変調
アカペラが流れている部屋で美香は何も考えずに一人横になっていた。アカペラを聞いていると心がやすまる、いつも漠然とそう思う。だから、何も考えたくないときなど良くアカペラをかけっぱなしにしている。
美香の家は池袋から私鉄にのって30分のところにある。中学から大学まであるエスカレーター式のミッション系の私立に中学の頃から通い、何の疑問も抱かずに今その大学に通っている。
自分の部屋に一人でいると、いつも必ず宏司のことを考えてしまう。そんな自分が、ひどく嫌いだ。いくら、会いたいと思っても、話したいと思っても、どこに連絡してよいのかさえ知らないのだから。いつもなら、美香の心をリラックスさせてくれるアカペラの心地よいメロディも、「宏司」には勝てないみたいである。宏司の思いを振り切ろうと、読みかけの本へと手を伸ばしたとき、不意に、美香の携帯がカン高い音を立ててなった。美香は、反射的にその携帯をとり、ディスプレイを確かめる。「非通知設定」そう光っている。「宏司からだ」そう思うと、悔しいけれど、美香の胸の高鳴りが急激に激しさを増してくる。
通話のボタンを押す。
「もしもし」
「美香か。俺だ。今度さ、俺の友達に会ってくれないか」
「エッ!」美香は一瞬なにを言われたのか分からなかった。宏司の方からそんな提案がされることなど今までになかったからだ。なんて返事をすればいいのか返答に窮していると、宏司は用件だけを言って、さっさと電話を切ってしまった。
突然の電話に美香は、瞬間、唖然とした。美香には、もう、部屋に流れているアカペラなど入ってこなかかった。宏司のことをもっともっと知りたいと思う一方で宏司のパーソナリティに抵触することにどこか恐れているいる自分がいた。そのせいか、宏司がそういってくれたことに対して、嬉しいという気持ちだけでなくどこか戸惑いを含んだ何ともいえない気持ちになった。
12月22日の六本木。夜の街はどこもかしこもクリスマスのためのライトアップがなされ、街全体が一つの大きなオブジェの様に美香には思えた。美香は大学生とおぼしき集団を避けながら、宏司との待ち合わせ場所へと足を向けた。時計に目を遣ると夜の11時をまわっていた。冬の夜特有の渇いた風がかなり強く吹いている。「寒いよ。コート一枚じゃとてもしのげないよ」誰にとはなしに呟いて足を速めた。
今日宏司の友達に会うことで、もしかしたら宏司のことをもっと良く知ることが出来るかもしれない、そう考えると心の中が沸き返るような気がした。美香も21年間生きてきた中でそれなりの恋愛をしてきた。宏司と出会う一年前には美香なりに大恋愛も経験した。しかし、今宏司に対して抱いている気持ちはそのどれにも属してはいないような気がする。青白い炎が超低温で心の中でメラメラ燃えている感じだった。
六本木の喧噪から少し離れたところにある小さなバーの入り口に、宏司は既にいた。美香よりも前に宏司が来ていることも稀有な事だったが、なによりも美香を驚かせたのは宏司の顔だった。美香が知っているのは、いつでも柔和な顔をしている宏司だった。いま美香の眼前にいる宏司は、顔を強ばらせ目の鋭さだけが目立っていた。ほんとにまるで別人のようだった。
「行こうか」
美香が目の前に来ると宏司はそう言いおいて一人で歩き始めた。
「ねぇ、こんな時間にどこ行くのよ。ここで友達紹介してくれるんじゃないの」
宏司は美香の存在など初めから認識していないかのようにただただ前へ進むだけだった。ほとんど駆け足になりながら美香は何とか追い付いた。
「ねぇ、待ってよ。どこ……」
そう言いかけて宏司の顔をのぞき込んで驚いた。宏司の綺麗な二つの瞳が涙に濡れているのだ。なにかのシニフィアンの様な一滴の涙の雫が、宏司の頬を伝った。宏司の涙はもとより、男の人の涙をこんな間近で見たという記憶が美香にはなかった。もうただ訳も分からずに宏司の後をついていくしかなかった。たった一滴の涙の雫が、今の美香には森羅万象に存在するあらゆる物の中で、一番強固な拒否を示すものだった。
まさにパブロフの犬である。大学の退屈な「行動学概論」などという厳めしい名前のついた授業の中で、美香は初めてその名前を耳にした。そして、何故か唯一つ、内容まで覚えているものだった。パブロフの犬について、心理学系に興味のある友達がみんな面白いという感想をもったのに対し、美香はなんだかかわいそうな気がしてならなかった。条件反射という言葉で片付けてしまえばそれまでなのだが、自分の意志とは関係なく身体が動いてしまうというのは、心と身体という二元論的に物事を考えてみるならば、そこに一つの裏切りという行為が内在しているという事もまた一つの事実である。裏切りという行為が導く必然的な結果にいいことがあろう筈もない、というのが美香の持論だ。宏司の前にいる美香は常にパブロフの犬と化す。この事実は、美香の中では証明不要のいわゆる定理のようなものであった。実際、宏司のする様々な表情や態度それぞれに対応する条件反射が美香の中に設定されているようである。「定理」として定められた行動にただただ従事するのは、悲しいことである。
一体それのどこが興味深いのだろう。
宏司の涙の意味を考えながら、ただただ、宏司の後をついていくことしか美香には出来なかった。
