邂逅
その宏司の目を見たとき、美香はハッとした。その目は何も見ていなかった。ついさっきまで美香を優しい瞳で包んでいたその「目」は、もうなかった。
深夜の渋谷のホテル。
室内ライトが微妙に調節されている部屋の一室に美香と宏司はいる。微かな空調の音が美香の耳許にまるで子守歌のように響いている。
これは現実なのだろうか、それとも空想なのだろうか。まるで区別のつかない空間に居るみたいだった。此岸から彼岸への境目に自分が居るような気すらしてくる。何よりも、彼岸を印象づけているのが隣りにいる人形の目をした宏司であることは間違いなかった。いつ頃から話をしていないのか、全く判らなくなってきた。
ただ一つだけ美香にも判っていることは、人形の目をした宏司が一つの空間を、或、形而上学的な別のものへと変えてしまったということである。そのことが美香には、不思議と必然的なこととして受け入れられていた。宏司の目が美香に判らない何者かを捉えているとき、それは一つの変化を生じさせるのである。
沈黙の支配している部屋で、美香は漠然と宏司との出会いについて思いを馳せた。
3ヵ月前、9月も晦に近付いた頃、美香は大学の友達と飲んだ後で、一人渋谷の公園通りを歩いていた。終電がなくなる直前の0時頃だった。公園通りを歩いている美香の視界に飛び込んできたのが、路上に大の字に寝ころんでいる一人の若い男だった。それが宏司だった。「酔っぱらいか」一瞥して美香はそう思い軽蔑した。自分を忘れるくらい前後不覚に飲んでしまうことに馬鹿らしさを感じてしまうのである。しかし、横を通るとき、美香の視界の片隅に飛び込んできたものは、いわゆる「酔っぱらい」とは何かが違っていた。何が違っているのか瞬時にはわからなかったが、そこだけ、宏司が横になっているところだけが現実から切り取られたかのように異彩を放っていた。そう思ったときには美香は自分の意志に関わらず足を止めていた。宏司のそばに恐る恐る近付いてみて、初めて何が違うのかに気がついた。「目」である。宏司の目は星一つ出ていない曇よりと濁った都会の空を、まるで何者かを憎悪しているかのように睨み付けているのだった。その眼光の鋭さに美香は一瞬背筋の凍る様な空寒さを感じた。宏司は美香が近付いているのにも気づかない風に、構わず天空を睨み続けていた。
「何やってるんですか、風邪ひきますよ」
自分でも馬鹿じゃないかと思うくらい間の抜けた言葉が口をついて出てきた。それでも宏司は、美香の声が聞こえないかのように微動だにしなかった。美香は何故だかその場を立ち去ることが出来なかった。美香自身を奇妙な義務感が覆い尽くしていた。その場を立ち去ることがいけない事なのだ、という信号が直接美香の脳髄に痛い程響きわたっている気がした。ただただ宏司の横に立っていることしかできなかった。もう、どんな言葉も口から、身体から湧いてきてはくれなかった。初秋の肌寒い風の吹く中、どれくらいの間そうしていたか全く覚えていない。1分も経っていなかった気もするし、気の遠くなるような時間そうしていたような気さえする。宏司のいる、その現実から切り放された空間には、まるで時間など流れていないような気が美香にはした。しかし、そういう表現もどこかしら違う様な感じがする。その空間の中にいると、「時間」が存在しているということは判るのだ。数学的に、論理的に証明してみろといわれてもとても出来るものではないのだが、とにかく、直観でも第六感という言葉でもいいが、「時間」というものが確かに在るということは皮膚感覚に伝わってくるのだ。でも、時間が流れているという感じを受けるわけではない。やはりそこには「時間の流れ」は存在しない。いってみれば時間が環っている感じだ。宏司の横に立っていると、時間が円をなして環っているのがわかる、というよりも漠然と感じることが出来る。時間が在るのはわかっているのに、時が過ぎたようには感じられないのだ。もっと正確に表現するなら、時間が流れるという感覚がまったくないのだ。
こういう空間に自分が身を置いていることが美香には、不思議に感じられた。まるで、自分の存在が消えてしまっているかのような感じを受けた。美香という一人の存在がいかにちっぽけなものなかとという事が身に染みて分かった気がした。あれほど、邪魔だと思っていた、飲み屋帰りの集団など、もう美香の感覚の中には入ってこなかった。
時折り吹く風の冷たさに、美香はかろうじて自分が存在していることを気付かされた。
「やっぱり風が冷たいですよ」
再び口を開いた美香の方に、宏司は当然のことのように顔を向けた。まるで総てがプログラミングされているかのようだった。しかしそれ以上に美香を驚かせたことは、やはり宏司の目であった。宏司の顔の中にある目は今まで美香が見ていた天空を睨んでいる目とは明らかに違っていた。瞬間、美香は心の中で「綺麗」と叫んでいた。全ての語彙を使っても言い尽くすことの出来ない気高さや崇高さが、その漆黒の瞳の奥にひそんでいた。
「ネェ、君には星が見えるかい」
それが宏司が美香に対して初めて発した言葉だった。その言葉がまるで生き物のように生命をもち、その言葉に導かれるかのように美香は視線を夜空へと向けた。いつも見なれている濁った闇色が夜空一面に溢れていた。
「星なんて見えるわけないじゃないですか」
宏司は美香の言葉をまるで咀嚼しているかのように、一拍間を置いた。そして再び天空へと視線を向けた。
「俺には見えるよ。満天の星が」
