっているえも言わぬ物体が一番多くのことを語りたがっているのだろう。宏司は、あらゆる感情を凝縮したような不思議な表情でその塊を見下ろしていた。美香には宏司のことが何も分からなくなった。もとから大して知っているわけではなかったが、人が一人死んだのに何故そう平静でいられるのかが分からなかった。ましてやそれが友達だったら、ただ見つめているだけなんて絶対にできないと思う。美香は、そのついさっきまで息をしていたであろう物体に目を遣った。頭蓋骨が割れたためか顔の形が変形し歪んでいた。歪んだおでこの辺りから幾筋かの血が滲んでいた。急激に美香を嘔吐感が襲った。たまらない不快感のため、視線を逸らさざるを得なかった。

 「空洞なんだよな……」

殆ど聞き取れないような声で宏司がそう呟いていた。その言葉が、何故か美香の耳の奥底にとこびりついていた。


目覚めの悪い朝だった。ひどく気味の悪い夢を見た。

だだっ広い荒野に美香は一人いた。無数の緑色をした塊が、その荒野を埋めつくしていた。その塊がどんどん大きくなっていく。美香は何故かその緑色の塊を眺めているだけだった。どんどん大きくなっていく塊が突然破裂した。中からいくつもの昨日見た物体がでてきた。どの物体も全て緑色をしていて、ほんの少し前までは息をして動いているかのような生々しさを伴っていた。美香の立っている周りがその物体で埋めつくされると、どこから湧いたのかその物体の周りに、何万もの赤い小さなひるが湧いてきた。緑色の物体と赤い真紅の蛭。その組み合せが美香に強烈な吐き気を起させた。それでもそこから一歩も動くことすら出来なかった。ただ見ていることだけしか……。その真っ赤な何万もの蛭が何体かのまだ人の形を残している物体へと群がっていった。すると、みるみるその物体の原型が崩れていった。グニャグニャになっていく。蛭によって原型の壊された物体の中には何もなかった。そこに存在している全ての物体の中は空洞だった。あるべきはずのものがことごとく無いのである。傍らに立って見ていた美香は、声にならない叫び声を上げていた。美香の身体中にある全ての力を使って……。

 「いやーーーーーーーーーーーーーー」

そこで目が覚めた。

外は雲一つない快晴のようである。朝のまぶしいくらいの陽光が、美香の部屋のカーテンの隙間から洩れてきている。


 一人で遅い朝食をとりながら美香は宏司のことを考えていた。今日の午後、宏司と会う約束をしている。しかし、何故か会いたいという気があまり起きないのである。宏司に聞きたいこと、言いたいことがたくさんあるはずなのに、そうしてしまうことを恐れている自分がいるのである。宏司に対する自分の気持ちは変わっていないはずなのに……。

 目を閉じるだけで美香の目蓋の裏には、昨日見たえも言わなくなった死体の像がどんな写真よりも明瞭に、浮び上がってくるのである。それだけで、食欲はもとより、今日一日、何もする気が起きなくなってしまった。まだ、半分ほど残っているハムエッグを残して、美香は自分の部屋へと戻った。美香には、これから宏司と会うという事がものすごく憂鬱に感じられた。


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