留守番。
その日は大音量のごおっという雨の音で、枕元の目覚ましより先に目を開けた。
朝食はお姉ちゃんが食パンを切らしていたようで、
レトルトごはんと玉子焼きで代わりを済ませる。
授業を三時間目まで受けたところで大雨洪水警報になったため、
給食を待たずに下校することに。
友達と帰りながら、いつもより増水した川を橋の上から眺めてはバカな男子のように私たちははしゃいだ。
家に帰るとお兄ちゃんはまだ帰っていなかった。
隣の教室を覗かずに先に帰ってきてしまったけど、今日も鷲宮の家なのだろうか。
ソファに寝転がって漫画雑誌を広げる。
発売日の内に目当ての漫画は読んでしまっていたので、
私はいつもは読み飛ばしている漫画に目を通すことにした。
雨の音だけが聞こえるリビングに電話の電子音が響く。
お姉ちゃんは一階の自分の部屋で仕事中だったので私が出る。
「あ、セリカちゃん?」
その声は知っている声だったが、
どうして私の家にかかってきたのかわからなかった。
「もしかしてカスか?」
「あ、うん」
「そうか……とうとう欲望を抑えきれず、女子児童の家にまで電話をかけるようになったか」
「ああ……えっと、お姉ちゃんの美月さん、今お家にいるかな?」
カスは私の言葉には応えずにそう訊ねてねてきた。
カスにお姉ちゃんの話をした覚えはないし、面識もないはずだ。
「お姉ちゃんに何の用だ? 残念だがうちのお姉ちゃんはお前のストライクゾーンからは――」
「ごめん、セリカちゃん。急いでるからお姉ちゃんに電話代わって」
そう言ってカスは私の言葉を途中で切ると、
「警察から電話だって伝えてくれる?」と続けた。
頭の中で『ケーサツ』だったものが『警察』に変換される。
なにかわからない、
なにか原因のわからない不安が、
水の中に落ちた墨汁のように胸の中でうすく広がる。
「ちょっと待って」
私はそれだけ言うと保留ボタンも押さずに、
子機を手にお姉ちゃんの部屋へ向かう。
その足は無意識に速くなった。
ノックをするも、お姉ちゃんの返事がくるより先に私は部屋のドアを開けた。
「お姉ちゃん。警察の人から」
私の声は自分でも驚くぐらい弱々しく、
その言葉もまるで低学年の子のように幼かった。
机に向かっていたお姉ちゃんは、私から子機を受け取ると。
はい。はい。はい。
間をあけて三回返事をした。
お姉ちゃんは、子機を耳にあてたまま空いた方の手で私の頭を撫でると、
部屋の外へとそっと押し出した。
ドアの外から訊き耳を立てるも、中から聞こえてくるのは、
「はい」や「わかりました」といったお姉ちゃんの声だけだった。
なんで警察がうちに電話をかけてくるんだろう。
なんでカスはお姉ちゃんに電話を代われと言ったんだろう。
なんで――――お兄ちゃんは今家にいないんだろう。
体の中で響くドッドッドッという心臓の音に気持ちが追いつめられる。
しばらくして秋物のジャケットを羽織って部屋から出てきたお姉ちゃんは、
財布と携帯をそのポケットに押し込んだ。
「すぐ戻るから。留守番よろしくね」
お姉ちゃんが軽い調子でそう言った。
「どこ行くの?」
「大丈夫。すぐ戻るから」
お姉ちゃんはもう一度そう言うと、慌てて笑顔を作って、また私の頭を撫でる。
お姉ちゃんが何も話してくれないことも、
大丈夫という言葉も、
すっぴんで出ていくのも、
そのどれもが私を不安にさせた。
お姉ちゃんが出て行ってひとりになった途端、
私はリビングのどこにいればいいのかわからなくなった。
こんなに広かったっけ?
生まれてからずっとここで育ってきたのに、知らない家のリビングにいるような気持ちになった。
さっきまで寝転んでいたソファに目をやると、
雑誌の中ではにかみ笑いの女の子がこっちを見上げていた。
漫画はつまらないけどその女の子はお兄ちゃんにちょっと似ている。
テレビの電源を入れると、ニュース番組は世間がいかに大雨で大変かということを伝えてくる。
ぼぉっと眺めていると、だんだんその真剣な雰囲気が恐くなって、リモコンに並ぶ数字をでたらめに押さえる。
なるべくたくさんの人が賑やかに笑っている番組を探してチャンネルを回す。
CMに入ると他の番組を慌てて探す。
それは不安な気持ちを紛らわすというよりは、
暢気にテレビなんかを見ているところには、場違いな現実はやってこないんじゃないかという願掛けのような気持ちだった。
だけどそんな私の思いを打ち消そうとするように雨はますます強くなり、
雷まで鳴り始めた。
外がピカッと光る度に、次にくる大音量の前の静けさに身をすくめる。
目をつむっても、耳をふさいでも、どうにもならない。
私は雷が大嫌いだ。
小さいころ、雷の日には必ず隣にいてくれた。
私の手を握り、髪を撫で、大丈夫だよと言ってくれる。
大きな声で、「森のくまさん」を何度も歌ってくれる。
それを見て、お父さんとお母さん、そしてお姉ちゃんが笑う。
ソファの下で蹲りながら、そんな昔のことを私は思い出していた。
「お兄ちゃん……」