決して綺麗な声というわけでもないのに、その淡々とした喋り方につい引き込まれるように耳を傾けてしまう。宏司の発する言葉が宏司の口をでてきてなお、宏司の身体の一部として強烈に美香を引き付けているかのようである。まるで何かのお伽話を聞いているみたいだった。
「君にだって本当は見えるはずなんだけどな。何で見えないんだろう。誰にだってさ、同じ様に目はついてるんだからみんな見えるはずなんだよ。こんな綺麗な星が見えないなんてかわいそうだと思うよ」
そう言って、また、再び美香の存在そのものがないかの様に、天空を睨み付けた。「綺麗な星」を見えると言うわりには、その顔は厳しいもののように美香には感じられた。
あれから3ヵ月が過ぎ去った。宏司と何度も会うようになったが、美香には宏司のことが何一つわからなかった。美香に宏司は自分のことを何一つ話していない。どこに住んでいて、家族は何人で、何をしているか何も知らない。年齢さえ知らないのだから。それでも、美香は宏司に惹かれている自分が不思議だった。宏司のどこに惹かれたのだろうか、と自問してみたところで、それに答える程宏司のことを知っていない自分に気付くだけなのだ。美香の方から、宏司に何か働きかけることすら出来ないのである。いつも、美香の携帯に一方的に宏司からかかってくる。それも必ず番号通知させずに……。何度か会ってこうして今みたいに、ホテルで寝た。美香は最近何度も自分と宏司の関係について自問してしてしまう。宏司のことが好きなのは痛い程身につまされて分かっていた。それと同じくらい宏司が自分のことを何とも思っていないであろうということも推測できるから悲しい。
隣りにいる宏司の方をそっと見る。前と同じ人形の目をしている。なにかその目を見ていると全てのことがどうでもいい事のように思えてしまう。セックスするだけの関係、そう割り切ってしまうと自然と可笑しさがこみ上げてくる。宏司も自分もそう言い切るにはなにかが足りないからだ。美香は自然に微笑を顔にもらしていたらしい。
「どうしたんだ、一人で笑って」
いきなり宏司が話しかけてきて、美香は驚いた。本当にこの空間は形而上と形而下の境目にあるかの様だった。宏司の発したそのたった数語の言葉が、宏司と美香のいる空間を現実の渋谷のホテルの一室へと戻した。
「何でもない。たださ、宏司との関係考えていたらさ、何か可笑しくなちゃった」
「俺との関係?」
「そう。だってさ、何日かおきに会ってセックスするだけじゃない。宏司と会って3ヵ月経つのに、私宏司の事なーんも知らないんだよ。もっともっと宏司のこと知って宏司のこと身近に感じていたいのに、会えば会うほど宏司のことが分からなくなってきちゃった。これじゃさ、他人同志がただ身体合わせているだけだよ。私たち本当に付き合っているなんて言えるのかな……なんて考えてたらなんか可笑しくなっちゃったよ。だって、私一人マジなんだもん」
今までの3ヵ月の間、心にたまっていた鬱憤を一気に吐き出したせいか、美香の涙腺は急に脆くなった気がした。今にも涙と化した水滴が美香の涙腺を伝い、この現実世界へと姿を現そうとしていた。そっと宏司の方を窺うように見ると、宏司の瞳が真摯に美香の方を見ているのにぶつかった。
言葉ではほとんどなにも語ろうとしないくせに、あらゆる事を目で語ろうとしているようである。美香にはこの視線が辛かった。自分の強いところも弱いところも全て見抜いていてなおその全てを優しい瞳で包んでいるみたいで、もう、視線を逸らす事も強く見返すことも出来なくなってしまう。これじゃ、ヘビに睨まれたカエルじゃん、いつもそう思ってしまう。美香にそう思わせるほど宏司の瞳の奥底にはなにかが宿っている。美香に出来ることといったらその漆黒の闇よりも黒い瞳の奥から何かしらのメッセージを読み取ることだけである。
「みんな他人なんだよ……」
まるで池の中に落ちた小さな石の波紋のように、小さくそれでいて綺麗な何かしらのリズムを有しているかのように宏司がつぶやいた。
「どんなに親しかろうが血が繋がっていようが、所詮、みんな他人なんだよ」
「それじゃ、寂しすぎるよ」
「でも、そうなんだから仕方ないよ。それが事実なんだからさ」
「私は一人じゃ生きられない、多分。誰か側にいて欲しいよ」
「みんな何も知らないんだ。自分が何も見ていないって事すら知らない。何も見ていないのに知った気がしているだけなんだ。誰も何も知らないんだから、所詮、みんな他人同志なんだよ。何も見えていないのだから……」
じゃ、あんたはソクラテスかよ、美香は声に出さず心の中で毒ずいた。どうしてこんな奴を好きななってしまったんだろ、会う度そう思う。しかし、「好きだ」という事実の前ではそれは何の意味もなさない問いと化してしまうのである。どんなに長い時間一緒にいても、相手がいくら自分のことを好いていてくれていても、その人のことを好きになるなどという保障はないのだ。逆に、全然知らない相手でも、直観的に好きになってしまえばそれまでである。人の気持ちなど、理屈じゃないのだ。美香は改めてそう思う。
「好きになった人のことを、もっともっと知りたいと思うのもいけないの」
「どんなに、知ろうと思っても分からないことばかりだよ」
「それじゃ、恋愛も出来ないの。人のこと好きになるってそんなものじゃないでしょう。好きになった人のこと、知りたいと思うの当然じゃない。他人同志のままだったら、そんなの恋愛じゃないよ」
宏司は美香の横で、ただ宙を見つめているだけだった。
「私は、そんなの嫌だからね。そんなの寂しすぎるよ」
美香には、自分の喋っているこの言葉が、宏司に伝わっているのかどうかさえ分からなかった。