番地表示が赤坂に変わった。それにつれて街並もどこか落ち着いた瀟洒な趣のあるものへと変わっていった。高級感あふれるマンションが辺りに並ぶようになってきた。こういうところに一生に一度でいいから住んでみたいな……何の脈絡もなくそういうことが突然に美香の頭の中に浮かんだ。せっかく好きな人と歩いているのだから、もっともっと楽しい気分で歩けたら良かったのにな……などと漠然と思いながら美香は前をいく宏司の広大な背中を目指して歩みを進めた。今の美香には宏司の背中は、まるで死の砂漠の真っ只中に聳え立っている強固な壁のように感じてしまう。
宏司が唐突に止まった。赤坂の小さな路地のようなところだった。たいそう立派な煉瓦造りのマンションの前である。単調な動作の繰返しだったのが突然の変調で、辺りの空気が一瞬振るえるようだった。その変調に、美香も驚いて前につんのめるように足を止めた。しかし突然の変調がもたらしたものは、変化のない時間だった。宏司は立ち止まっただけで相変わらずなにも喋らない。恐ろしく深い強大な沈黙が、その有限な路上の空間を圧していた。まるでその沈黙に美香自身が押し潰されるような気配を感じて、思わず身を竦めた。「寒いよ」訳もなくそう思った。コート一枚じゃとても防ぎようもないほどの寒波が美香を強烈な圧力で包み込んでいるようだった。しかし、パブロフの犬と化している美香には口を開く術がなかった。
変化のない時間の中で、宏司はめったにすわない煙草を燻らせた。そして、宏司はゆっくりと顔を上に向けた。美香にはその宏司の動作がまるでバネ仕掛の人形のような印象をもった。何故だかそこに、生命の息吹が感じられないのだ。美香も宏司を真似て上を見てみた。そうたいして高くないマンションの屋上の縁に一人の人がいた。月の明り以外に明りと呼べるものがほとんどない状態で、かろうじて人がいることが分かった。美香にはそれが何故瞬時に人であると分かったのかが不思議であった。改めてみてみると、それはまるで深い闇色をした塊にしか見えないのである。しかし、それは確かに「人」なのだ。美香の視覚以上に確かなものが美香にそう告げていた。深い闇色の塊が人であると認識することは出来ても、美香にはこの状況をどう判断すればいいのかは全くといっていい程分からなかった。ただ、少なくとも、深夜マンションの屋上の縁に何するでもなく一人の人がボーと突っ立ているという状況が、決して微笑ましい光景でないことくらいは美香にも経験上分かっていた。意を決して、自分の中に渦巻いている不穏な空気を断ち切ろうと美香が口をひらきかけた時、宏司がそれを遮った。
「あそこに立っている奴が、今日、美香に会ってもらおうと思っていた俺の友人だ」
「友達って、あんなところで何してるのよ。何で見上げてるだけなの」
見上げている宏司の視線の先は、まっすぐに屋上の縁に立っている人影を捉えていた。
「もうすぐ深夜0時になる。日付が変わる瞬間にあいつはあそこから飛び降りるはずだ」
美香の顔には、自分でも分かるくらい悲愴感が漂っていた。
「どうして……」
消え入りそうなくらい小さな声で、あまりにも自明な問いを発していた。
「死ぬためだ」
宏司は美香の顔を正面から睨め付け、強い口調でそう一言、言い置くと、再び顔を上げた。
「どうしてよ、どうして死んじゃうのよ。何でそれが分かってるなら助けに行かないのよ。見上げてるだけなのよ」
美香は自分の声が上擦ってくるのが分かった。それでも何か言ってないと不安なのである。今何をすべきなのか、本当のところ美香には分かっていない。ただ、本能の命令するままに従っているような気分だった。一つだけ、美香の本能が悟っていることは、この状況を変えなければいけないということだけである。美香は、宏司の腕を掴んで引っ張ったり、揺すったりとまるで駄々をこねている子どものような行動をした。こんな状況になっても、そういう行動しかとれない自分が悲しかった。しかし、宏司は再び美香の方を向き直り、ただ悲しそうな表情をするだけだった。
「あなたがただそうして見ているだけなら、私が行って自殺なんて馬鹿なこと止めさせる。少なくとも説得ぐらい出来るはずよ」
そう行って走りだそうとする美香の腕を宏司は強い力で掴んだまま、自分の傍らへと引っ張った。
「駄目なんだよ」
強くそういう宏司に美香は拒絶にも近い反発を覚えた。
「何でよ、何で目の前で人が死ぬのをただ見てなくちゃいけないのよ。そんなの酷すぎるよ」
「いいからしっかり見てるんだ。俺達に出来ることは見ることだけなんだよ」
ほとんど怒鳴るような強さでそういった。宏司の発した声の残響がどこにも行くあてのないはぐれた天使のように、この閉じられた空間を彷徨っていた。宏司のそんな大声をただの一度も聞いたことのない美香は、からだの芯がその音の反動で小刻みに振るえているのが感じとれた。
再び沈黙が支配する時が訪れた。美香は自分の時計で今この時を確認するのが嫌だった。自分を含めた全てを否定できたらどんなに楽だろうなどと思った。現実問題として、出来るなら今この場から、全速力で逃げ出したい気分だった。しかし、心とは裏腹に、身体は少しも動いてはくれなかった。もしこの世の中に凍りついた空間というものが存在しているならば、今この美香と宏司のいる空間がそうであろう。それを空間たらしめる一つ一つの粒子までもが凍てついているかの様である。